錫色の世界には黒色が滲んでいる

 自転車を間に挟み、並んで歩き始めると、彼が唐突に「すまなかったな」と言った。
「え?何がですか?」
「いや、急に押しかけるのも悪かったなと思って」
 申し訳なさそうに言う彼に、私は「大丈夫ですよ」と口元を綻ばせる。
「でも、よく通っている学校が分かりましたね。自己紹介も何もしていないのに」
「制服を見ていたからな」
 打ち返された答えに、私は「あ、成程」とすぐに頷いた。
「それで学校が分かったは良いが、他は何も分からなかったからな。名前を聞いておけば良かったと、校門で待っていた時にどれほど思った事か」
 クールな顔を歪めて苦々しげに言う彼に、私は色々と察してしまい「ごめんなさい」と身を縮ませた。
「私がちゃんと聞かずに立ち去ったせいで・・」
 ごめんなさいともう一度告げると、隣から「いや、君に落ち度はないから」と突っ込む様に返される。
「今回と言い、朝の事と言い、悪いのは全部俺達の方だ。だから君が謝る事は何もない」
 渋面から一転して柔らかな微笑を浮かべて告げる彼に、私は「うわ」と零してしまいそうになった。
 いや、こんなクールイケメンの不意打ちの微笑みは心臓に悪いでしょ。これは誰でもこうなっちゃうって。
 誰に言い訳するでもないのに、やたらと言い訳がましい言葉を心の中で並べながら「ありがとうございます」と答えると、彼が「いや」と小さく首を振ってから「じゃあ、改めてだけど」と話題を変えた。
「俺は、清黒紲《きよぐろせつ》。よろしく」
 わお!格好いいのは容姿だけじゃなくて、名前までもだった!
 なんて、スタイリッシュな名前にちょっと面食らってしまうけれど。ちゃんと自分も名乗り返した。
「神森叶架です。よろしくお願いします」
 ぺこっと頭を下げると「神森?」と、驚いた様に返される。そのリアクションが予想外だったから、私は軽く戸惑い「ど、どうかしましたか?」と言わんばかりの顔になった。
 すると彼は「あぁ。いや、何でもない」と、すぐに私から戸惑いを剥がしていく。
「珍しい苗字だと思って。ちょっと驚いた」
 訥々と返された言葉に、私は「そうですか?」と思い切り首を傾げてしまった。
「清黒の方が、かなり珍しいと思いますけど・・?」
「そうか?周りに結構居るから、自分では珍しさが分からないな」
 彼は淡々と返してから「こっち」と右を向き、颯爽と先を歩いて行く。
 そこで会話が区切られてしまうと、そこからは無言の空間が続いた。
 割と気まずいなぁと思ったけれど。この人相手に何を話しかけたら良いのか、分からないから黙っているのが一番と思うと、気まずさはあまり感じなくなった。
 そうして歩くこと数分、彼がようやく「あぁ、ここだ」と立ち止まる。
 そこは私の通学路の途中にある、高層マンション。外から見える玄関ホールは、今も昔もずっと綺麗だ。
 ここが清黒さんのお家なのかぁと思ったけれど。彼はそのロビーを通る事なく、横にある駐輪場の方に進んで行った。
 あ、そっか。私が自転車を持っているから、止める場所に案内してくれるんだ。
 そして私達が駐輪場に入ると、付いていなかった電気が一斉にパッと灯る。LEDの眩しい白光が、目を眩ませた。
 私は目を軽く瞬かせて光の調節をしがてら、彼の「ここに止めて」と言う言葉を待つが。彼は「ここに止めて」とも「あそこに止めて」とも言わず、先を歩き続けた。
 それだから私も止めていた足を動かして、彼の後をついて行く。どうしてだろう?と、内心でひどく訝かしみながら。
 すると突然、私の戸惑いを別の感情に書き換える声が聞こえた。
「主様」
 あ!この声は、あのミミズクだ!と思った刹那、柱の影から人がスッと出てくる。
 清黒さんよりも長身で細身。柔らかな微笑を称えた、優しい相貌。暗めのヴァイオレットっぽい髪色で、前髪は一センチも乱れる事なく、綺麗に眉毛の辺りで切り揃えられていて、チャームポイントの様にちょろっと触覚を出している。肩より少し下まで伸びた長髪は、ハーフアップで綺麗に纏められていた。サラサラッと言う擬音が聞こえてきそうな程まっすぐに美しい髪質が、かなり羨ましい。
 そして何より、彼の最大の特徴は和装をしていると言う事だ。落ち着いた濃緑の着物を完璧に着こなしているせいで、艶めかしい相貌がより艶めかしくなっている。
 突然現れた着物男子に、私が目を奪われていると。清黒さんが「もっと分かり安くて、近い所はなかったのか」と、着物男子をギロリと睨む。
「桔梗」
「申し訳ありません、主様。次回はこうならぬ様、もっとよく探しておきます故どうかお許しを」
 平然と言葉を交す二人によって理性が取り戻され、間の抜けた状態からバチンッと荒々しく我に帰った。
「ちょ、ちょっと待って?!今、桔梗って言いました?!そんな、桔梗って、まさか・・・!」
 失礼ながら呼び捨てして戦いてしまうと。着物男子は恭しく胸に手を当て「ええ」と、美しい所作で腰を折り曲げる。
「ミミズクではない、人の姿でお会いするのは初めてですね。お嬢様」
 にこやかに言葉を返されるが、私は「嘘でしょ?!」と素っ頓狂な声をあげた。
「だ、だ、だって!ミミズクが人になるなんてあり得ないし、人からミミズクになるのもあり得ないでしょ!」
 どういう事ですか?!と混乱しながら訴えると、着物男子がフフッと蠱惑的な笑みを浮かべて「お嬢様、私は人間ではありません。式神でございます」と答えた。
 その言葉に、混乱一色だった私は「式神?」とぼそりと呟き、怪訝に顔を歪める。
「左様でございます。混乱されるお気持ちは大変よく分かりますが。私がこうしてミミズクから人へ、人からミミズクへと常識離れした事をやってのける事が何よりの証拠でございましょう?」
 ニコリと蠱惑的な微笑で、ぐうの音も出させない完璧な返答。
 私は「た、確かに」と反論する事もなく、簡単に白旗を揚げさせられてしまった。
 桔梗さんは、そんな私に対してフフッと小さな笑みを零してから「では、お嬢様。改めて名乗らせていただきます」と、丁寧に腰を折る。
「私は十二天将の一角を担う式神、六合《りくごう》の桔梗と申します。どうぞよろしくお願い致しますね、お嬢様」
 十二天将?六合?迦那人にぃが「神様」と作家の先生を崇める程大好きな漫画にあった様な言葉が出てきたなぁ。なんて、言われた言葉をなんとか冷静に受け取ろうとする。
 けれど、そんなの無理だった。頭も心もひどく混乱し、「嘘だ」と言葉を失ってしまう。
 その様子に、桔梗さんは「ゆっくりご理解いただければ幸いです」と和やかに答え、清黒さんは「当然の反応だ」と言わんばかりの顔をしていた。
 こうも平然としている二人を見ると、段々と泡を食っている私の方がおかしいのかなと思ってくる。
 違うよね?私の方が正常なのよね?向こうがズレてて、こっちが普通ってやつだよね?そうだよね?ね?ね?
 驚きから怪訝へ、怪訝から困惑へと、くるくると変わりゆく感情を必死に処理しながら、私は「神森叶架です」と、桔梗さんに向かって弱々しく頭を下げた。
 すると桔梗さんは柔らかく微笑み「叶架お嬢様、ですか。とても可愛らしい貴女様にピッタリのお名前ですね」と、私の自己紹介を丁寧に受け取った。
 艶やかで柔らな物言いと言われ慣れない言葉のコンボが、心にズドンと突き刺さる。そのおかげと言うべきか、私の心は「いや、もう式神でも何でも良い!」となり、一切のわだかまりを払拭した。
 ふにゃりと口角を緩め「いやぁ、そんな事ないです」と答えようとするが、突然清黒さんがこちらを向き「桔梗に自転車を預けてくれ。あと、靴も脱いで」と言った。そのおかげで、緩んでいたものがキュッと引き締め直される。
 靴を脱ぐ?どうして?とは思ったものの、有無を言わさぬ口調が私の体を従順に動かせた。
 桔梗さんに「すみません」と自転車を預けてから、ローファーを脱いだ。コンクリートのひんやりとした冷たさが、足裏から一気に伝わってくる。
 清黒さんが「桔梗、後は任せたぞ」と畏まる桔梗さんを一瞥してから、私に「神森さんはこっちに」と手を伸ばした。
 彼的には、エスコートの意味で手を差し出してきたのだろうけれど。私はその手に緊張し、躊躇ってしまった。
だって、エスコート慣れもしていないし、こんな風に手を差し出される事も初めてだから。そんなスッて、簡単に手は取れないよね・・。
 あ・・でも、待って。清黒さんの目が「早く」ってうんざり気味に訴えてきているから。早くしないと、この後が怖そう・・。
 私は覚悟を決め「し、失礼します」とおずおずと手を伸ばし、躊躇いがちに彼の手の上に自分の手を乗せた。
 そうして手を優しく引かれ、二、三歩歩くと。そこにはシンプルな木枠の姿見があった。
 何気に姿見って、なんでこんな所にあるの?って言うの多いよね。
 なんて思っていると、清黒さんは私の手を引きながら姿見の方に進んで行った。
 彼の異様で突飛な行動に「ちょっと待って?なんでまっすぐ進むの?」と、ガッと体が固まる。
 すると彼は手を引く力を強めて、固まる私の体を前に運んだ。
「ちょ、ちょっと待って下さい!なんで姿見の方に行くんですか?!」
 踏ん張りながら声を上げると、彼は「移動するから」と投げやりに打ち返す。
「移動?移動ってどう言う・・・ええええええええええっ!?」
 端的な答えに眉を顰めた瞬間、なんと先を歩く彼の体が姿見の中に消えた!
 う、嘘でしょ?!と目を剥き、再び足を止まらせてしまうが。鏡の中に消えた清黒さんが、先程よりも強い力でぐいっと引っ張った。
 私の体は、前からの強い力に耐えきれず、ぐんっと簡単に前のめりになる。
 待って、待って、待って!無理、怖い、無理!
