ただ彼を救いたかったから。彼が「逃げろ」と突き放そうとしてくるが嫌だったから。一方的に強く自分の唇を押しつけた。
 ただ、それだけ。キスみたいな甘い感じはまるでなかった。ロマンチックさもなければ、トキメキも一切ない。人を救う為に、必死で行う人工呼吸と一緒。送り込む物が酸素から、ありったけの想いと特別な力に変わっただけ。
 私は彼にその全てが渡されるまで、強く押しつけ続けた。そっと唇を離す時も、自分の中でそれらが残らない様に最後までちゃんと渡しきる。
 そして目を大きく見開き、固まっている彼を見据えながら「絶対に嫌です」と改めて訴えた。
「私は逃げません。私がここに戻って来たのは、紲さんと一緒に戦う為ですよ。だから絶対に逃げません。逃げるならば紲さんと一緒に、です」
 きっぱりと宣誓すると、紲さんの口から「なっ」と衝撃が零れ、生気が戻りかけている顔に焦燥の様な怒りが現れる。
 けれど、その怒りを浴びせられる前に、私は口早に言葉を続けた。
「紲さんが何と言おうと自分の意志を曲げるつもりはありません」
 取り付く島も無い私に、紲さんはギリッと強く歯がみしてから「叶架」と苦々しく言葉を吐き出す。
「自分のすべき事をしっかりと見ろ。君はこんな事を」
「全てを考慮した上で、自分が一番にやるべき事を導き出した結果がこれです」
 私は彼の諫言をバッサリと遮り、食い下がる。
 すると紲さんは「俺の言う事を聞け!」と声を張り上げ、完璧に回復しきっていない体を無理に起こして、私をまっすぐ見据えた。その瞳は悲しげな訴えを宿らせていて、その表情は苦悶に歪んでいた。そのせいで、私の強気な姿勢がぐらりと傾いてしまう。
「君が他人を放っておけない優しい性格なのは知っている。だが、今はそんな事をしなくて良い。頼むから、早く逃げてくれ。俺はこれ以上、君を危険な目に遭わせたくない。だから早く向こうに戻ってくれ。俺を放って、早く行ってくれ」
 それが君の本当の望みのはずだろ、と遠回しに言われている。
 これは、今まで私がこの世界から逃げ続けてきた結果だ。
 だから紲さんは私一人を遠ざけようとしている。今までの私はそれで良かったし、それが良かった。
 けど、今の私は違う・・!
 私はぶんぶんと首を振り「そうじゃないです」と返し、彼の言葉を二つの意味で否定する。
「紲さんは間違っています。私はそんな他人思いで優しい人間じゃないです。好き勝手ばかりをするんです。だから私はここに居るんです」
「・・叶架」
「私も間違っていました。でも、私はその間違いに気がついたんです。だから私はここに居るんです」
 言葉を勝手に重ね続ける私に、紲さんは真剣に説き伏せる言葉を探し始めるが。
 私はそんな彼を前に「もっと言うと!」と、ギアを上げて強く反発する。ううん、心にある一番の想いを彼にぶつけたのだ。
「私、紲さんにそんな事を言われたくないんです!私は紲さんの側に居たいから!ずっと紲さんの側に居たいって思っているから、紲さんの力になりたいから!私はここに居るんです!」
 熱い想いが乗った言葉を吐き散らかすと、ぶわっと一緒に涙まで決壊する。
 私はその熱い涙を拭う事なく、ぐにゃぐにゃと歪む紲さんに向かって「それでもまだ戻れって言いますか?!」と噛みつき続けた。
「紲さんはちゃんと見えてない!私の心も、自分が本当にすべき事も!だからそうして誰の為にもならない事をしようとするんでしょ?!」
 紲さんはその言葉に「誰の為にもならないだと?」と憤激する。
「馬鹿を言うのもいい加減にしろ!これは叶架の為だ!叶架の為に、俺は」
「そんなの私の為なんかじゃない!本当に私の為を思っているなら、私の想いを蔑ろにしないでよ!分かったってちゃんと受け止めてよ!突き放そうとしないでよ!ここで終わらせようとしないでよ!」
 紲さんの言葉を最後まで聞かずに荒々しく遮り、こちらも自分の思いを怒りに乗せてぶつける。
 ちゃんと私を見て、ちゃんと私を分かって。
 なんて子供っぽい怒りだ。と、理性が冷静に突っ込んでくるけれど。
 これが私の想いだから、子供っぽかろうが何だろうが関係無い。ただ紲さんに、ちゃんと伝われば良いの。
