その翌日、私は昨日と同じ映画館の前に立っていた。周りから見れば、私は平然と誰かと待ち合わせをしている人に見えるのだろう。
 でも、そう見えるのは私の努力の賜。実は、必死に冷静な顔を取り繕っているのだ。
 こう言えば、もう分かるだろうけれど。今の私は、激しくバタバタと慌てふためいている。ドコドコッと心臓が古の儀式に使われていた大太鼓の様に鳴り、視界も普段より何倍も窮屈だ。耳も辺りの喧噪を一切入れてこない。聞こえる音と言えば、自分の浅薄な呼吸と大き過ぎる心音だけ。
 自分の世界だけに、これほど精一杯になった事は十八年生きていて初めての事だと思う。
 なんでこうも私が凄まじく荒ぶっているのか、と言うと・・・。
 今、私が待っている相手が清黒さんだからだ。
 それだから、あまり袖を通した事がない、大人っぽいブルーグレーのプリーツワンピースだって着ちゃっているし。いつもそのままの髪だって、今日は編み込みハーフアップで纏めているのだ。
 彼の隣を歩くに少しでも相応しい様にと、大人らしさを重視しつつ、気合いの入り込み具合も上手くかき消す様なコーデにしたけれど。女子高生らしい可愛さをもっと取り入れた方が良かったかなぁ。
 なんて事を思いながら、ワンピースのリボンを直していると。ふと、昨日の事を思い出した。今日この時間を迎えるきっかけとなった、昨日の夜九時頃を。
 始まりは、私の部屋の窓をコンコンッとノックする甲高い音。二階の部屋だから、普通じゃあり得ない音に「ひっ」と、恐怖で竦みそうになったのだけれど。
「叶架お嬢様、夜分遅くに大変申し訳ありません。桔梗でございます」
 と、桔梗さんの声がしたものだから、恐怖は一気に解かれ、急いで窓を開けた。(丁度湯上がりのパジャマ姿だったから、恥ずかしいなぁ。とは思ったけれど・・)
 窓を開けてみると、そこにはミミズク姿の桔梗さんがパタパタと飛んでいて「お休みになられる所でしたか?」と、申し訳なさそうに尋ねてくる。
「いえ、まだですから大丈夫ですけど。どうしたんですか?」
 私が尋ね返すと、桔梗さんは窓枠に止まり、キュッと羽を収めてから「主様からお手紙を預かって参りましたので」と、にこやかに右足をあげて答えた。
 彼の細い足に、手紙がキュッと結ばれているのを見た瞬間。某魔法学校の世界だ、と心の中で突っ込まずにはいられなかった。
 けれど、そんな突っ込みを打ち消す様に私は軽く頭を振ってから「すみません、取りますね」と彼の足から手紙を解き、パタパタと広げ、文に目を通す。
『今日は鏡番の内輪揉めに巻き込んでしまい、本当に申し訳なかった。君と別れて、すぐに鏡番の家々で集まり色々と決定したから、この様な事は二度と起きないはずだ。起きてしまったとしても、今度は必ず未然に防ぐから安心して欲しい。
 まぁ、次の事に関して先の話だと思う。師匠がえらくお怒りになっていたからな、当分反抗勢力も大人しいはずだ。あんな姿を目にしたんだからな、大人しくならざるを得ない』
 私は文の途中だったが、五十鈴さんの半端ない怒り具合が目に浮かび「わぁ」と小さく零してしまった。
「五十鈴さん、そんなに怒って下さったんですね・・」
「えぇ、五十鈴様の怒り具合は半端ではありませんでしたね。牙琥でも止められず、鏡番の五人、十二天将が三人出張ってようやく止められましたよ。ですが、その時にはすでに実行犯の騰蛇と大黒司怜人様は瀕死でしたけどね。崇人様はご高齢の為、手はあげられていませんでしたが。幾度もあげそうになりましたし、口撃が凄まじかったですよ」
「それは・・・凄いですね・・・」
 私の代わりにやり返してくれて、胸がスッとすく様な思いになるかと思えば。大黒司の面々を不憫に思ってしまう。
 けれど「まぁでも、自分が蒔いた種だからなぁ」と思い直す事にして、私は改めて清黒さんの手紙に目を落とした。
『それで、本題だが。明日、今日見るはずだった映画を見に行かないか?』
 淡々と書かれた一言に、私は「えっ?!」と驚愕してしまう。下から「叶架、うるさい!何時だと思ってんの!」と、母さんに怒鳴られたけれど。それを無視して、私は続きを読み進めた。
『お姉さんは見てしまったのだろう?だから俺とで良ければ、一緒に見に行かないか?勿論、断っても何も問題ない。
 何も問題がなく、俺と行っても良いと思ってくれたのであれば、明日の十三時に映画館前で待ち合わせして、十三時半の回を見る形でどうだろう。
 最後に、これから先の事を考えて、君と連絡先を交換しておきたい。これが俺の電話番号だから、連絡を入れて欲しい』
 と、清黒さんの携帯番号が綴られ、その下に綺麗な達筆で紲よりと締められてあった。
 清黒さんと・・・一緒に映画?!