 迫り来る鏡面にギュッと目を堅く瞑り、ガツンッと強くぶつかる事を覚悟したけれど。一向に衝撃は与えられない。
 あれ?と思い、堅く瞑っていた目を恐る恐る開けると、そこはどこかの家の一室だった。綺麗に整頓され、白と黒で統一されたインテリアが置かれたお洒落なリビングルーム。ひらひらと風に揺れるカーテンと、柔らかな日差しを部屋に差し込む大窓が、部屋に開放感を与えている。
 そんな馬鹿な!と慌てて振り返ると。後ろに広がっているはずの駐輪場の景色はどこにもなく、このお洒落なリビングルームの一角が平然と広がっていた。
 その時、バチリと自分と目が合う。指紋一つない綺麗な姿見に囚われている、とても間の抜けた顔をした自分と。
 私は駐輪場よりもお洒落でシックな姿見に戦々恐々と近づき、そっと鏡面に触れてみる。
 すると指先はカツンと鏡面にぶつかった。
 当たり前の衝撃のはずだが、その衝撃で混乱している自分が沈思の世界へと誘われる。
 え。これってつまり、私、鏡を通って、駐輪場からどこかのお洒落な部屋に来たって事・・?
 いやいや、そんな事ある訳ないよね。だって、そんなのあまりにも非現実的だし、理解も出来ないよ。夢とかじゃないと説明がつかない。
 あぁ、そっか!これは夢だ!夢だからこんなヘンテコな事が起きちゃう訳だ。もう、私ってばどうかしてた。夢だったら、こんな事があっても「普通」だよね。
 胸に手を当て、ホッと安堵するが。トクトクと小さくリズムを刻んでいる鼓動が、私にしっかりと突っ込んだ。
 じゃあ、どこからが夢なの?私はいつから眠ってしまっているの?と。
「悪いが、靴を玄関に置いてきてくれるか」
 後ろからの淡々とした突っ込みで、私はハッと我に帰った。踵を軸に体をくるっと素早く百八十度にターンさせ、この混乱を強くぶつける。
「ここ、どこですか?!」
「東京にある、俺の家」
「と、東京?!」
 素っ頓狂に張り叫んでから、慌てて大窓の方に駆け寄った。
 すると確かに、そこから見える景色はザ・東京。高層ビルや高層マンションが建ち並び、その合間から存在感あるスカイツリーが見えた。(少し遠くの方ではあるけれども)
 私の家と学校がある場所は、神奈川県の横浜市。横浜と言っても田舎の方の横浜だから、こんなにビルは多く建ち並んではいないし、遠くからでもスカイツリーなんか見える訳がない。
 それなのに私は今、紛う事なき東京の景色を目の当たりにしている。
「ど、どう言う事・・・?」
 理解のキャパを軽々とオーバーする、とんでもなく不可解な状況に放られ、呆然としてしまうが。
 突然「来はったぁぁぁっ!」と興奮した叫声が部屋を震撼させ、ドタドタッと廊下を慌てて走る音が聞こえて来た。
 その荒々しい音で、私の動揺は一気に鎮まる。その代わりに、何事かとこれから起きる事態に対してピシッと身構えた。
 そしてゴクリと固唾を飲み込んだ瞬間、バァンッとリビングの扉が荒々しく開かれる。
 やって来たのは、美しい大人の女性と言う表現がピッタリの若い女性。ウルフカットの黒髪で、赤色の七分袖のトップスに黒色のスキニーパンツと格好いいスタイリングをしている。
 淡い赤色のアイシャドウとまっすぐに引かれたアイライナーで飾った目が、猫の様に大きくパッチリだ。ワインレッドのグロスが乗った唇は、遠目からでもぷるっと潤っている。
 全体的に華々しく目立つ格好をしているからか、胸元にある小さなパールのネックレスの輝きが控えめに見えた。
 パリコレモデルの様な女性の登場に、私は「わぁ」と声を漏らしそうになったけれど。その女性の方が、私を見るや否や、大きな猫目を更に大きくさせ「はぁぁぁぁっ!」と蕩けた大声をあげた。
 思いがけない叫声に面食らっていると、その女性は私の方に猪突猛進してくる。ドンッと強い衝撃を感じたかと思えば、ぎゅううっと力強く抱きしめられた。思わず、パッと靴を離してしまい、ドンッと靴が荒々しく床に着地する。
「なぁんて、めんこい娘ぉやろうかぁぁぁ!会えて嬉しいわぁぁぁぁぁ!」
 耳元で叫ばれるし、抱きしめられる力が強いしで、私は腕の中で小さく呻いた。彼女が付けているラベンダーの香水の香りだけが、とても柔らかく感じる。
「坊《ぼん》!ほんによう見つけはったやないのぉぉ!ようやったでぇ!しかもめんこい娘ときはって、めっちゃ嬉しいわぁぁぁ!」
 近畿地方の訛りがバリバリに現れた言葉遣いだが。今の私は彼女の言葉遣いよりも、彼女から与えられる苦しさでいっぱいだった。
 すると突然彼女はパッと体を離して、私を満面の笑みで見据える。(そろそろギブ!と思っていた私としては、とてもありがたかった)
「うち、海音寺五十鈴《かいおんじいすず》言いますぅ。五十鈴ちゃん、または五十鈴さんって気軽に呼びはっておくれやすぅ」
「えっ、あっ。か、神森叶架です!よろしくお願いします!」
 慌てて頭を下げて答えると、五十鈴さんが顔を輝かせながら「叶架ちゃん!めんこい名前やねぇ!どう書く名前なん?」と訊いてくる。
「えっと。願いが叶うの叶うに、橋を架けるの架けるって書いて叶架です」
「素敵!えろうえぇ名前やねぇ!」
 五十鈴さんは朗らかな笑みを浮かべて答えると、唐突に私の頬を両手で包み込んだ。
「んー!肌ももちもち、すべすべや。ピチピチ十代の肌はやっぱ羨ましいもんやねぇ」
「あ、あにょ。い、いしゅじゅしゃん?(あ、あの。い、五十鈴さん?)」
「うふふ、ほんま可愛い娘ぉやねぇ。あぁ、こないめんこい子なんて思わんかったわぁ。うふふ、どないしよかなぁ。こっちに連れて行ってまおうかなぁ」
 艶然としながら頬を好き勝手に揉まれるけれど、私はされるがまま。
 だって五十鈴さん、私なんかではとても太刀打ち出来る様な人じゃないんだもの・・。
 すると助け船の様に、清黒さんが「師匠」と五十鈴さんに投げかけてくれた。
「もうそこまでにして、早く本題に入らせて下さい。師匠がここに居られる時間は、そう長くないのですよ」
 淡々とした言葉に、五十鈴さんは私の頬をふにふにと揉むのをピタッと辞め
「嫌やなぁ、坊。その呼び方やのうてなぁ。こういう時は、五十鈴ちゃんって呼べぇ言うとるやろぉ」
 と、朗らかな笑みを称えて言葉を返す。
 けれど、その笑顔がなんだかとっても恐ろしい様な気が・・。
 私が少しゾクッとしたものを感じていると。五十鈴さんは、その笑みをピタリと顔に貼り付けたまま「坊」と清黒さんの方に向き直った。
「本題の前になぁ。坊になぁ、言いたい事がぎょうさんあんねんでぇ」
 スッスッと足音もなく、清黒さんの前に進んで立つ。
 そして、その次の瞬間。五十鈴さんが思い切り腕を振り抜き、清黒さんのお腹に深々と一撃を入れ込んだ。「うぐうっ」と苦しげな呻きが飛び出し、清黒さんの体が綺麗なくの字に折り曲がる。
 この突飛な展開に、私は目を大きく見張って固まる事しか出来なかった。
 清黒さんにとっては、会心の一撃だったのだろう。腹を押さえて、ガクッと膝から崩れ落ちた。
 だが、五十鈴さんがこれだけで終わるかと言わんばかりに、容赦なく胸ぐらを締め上げる。そしてそのまま恐ろしい笑みを彼にぐっと近づけ「ついさっき聞いたんやけどねぇ」と、おどろおどろしく告げた。可憐な声をしている五十鈴さんから発せられた声だとは、とても思えない。
「乙女にとってキスってなぁ、そらぁ重要な事なんよねぇ。せやから、初対面且つ利己的な理由からされるキスとか、乙女にとっては最悪以外の何物でもないんよなぁ。せやのにお前、可愛い叶架ちゃんに何をした?なぁ、ウチに言うてみぃ??」
 五十鈴さんの恐ろしい怒りが纏われた言葉に、私はハッとあの事を思い出す。
 キスって、あの時の・・・
 その一瞬を思い出してしまうと、ぶわっと羞恥心やら何やらが襲ってくる。わぁわぁと身悶えし、恥ずかしさでいっぱいいっぱいになりそうになるが。
 目の前で正座をさせられ、胸ぐらを掴まれ、恐ろしい怒りをぶつけられている可哀想な姿の清黒さんを見てしまうと、その気持ちがひゅんっと引っ込んだ。
「師匠。あの、それには訳がありまして」
「ほぉん?訳があれば、初対面の乙女にキスの一つかましてもええ思たんか?えろうめでたい頭やなぁ。そないお前が阿呆でクズやったとは思わんかったわぁ」
 弁明しようと清黒さんが口を開くも、五十鈴さんの冷たい毒舌が彼の反論を容赦なく封じる。
「正直に言うてみぃ。自分の顔が少ぅし良いからて、許されると思うたんやろぉ?せやろぉ?」
「いいえ」
 清黒さんは、まさかと言う様に首を横に振ったが。五十鈴さんは全てを無視して「剣以前に、こない当たり前の事を教えんとあかんかったなんてなぁ!」と、厳しく言葉を突き詰め続ける。
「あぁあぁ、そないな事教えんでもこの子は大丈夫や思うてた自分が情けない!自分の顔が免罪符になる思うて、乙女の気持ちを一切考えもせんドクズだったなんて、ほんまがっかりやわ!」
 大仰に嘆く五十鈴さんに、清黒さんは「師匠、俺の話を聞いて下さい」と声を張り上げた。そう訴える顔は、痛みに歪んでいる様な顔にも見えるし、うんざりする様な呆れに歪んでいる様にも見える。
「それらを全て考慮していましたから、する前に彼女にはすまないと一言謝罪を入れましたし」
 弁明の途中で、五十鈴さんの肩がピクッと震えた。そして「すまない?」と小さく吐き出される。
 こ、これはなんだかマズい予感が・・・。
 冷や汗がじわりと額に現れた、その時だった。
「それを謝罪と呼べる訳ないやろがぁぁ!こんのド阿呆がぁぁぁぁ!!」
 彼女は想像以上に怒髪天を衝き、手を素早く二撃目に移行させる。
「ちょ、ちょっと待って下さい!」
 慌てて止めに入った私の声に、五十鈴さんの振り下ろされた手がピタッと止まった。清黒さんの頬からあと数センチと言う、とても危うい距離で。
 五十鈴さんは「どないしたん?」と私の方を振り返るが、「あぁ、これの事やったら気にする事ないよ?」と満面の笑みで釘を刺した。その笑顔がまたビックリする位に美しくて、とても冷ややかで恐ろしい。
「この五十鈴ちゃんに任しとき。叶架ちゃんの唇の仇はウチがきっちりとったるからな」
 本気の殺気が言葉にも乗っている五十鈴さん。
 私は「も、もう充分ですから」と、必死に宥めに入った。
「私は何も気にしていませんから、そこまで怒らなくても大丈夫ですよ!それにキスって感じでもなかったし」
「ファーストキス、やったりする?」
 唐突な突っ込みに、私は「えっ」と言葉に詰まってしまった。
 急な質問ですね?!と笑い飛ばしたり、誤魔化したりするのが正解だったと言うのに。馬鹿正直に態度で現してしまったせいで、五十鈴さんの怒りにガソリン一斗缶以上の燃料が投下された。
 彼女の怒りが瞬く間に、ごうっとワンランク上の烈火へと昇格する。
「ほんまに許さん!覚悟せぇやぁぁぁぁ!」
「わー!待って待って!落ち着いて下さい、五十鈴さん!」
 激昂した五十鈴さんを慌てて止めに入った、次の瞬間だった。 
「そこまでにしておけやぁ、五十鈴ぅ」
 横から野太い声がし、それぞれの動きがピタッと止まる。
 バッと闖入者の方に顔を向けると、のっしのっしと威厳ある歩き方でやってきたのは、なんとホワイトタイガーだった。
 それも普通の虎よりも、数倍大きな虎だ。汚れ一つ無い美しい純白の体に、黒の縞模様が一切乱れる事なく等間隔に刻まれている。それに、紺碧の瞳が雪の中でキラリと輝く宝石の様に綺麗だ。
「牙琥《がく》、止めんといて!」
 五十鈴さんが声を荒げると、牙琥と呼ばれたホワイトタイガーはふわぁと大きく欠伸をしてから「そうしたいのは山々だぜぇ」と答えた。
 この虎もペラペラと喋ってる。て事は、桔梗さんと同じ式神・・?