 はぁはぁと肩を上下させながら全ての想いをぶつけると、私はようやく涙を拭った。
 こんなにも痛い涙は初めて・・・。こんな激情をぶつけたのも初めて・・・。
 嗚咽を漏らしながら、ゴシゴシと拳で涙を止める様に圧迫する。それでも涙は止まらず、拳の圧から逃れる様に目の端から流れていった。
 すると突然紲さんが私の手首を掴み、そのまま自分の方にグッと力強く引っ張った。咄嗟の力に、私は流される様に前のめりになり、そのままストンと彼の胸板に受け止められる。
 そしてそのままギュッと力強く、でも私が息苦しくない様に優しい力で、彼は私を抱きしめた。
 その瞬間、奔流だった涙がピタッと止まり、体の内側から嬉しさやら羞恥やらがぶわっと沸き起こる。そのせいで、怒りでいっぱいだった自分が、急速な展開に全くついて行けずに「?!?!?!」と、オーバヒートした。
「あ、あ、あの、紲、さん」
 しどろもどろに言葉を吐き出すと、抱きしめられている力が強まり、耳元で囁かれる。
「すまない、俺が間違っていた」
 痛切に告げられる言葉に、私の止まっていた涙がチクチクと刺激され、再びゆっくりと流れ出す。
 だって、この言葉は彼が私をちゃんと見てくれた証拠。
 私の心をちゃんと分かって、しっかりと受け止めてくれた証拠だから。
「叶架を向こうに逃がす事が最善の選択だと思っていたが、それは最善ではなかったんだな。叶架の涙でようやく分かった。本当の最善の選択が、何か」
 紲さんは腕の中に収めていた私を少し離し、私の顔を見つめながら「叶架」と、しっかりと私の名前を呼んだ。
「絶対に守るから、俺の側から離れないでくれるか」
 その言葉を聞くや否や、私はバッと紲さんの胸に飛び込む様に抱きついていた。ギュッと強く彼を抱きしめ、彼の首元に顔を埋めて何度も「うん、うん」と頷く。
 嬉しいと言う言葉では飾り足りない。今の私の気持ちは、そんな一言では収まらなかった。溢れる思いが熱い涙と重なり合って零れ、えぐえぐと嗚咽が酷くなる。ぐちゃぐちゃに彼の衣服を濡らしていると思ったけれど、それでも彼から離れなかった。
 紲さんも拒否する事なく、受け入れてくれた。そればかりか、私の後頭部を柔らかく押さえる様に、自分の方に強く引き寄せてくれる。
 ずっとこのままで居たかったけれど、彼が私を呼ぶ様にトントンと背中を叩いた。私はその合図に従い、とろんと甘い思考に支配されたままゆっくりと離れる。
 だが、その瞬間。私は甘い世界から現実に引き戻され、「あっ?!」と泡を食った。
 なぜなら、涙と鼻水でぐちょぐちょの顔を好きな人の眼前に見せつけたばかりか、鼻水がつーっと軽く糸を引いたからだ。
 好きな人に対して絶対見せる顔じゃない!いや、それよりも糸が引く程の鼻水を人の肩に付けるなんて・・!
 最低、私、最低!
 慌ててずびいいいっと鼻水を鼻の奥に引き戻し「ごめんなさいっ!」と、ハンカチが入っているポケットに手を伸ばす。
 けれど、紲さんがその手を素早く引き止め「良いから」と、私の顔を上げさせた。
 その行動にドキリと痛い程に胸が高鳴り、その真剣な眼差しにドクンと心臓が大きく高鳴る。
「紲、さん」
 彼の名前を呟くと、彼は私の頬を包み込む様に手を添えた。
 親指で零れる涙を優しく拭ってくれて、それで・・・。
 私達にとっての、本当のファーストキス。トキメキだけが押し寄せて、甘くて蕩けてしまいそうになる。心臓がうるさい位に跳ねるのかなと思ったけれど、意外とすごく冷静だった。他の気管も何もかもも、全てが平静を保っていた。
 このトキメキだけに浸って、そう言われているみたいだった。
 そして温もりが離れると共に小さなリップ音が弾ける。
 嬉しい様な恥ずかしい様な気持ちがぶわっと全身を駆け巡り、口元がへにゃりとだらしなく緩んでしまいそうになったが。真剣に何かを考え込んでいる紲さんを見てしまうと、その緩みが正されるどころか、戸惑いに塗り替えられていく。
 今はロマンチックに浸っている場合じゃない。それは分かっているけれど、そんなすぐに余韻から抜け出さなくても良くない?