 キャーッと歓喜の叫びをあげそうになるのをグッと堪え、私は「これ、本当ですか?」と桔梗さんに確認を入れる。桔梗さんは「ええ」と苦笑気味に答えていた。(今思い返してみると、多分私が興奮過ぎたからだろうな)
「叶架お嬢様さえよろしければ、ぜひ主様とご一緒にどうでしょうか?お返事は、私の方からでもお伝えできますが。主様に直接して頂けると幸いです」
 と、桔梗さんがニコッと目を細めた所で。少し長めの回想に終止符を打ち、私は意識を現在に戻した。
 昨日の夜から、今この瞬間も私はずっとドキドキとしたまま。
 初めて男の人と二人で映画に行くから?それとも、相手が自分の好きな人だから・・?
 私はパチンと両手で頬を叩き「いやいやいや」と、小さく吐き出した。
 落ち着いて、私。清黒さんは、お詫びとして付き合ってくれているだけよ。あの人は義理堅い人だし、そういう所が細かい人だから。あっちは好きとかじゃないから、こっちだけだから。
 心の中で淡々と言葉を敷き詰め、最後に「あっちは今回の事に、何の思い入れも無いんだからね」と、釘をしっかりと打ち込んだ。
 すると途端に、荒ぶる自分がひゅんっと大人しくなっていく・・いや、違う。これは瀕死に近づいていっているのだ。どうやら私の恋心が、相当な大ダメージを負ってしまったらしい。
 はぁぁと絶望的に嘆息し、がっくりと肩を落としてしまった。
 その刹那
「早いな」
 聞き馴染みのある声が、しっかりと鼓膜を通って入って来た。
 その声にハッとし、心の世界から現実に戻ると。いつの間にか、目の前に清黒さんが立っていた。
 無地の白Tシャツと紺色のサマージャケットに、黒のズボンと、いつものラフな感じとは少し違った大人なファッションだ。
 あぁ、この服装で良かったぁ!これじゃなかったら、きっと幼く見えすぎていた所だったぁ!と、内心でガッツポーズを取ってしまう。
「すまない、待たせてしまったか?」
 彼の問いに、荒ぶる自分を艶然と取り繕い「いえ!」と首を横に振った。
「ついさっき着いたばかりです!」
 本当は三十分以上も前に着いちゃって、一人そわそわと早くから待っていたけれど。それは隠して、今さっき来たと嘯く私。
「清黒さんも早いですね。まだ待ち合わせの十分前じゃないですか」
「あぁ。まぁ、君より早くに着いておきたかった所だけどな」
 さらっと何でも無い風に打ち返された答えに、必死で取り繕っている表がガラガラと音を立てて崩れ、赤々とした照れが姿を現し始める。
 だって、こんな事を目の前で言われたら!しかも、相手が自分の好きな人ときたら!誰だってこうなる!