 もはや喋る虎くらいでは動じず、冷静に推測してしまう自分に若干引いてしまうけれど。そんな自分が居る事には見て見ぬ振りをして、目の前の状況に集中する。
「俺も坊がやられている姿を見るのは好きだからなぁ、もっとやれとは思うが。今はそういう場合じゃねぇだろぉ、五十鈴ぅ。俺達が来た意味を忘れんなよぉ」
 ホワイトタイガーが「後でやろうや、俺も参戦するからよぉ」とのんびりと答えると荒ぶっていた五十鈴さんが急激に大人しくなり、あれだけ堅く掴んでいた胸ぐらから手をパッと離した。(清黒さんはホワイトタイガーに対して「おい!」と、鋭く突っ込んでいたけれど)
 何はともあれ、暴走列車の如く暴れていた五十鈴さんが止まった。私じゃ全く止まらなかったと言うのに、たった数秒で簡単に止めてしまうなんて。
 ホワイトタイガーの手腕に感嘆していると、ホワイトタイガーは私の前でどっかりとお座りした。
「俺ぁ十二天将の一人、白虎の牙琥ってんだぁ。牙琥で良いぜぇ。よろしくなぁ、玉陽の巫女」
 あ、白虎は知ってる!四神の一人だ!と、小さな興奮が押し寄せるけれど。最後の言葉に、私は引っかかってしまう。
 ギョクヨウの巫女?何の事だろう?
 なんて思ったものの、私は牙琥に「神森叶架です、よろしくお願いします」と頭を下げた。
「おお、式神相手にもえれぇ行儀が良いなぁ。五十鈴ぅ、お前も少しは見習ったらどうだよぉ?」
 にかにかと目を細め、尻尾を面白げに左右に揺らす牙琥に、五十鈴さんが「余計なお世話や」とすぐに食ってかかる。
 けれど牙琥は「そろそろ本題と行くかぁ?」と、五十鈴さんの突っ込みをものともせず、飄々と話を進めた。
「坊、どこまで話したんだよぉ?」
「まだ何も・・これから話そうとしていた所だ」
 腹を押さえ、苦痛に顔を歪めながら答える清黒さん。本当に痛々しい・・。
 牙琥はその答えに「そうかぁ」と頷いてから、私に向き直った。
「お前さんをここに呼んだのはなぁ、俺達の世界の話をする為なんだよぉ。だから坊がここに連れてきたんだぁ」
 ・・俺達の世界の話?
 何の話か、全く見えないけれど。取り敢えず「はぁ」と相づちを打っておく。
「まずはなぁ、この世には二つの世界があるんだぜぇ。あの世は三つに分離されているが、この世は俺達人間の世界ともう一つ。魁魔《かいま》の世界っつーのがあるんだぁ」
 急にSF、ファンタジーじみた事を言われ、私は「魁魔の世界?」と首を九十度近く傾げてしまった。だが、牙琥は何もおかしな事はないと言う様に「そうだぁ」と堅く頷く。
「あっちで生きている妖魔《ようま》、憎魔《ぞうま》、讐《あだ》の三つの種族を総じて魁魔っつーから魁魔の世界って呼んでいるんだ。そうだなぁ、人間界の裏の世界って捉えてくれた方が良いなぁ。だが、その世界は表の人間界とは全く違ぇ。負の念や邪念が詰まった、悍ましい世界で惨憺そのもの」
 まぁ、ひでぇ世界だよぉ。と、牙琥は一呼吸置いてから、ゆっくりと言葉を継いだ。
「二つの世界は各々で独立した世界になっているから、本来であれば交わる事はねぇんだが。鏡を通しちまうと、二つの世界が繋がっちまうんだ」
「鏡を通して・・?」
「あぁ。鏡は、奴らが糧にしている怨嗟や憎悪と言った負の念をよく吸収するからな。それが向こうを刺激するっつーか共鳴を引き起こして、表裏一体化を起こすんだ。つまり鏡は、向こうとこちらの境界線みてぇなもんだぁ」
 けどよぉ。と、ここから先の言葉の重要性を強調する様に、重々しく言葉を区切る。
「境界線を破って、奴等はこっちの世界を脅かすんだぁ。自分の世界を広げる為か、より強い負の念を求めている為か。はたまた、何か別の理由があるのか。何の為かは分からねぇが、向こうの奴らは鏡を通って人間の世界を脅かす。だがなぁ、どんな悪にも必ず対抗する勢力って言うのは生まれるんだよぉ。その対抗勢力って言うのが」
「ウチ等、鏡番《きょうばん》なんよ!」
 ズバッと良い所取りをしたのは、五十鈴さんだった。
 でも、彼女には話を遮った所か奪ったと言う自覚は一切ない様で、ニッコニコのまま「鏡の番をしているから鏡番って言う、安直な名前なんやけどなぁ」と、話を続ける。
 そして話の先を奪われた牙琥はと言うと、呆れてはいるものの柔らかな顔つきで「ここまでよく黙ってたなぁ」と、五十鈴さんに場を完璧に託していた。
 二人の関係性と言うか、二人の間に築いてある信頼が垣間見えた気がするよ。
「鏡番の歴史は古いもんでなぁ。出来た時期は記録が残ってへんから明確には分からへんけど、平安時代には確実にあったって言われとるんよ」
「平安ですか?!結構昔からあるんですね・・」
 私が目を丸くすると、五十鈴さんは「せやねん」と口元を綻ばせる。
「昔は少数やったらしいけど、それと比べたら今は結構な大所帯さんにならはったと思うよ。古くから戦い続けている清黒、黒壁、大黒司を主三家として、各家に仕える傘下達がおる位やからなぁ。ま、それでも人手は足らんのやけどね」
 敵の数が多い事も一因やけど。人の負の念が強うなってきはってるせいで、奴らも強うなってはるからね。と、弱々しく眉根を寄せて、小さく肩を竦めた。
 けれど、彼女はすぐにニコッと明るい笑みに戻り「そないな事はどうでもええな!」と、話をパッと戻して先に進める。
「ウチ等鏡番が守る鏡は、大きく分けて二つあるんよ。その二つを本鏡、支鏡って言わはってな。支鏡はウチ等が普段使こてる鏡の事で、本鏡は北海道、東京、京都、広島、熊本に置かれた特殊な鏡の事や。本鏡の方が絶対に守らなあかんって言う大切な鏡で、主三家を筆頭とした精鋭の鏡番が守ってはる。それはなんでか言うと、支鏡とは比べもんにならん程危険度が高いからや。重傷を負わされたり、後遺症を残されたり、最悪命を落とす事もある。それ位、出てくる敵がえろう強いんや。せやから、本鏡は主三家を筆頭とした精鋭達が守り、支鏡は手が空いたり、近くにおった鏡番が回る事になってんねん。でもほんま手が足らへんから、本鏡を守る鏡番でも支鏡に回る事もあんねんで」
 鏡番はブラック企業以上にハードなんよぉ。と、カラカラと笑う五十鈴さん。
 けれど、私はにこりとも出来なかった。笑う所か、表情がガチガチに真顔で強張る。
 私達が生きている今日の平和は、鏡番の人達が奮闘して築いてくれているものだった。
 命を落とす危険があろうと、敵が強大であろうと。私達の平和の為に戦ってくれているおかげだった。
 私はキュッと拳を作り、床の木目に目を落とす。
 危険を顧みずに私達の世界をずっと守ってくれていたと言うのに。そんな人達が居る事を知る所か、居る事に《《気がつかなかった》》なんて・・。
 自分自身を恥じる想いと申し訳ない想いがぶわっと胸中に渦巻いた。
 視線が床の木目に縛り付けられる。
 どんな顔で五十鈴さん達と向き合ったら良いか、分からなくなってしまった。
 すると突然、私の両肩にドンッと強い衝撃が与えられる。その衝撃にハッとして顔を上げると、五十鈴さんの満面の笑みが眼前にあった。
 そして「そないな顔せんで!」と、再び両頬をむにむにと包み込まれる。
 私は、彼女の突飛な行動に目を見張ったが。すぐに罪悪感で瞳がふるふると揺らぎ「で、でも」と、小さく吐き出す。
「知らなかった上に、こんな風に」
「優しい子ぉやなぁ!そないな事、気にせんでええのよぉ!」
 五十鈴さんは朗らかに笑い飛ばし、私のもごもごとした言葉をバッサリと遮った。
「ウチ等の存在は他所様に知られない方がええ言うもんやでぇ!存在が知られてしもてたら、こっちが平和じゃのうなってるって言う事やもん。せやから、誰もこの事を知らん方がええの!」
 五十鈴さんは朗らかに笑いながら告げるが。「ま、正直に言うと。ウチも思う時はあったで」と、ばつが悪そうな顔に変わった。
「なんでなんも知らへんの、なんで気づかんの。誰のおかげで平和に過ごせとるんや、この脳天気共!って」
 当時の気持ちを仕舞っている箱から引っ張り出しているからか。彼女の顔はフフッと小さく綻び、私を映している眼が過去に映り変わった。
「けど、お師匠から言われたんよ。普通努力は目に見えないが、俺達の場合は大きく、燦々と輝く様に見えている。それだけじゃない。自分が存在する意味だって見えているんだ。普通の世界を生きていれば、そんな事はあり得ない。俺達は普通よりも恵まれ過ぎている。それだと言うのに、そんな贅沢な不平を鳴らすのか?・・ってなぁ」
 そう言われて、確かにその通りやなぁって思うたんや。と、五十鈴さんはフッと目線を外の方に向ける。
 少し開かれた大窓からさーっと爽やかな風が入り込み、カーテンがふわりと柔らかく揺れた。いや、入って来たのは風だけではない。人々が日常を送っている音も、だ。
 鏡番の人達が必死になって戦ってくれているからこそ謳う事が出来る平和の音に、彼女は朗らかに相好を崩す。
「この平和な世界こそ、ウチ等の努力の証。必死で戦って、必死に守っている平和がウチ等の存在の証。それらがこうも目にハッキリ見えとるんなら、他所様に自分らこないな事しはってるんですーってアピールせんでもええやんかって分かってきてん。せやから、今はなぁんも不満に思う事はないよ」