 ・・ハッ。も、もしかして、このキスでやっぱり嫌になった、とか・・?
 情緒不安定に陥った瞬間、紲さんが「成程」と自嘲気味に呟いた。私は荒ぶる内心を隠す様に取り繕って「何がですか?」と、冷静に尋ねる。
「いや、道理で初代以外が扱えなかった訳だと思ってな」
 自嘲気味に答えられるが、その言葉の意味を理解出来ない私は「??」と素直に首を傾げた。
「やはり俺が間違っていたって事だ。何から何まで、な」
 紲さんは言葉の意味を明瞭にせず曖昧に答えると、スッと立ち上がる。
「叶架、アイツを倒す為には君の力が必要不可欠だ。君の力を貸してくれ」
 彼の力強い言葉に、私は嬉しくなり「勿論です!」と食い気味に答えた。
 だが、その直後。私は「あ、でも・・」と眉を曇らせた。
「私の力、玉陽の巫女の力を使っちゃうと。全部治っちゃって逆に強くなりませんか?私、紲さんの足手纏いどころか、邪魔者になりませんか?」
 戸惑いを露わにしながら尋ねると、「大丈夫だ、そうはならない」と一蹴される。
「玉陽の巫女の力は、癒しの力じゃないからな」
「?!ど、どういう事ですか?!」
 狼狽に近い驚きを発した私に対し、紲さんは泰然と「俺も今まで勘違いしていたが」と言葉を継いだ。
「玉陽の巫女の本来の力は魁魔を浄化する力だ。怪我を治していた訳ではない。魁魔の邪気に蝕まれていた体を蝕まれる前の状態に戻していた、と言う方が正しいんだ。だが、その様は誰の目から見ても怪我を治した様にしか見えない。だから玉陽の力は治癒、乃ち癒しの力だと思われたのだろう」
 記録の少なさや伝聞による曖昧も手伝って、誰も気がつかなかった訳だ。と、話される。
 その時初めて、私は自分が持つ玉陽の巫女の力に納得した。色々と「だからかぁ」と腑に落ちたのだ。
 今まで沢山怪我をしてきたけれど、どれも触れただけでは治らなかった訳だ。自分達が負っていた怪我は、魁魔に負わされたものではなかったから。
 自分がこの力に今まで気がつかなかった訳だ。それまでは力の対象である、魁魔自体を知らなかったのだから。
 あの時、倒れた紲さんに出会っていなければ、この力は私の中で間違い無く眠り続けていたのだろう。そのまま眠り続けて、真価を発揮せずに一生を終えてしまっていたのではなかろうか。
 そう思うと、こうして花開いた力の幸せに、彼と出会えた幸せに、錫色で隔てられた彼等の世界に気がつけた事の幸せを痛感する。
 運命と言うものの刻みを感じ取る。
 私は拳をキュッと胸の前で作ってから「紲さん」と、真剣な眼差しで彼を見つめた。
「私は何をしたら良いですか?どうしたら紲さんの力になれますか?」
「手や腕や肩、とにかくどこでも良いが。叶架の手がアイツの体のどこかに触れられれば、浄化の力が伝わり、アイツは戦闘不能になるはずだ」
「じゃあ、私の手が羅堕忌に触れたら勝ちって事ですね!」
 任せて下さい!と気も高ぶらせて息巻いたが。すぐにそんな私を宥める様に「そうだが」と、紲さんにしっかりと釘を刺される。
「叶架が触れるタイミングは、アイツが弱り果てて動けなくなったら、だ。俺が奴を確実にそこまで追い込んでから合図を出す。それまで叶架は安全な所で待機していてくれ」
 危険な事だから、こればかりは言う事を聞いてくれ。と強く念を押してから、近くに転がっていた愛刀を手にした。
 何度見ても、刀を持った紲さんの凜とした姿にはドキッと見惚れてしまう。そういう時じゃないって言うのに・・。
 私はそんな胸の高鳴りを抑えながら「分かりました」と、しっかりと答える。
「・・叶架」
「はい」
「一緒に、アイツを倒すぞ」
 一緒に、その一言で胸が熱くなる。視界がじわりと歪みそうになる。
 私はその言葉をしっかりと噛みしめてから「ハイッ!」と、私らしく元気に答えた。
 紲さんはその答えに、フッと柔らかく顔を綻ばせる。けれど、すぐにその微笑は崩され、キリッと空を睨む様に見上げた。
 その目線の先では、桔梗さんと翠君が羅堕忌と交戦している。