 私は文字通り、軽く泡を食ってしまうが。それらを全て誤魔化す様に「そう言えば!」と声を張り上げ、強引に話題を次へ変えた。
「今日は、桔梗さん居ないんですか?姿が見えないし、声もしないんですけど」
 軽く見渡してから尋ねると、彼は「桔梗・・?」と、何故だか眉根をキュッと寄せる。
 そして「まぁ、居るには居るが」と渋面で答えられてから「何故?」と返されてしまった。
 そんな風に突っ込まれるとは思っていなかったから、言葉を詰まらせてしまう。聞かなきゃ良かったかも・・なんて後悔も、内心に小さくじわりと生まれた。
「えーっと、た、大した事じゃないですよ?いつもは清黒さんの隣に居るのに、どうして今日は居ないんだろうなって気になって」
 しどろもどろに答えると、彼の顔から「ああ」と怪訝がスーッと引いていく。
「居ない訳じゃない、出さないと言うだけだ。桔梗自身も、今日は外に出ないと言っていた。だから今日は俺だけだ」
 口元を軽く綻ばせて返されると、私の体にトキメキが走った。ほんの数秒前に生まれた小さな後悔なんて、この微笑で簡単に消される。
 ドコドコと心臓が再び大太鼓の様に鳴り出し、顔も堪えきれずにゆるゆると瓦解していくが。幸運にも、彼はそんな私に気がつかなかった。腕時計に目を落とし、時間を見ていたから。
 危な!と思いつつ、トキメキをぱーっと一掃し、自分の体勢を整える。
 だから彼の顔がパッと上がった時には、すでに元通り。何食わぬ顔で彼と対峙した。
「少し時間に空きがあるが、どうする?席はネットで取ってあるから良いとして、もう中に入るか?それとも近くの店を見て回るか?」
「うーん、時間的にはもう中に入っていた方が良いのかなって思います」
「ん、じゃあ中に入ろう」
「ハイッ!」
 私は元気よく頷くが、「あ!」と零してから慌ててバッグに手を伸ばす。
「その前にチケット代渡します!」
 手が財布を掴み、バッグの中で宙に上がるが。「いらない」とぴしゃりと言い放たれ、財布は宙ぶらりんの状態で止められてしまった。「えっ?いや、でも」と食い下がると、彼はさっきよりも強く「本当にいらない」と言い放つ。
「良いから、行くぞ」
 フッと柔らかな微笑を零してから、彼は先を歩き始めた。
 私は慌ててその後ろを追って「ありがとうございます」と横に並び、映画館の入り口をくぐっていく。
 扉が開くと、外には無かった喧噪が訪れた。そしてそれと同時に、私の耳元で彼がコソッと耳打ちをする。
「今日の服と髪、とても似合っているな」
 喧噪にかき消されない様に耳元で囁かれ、その艶やかな声が脳内までしっかりと届く。
 私はボンッと爆発し、あわあわと囁かれた耳を押さえた。急速に血が駆け、バコンッバコンッと聞いた事ない音で心臓が跳ねる。
 こ、こんな不意打ち無理、ずるい・・!
 私が惚けて立ち止まってしまっていると、少し先を歩いていた清黒さんがきょとんとした顔で振り返った。
「ん?行かないのか?」
 なんて、白々しく尋ねてきちゃって。本当にずるい、この人!
 私はグッと歯がみしてから、パッと耳元から手を離し「行きますよ!」と、隣を歩いた。ツンとして、綻んでしまいそうになる自分を必死で繋ぎ止めて。
 けれどその時も、脳内で彼の言葉が低速再生で繰り返されていた。
 ようやくその再生が止まったのは、映画が始まって数分後くらいだった。
・・・
「結構面白かったな」
「はい、最高でした!しかも続編が出そうな終わり方でしたよね?いつ出るのか楽しみだけど、ちょっと焦れったいかも」
 興奮冷めやらぬ状態で答えると、清黒さんは「だな」と口元を綻ばせる。
 私はその微笑みに、少しぐらりとしてしまったが。そのトキメキを誤魔化す様に「それにしても!」と声を上げた。
「清黒さんもこういうヒーローものの映画見るんですね!こういう映画は見ない人なんだろうなぁって思っていたので、意外でビックリしちゃいました!」
 ペラペラと勝手に口が動き、言わなくて良い事までも突っ込んでしまう。
 ああぁ、余計な事を!と内心で悶えるが。彼はその突っ込みを素直に受け取り、「意外?そうか?」と、軽く首を傾げた。
「結構好きで、よく見るぞ」
 清黒さんは端的に答えると「あと、前々から言おうと思っていたんだが」と、徐に話題を切り替える。
「俺の事、紲で良い。清黒さん、じゃなくて」
 唐突な申し出に、私は「えっ?!」と狼狽えてしまうが。彼は淡々と「自分で言うのもなんだが、清黒って言いにくいだろ?」と話を続ける。
「だから紲で良い」
 いやぁ・・良い、と言われても。急に名前呼びするのは、大分勇気がないと出来ないし・・。
 私は「ええっと」と口ごもり、目をバシャバシャと泳がせ、逃げ道を探す。
 けれど、目の前から「早く」的な感じの圧が送られて来ているせいで、逃げ道が次々と消えていく。
 ううぅ、これは言うしかない・・。頑張って言おう、名前呼びをしよう!