 私はその笑みと言葉で、ハッと気がついた。
 この平和こそが、鏡番の人達の「誇り」なんだ。なんて格好いいんだろう。なんて凄い人達だろう。
 私には、とても真似出来ないよ・・。
「フフフ、叶架ちゃんも分かってくれた?他所様は知らん方がええって」
 五十鈴さんから優しく尋ねられると、私は「はい」と小さく頷いた。
「五十鈴さん達鏡番の方々は、本当に凄いですね。私だったら、とても出来ないですよ。戦うのが怖いし、きっと他人の為にそこまで戦えないです」
 弱々しい笑みで答えると、目の前から「そりゃあウチもよ!」と朗らかな笑みで打ち返された。
「うちかてアイツ等と戦うの怖い思うとるよぉ!」
「えっ?!」
 そんな事を言われるとはつゆほど思っていなかったから、思いっきり面食らってしまう。五十鈴さんの後ろでも「はっ?」と、そんな訳ないだろと言わんばかりの低い声が飛び出していたけれど。
 五十鈴さんはそれら全てを一蹴する様に「そらぁ、怖い思うよぉ!当たり前やぁん!」と、呵々としながら言った。
「何人も死ぬ所を見てはるし、大切な人も戦いで亡うなってるから。次は自分やもって怖がりながらいつも戦うてる。あんま出てこぉへんけど、讐はほんま激強やし、死んだなって思う事も多いで。せやからウチも当然怖い思うてるよ?」
 でもねぇ、と五十鈴さんは手を頬に当て、キュッと眉根を寄せた。
「アイツ等と戦うよりも、もっと怖い事があるからなぁ。戦うしかないんよぉ」
「もっと怖い事、ですか?」
 五十鈴さんにそんな事があるんですか?と言う様に、目を猫の様に大きく丸くして尋ねる。
 五十鈴さんはフフッと口角を緩め「それはなぁ」と、優しく言葉を紡いだ。
「ウチ等人間の世界が魁魔に侵略されてしまう事や。そないなったら、ウチの大切な人も、ウチも生きられへん。ウチの大切なもの全てが理不尽に奪われてまう。そうなってしもたら、怖いから戦いたくないなんて言うてる場合じゃないからなぁ」
 せやから戦うしかないねん、と五十鈴さんは小さく肩を竦める。
 そしてニッと口角の端を上げ、「これは鏡番に限らず、万人に言える事なんやけど」と私の手をキュッと握った。
「戦えない思うた時は、大切な誰かを思い浮かべるとええのよ。自分の力が自分の大切な人の為になる想うと、どんな相手とも戦えるで」
 五十鈴さんの温かな言葉が、胸にじわりじわりと沈み込む。
 自分の力が大切な人の為になると思う事。
 確かに、そう思うと「私は戦える!」って言う気持ちが湧くかもしれないけれど。でも、その思いだけで戦えるのかな?命の危険があって、怖いと思うものから戦えるのかな・・?
 言葉が心の最奥に届く前に、小さな疑問が湧いた。その時だった。
「あー、五十鈴ぅ。格好つけてる所悪ぃが、玉陽の巫女とのお喋りは終いにして戻るぞぉ」
 牙琥が嘴を容れ、五十鈴さんに穏やかに告げる。
 五十鈴さんは私の手をパッと離し、「なんで?」と笑顔で牙琥に打ち返した。
「まだ帰る時間やないやろ?せやからまだまだ叶架ちゃんとお喋りすんねん」
 きっぱり拒絶した答えに、牙琥は「そうなんだけどよぉ」と困った様に答えるが。「もう充分喋ったはずですよ」と、よろよろと清黒さんが立ち上がり、牙琥の援護に回った。
「早く京都の本鏡にお戻りを。師匠がいなければ大変でしょうし、京都本鏡はいつ何が起こっても不思議ではありませんから」 
 機嫌を損ねない様に恭しく告げるが、五十鈴さんの冷笑は崩れず「そない言われても、戻らんからね?」とけんもほろろに答えていた。
 清黒さんは「師匠」と渋面を作り、苦々しく吐き出す。その姿に、五十鈴さんは「なんやねん」と居丈高に答えた。
「別にええやろ。どうせ讐やないんやから」
「そうだなぁ・・って言えたら良かったんだけどなぁ」
 相変わらずのんびり口調で言った牙琥に、五十鈴さんの冷笑がようやく崩れる。
 牙琥の方を向き、「ハッ?!」と素っ頓狂な声で叫んでから「まさか」と顔を曇らせた。
 牙琥は「そのまさかだぁ」と言う様に、うんうんとゆっくり大きく頷く。
「嘘やろ?!」
「大マジだぁ。大陰のババァから早く戻って来いって言われたぜぇ」
 すぐに淡々と打ち返した牙琥に、五十鈴さんはギュッと皺が寄った眉間を揉みながら「こう言う時に限って」と恨めしげに独りごちた。
「・・・はぁ、しゃあない。早う戻るで、牙琥」
「あいよぉ」
 牙琥の間延びした答えを受けてから、五十鈴さんはくるっとこちらを振り向き、素早く私の手を取る。
「叶架ちゃん、ほんま堪忍ね。ゆるりとした会話も出来んくて、坊もとっちめられずに終わってしもたけど。叶架ちゃんが、五十鈴ちゃんって鏡に向かって呼んだらすぐ来るからな。今もウチ等が出て行った後、坊に何かされたら言うてな。必ず息の根、止めたるから」
 ぎゅうっと私の手を握る力が強くなり、若干怖いと感じる程鬼気迫った表情をぐっと近づけられた。
 私は五十鈴さんの覇気にたじろいでしまい、曖昧な笑みを浮かべる事しか出来なかった。
 そして五十鈴さんは「またね、叶架ちゃん」と私をギュッと強く抱きしめてから、私達が通ってきた姿見の前に移動する。牙琥も猫の様にするんっと彼女に寄り添い「またなぁ、玉陽の巫女」と、ニマッと上機嫌な笑みで別れを告げた。
「五十鈴や、京都本鏡連絡鏡へ繋いでおくれやす」
 五十鈴さんが淡々と鏡に語りかけると、鏡の中に波紋が広がった。
 さっき私の爪先を弾いた鏡は、進んで来る五十鈴さん達を受け入れ、ぶわんと鏡の向こうへ通していく。
 だが、彼女は突然ピタッと止まり、ほぼ向こうに消えかけていた体をこちらに戻してきた。
「叶架ちゃんにちょいとでも変な気ぃ起こしたら、許さんからな?」
「早く行って下さい」
 うんざり気味に底冷えした声で言い放つと、五十鈴さんはふんっと鼻を鳴らしてから、私の方に顔を向けた。打って変わった柔らかな笑みで「いつでも呼んでええからね?」と、軽やかなウィンクまでくれる。
 私が「はい」とややぎこちない笑みで答えると、鏡の向こうから「五十鈴ぅ、もう良いだろうよぉ」と、先に向こうへ渡った牙琥の呆れた声が彼女を呼び戻した。
 五十鈴さんはその声に「ええやろ、別に!」と怒声を張り上げ、鏡の向こうへと消えてしまった。今度は引き返してくる事もなく、完璧に。
 すると鏡はぶんっと表面に波紋を起こしてから、再び私達を映した。
 本当に不思議な光景。鏡と鏡でひょいと移動するなんて・・。
 何度も目を瞬かせながら、普通に戻った姿見を見つめていると。突然後ろから「やっと行った」と解放された喜びの様な、うんざりした呻きの様な声が零れた。
 私がくるっと振り返ると、清黒さんがはぁと頭をがっくりと落としてしゃがみ込み、見るからに与えられた疲労に押し潰されている。
「あの、大丈夫ですか?」
 靴を拾い上げがてらおずおずと尋ねると、彼は頭を落としたまま「ああ」と呻く様に答えた。
「あの人はいつもああなんだ。こっちの話をちっとも聞かない。それにすぐ喋りたがるし、すぐ人の話を遮るし、すぐ実力行使だし。本当に厄介な性格で、まるで嵐だ」
 嵐、か。うーん、確かにそうかも。五十鈴さんには失礼だけれど、清黒さんの言葉は否定出来ないかなぁ。
 だって、五十鈴さんが帰ってしまったら、急激に部屋が静かになった。いや、寂しくなったって言うべきかも。
 私が苦笑しながら「確かに、パワフルな方でしたね」と言うと、清黒さんは「アレはパワフルなんてもんじゃない」と苦々しく答えた。
 うーむ、これは相当五十鈴さんに翻弄されてきたんだろうなぁ・・。
 彼に対し、不憫な気持ちを抱いていると「おや?」と、柔らかながらも怪訝な声が後ろからした。
 パッと振り向くと、つい先程鏡に戻ったはずの鏡から桔梗さんが現れる。(いつ見ても艶麗だから、本当に見惚れちゃう)
「主様、何をそんな所でがっくりとなさっているのです?叶架お嬢様も、靴をお持ちになられたままではございませんか」
 桔梗さんの怪訝な指摘で、私は「すみません!」と慌てて玄関に置きに行こうとするが。桔梗さんが笑顔で「私が」と靴を颯爽と取り、玄関に置きに行ってくれた。
 桔梗さんが普通の人間だったら、きっと死ぬほどモテるだろうなぁ。割と大きなファンクラブとかも出来て、桔梗様って崇め奉られてそうだもん。会員の女子達がバチバチに牽制し合うけど、実は全員桔梗様の目に映る為に努力してたりなんだり・・。
 スマートで格好いい手腕に対して惚けた想像をしていると、桔梗さんが戻って来た。
 私は急いで気を引き締め直して「ありがとうございます」と礼を述べる。桔梗さんは「いいえ、これくらい構いませんよ。叶架お嬢様のお役に立てて何よりでございます」と嫌な顔せず、朗らかに答えてくれた。
 やっぱり何から何まで完璧だよ、この人、じゃなくて式神。こりゃあ、心をしっかりと強く持っていないと。私も禁断の恋に落ちそうだよ・・・。