 何故、桔梗さん達が空中で羅堕忌と戦っているのか。それは桔梗さんと翠君が、羅堕忌を抑える役目を買って出てくれたからだ。私が紲さんを助ける事に集中出来る様に、と。
「叶架お嬢様。これが、私共のやるべき事です。叶架お嬢様は主様をお願い致します。その間、私共が絶対に抑えますのでご安心を」
 桔梗さんは笑顔でそう言っていた。
 そしてその言葉通り、彼等は必死に食い止め続けてくれている。猛る羅堕忌に、二人は防戦を強いられているが。それでも絶対下には行かせまいとした戦い方をしている。
「紲さん、あの」
 私が説明をしようと口を開きかけるが。紲さんは「分かってる」と、私の言い分を先取って答えた。
「本当に桔梗は・・俺には勿体無い相棒だ」
 紲さんはしみじみと吐き出すと、刀を鞘に収める。そしてギコギコと言う擬音が聞こえてきそうな程の屈伸を始めた。
 いよいよ、紲さんが参戦する。でも、今回は彼を一人で戦いに行かせる訳ではない。
 私も、ここで一緒に戦うんだ。
 堅く作った覚悟で自身を奮い立たせる。そしてギコギコと屈伸を繰り返す彼に「紲さん」と声をかけた。
「合図、待ってますね」
 頑張って下さい、絶対に負けないで下さい、絶対に無茶はしないで下さい、怪我を負わない様にして下さい。
 色々とかけたかった言葉があったのに、するりと出たのはただその一言だけだった。
 紲さんは私の言葉を受け取ると「あぁ」と言った。雄々しさと自信が溢れた、とても凜々しい微笑で。
「待っていてくれ」
 私にしっかりと言葉を届けると同時に、紲さんはダンッと力強く地面を蹴り上げ、戦いの場に向かって飛び上がった。(普通じゃ考えられない高さを軽々と行っているが、きっと貴人の力なのだと思う)
 戦いの闖入者に、羅堕忌は「見えてんだよぉ!」と声を荒げ、驚きで隙を見せた式神二人を散らして紲さんに向かっていく。
 正面激突、止まっていた彼等の戦いが再び動き出した。
 だが、開戦早々に戦場が空から地上にと移り変わる。ひらりと蝶の様に相手の攻撃を躱し、そこから流れる様にたった一発の蹴りを入れ込んで、相手を地に叩き落としたからだ。
 ぶわっと砂煙が巻き起こり、少し離れたここにもその衝撃が襲ってくる。
 私は唖然としてしまった。その攻撃があまりにも流麗だったからだろうか。あまりにも強い一撃だったからだろうか。
それとも、相手をいとも簡単に地に叩き落としたのが、紲さんだったからだろうか。
 何の理由が、私をそうさせたのかは分からない。
 けれど間違い無く、この開戦の狼煙は衝撃的だった。
・・Side 羅堕忌 最強と言う名の頂・・
 今まで俺様は戦いにおいて、恐れや怯えを感じた事はねぇ。
 自分が生き延びたかったら。そんな感情を抱くよりも前に、相手よりも先に、自分の力を振るわなくちゃなんねぇから。
 そうして俺様は生きる為に力を振るい続け、相手をぶちのめしていった。讐と成るまで、ずっと。
 讐と成ってからは楽だった。生命の怯えもなければ、自分が一番と言う愉悦に浸れる。頂点からの眺めは最高だった。
 だが、俺様はその景色にすぐ飽いてしまった。いや、ゆるりとした眺めを見続ける事が苦痛だったのだ。
 こんな自分は自分じゃないと身が苦しみで悶え、戦いが欲しいと渇く心が強く求める。
 だから俺様は生温い安寧《くつう》から脱却し、頂点の先に進む事に決めたのだ。
 俺様の他にも讐が居る事は知っていたから、次なる相手はすぐに見つかるだろうと思っていた。
 だが、他の讐達は皆、俺様とは戦わなかった。どうしてかは分からねぇ。他の讐と会って分かった事と言えば、外で戦いを求める他ないと言う事だけだった。
 外、つまり人間の世界に的を変えてみたのだが。俺様の渇きは潤わなかった。すぐにまた頂のつまらねぇ景色を目にする羽目になった。
 もう、俺様以上の強者はいねぇ。
 俺様の前に、無と言う絶望が広がっていた。最悪だと思いながらも、ただその絶望に喰われるしかなかった。
 だが、その絶望に喰われる寸前に、俺様は思い出したのだ。俺様の渇きを満たしてくれる存在を。
 俺様達魁魔の間で、伝説として残る最強の鏡番と貴人のコンビの存在を!