 頑張れ、私!たかだか名前呼びでしょ!と及び腰になる自分を叱咤し、「じゃあ」と恐る恐る吐き出した。
「紲・・さん?」
 彼の名前を口にした瞬間、自分の中にあった照れがボンッと爆発する。たかだか名前呼び、されど名前呼びだった様だ。
「さん付けじゃなくて良いが・・まぁ、それが精一杯そうだな」
 紲さんはクスッと悪戯っ子の様な笑みを零し、余裕の無い私をからかう。
 小馬鹿にされた様な感じに、私の負けん気スイッチがカチッとオンになり「紲さんも呼んでみて下さい」と、突っかかりに行ってしまった。
「私の事、呼び捨てで呼んでみて下さい!」
「叶架」
 間髪入れずに、サラリと名前を呼び捨てされてしまう。何故、名前呼び程度で恥ずかしがるのか分からないと言わんばかりで。
 そんな彼を前に、荒んでいた私はどうなったか。
 ときめく要素がギュッと凝縮された名前呼びに、完全なる返り討ちに遭ってしまった。
「そこまで照れられるとは思わなかったな」
 益々意地悪くなった笑みで言われたおかげで、私はすぐに平常心を取り戻す。
「照れてません。全然、全く、微塵も!」
 心外と言わんばかりに噛みつくと、彼は「そうか」と軽やかに私の怒りをいなし「で、どうする?」と、にこやかに尋ねた。
「カフェでもよるか?」
 強引な気の取りなし方に、私は「どちらでも良いですけど」とブスッとして答える。そんな私に、紲さんはクスッと笑みを零した。
「じゃあ、行くか?まだ時間もあるしな」
「はい・・」
 私が膨れっ面で答えた瞬間、「主様!」と桔梗さんの切羽詰まった声が聞こえた。
 あれ?桔梗さん?と思い、上や横を見渡すが。彼の美麗な姿はどこにもない。
 私が困惑していると、紲さんが辺りを見渡してから「出ろ」と端的に言葉を発した。
 すると彼が付けているシルバーのバングル、その中央に填められている小さなアメジストが光り、ヒュンッと何かが飛び出す。その光が弱まると、バサッと大きく翼を広げたミミズクバージョンの桔梗さんが現れた。
 わお!と驚嘆が飛び出そうになったけれど。彼の「デート中の所、大変申し訳ありません!」と言う第一声によって、その驚嘆は「違いますけど?!」と言う鋭い突っ込みに変わった。
 だが、紲さんも桔梗さんも、その突っ込みに反応する時間も惜しい様で「どうした?」と、冷淡に会話を続ける。
「太裳《たいじょう》より緊急連絡です。十二天将継ぎの鏡番、総員の緊急招集がかけられました。主様にも、すぐ東京本鏡にお戻りいただきたいとのことです」
 切羽詰まった報告に、紲さんは愕然とし「何があった?」と詰め寄った。
「本鏡五点、同時襲撃が起きた様です」
「何だと?!」
 紲さんは声を張り上げ「馬鹿な」と蒼然とし始める。
「・・玄武の守りはどうした」
「玄武の居る北海道本鏡から攻め、守りが弱まった他四点を同時に破ってきたそうです」
 苦々しく告げた桔梗さんの言葉を聞くと、紲さんは絶句してしまった。鏡番の触りしか知らない私も、彼等が蒼然としている様子で、流石に異常事態が起きていると分かる。
「私の方で、羽織と刀の支度は整えてあります。すぐに参りましょう」
「・・あぁ」
 渋面のまま頷くと、紲さんはこちらを向いた。
「すまない、俺は本鏡に行かないといけない。だからカフェはまた今度だ」
 伏し目がちに申し訳なさそうに告げる彼に、私は「大丈夫ですよ」と首を振りながら答える。
「緊急事態だって分かっていますから」
「すまない、ありがとう」
 強張った顔を柔らかく崩すと「叶架は気をつけて帰ってくれよ」と、私の頭にポンと手を乗せてから、足早にどこかに駆けていった。
 多分、人目に付かない鏡に向かっているのだろう。そこから東京のどこかにある本鏡に赴く為に。
「気をつけて下さいね」
 彼の後ろ姿を見つめながら、ぼそりと吐き出す。その言葉は、風によってあらぬ方向へ運ばれてしまった。彼の耳に届かず、どこかに虚しく消えていく。
 胸がギュッと締め付けられた。
 自分の声が彼の耳に届かなかった事に?彼が私の言葉を聞かずに行ってしまった事に?彼が危険な所へ行ってしまった事に・・?