 私は赤みが差しそうになる頬を手で隠す様に抑えながら、二人の会話に耳を傾ける。
「主様。五十鈴様は、いつお帰りになられたのですか?」
「ついさっきだよ。お前と入れ違いでな」
「あぁ、成程。それで、でしたか。ふふふ、相変わらず五十鈴様には敵いませんねぇ」
 ふふふと柔らかく微笑む桔梗さんに、清黒さんは「うるさい」と弱々しく一喝した。
「あの人が師匠でも叔母でもなかったら、俺はきっと」
「えっ?!叔母?!」
 私は素っ頓狂な声をあげて、苦々しく紡がれる言葉を思い切り遮ってしまう。
 前の二人は、唐突に張り上げられた大声のせいでビクッと体を小さく震わせた。
 そして大きく開かれた目をパチパチと二、三回瞬かせてから「言ってなかったか」と、清黒さんが話してくれる。
「海音寺は結婚してからの姓で、旧姓は清黒。俺の父の妹で、十二天将白虎を継ぐ歴代最強の女性だよ。折り紙付きの実力だが、奔放な性格をしているせいで色々と問題児扱いされる・・いや、アレは問題児だな」
「歴代最強?!五十鈴さん、そんなに凄い人だったんですか!」
 まぁ、でもあの五十鈴さんを見れば、その肩書きには普通に納得出来ると言うか、何と言うか・・。と、彼女の持つ肩書きに感嘆しながら独りごちた。
 すると清黒さんは渋面のまま「確かに凄い人ではある」と、重々しく首肯する。
「鏡番最強とも呼べる人だしな。悔しいが、まだまだ敵わないなとも思う。けどな、あの人の良さは強さ|《それ》だけだ。圧倒的にマイナスが多すぎる」
 自分勝手で横暴だし、面倒この上ない性格だし。と、苦々しい感情に帰結し、だらだらと愚痴を零し始める清黒さん。
 こんなにも根が深いのは、昔からずっと五十鈴さんに翻弄され続けているからなんだろうなぁ・・・。
・・・
 それからは綺麗なダイニングテーブルを囲み、桔梗さんが出してくれたチーズケーキと紅茶を頂きながら話を聞く事に。仕切り直しの様に、清黒さんは五十鈴さんの話の復習がてら補足説明も入れてくれた。
 人魂みたいな姿形で自我がない存在の妖魔。自我があり、化け物じみた異形の姿をしている憎魔。人型が讐だと言う事。(讐についてはあまり出てこないから、人型と言う事と、魁魔の中で一番強い種族だと言う事しか分かっていないらしい)そして朝にあったのが憎魔になりかけていた強い妖魔だった事など。
「それじゃあ次は、玉陽の巫女の事だな」
 聞き覚えのある単語に、私は「あ」と瞬時に反応する。
「牙琥がそう呼んでいました、私の事。ギョクヨウの巫女って」
「玉陽の巫女と言うのは呼称だ。どんな傷でも治す癒しの力と、魁魔を直接見るだけに留まらず、魁魔の世界に滞在出来る特殊な力を持つ者の事を俺達はそう呼んでいる」
 端的な説明に、私は「えっ!」と驚き、口を挟んだ。
「魁魔は普通見えないんですか?鏡番の人でも?!」
「あぁ。鏡番は特別な羽織を羽織る事で、奴等を可視化しているだけだ。羽織が無ければ、見えもしないから何も出来ない」
鏡番は特別な人間じゃないからな。と、清黒さんは淡々と付け足す。
「鏡番は奴等に対抗する為の力を運良く見出し、力を付けただけだ。後は、他の人間達と何ら変わらない。羽織もなしで見えるのは、この世で玉陽の巫女だけだ」
「じゃ、じゃあ魁魔の世界を行き来出来るって言うのは?鏡番の人達は鏡と鏡を使って移動出来るじゃないですか!」
 食い気味に質問を投げかけてしまうが、清黒さんも「出来ない」と食い気味に打ち返してきた。
「いや、出来るには出来るが。滞在時間が持って一分弱だからな、渡った所で何も出来ない。幾ら強かろうが、幾ら鏡番を長く務めていようが、それ以上は戦える体じゃなくなる。それほど向こうの世界が、人にとって厳しい世界と言う事だ。だから俺達鏡番は、出てくる時にしか対応が出来ないんだよ」
 清黒さんはティーカップを美しい所作で取り、一口紅茶を啜る。
「それ程に、玉陽の巫女が特別な存在と言う事だが。やはりそう言った存在は易々と生まれてこない。玉陽の巫女が生まれたと言う記録が残っているのは、わずか二人。君は恐らく三人目だとされる」
 長い時の中で、前に二人しか居ないと言う事に「それだけ?!」と驚いてしまうけれど。淡々と「一人は」と話を進められ、華麗に私の驚きはスルーされた。
 その時、私は「五十鈴さんの事、結構言ってたくせに。自分もじゃん」と内心で小さく毒づいた。(顔にそれを出す勇気はまだ持っていないから、内心でしか不満を出せないのだ)
「一人は初代玉陽の巫女として、当時の鏡番を支え、力や知恵を貸したと言われている。だが、二人目は讐に魅入られ人間界を捨て、戻って来なかった。讐に力を貸し、魁魔の為に癒しの力を使ったとされている。爾来、鏡番は玉陽の巫女があちらに渡らない様に魁魔よりも先に見つけ、必ず守ると決めた。持っている力をこちらではなく、あちらに使われると困るからな。だが、そうしようと動いているのは鏡番だけではない。魁魔も玉陽の巫女の力を狙っている。アイツ等にとっても、玉陽の力は必要だからな」
 君が玉陽だと分かれば、あの手この手で向こうに攫おうとするはずだ。とか何とか言葉を続けられるけれど。
 頭が段々とぼんやりしてきて、彼の真剣な言葉がきちんと脳内に響かなくなってきた。単語だけが、ふわっふわっと漂う様な感じに陥る。
 なんでそうなっているのかは、自分でもよく分からないけれど。多分、多分・・・。
「俺は、君を見つけられて、本当に幸運だったと思う」
 私は、そんな風に言われる人じゃないって思っているからだ。
 私はそんな大層な人じゃないよ。特別な力があって、皆が必死になって探し出す様な、そんな重要な役割を持った人間じゃない。
 私は至って普通の、ただの女子高生。大学受験が憂鬱で、嫌々ながらも勉強に励む普通の高校三年生。仲良しの友達と楽しく喋ったり、ふざけあったり、買ってきたお菓子を休み時間に分け合ったりする、普通の女子高生だよ。
「私じゃない」
 否定が口をついて飛び出していた。その声は、自分でもビックリする位らしくない。いつもの明るさが影に潜められていて、すごく刺々しい声だった。
 その声に、清黒さんもピタッと言葉を止める。彼の言葉がなくなると、脳内に並んでいた私の言葉が勝手につらつらと口の方に移動してきた。
「何かの間違いです、私、玉陽の巫女じゃありません。私は普通の、どこにでもいるただの女子高生です。容姿だって、中身だって、学力だって、運動能力だって、全てが平凡で。特別な事なんて何一つ持っていない、普通の人間ですよ」
「初代も二人目も、至って普通の人間だった。ただ違っていたのは、持っていた力だけ」
 君と同じ、どこにでも居る普通の人間だった。と、淡々と言葉を返される。
 けれど、こちらも頑として引かなかった。
「私は特別な力なんて持っていません!私に玉陽の巫女の力なんて、ありません!」
 力強く訴えると、目の前の彼から「無茶苦茶な反論だな」と呆れ混じりに突っ込まれる。
「まともに立てすらしなかった俺を治して、戦える体にしてくれただろ。まぁ、それについては一方的で申し訳なかったが。玉陽の巫女を学んだ時に、あれが全身の傷を治すに手っ取り早い方法と、学んでいたから・・」
 最後の方はごにょごにょとしたけれど、ズバズバと事実を突きつけられてしまう。
 あっという間に完全敗北が眼前に迫り、のっぴきならない状態に追い込まれてしまった。
 私はテーブルの下で拳を堅く作り、唇を軽く噛みしめてから「私・・」と弱々しく言葉を紡ぎ出す。
「私、今までずっと普通の生活をしていたんですよ?今日初めて巻き込まれて、生まれて初めて妖魔を見たんですよ?十八年生きていて、初めての出来事だったんです。特別な力が備わっている人間なら、生まれた時とか、幼少の頃にすでに巻き込まれているはずです・・」
「今まで巻き込まれていない訳は色々と考えられる。一番に考えられる理由は、君が妖魔達を認識する前に鏡の前から立ち去っていると言う事だな」
 弱々しい反論までも、にべもなく打ち落とされてしまった。
 これ以上の反論は何も思いつかないし、思いついたとしても彼の言葉を覆らせ、白旗を揚げさせるまでにはならないだろう。どんな言葉もピシャリと封じられてしまうに違いなかった。
 何とも呆気ない勝敗の付き方。
 けれど、まだ瞳だけが「認めたくない」と左右に揺れ動いていた。
 すると突然、彼の口から「別に良い」と思いがけない言葉が飛び出す。
「自分がそうだと認めたくないのであれば、別に認めなくても良い」
「・・・えっ」
 思いも寄らなかった言葉をかけられ、私は目を丸くする。冗談で言っているのかと思えば、彼は本気で言っている様だった。真剣な表情で「こっちも、そうだと認めろと迫っている訳じゃないからな」と言葉を続ける。
「知って欲しいだけだ。だから君はこの世界の事情を頭の片隅に入れておいてくれたら、それで良いよ」
 ぽかんと呆気に取られてしまう、とはまさにこの事だ。
 だが、彼は「と言う事で、話は以上だ」と、淡々と言い、腰をあげて空いたお皿とティーカップをキッチンに下げに行った。「主様、私がやりますよ」と、慌てて言う桔梗さんを目で制して。