 鏡番の方はもうとっくの昔にお陀仏だろうが。貴人は今も尚存在している、その強さを持ち続けながら!
 まぁ、貴人は滅多に姿を現さぬ式神と知った時にはがっかりしたもんだが。これしかねぇと思ったからこそ、俺様は頂にどっかりと座り直した。時間がカチカチと前に進む度、俺様の楽しみは増幅するばかりだったから、貴人を待つ事に苦痛はなかった。
 そうして、事態はある日を境に動いた。人間界を暴れ回る手駒の一つが、玉陽の巫女を偶然見つけたのだ。
 天が健気に待ち続ける俺様を哀れみ、褒美を与えてくれた。俺様はそう思えてならなかった。
 邪魔が都度都度入ったが、やっと玉陽をこちらに引き込む事が出来た。そればかりか、なんと玉陽の救援として貴人の当代が現れたのだ。
 ようやくか!と快哉を叫びそうになり、今までの空白の時間が一気に満たされていった。
 押し寄せる幸運に、流石の俺様も頬を緩ませちまったが。本当に押し寄せてきたのは幸運ではなく、今まで以上の不幸だった。
 こんなもんかと強大な失望感を覚え、また一人で頂からの眺めを見るしかなくなった。誰からも引きずり落とされない、つまらねぇ頂に君臨する他なくなった・・はずだった。
 一体どうなってんだよ、なんでこの俺様が追いやられてんだ!
 俺様は手前の瓦礫をドカンッと荒々しく蹴り飛ばした。
 スタスタと間合いを詰めてくるアイツに自分の怒りをぶつける様に蹴ったのだが、それは呆気なく粉々に砕かれる。
 畜生、どうしてだ!?遊びにもなりゃあしねぇ、つまらねぇ相手だったはずだぞ!
 それなのに、どうして俺様が防戦一方になっている?どうして俺様が手も足も出ずにやられているんだよ?!
 一体、アイツに何があった?!たった数分、俺様が式神風情に足止めされている数分間に、ここまでの強さを得たのは何故だ?!
 腹立たしい。忌々しい。こんな事を考える事も、この俺様がこんなクソみてぇな状況に追いやられている事も。
 俺様の全てが、許せねぇと暴れ出した。ガリッと音が立つ程、キツく奥歯を噛みしめる。
「悔しそうだな」
 飄々とかけられた言葉に、俺様は「あぁ?!クソが調子に乗るんじゃねぇよ!」と声を荒げた。だが、俺様の怒りを歯牙にも掛けずに奴は言葉を続ける。
「調子になんか乗っていない。俺は、貴人の強さを量りたいと言うお前の望みを叶えさせてやっているだけだ。長い時を待たせた挙げ句遊びにもなりゃあしねぇと唾棄され、ボコボコにされた恩《かり》もある事だしな。厳しい様なら辞めるが」
 まだ十パーセントの力も出していないぞ。と付け足され、俺様の血管がブチブチッと次々と弾けた。
「ふざけやがって!今のてめぇの強さは偽りだろ?!どうせ玉陽だろうが!玉陽に楽にしてもらったから、その強さを持てているだけだろうが!何が貴人の強さだ、玉陽の力でドーピングしているだけじゃねぇか!それに玉陽は俺様の物だぞ、勝手に使うんじゃねぇよ!」
 怒りと憎しみが混ざり合った感情を全てぶつけ「讐焉術《しゅうえんじゅつ》!」と胴間声を張り上げて、手の平に朱殷色の球体を現れさせる。
「怨撞牙《えんとうが》!」
 俺様の叫びと共に球体から無数の礫がバシュバシュッと矢の如く放たれた。アイツを穿つ為に放たれた無数の礫は、物理の法則から外れた多角的な攻撃で同時に攻め込む。
 逃げ場を潰す、それだけが怨撞牙の怖さだと思ったら大間違いだぜ。怨撞牙の真価は、別にあるんだよ!