 ううん、違う。きっとそんな理由じゃない。
 安全な世界に居続ける私を慮った彼の一言に、私の胸はギュッと締め付けられているのだ。
「叶架は気をつけて帰ってくれよ」
 彼はそう言った。叶架「は」と言い、私を自分達鏡番の世界とは無関係の存在とした。
 自分はこれから危険な戦場に赴き、恐ろしい存在と戦うと言うのに。安寧な世界に居続ける私なんかを憂慮してくれたのだ。
 それだと言うのに・・。私は「気をつけて」とただ見送るだけで、何もしなかった。
 恥ずかしくない?
 自分だけにしか出来ない事があるくせに、それを放棄して、何もしないで見送るだけなんて。
 本当に情けなくない?
 自分ばっかり、自分の世界を守ろうとして。いつまでも傍観者で居続けるなんて・・。
 心に黒い染みが生まれると、じわじわと責め立てる様に内側を蠢いていく。
 いい加減、逃げる事を辞めたらどう?いい加減、自分のやるべき事を全うしたらどう?
 そうよ、五十鈴さんも言っていたでしょ。世界がどうとか、責任がどうとか。そう言うのが嫌なら、ただ単純に自分の好きな人の為に動くんだって思ったらどう?
 彼が怪我する所は見たくないでしょ?彼が倒れたりするなんて絶対に嫌でしょ?
 でも、自分が側に居たら、彼の怪我は治せるし、未然に防げる事も出来るかもしれないんだよ?
 それって、私にしか出来ない事なんだよ?好きな人の力になれるって、滅多にないよ?
 こんこんと敷き詰められていく言葉で、私はハッと気がついた。
 私を責め立てているのが、「私」だと言う事に。
 ずっと見て見ぬ振りをし続けて、内側で離反していた私を「私」が迎えに来たのだ。
 そうだ。もう逃げないで、ちゃんと受け入れなくちゃ。
 私は「私」が差し伸べている手を取る。
 ギュッとその手を強く握った刹那、隔てていた境界線がパリンと音を立てて砕け散った。私の世界と向こう側の世界が、一つの大きな世界となる。
 そうして初めて分かる。境界線を引いていた向こうの世界が私の世界に繋がっても、何も変らない事に。ただ少し目の前に広がる世界が大きくなっただけだった。
 私が変ってしまうかも、自分の世界が変ってしまうかも。なんて思っていた自分が馬鹿みたいに思う。
 私は私のまま、神森叶架のままだ。私の性格も、私の気持ちも、何も変わらない。
 私は頬を挟み込む様に両手でパチンと強く打った。頬がヒリヒリと痛むが、その痛みはメラメラと燃え上がる決意に飲み込まれていく。
 こうして呆然と突っ立っている場合じゃない!私も行かなくちゃ!急いで紲さんを追わなくちゃ!
 鏡を通してどこかに行くやり方は、何回か見ているから。多分、私も鏡を通って本鏡に行けるはず!
 地面に突き刺さっていた足をバッと引き抜き、私は彼の居る世界に向かって駆け出した。
 自分の足で力強く進む、少し大きくなった世界を。
 そうして人目に付かない鏡を見つけると、私は「あった!」と小さく声を上げて駆け寄った。
 えーっと、名前を言ってからどこに繋げてくれって言えば良いんだよね。東京の本鏡に繋げてって言えば良いのかな?
 あ・・そう言えば、前に五十鈴さんが京都本鏡連絡鏡に繋いでくれって言っていたから。東京本鏡連絡鏡に繋いでくれって言えば、紲さんの居る東京の本鏡に繋がるよね?
 後の事は・・・ノリで行こう!ノリでなんやかんやうまく行く事も多いし!大丈夫、いけるいける!まぁ、多少向こう見ずな気もするけれど・・大丈夫だ!
 私は自分を無茶苦茶に叱咤してから、鏡の中の自分としっかり目を合わす。
「神森叶架です。あ、玉陽の巫女の神森叶架です。東京本鏡連絡鏡に繋げて下さい」
 強張りながら告げると、鏡がぶわんっと波紋を作った。
 この波形って、繋がったって事だよね?いつも紲さんがやっている形と同じだから、大丈夫だよね!