 シンクに食器を置き、ジャーッと水を軽く流してから、清黒さんはこちらに戻って来た。
「桔梗、アレを持ってこい」
 端的な命令だが、桔梗さんはすぐに「畏まりました」と恭しく答え、リビングを後にする。
 清黒さんは出て行く桔梗さんの姿を一瞥してから、私の方に向き直った。
「放課後の貴重な時間を割かせて申し訳なかった。君には色々と礼と謝罪が重なる」
 呆然としている頭では、トントンと進むこの状況に追いつかない。
 それだから「え、あぁ・・いえいえ、そんなそんな・・」と、たどたどしい言葉でしか答えられなかった。
「本当に色々とありがとう」
 彼が口元を優しく綻ばせ、礼を述べた瞬間。桔梗さんが見計らっていた様な良いタイミングで戻ってくる。その手には、ブレスレットが乗せられていた。細かい繋ぎ目のチェーン型で、可愛らしいピンクゴールドの色。
「大した物ではございませんが。こちらをお礼の品として、叶架お嬢様にと」
 桔梗さんが柔らかな笑みを称えたまま、そのブレスレットが乗った両手を私の方にずいと差し出す。よく見れば、そのブレスレットには、桔梗の花が象られたチャームがプランと付けられていた。
 見るからに割に合わない謝礼品を前に、私は「えっ、いや!大した事もしてないのに、こんな素敵な物は頂けません!」と、直ぐさま首と手をぶんぶんと横に振る。
「そう仰らずに。私共は、叶架お嬢様にこれを受け取って頂きたいのです」
 と、桔梗さんは上目遣いを駆使した弱った笑みで訴えて来た。
 そんな顔で訴えられると、ついつい首を縦に振ってしまいそうになるけれど。私はぐらりと桔梗さんに揺らぐ自分を理性でスパァンッと張り倒した。
「あ、ありがたいのですが。本当にこんな素敵で、充分過ぎるものは頂けません」
 お礼なら紅茶とケーキで頂いていますから、とニコリと口元を綻ばせる。
 うう、よく負けなかったよ。よく頑張ったよ、私・・・。
 コロリと落ちそうだった彼の魅惑に、何とか勝った自分をよしよしと内心で褒める。
 すると次なる挑戦者が戦場に現れた。桔梗さんよりも手強そうなカードを持っていそうな清黒さんが「貰ってくれ」と、私と対峙する。
「君がこれを貰ってくれないと困るから、本当に黙って受け取ってくれ。申し訳ないが、好みじゃなかったとしても貰ってくれ。付けてくれていないどころか、貰われてもいないとなると。俺達が師匠に殺される」
 急に鬼気迫った声で訴えてくるから、「どうしてそこまで?」と不思議に思っていたけれど。最後の一言が全てを物語り、私は「あ、成程」と納得してしまった。
 これは貰わなかったら、清黒さん達がとんでもない事になりそうだ・・。
 二人が背負っている、恐ろしく冷ややかな圧を感じ取りながら「すみません、じゃあ」と、桔梗さんからブレスレットを申し訳なく受け取る。
「師匠が作った物だから、なるべく付けておいて欲しい。付けるのが難しい時でも、側に置くなり、近くに持っておくなりして欲しい」
「えっ、これ五十鈴さんが作ったんですか?!」
 五十鈴さんのハンドメイドと言う衝撃で、後半に続いた言葉があまり耳に入らなかった。
 すごい器用だなぁ、五十鈴さん。普通、こういうのってお店でしか買えないイメージだけど。お店で買う物と遜色ない感じする。
 私は早速ブレスレットを自分の手首に合う様に付けた。付け心地が良くて、手首に添う様なブレスレットだから、邪魔だなぁって感じない。
 んー、本当に良い物を貰っちゃったなぁ。
「ありがとうございます。五十鈴さんにもこんな素敵な物をありがとうございますって、伝えて下さい。とっても可愛くて気に入りました」
「あぁ、言っておく」
 清黒さんは端的に言うと「じゃあ、神森さん。またどこかで会えば」と、締めくくった。
「はい、また。今日は色々とありがとうございました」
 ペコリと頭を下げて礼を述べ、私は帰り支度を整える。
 そして帰り支度が整うと、送って来いと清黒さんから命を受けた桔梗さんと共に姿見を通った。姿見を通り抜けると、そこは私の家の玄関だった。
 うーん、やっぱりこの移動には慣れないなぁ・・。
「自転車の方は、すでにお外の方にありますのでご安心を。鍵も付けてありますよ。では、叶架お嬢様。本日は誠にありがとうございました。またお会いしましょうね」
 柔らかな微笑みを浮かべてから、桔梗さんはスーッと戻って行った。
 艶麗な彼の後ろ姿を見送る様に、私はしばし姿見の前に佇む。
 なんか・・今日は色々な事があったなぁ。
 国宝級イケメン二人(なんと片方はミミズクにもなれちゃう)、恐ろしい妖魔、鏡を繋げた移動、五十鈴さんと牙琥のコンビ、魁魔が生きている世界、魁魔と戦っている鏡番、玉陽の巫女。
 知らなかった世界が一気にドンと乗り込んできて、私の世界の形を変えた気がする。
 無理にその世界を受け入れる事はしなくて良いと言われたけれど。本当は、ちゃんと受け入れなくちゃダメなんじゃないかって少し思うんだよね・・。
 矛盾している自分の存在をふと感じると、途端に私は「私」が見えなくなった気がした。
 受け入れたくないと拒絶しているのに、受け入れるようとする気持ちがあるなんて。一体、自分はどうしたいんだろう。
 分からない、自分なのに自分が分からない。
 私はキュッと唇を軽く噛みしめ、俯いて足下をジッと見つめる。
 ううん、きっと「私」はずっと見えている。ただ私がそれを直視しないで、見えていない振りをしているだけだ。
 姿見の中に居る自分と恐る恐る目を合わすと、鏡の中の自分はジッと全てを見透かす様に、まっすぐ私を見つめていた。
 あぁ、やっぱりまだダメ。私はその世界を受け入れたくない。まだ、まだ私は「この世界」に居たいよ・・・。
 カツンと小さく甲高い音を立たせて、錫色の世界を生きている自分と指先を合わす。
 私達の指先は重なるけれど、お互いの世界に干渉は出来なかった。
・・・
 今日も今日とて寝坊をかまし、いつもの慌ただしさで家を飛び出して、自転車でシャーッと通学路を進んでいる私。
 いやぁ、本当に朝は弱いんだよね。偶には余裕を持ちたいんだけど、これがなかなか出来ないんだよなぁ。ま、学校にはギリ間に合っているから良いんだけどさ。
 シャーッと滑る様に校門を抜け、いつもの駐輪スペースに自転車を止めると「あ!叶架!」と、少し離れた横から、聞き慣れた声が私を呼び止めた。
 パッと横を見ると、朝練終わりの凛が小走りでやってくる。凜の所属する女子サッカー部の朝練は相当キツいはずなのに、疲れが微塵も見えない笑顔だ。
「おはよー、凜。今日も朝から大変だねぇ」
 凜を労って迎えると、凜は満面の笑みで「ねぇ、友花から聞いたよぉ!」と、唐突に話を突っ込んでくる。「おはよう」を返す事を忘れてしまう程の興奮振りだ。
「二人きりでイケメンと帰ったって!どうだったん?!てか知り合いなら、私にも紹介してよ!連絡先交換したいんだけど!」
 矢継ぎ早に飛んで来る言葉に、私は「別に何もなかったよ」と苦笑交じりに答える。
「だから紹介も何も出来ません。昨日の一回だけ、特別だったの」
 残念でした、とニッと口角の端をあげると。すぐに凜は「えぇぇ」と全身で残念がった。
「あぁぁ、ウチも見たかったなぁ!二人だけずるいよ、至近距離で国宝級イケメンの尊顔を拝んでさぁ!部活なんて入らなきゃ良かったよぉ!」
「凜って、本当にイケメン好きだよね」
「そりゃあ眼福だし、癒しだし、イケメンはこの世で至高の存在だからね。だから心底悔しいわ。見られなかった事もそうだけどね?お近づきになるチャンスが消えた事が最高に悔しいのよ!叶架が連絡先を知らなかったから!」
 うわぁ。これ、清黒さんの連絡先知っていたら、絶対もっとやばかっただろうなぁ。
 凜のイケメン好きに苦笑していると、凜は「はぁぁ」と長いため息を吐き出した。
 そこからはずっと凜が「会いたかった」とか嘆くばかりで、私は苦笑しっぱなし。校舎内に入っても、途中の女子トイレに寄っても、凜の嘆きは流暢に流れ、途切れる事が無かった。
「それでね?待っている様子がアップされて、万バズくらいしてたんよ」
「えっ?!万バズ?それはヤバ過ぎ・・・」
 芸能人レベルのバズり方に引いていると、凜は「ところが!」と言葉に続ける。
「アップしてた投稿が悉くバンされて、全て削除されたの!結構、このイケメン誰?みたいな感じになったんだけど。答えに辿り着く前に全消しされて、誰も答えを知らずに終わっちゃったの!保存して拡散した子達も、何故だか全部消えちゃってたの!こんなん絶対ファンクラブがあって、その人達が通報してたとしか思えなくない?!」
「まぁ確かに、ファンクラブがありそうな人ではあったけど。なんでバンされてたん?」
「さぁ?全部盗撮だったからじゃない?」
 鏡の前で髪を丁寧に整えながら答える凜に、私は横で待ちながら「成程ねぇ」と頷いた。
「あーあ、本当に会いたかったなぁ。マジで叶架が羨ましすぎぃ」「マジでないよねぇ」
 ・・・あれ?今、凜の声に誰か重なった?