「それに当たったら即死だぜぇ?!猛毒だからなぁ!」
 声高に叫ぶと同時に、アイツの未来が瞼裏に浮かび、ゾクゾクとする楽しみに身を震わせた。
 ズタズタになるだけじゃなく、猛毒で苦しみながら死に絶えるなんてよぉ。調子こいた奴に相応しい、良い死に方じゃねぇかぁ!
 俺様の目と口が、三日月の様にニヤリと曲がった刹那。アイツの飄々とした声が耳に突き刺さる。
「貴冤術《きえんじゅつ》。光焰《こうえん》」
 パンッと軽やかな音が弾けると共に眩い光と熱風が放たれた。
 俺様はバッと防御の態勢を取り、次に構えるが。その時には、もうすでに事態は次へと動いていた。
 アイツは何事もなかったかの様に平然と佇み、放った怨撞牙は全て消えている。アイツの術に消されたと言うのは、一目瞭然だった。
 馬鹿な!逃げ場を潰され、当たったら即死と言う絶望に追い込んだはずだぞ?!それなのにどうして無傷でいやがる!どうしてだ!?
 混乱しながらも、再び怒りが轟々と唸る様に燃え上がる。
 するとアイツが静かに口を開いた。相変わらず飄々とムカつく顔つきのまま。
「偽りの状態と呼ぶに相応しいのは今ではなく、再戦する前の俺の状態だぞ。あの時の俺は、貴人を使っていながら一切使えていない状態だったからな」
「・・なんだと?」
「玉陽の巫女の力があってこそ貴人は本来の力を発揮する。つまり今が本物の貴人の強さ、と言う事だ」
 今の力が偽りではなく、本来の強さだと?つまりこの状況が、俺様の本来の姿だったと?・・・俺様達の本当の勝敗だと?
 目の前の奴は「分かった様だな」と、底冷えした声で告げる。
「お前の詰み、だ」
 ぶわっと肌が粟立ち、言葉に出来ない程の胸くそ悪い感覚が全身に広がった。
 そして瞼裏にあった無残な死に様をしたアイツの姿が、自分の姿にゆっくりと変わっていく。その変化は一切止められず、アイツの姿に戻す事も出来ない。
 まるで揺らぐ事のない未来だと言わんばかりじゃねぇか・・。
 俺様は強く拳を作り、手の平に鋭い爪をグッと射し込んだ。手の平の肉にもろに突き刺さり、俺様の指の間からツウと冷たい液体が滑り落ちる。
 くそったれが。認めてたまるか、俺様がこんな奴にやられる訳ねぇだろ!
 そうだ!俺様に敵う奴は、誰一人としていねぇんだよ!皆、俺様以下のゴミだ!弱者共だ!
 誰も俺様を蹴落とせねぇ!俺様を頂《ここ》から落とす奴なんてなぁ、この世には存在しねぇんだよ!
 馬鹿げた思考を払拭する為、俺様は爪を手の平の肉に更に深く突き刺し、だらだらと流れる血を漸増させる。
「俺が、お前を許すならば話は違ってくるが。俺はお前が叶架にした事全て、許すつもりは一切ない。だからお前は終わりだ」
 つらつらと吐き出される耳障りな言葉に、怒りがぶわっと沸き立った。感じていた最低な感情も、この激情に全て飲み込まれていく。
 俺様は「ぬかせ!」と声を荒げ、クソ野郎を睨めつけた。
「俺様に敵う奴は誰もいねぇんだよ!俺様よりも強ぇ奴なんざ存在しねぇんだ!讐焉術!伐活閻牙《ばっかつえんが》!」
 怒声と共に、俺様の血が一斉に襲いかかる。流れていた血も、やられて撒き散らされていた血も一斉に軍を成した。
 散っていた血が鎖として形を成し、奴の体を縛り付けると同時に、襲いかかっていた血の全てが高波の様に一つになる。
 そしてその波は急速に円形へと形を変え、クソ野郎を完全にその中に封じ込んだ。
これが俺様の最高傑作の術だ!