 やった!と思い、足を一歩踏み出そうとした。
 その瞬間だった。
「そっちから来てくれるなんてなぁ、手間が省けたぜぇ」
 全身が総毛立つ様な恐ろしい声が聞こえたかと思えば、波紋からいつぞやの赤い手が素早く伸び、私の手首をガシッと掴んだ。
 そして振りほどく間も無く、私は呆気なく鏡の向こうの世界へと引っ張り込まれてしまった。
 暗雲漂う紫色の空が広がり、荒廃しきった土地が広がっている。禍々しい空気が漂い、呼吸するだけでも不快感を覚える。肌を突き刺す様な冷気もビシビシと感じるけれど。これは冷気と言うよりも、目に見えない棘だ。可視化出来ない棘で、全身を傷つけられている様に感じる。
 けれど、今の私はそれらの嫌悪に意識を割かれていなかった。それらの気持ちをぺしゃんこに潰す程、目の前の恐怖が私を圧倒している。
 邪悪な笑みを浮かべて、私の手首をがっちりと力強く掴んで離さない。人の様な姿をしているけれど、人ではない事は一目瞭然だ。
 全身大火傷を負った様に真っ赤で、傷痕だらけの肌。鋭い牙と爪。凄まじい憎悪を孕んだ真っ赤な瞳。
 麻で出来た様なボロボロのズボンを履いているだけで、上裸姿で裸足。髪もボサボサで、身なりにはかなり無頓着な姿をしている。
 もしかしてこれが、讐?魁魔の中でも一番強くて、恐ろしい力を持っている存在・・。
 ヒュッと息を飲むと、ぐんっと乱暴に引き寄せられ、邪悪な笑みを近づけられた。
「うざったらしい邪魔が何度も入ったが。よぉぉやく、玉陽ぉ、てめぇを手に入れられたぜぇ」
 人間の男性の様な声なのに、まるで違う。そこに含まれている恐ろしい感情が、しっかりと感じられて、ゾクリと体の芯までも凍りつかせられてしまう。
「これからてめぇはこの俺様、羅堕忌《らだき》様に仕えるんだぜぇ?光栄に思えよぉ?」
 私の視界いっぱいに、邪悪で恐ろしい笑みが広がった。
 あまりの恐怖で、じわりと涙で視界を滲ませる事も出来ない。ガタガタと震える事も恐ろしくて出来ない。ただ全身を竦ませ、怯える事しか出来なかった。
 紲さん、助けて!紲さん!紲さん!
 何度も心の中で紲さんに助けを求めるが。その心を見透かされた様に「助けなんざこねぇよ」と、冷淡に告げられる。
「いや、来られねぇと言った方が良いなぁ。ここは魁魔の世界だぜぇ?他の人間共は、誰も来られやしねぇのさぁ。鏡番の奴らも来られねぇよぉ。お前だけだ、玉陽。ここに来られるのも、生きていられるのもなぁ」
 にんまりと口角を上げられて告げられると同時に、手首に付けてあったブレスレットを外された。
 ブチッとチェーンを引きちぎられると、目の前で粉々に砕かれる。チャームで付けられていた桔梗の花が、無残にパラパラと砕け散った。
 目の前で希望が散った様な感覚に陥り、深い闇に突き落とされる。
「紲さん・・・」
 彼の名を呼び、闇のどん底から手を必死に伸ばすが。彼の手を掴むどころか、手を見る事も出来ずにいた。
 そうして彼の名前が虚空に消えてしまうと、私は羅堕忌に「こっちだ」と、深い闇の中を引きずられてしまう。
 私も役目を全うするって決めたばかりなのに。役目を全うする所か、紲さんに会う事も出来なくなってしまった。
 あぁ、紲さんに私も付いて行くって言えば良かった。
 そうしたら、こんな事にはならなかったかもしれないのに。
 もっと早くに、自分から紲さん達の世界に飛び込んで行けば良かった。
 そうしたら、もっと長く紲さんの側に居られたかもしれないのに。