 私は「ん?」と首を傾げ、眉を顰めるが。凜は「会いたかったなぁ。昨日部活があったのマジで恨むわぁ」と、平然と話を続けている。それに、今は誰かの声も重ならなかった。
 やっぱり私の気のせい、か。きっと昨日の話のせいで、変にびくついちゃってるんだな。
 私は怪訝な表情をすぐに壊し「女子サッカー部は大変だからねぇ」と、突っ込んだ。
「ほんとそれな、勘弁して欲しいよ」
 凜が苦々しく答えた刹那、私達のクラスで一軍女子と括られる可愛い四人組がふざけ合いながら女子トイレに入って来た。すでにバチバチに決められているのに、手には化粧ポーチがしっかりと握られている。
 そして私を見つけるや否やで「叶架ちゃん、昨日のイケメン誰?!」と凜と同じ、いや、凜以上の激しさで突っ込んで来た。
「どういう関係なの?!」「あの人、フリー?!彼女いない?!」「今日も来たりするの?!」「ね、連絡先教えてよ!繋がりたい!」
 目を爛々とぎらつかせながらの猛攻に、私は圧倒されてしまう。
 それでも何とか「あぁ、えっと」と、言葉を吐き出すが。そんな弱々しい声が、のぼせ上がった彼女達の耳に届く訳が無かった。
 自分達の輪に私を入れながらも「ほんと格好良かったよね、あの人!」と、私を爪弾いて、キャアキャアとはしゃぎ出す。
「あの人にさぁ、話かけたんだけどぉ。名前すら教えてくれなかったのぉ!泣けたけど、めちゃくちゃクールでやばくなぁい?!」「やばい、やばい!それはめちゃくちゃ格好良すぎ!」「あんな人が学校に居たら、絶対狙うよね?!浮気とかしなさそうだもん!」「えー、でもあの人さぁ、告白とか聞く前に拒絶しそうな感じしなぁい?」「マジで最悪だよねぇ」
 ・・・待って、今。声が、増えなかった?今、この四人とは違う声が聞こえなかった?
 口々に言い合っている彼女らを放って、私は耳を研ぎ澄ます。
 だが、異変は音よりも先に、視覚に現れた。
 洗面台の鏡から、黒いモヤの様な物が幾つも出始めているのだ。
 そしてそのモヤから「マジ最悪よねぇ」「アイツ、キモすぎ」「セクハラで訴えてやろぉ」「あの女、マジでむかつくぅ」など、女子達がここで吐き出した愚痴ばかりが、変に高くて嫌な声で吐き出されている。
 まさか、これが妖魔・・!?
 私は慄然としてしまうが。他の子達は、誰一人として異変に気がつかず、熱を上げ続けている。凜も四人に加わり、イケメン談義に花を咲かせていた。そんな彼女達に呼応する様にして、妖魔はどんどんと溢れ出している。
 と、取り敢えずここから出ないと。これ以上の妖魔が出てきちゃうかもしれない!そうなったら、皆が危ない・・!
 私は「ねぇ、もう時間やばくない?!」と声を張り上げ、話を中断させる。些か唐突で強引だとは思ったけれど、そこに突っ込む隙を与えない様に口早に言葉を続けた。
「ホームルーム終わりに、その人の話してあげるから!もう行こ!」
 ほらほらっ!と凜の背中を押すと、凜は「分かったから、押さないでよぉ」と笑いながら出て行こうとしてくれる。来たばかりの四人組も、話の旨味に吊り上げられて「そだね」「約束だよ?!」と、パタパタとトイレを出て行った。
 そして最後に私が出ようとした、刹那
「玉ぅぅ陽ぉぉ?」
 私は思わず足を止め、鏡の前で立ち止まってしまう。
 すると愚痴をだらだらと言い続けていたはずの会話が、どんどんと「あれぇ?」「玉陽だよぉ」「違うよぉ」「違うかぁ」「あれだよぉ」と、まるで子供達が考えあぐねている様な会話になり始めた。
 その時、私の頭の中で清黒さんの淡々とした声が響く。
「魁魔も玉陽の巫女の力を狙っている」
 まさか・・・私を?なんで?どうして知っているの・・・?
 ツーッと背筋に冷たいものが滑り落ちた。ぞくりと冷たい恐怖が、蛇の様に足下から指先からスルスルと這ってくる。
 そして思い知らされた、私は紛れもない「玉陽の巫女」なのだと。
 唇をキュッと固く結び直してから、立ち止まっていた足を前に動かした。恐怖を振り払う様に飛び出し、洗面台の鏡から逃げ出す。
 だが、その時だった。ガシッと右肘を誰かに掴まれる。えっ?と目をその方に落とすと、赤い肌をした人の手が、入り口の姿見から飛び出して私の肘を掴んでいた。
 ぶわっと焦りと恐怖が生まれると同時に、ぐいっと姿見の方へ力強く引っ張られてしまう。その強い力に抗う事が出来ず、私の体は簡単にがくんっと右に傾いた。
 嫌だ、辞めて!辞めて!離して!離して!
 頭の中では叫声があがったのに、ピッタリと声帯が喉に張り付いていた。
 恐怖に絡め取られているせいか、それとも唐突な出来事のせいか。はたまた、何か別の理由があるのか。どれが要因なのかは分からないけど、声が全く出せない事だけは確かだった。
 声が出ないと、気持ちばかりが前のめりにもがくが。体は何も変わらず、最悪を進み続けている。ドンドンと右横に傾き、掴まれている部分が完璧に鏡の向こうへと消えた。
 辞めて!助けて!凜!凜、戻って来て!助けて!助けて!
 誰にも聞こえない声を必死に張り上げ、必死で助けを求める。
 そして遂に、右半身がとぷんと鏡の向こうへ消えてしまった。
 お願い!誰か、私の声を聞いて!助けて!・・・助けて、清黒さん!
 歯止めが利かない最悪に、せめてもの抗いとして私はギュッと目を瞑り、歯を食いしばった。
 その瞬間、シュッと何かが風を切る様に顔の前を駆ける。
 そして一拍遅れて鋭い風を感じると同時に、私の右肘を掴んでいた力がフッと消えた。そうかと思えば、今度はぐいっと左側から力強く引っ張られる。とても優しくて、温かな手で。
「大丈夫か?」
 温かくて、柔らかい声が上から降って来ると、私はその声に導かれる様に顔を上げた。
 見上げた先にあった顔に、じぃんと温かな刺激で胸がつかえ、視界が滲んでしまう。広がっていく安堵が零れない様に、私はグッと奥歯を噛みしめてから、その人の名前を呼んだ。
「清黒さん」
 蚊の鳴く様な声で呼んでしまったが、彼はしっかりと私の声を受け止め「あぁ」と柔らかく微笑む。
「間一髪だったな」
「えぇ、本当に。ご無事で何よりでございました、叶架お嬢様」
 清黒さんの半歩後ろで控えている桔梗さんも、無事を喜ぶ様に柔らかな微笑を向けてくれた。
 私の無事を心から安堵していると分かる二人の温かな声に、じんと刺激が強まり、堪えていた物が溢れそうになる。
 けれど「ダメ、今は泣くところじゃない」と自分を厳しく律して、二人にしっかりと頭を下げる。
「あ、ありがとうございます。本当に助かりました」
「頭を上げてくれ、礼を言う程の事じゃない」
 ぶっきらぼうな言葉に「でも」と反論を口にしかけながら頭をあげると、彼が私よりも先に「本当に良いんだ」と言った。
「鏡番として、当然の事をしたまでだからな」
 清黒さんが淡々と告げると同時に、なんと凜が「叶架―?大丈夫―?」と覗きに来る。
 その時、理性も感情も何もかもがいつもの自分にカチッとシフトチェンジした。これはこれで、とてもマズい事が起こると気がついてしまったから。
 件のイケメンが目の前に居るとなると、凜が絶対発狂しちゃう!清黒さんにとっては、それはかなり嫌な事のはず。あぁ、やばい、どうしよう!
「り、凜。あ、あのね」
 しどろもどろに弁明を紡ぎ出すが、その前に凜が「何?どしたん?」と怪訝に顔を歪めた。
「皆、先に行って叶架を待ってるんだけど」
 あれ?彼等が視線の先にいると言うのに、突っ込まないなんてどういう事・・?