 あの球体の中では幾つもの刃が襲いかかり、骨になるまでその身を削る!捕まっているから逃げる事も出来ず、一方的にやられるしかねぇ!骨までズタズタにならねぇと、その鎖から外れる事もできねぇ!
 つまり捕まれば最期だ!肉がズタズタになるだけじゃ終わらねぇ、骨までズタズタになってようやく死ねる地獄を味わいやがれ!
「粋がった事を後悔しながら、惨たらしい死を迎えやがれ!」
 ざまぁみろ!と高らかに笑いながら告げる。もう俺様の声なんざ聞こえていない、アイツに向かって。
 これでようやく鬱陶しい感情から逃れられた。もうアイツはいねぇ。
 俺様の、勝ちだ。
 頭の中で「勝ち」と言う言葉が生まれた瞬間、ぶわっと変な汗が噴き出る。加えて、心にあった嫌なさざめきが徐々に収まっていった。
 こんな風になるのは初めてだな・・。
 鬱陶しく纏わり付いていた「何か」が剥がれていく感覚がするが、俺様はぶんぶんと首を振った。
 今はそんな事に気を回している場合じゃねぇ。さっさと近くに居る玉陽を回収しねぇと、また手を煩わせられちまう・・。
 クルッと踵を返し、この近くに居る玉陽の元へと駆けようとするが。
 突然、ドスリと変な音が弾けた。そして肌にぬるりと何かが滴れ落ちる感覚も。
 何か、起こったのか・・・?
 何故だか目がふいっと下に落ちた。そこで初めて、これは他人事ではないと気がつく。
 馬鹿みてぇだが、本当に分からなかった。
 自分の目玉二つが、自分の胸に屹立した黒い刀身を映すまでは。ズキズキと苦痛を感じる様になるまでは。
「お前が驕ってくれていたおかげだな」
 背後からの囁きに、止まったはずの嫌な汗が全身の毛穴からぶわっと噴き出た。
 俺様はグッと奥歯を噛みしめて、ぶんっと出鱈目に拳を後ろに振り抜くが。当たった感触はなく、俺様の拳は空を切った。
 そして素早く抜かれた刀が、置き土産の様に痛みを残して行く。
「一突きでは死なないか」
 まぁ、分かっていた事だが。と、奴は飄々と刀を構え直した。夢の様な光景ばかりを目にし、俺様の瞳がぐらぐらと大きく揺らぐ。
 何故、アイツが目の前にいる?いや、それよりも何故無傷でいやがるんだ?俺様の術に、間違い無く捕まったはずだぞ。俺様の目がしかとその姿を捉えていたんだ、見間違いなんかじゃねぇ。アイツは、アイツはまだ俺様の術中に居るはずだぞ!
「てめぇ、どうしてだ!」
 混乱を露わにして吠えると、胸の傷からトクトクと穏やかに流れていた血が奔流となって流れ、痛みも増す。
 だが、今はそんな事どうでも良かった。「何故アイツが眼前にいるのか」と言う事以外、どうでも良かった。
「逃げる事が出来たから、俺はここに居る。ただそれだけの話だ」
「・・逃げ場なんか、どこにもなかったはずだぜ」
 苦々しく言葉を吐き出すと。奴は「上には、な」と意味深に答え、トンと自身の影を踏んだ。
 俺はその些細な動作に「まさか」と目を大きく見開かせる。
「影、か」
「正解だ。捕まった瞬間、貴冤術を使って影に逃げ、影を通ってお前に攻撃を入れた訳だ」
 淡々と明かされる真実に、俺様の体は顫動した。
 なんだ、この震えは。怒りで震えているのか?それとも驚きからか?
 ・・いや、違う。これは今まで見てきた事がある。
 そうだ、あの震えだ。面白いとからかっていた、弱者の震え。圧倒的強者を前にした弱者が見せる、絶望した時の震えだ。
 つまり、この正体は「恐れ」か・・?