 本当に私は馬鹿だ・・・。それに臆病者で、救いようのない愚か者・・。
 自分を激しく責め立てる。馬鹿だ馬鹿だと、何度も酷い言葉をぶつける。
 けれど、自分を責めた所で何にもならなかった。どうしようも出来なかった。
 後悔がじわりじわりと自分を蝕むと、それはポロリポロリと目から零れ落ちていく。
 ボロボロと悔し涙ばかりが溢れ、私の全てが後悔に集中していくが。突然ドスッと腹部に強い衝撃を受けると、その集中が容易に弾け、私は本物の闇に引きずり込まれてしまった。
 ポタッポタッと不規則に雨が降る。荒廃している地面が小さく濡れ、星の様に散らばっていく。
 それに気がつく事はなかった。
 私も、羅堕忌も、他の誰かにも・・・。
・・Side 紲 俺がすべき事・・
 俺が鏡を通り、東京本鏡に現着すると。十二天将青龍の翠《すい》と、その主黒壁幸輝《くろかべこうき》を筆頭に、多くの鏡番達がすでに憎魔や妖魔と戦っていた。玄武の結界が弱まっているせいで、次から次へと妖魔と憎魔が押し寄せてきている。
「桔梗、止めろ!」
 桔梗に鋭く命令を飛ばすと同時に、自分の現着を周囲に知らせると「紲様だ!」「幸輝様、紲様が現着されましたよ!」と、歓喜やら安堵やらがあちこちであがった。
 憎魔と戦っていた幸輝も、俺の到着に気がつき、こちらの方にパッと顔を向け「紲!」と声を張り叫ぶ。翠も「あぁー、桔梗だぁ!」と喜色を浮かべた。
 二人とも、怪我は負っていない様だが。疲弊が現れていて、俺が来るまで前線で奮闘してくれていたとすぐに分かった。
「幸輝!遅れてすまない!」
「気にするこっちゃねぇよ、紲!俺達で一気に片付けるぞ!」
「ああ!」
 刀を抜き、ダッと幸輝達の加勢に駆けた。その瞬間
「六合の人間」「下がる」「戻ろ」「六合来た」「だからなぁに?」
 妖魔達が口々に言い合い、スーッと本鏡に戻って行く。
 すると桔梗が押さえていた憎魔達も「グオオオオオオッ!」と雄叫びを上げ、豪腕で枝を引きちぎり、くるりと踵を返して魁魔の世界に戻っていった。
 急に戦いを辞め、一斉に撤退していく。
 俺達鏡番は、その姿に愕然とした。奴らは、戦いを辞めてまで戻る事はない。鏡番を前にしていたら、必ず刃向かってくる。
 だからこんな事はあり得ない。示し合わした様に戻って行く事だって、普通ではないのだ。
 俺が目を白黒とさせ、目の前の事態に唖然としていると
「おいおい、どういう事だよ」
 翠に乗りながら、幸輝がこちらに寄ってくる。
「一斉に尻尾巻いて逃げるなんて事、今までなかったよな?て言うか、こんなの初めての事じゃねぇ?」
 幸輝はストンと翠から降り立つと、撤退していく憎魔をぼんやりと眺めながら独りごちる様に尋ねた。
「同時襲撃も、出てくる数も異常だったが。終わり方も異常だぜ。お前が来た瞬間撤退するなんてよ」
 釈然としないと言わんばかりに呟く幸輝に、俺は小さく頷く。
 すると翠が喜色を浮かべながら「リーダー、リーダー!安心してよぅ!」と、嘴を容れてきた。
「他の本鏡も、同じ状況になったって!これで平和だよぅ!良かったねぇ!」
 屈託の無い笑みで告げる翠に「マジかよ!」と幸輝は愕然とする。
「翠、本当か?」
 俺が冷静に尋ねると、翠は大きく頷き「ほんと」と答えた。
「幸輝が他に伝えておけってボクに言ったからね、他の十二天将達と連絡し合ったの。そしたら皆、自分の所もだって言ったよぅ。ほんとだよぉ、嘘じゃないよぉ」
 他四点も同じ状況だと?ここだけが異常と言う訳じゃないのか?
「何か、おかしい」
 怪訝を声に乗せて吐き出すと、不穏と言う土壌の中に何とも言えない焦燥感が植えられ、すくすくと大きく育っていく。
 何だ、この胸騒ぎは・・・。
 グッと奥歯を噛みしめ、軽く顔を歪めてしまうと。前からポンッと軽く肩を叩かれる。その衝撃にハッとすると、幸輝が「重く受け止める事はねぇさ」と、無邪気に笑っていた。
「今は取り敢えず、奴らが撤退した事を喜ぼうぜ」「そだよ、リーダー!僕らみたいに、もっとお気楽に構えなよぉ!ハイ、リラァックス~」
 二人からニカッと同じ様な笑みを向けられる。だが、俺の顔も心も晴れなかった。
 五点同時襲撃から始まり、五点同時撤退で終わる。奴らが徒党を組むなんて、あり得ない事だが。こうなると、奴らは協力し合ってこんな事をしたとしか思えない。
 何故そうなるに至ったのかは分からないが、何か狙いがあったのだろう。
 じゃあ、奴らの狙いとは何だ?奴らが徒党を組む程の「狙い」とは・・・。
 憮然としながら考え込むと「主様!」と桔梗の切羽詰まった声が、俺を現実に引き戻した。
 そして俺が「どうした」と尋ねようとする前に、桔梗は口早に告げる。
「叶架お嬢様が魁魔の世界に行かれました!近くに讐の気配を感じるので、讐に引き込まれた様です!」
 その言葉を聞いた瞬間。思考がぶっ飛ばされ、俺は本鏡の方へバッと駆け出していた。後ろで「叶架お嬢様って、まさか玉陽の巫女か?!」「えー、どうするのぉ?!」と、慌てふためく二人を置いて。
 これが不穏の正体か。奴らの狙いは、五点同時襲撃にあった訳ではない。
 俺達鏡番の主戦力を各鏡に集中させ、単体になった玉陽の巫女乃ち叶架を攫う事が目的だったのだ。
 俺の瞼裏に叶架の笑顔が映る。だが、その笑顔は瞬く間に黒い暗雲に覆われてしまった。まるでもう手が届かない様な嫌なイメージが広がり、俺はぶんぶんと頭を振る。
 叶架に俺の手が届かない事なんてない。叶架には、あのブレスレットがある。叶架には師匠が作ったと嘘を伝えたが。本当は俺と桔梗、そして十二天将・天空の合作で、GPSの様な物なのだ。
 何かあれば、すぐに桔梗が場所を把握して駆けつけられる様にしてある。だからいつも駆けつけられていた。
 間に合わなかった時はない。絶対に俺の手は届いた。この手で叶架を守る事が出来ていた。今回だって間に合うはずだ。
「主様・・」
 桔梗が重々しい声音で俺を呼ぶ。だが、俺はそれに答える事も、足を止める事もせずに、本鏡に突っ込んで行った。
「ブレスレットが破壊されました。叶架お嬢様の位置が・・把握出来ません」
 あと二歩で魁魔の世界に飛び込めたと言うのに、その前に絶望が俺を襲う。全てが黒に塗りつぶされ、手を伸ばしてみても虚空を掴むばかりだ。
 闇の中で立ち尽くしそうになった瞬間「ごちゃごちゃ考えている場合か!」と理性が怒鳴り、最悪だけを浮かべる頭を強く殴打した。
 その衝撃でハッと我に帰り、「その通りだ」と忸怩たる思いに駆られる。
 絶望に佇んでいる場合ではない。光が消えた訳ではなく、俺が闇に沈んでしまっただけだ。
 だから俺が突き進んでいけば、光を取り戻す事が出来る・・・!
 ふううと胸の内にあったものを全て吐き出し、羽織に仕舞い込んでいた護符を取り出す。
「主様、まさか!」
 桔梗が愕然とするが、俺は冷静に「そのまさかだ」と打ち返した。
「いけません、危険過ぎます!」
「それは百も承知だ。だが、叶架を助けに行くにはこれしかない。賭けだが、やるしかない。全鏡番に伝えておけ。何かあってもすぐ次は立つ、と」
「主様、今賭けに出ずとも良いではありませんか!何か他に手があるはずです!応援を呼ぶとかして、確実に叶架お嬢様を救える方法を打ち出しましょう!」
 必死に止めてくる桔梗に、俺は「次策を考える時間はない」とピシャリと言い放つ。
「叶架の身に危険が迫っているんだぞ。一秒でも早く動いた方が良いに決まっているだろ」
 ぶっきらぼうに答えてから、俺は護符の中で眠り続けている式神を覚ました。
 叶架、俺が必ず助けに行く。
 だからもう少しだけ、待ってろ。
「この我を呼び起こすとは・・紲よ。それ相応の事があってであろうな?つまらん事では、我は動かぬぞ」