「・・・馬鹿な」
 俺様は弱々しく唾棄した。この馬鹿げた現実を、この腑抜けた感情を一蹴する様に。けれど、言葉を吐き出した程度では何も蹴り飛ばす事が出来なかった。
「俺はお前の驕慢さに救われた。始めから全力でかかられていたら、今頃俺は息をしていなかっただろう。だから俺はお前を全力で倒す。その驕りに足を掬われない様に、な」
 奴は底冷えした声で告げると、刀を地面に突き刺し「貴冤術」と淡々と呟く。
「戯《あじゃら》」
 軽やかに指を滑らせ、パチンッと溌剌な音が弾けた。
 その刹那、奴の刀身から黒の弾丸が飛び出す。いや、弾丸ではない。飛ばされてくる物は全て、鋭い刃を持った小さな暗器だ。
 攻撃に構えろと脳が体に命令を下したが。その時にはすでに、ドスドスッと鋭い切っ先が俺様の身体を貫き、血肉を荒々しく削っていた。
 ガハッと喀血し、俺様の体は踏ん張る事も出来ずに前のめりにドサリと倒れる。幾年ぶりに、冷たくざらついた砂の感触に触れた。片方の耳が地面に這いつくばっているせいで、ヒューッヒューッと浅薄な呼吸が脳内にやかましく響く。
 なんて俺様らしくねぇ呼吸だよ。こんな屈辱はねぇ。速いとこ攻撃に転じて、同じ目に遭わせてやろうじゃねぇか。
 なんて、思っているのだが・・・俺様の体は不思議と動かなかった。いや、動かせねぇんだ。頭から足の爪先まで、全て。指先を動かすと言う単純動作すらも出来ねぇ。
 まさか、神経毒か?戯とか言う術は、俺様の怨撞牙と似た術だったのか?
「全ての点穴を突かれた挙げ句、打ち込んだ暗器で体内から押さえつけられているんだ。もうお前は動けないぞ」
 俺様の思考を読み取ったのか、奴がご丁寧に俺様の状況を明かしてくれる。
 点穴か、道理で動けねぇ訳だ。と、腑に落ちたが。這いつくばって動けねぇ事の屈辱が俺を燃え上がらせ、何とか体を動かそうとする。
「無駄だ。諦めろ、羅堕忌。お前の負けだ」
 ・・お前の負け、だと?この俺様が負けるだと・・?
 動かせない体の内側からボンッと爆発する様に、怒りと憎しみが綯い交ぜになった業火が広がった。
 この俺様が、負ける訳ねぇだろ。俺様は全ての頂点に君臨する、最強の讐だ!
 その俺様が、人間なんざに負ける訳ねぇだろ!
 俺様が負ける時なんざ来ねぇ、終わる時なんざ来ねぇんだよ!
「調子に・・乗るんじゃねぇ」
 動かせない体は、轟々と燃える全てに強く突き動かされる。
 グオオオオオオッと雄叫びを上げ、屈辱的な姿から抜け出す。ブシュブシュッとあちこちから血が噴き出そうが、骨がギチギチと軋もうが、激痛が全身に走ろうが関係無かった。
 全て、どうでも良かった。相手をぶちのめす為だけに、俺様は動く。
「この世界で、俺様に勝つなんざぁ出来る訳ねぇんだよぉ!」
 激しい憎悪が俺様の思いを強くする。屈辱が俺様の思いを闇に深めていく。苦痛が俺様の思いを禍々しく装飾していく。
「この俺様が最強なんだよぉぉぉぉ!」
 俺様を前にして生き延びた奴はいねぇ。俺様が皆ぐちゃぐちゃにしてやったんだ。
 だからアイツもぐちゃぐちゃにしねぇと、俺様の最強の称号に傷が付く。
 そうだ。早く、アイツをぶっ殺さねぇと。早く、アイツをぶっ殺しとかねぇと。
「讐焉術!!」
 俺様の全てがどろどろとした真っ黒の闇に染まっていく。
 その時だった。
「もう、止まって」
 眩い白色の光が俺様の手を温かく包み込む。
「そうしないと、どんどん遠のくだけだよ。羅堕忌の本当の望みが」