 狼狽し、動揺が表に現れそうになるが。後ろから囁かれる様に「彼女に俺達の姿は見えていない」と告げられた。
「だからこちらを振り返らず、彼女とそのまま行ってくれ。俺達ももう行くから」
 その声に従う様に、私は自分の中から困惑と動揺を外に追い出し、凜に「ごめん、なんでもなかった。私の気のせい」と笑顔を見せる。
 凜はその答えで、顔を綻ばせ「じゃ、早く行こ!」と促した。
「早くあのイケメンさんの話聞きたいし!」
「うん、待たせてごめんね」
 いつもの様に朗らかに答え、私は凜の元にパッと駆ける。助けてくれた彼等を振り返らず、そのまま私は元の世界に戻って行った。
 それからは、私が妖魔やあの赤い手を見る事はなかった。きっと清黒さん達鏡番のおかげだろう。
 だから平穏無事に時が流れ、一日が終わっていったのだ。
 あ、やっぱり平穏って言うのはちょっと違うかも。だって、女子達からの清黒さんについての質問攻めが凄まじかったから。休み時間の度に突っ込まれるし、他クラスの子からも聞かれるし、もうかなり大変だった。たった数十分で清黒さんが虜にした膨大な数が窺い知れたよ、本当に。
 でも、「ごめんね、私も名前だけしか知らないの。あの一回が特別で、もう会える機会もないんだ」と答えると、「えー」と不満げな声をあげながらも、皆引いてくれたのは救いだったかなぁ。

 今日は律華ねぇが「この映画見に行くわよ。だから土曜日、空けときなさいね」と誘って?くれて、映画館に来た。
 始まりまで、まだ時間があるから併設しているデパートに行こうってなったのだけれど・・・。
「居ない・・」
  苦々しく呻きながら、辺りをキョロキョロと見渡す私。
 十中八九と言って良いほど、律華ねぇと出かけるとこうなる。
 少しでも、本当に一瞬でも目を離してしまったら、自由気ままな彼女を探し回るルートに入り込んでしまうのだ。
 私は「あぁ、やっちゃったよ」と思いながら小さく舌を打ち、ポケットに入っているスマホを取り出して、律華ねぇのアイコンを押して電話をかけた。ぷるるるっと電子音が鳴り、彼女のスマホに繋いでくれているが。何回かコールが続いた後に、私のスマホは彼女のスマホに「お繋ぎ出来ません」と一蹴されてしまった。
 出ないだろうなとは思っていたけれど、案の定で渋面を作ってしまう。
 本当に律華ねぇは・・・。
 はぁと嘆息し、どうしたもんかと私はその場で腕を組んだ。
 律華ねぇを探しに行くべきか。それとも、この辺りで律華ねぇを待ちながらプラプラするか・・・。
 うーん、後者だな。映画が始まる時間までに、映画館に行けば絶対会えるから、今探す必要はないもんね。
 私は律華ねぇにメッセージを入れてから「よしっ」と、くるっと勢いよくターンした。
 その時だ。唐突に動き出した私のせいで、後ろから来ていた男の人とドンッとぶつかってしまう。お互い「わっ」と小さく驚き、男の人に至っては手荷物を落としてしまった。
「あ、すみませんっ!」
 私は慌てて屈み、男の人が落とした手荷物を急いで拾いあげる。
 男の人は「ありがとうございます。こちらこそすみません」と、私から手荷物を受け取りながら、低心頭に謝った。
 見た目からして、二十代前半だろうと思うけれど。彼のオーラが、とても二十代前半で生み出せる様なものではない。とても落ち着き払っていて、柔らかな微笑が大人を感じさせた。
「僕の不注意でした。本当にすみません」
「い、いえ。私が唐突に動いたせいですから、こちらが、悪いです」
 彼の柔らかな言葉に、私はギクシャクとしながら返してしまう。
 彼の大人びた雰囲気が、私の余裕を削り取り、ドキドキと全身が緊張で強張ってしまったのだ。
 もっとうまく取り繕わないと!と、内心で泡を食ってしまうが。私の緊張は薄れない。それどころか、緊張に堅く縛られすぎて意識が遠のき、クラッとしてしまう。
 そうそう、クラッとしちゃうの。って、あれ。ま、待って?これ、本当に意識が遠のいてきていない・・・?
 自分から意識が乖離していくと感じると、急速に異変が起こり始めた。
 突然私の視界がぐにゃりと不自然に歪み、足の力がフッと消える。たたらを踏んでいる事すらも自分では分からず、何もかもが朧気だった。
 この人の魅惑で倒れそうって事?そ、そんな事あり得る?清黒さんとか桔梗さんを前にした時も、大分ヤバかったけれど。私、倒れなかったのに。この人の魅惑は、そこまで強かったって事・・?
 混濁する意識の中、そんな馬鹿みたいな事を考えていると。未だに正常で動いてくれている耳が、目の前の人の声を拾った。
「あっ、大丈夫ですか?!と、取り敢えず、こちらに運びますよ?」
「おい、クサい芝居続けんなよ。さっさと連れて行こうぜ、大黒司の当主様が首を長くして待ってんだからよ」
 柔らかな声に答えたのは、誰か別の人の声だった。刺々しくて、荒々しい男性の声。
 もう一人、後ろに居たの?分からなかった、気がつかなかった。
 それに、今、大黒司のご当主って。大黒司って、確か・・・。
 必死に考えようとしたが、遂に意識が持たず、全てが黒に塗りつぶされてしまった。唐突に襲ってきた闇に、私は抗えなかったのだ。
・・・
 飛んでいた意識が体にぶつかり、私はその衝撃でハッと慌てて体を起こした。
 そして目が平然と映し出す光景に、私は戦慄する。
「ここ、どこ・・・?」
 全く見覚えの無い和室に、私は恐怖と驚きが綯い交ぜになった言葉を吐き出した。
 こんな広々且つ楚々とした日本美がある和室で、落ち着きを覚えないなんてどうかしているとしか思えない。否、どうかしているのだ。
 私はデパートに居たはずなのに、こんな見覚えの無い所に居るんだから。
 唯一安堵すべき点は、服が乱れてもなく、変わってもいなかった事だけだ。他は何も安心出来ない!
 どこだろうと必死に考えていると、ボスッと何かが布団に転がり落ちる音がした。
 その音にハッと目を落とすと、私のスマホがジーンズのポケットから飛び出していた。
 取り上げられていなかったんだ!とホッとし、藁にすがり付く様にバッと拾い上げて見るが。スマホの電波表示は残酷にも「圏外」だった。隣のWi-Fiの表示も消えているし、位置情報も取得出来ないと弾かれてしまう。
 スマホを持っていた所で、何の助けにもならないガラクタだと分かってしまうと、とてつもない絶望感が襲ってきた。
 あぁ、最悪!どうしよう!
 スマホが繋がらないとなると助けも呼べないし、ここがどこかも分からない。場所の手がかりは、電波も繋がらない様な辺鄙な所なのだろうと言う事だけ。でも、そんなのかなりアバウトだし、手がかりなんて呼べたものじゃない。
 大きな絶望に打ちのめされそうになるが。私はぶんぶんっと頭を強く振った。
 今は、ここがどこかなんて考えない方が良い!
 まずは行動あるのみ!と言う事で、逃げよう!例え辺鄙な所でも、誰かしらに会えば状況は良くなるはずだもの!ここに居続けるよりはマシなはず!
 うんっと力強く頷き、パッと寝かされていた布団から飛び出し、障子に手をかけた刹那。
「おや、お目覚めでしたか」
 恭しい声が後ろから聞こえ、バッとその声の方を向く。
 後ろの襖を開けて入って来たのは、かっちりとした濃紺の着物に身を包んだ気難しそうなお爺さんだ。そして私をここに連れてきたであろう、あの大人びた青年も半歩後ろに控えている。
 私はキュッと唇を結んでから「私を姉の場所に帰して下さい」と、精一杯の虚勢を張った。
「どういうつもりでこんな所に拉致したのかは分かりませんけど、こんなの立派な犯罪ですよ」
 キッと睨みつけながら告げると、お爺さんは皺が寄った顔を更にくしゃりとさせ「いやはや、申し訳ない」と、諂う様に答える。
 とても物腰柔らかな態度なのは、私に掴んでいる剣を収めさせたいのだろう。
 でも、私は剣を抜いたままだ。収めるつもりは一切無い。
 当然でしょ。笑顔を浮かべていながらも、平然と拉致する様な人間に対して「危ない人じゃない」なんて思える訳がない。
 この笑顔は危険と、警戒心がドンドンと高まっていくだけだ。
「孫には手荒に連れてくるな、と言っていたんですがねぇ」
 お爺さんは薄ら笑みを浮かべながら、チラと孫と呼んだ彼を一瞥すると。彼はキュッと眉根を寄せて「申し訳なかったです」と、私に薄っぺらい謝罪を口にした。
 そして「ほら、蛇豸《じゃち》も謝って」と彼が私に向かって言う。
 蛇豸?と眉根を寄せた、その時だった。
 突然私の横からシューッと蛇が舌を鳴らす様な音がし、ゾクッとする恐怖が襲ってくる。
 バッと体を翻し、私はその場から慌てて距離を取った。
 するとそこには、いつの間にか、大きな黒い蛇が鎮座していた。いや、蛇の様で蛇ではない。大きくて逞しい黒色の翼が、背中からしっかりと生えているから、蛇の特徴を持っている、別の何かだ。
 さっきまで居なかったのは勿論だけれど。何かが動く様な気配も、迫ってくる気配もしなかったのに。
 ゾクリと全身が粟立ち、恐怖に染まった瞳でその蛇を見つめてしまう。
 鎌首をもたげ、長細い舌をチロチロと出し入れして遊んでいるのは、私の恐怖を嘲笑っているのか。真っ赤で縦長の瞳孔をニヤリと横に細めているのは、私の恐怖を喜んでいるのか・・・。
 ゴクリと唾を飲み込み、恐怖で竦む体に勇気を一欠片送り込む。
 その瞬間だった。
「馬鹿な事を言うんじゃねぇよ、怜人《れいと》。この女《あま》は玉陽の巫女だぜ?」
 意識を失う最後に聞いた声が、蛇から発せられる。
 私はその声に目を見開くが。「だからか」と、目の前の蛇に翼がある事に納得する。
 この蛇は式神だ、桔梗さんや牙琥と一緒。だから喋れるし、普通じゃない蛇の形をしているんだ。
 でも、桔梗さんや牙琥には、こんな恐ろしさは無かった。身の危険を感じる様な物は一切与えられなかった。
 この式神は、あの二人とは違う。とても、とても恐ろしい・・。
 冷たい恐怖に犯され、私の足がジリジリと二、三歩後退する。
 するとお爺さんがそれを見逃さず、ハッハッと野太く笑い「安心しなさい、玉陽の巫女」と言った。
「コイツを恐れる必要はありません。見てくれは確かに恐ろしいが、貴女に危害を与える事は絶対にありませんよ。ええ、ええ。そんな事は万に一つも無い。貴女は私共にとって、丁重に扱うべき美しい花ですからなぁ」
 朗らかな笑みで宥められるが、私はニコリとも出来ない。
 危害を与える事は絶対にない?じゃあ、この状態に陥った事はなんて言うの?
 この人達にとっては、私の意識を奪い、黙ってここに連れて来たのは「危害」ではないと言う事なの?
 信じられないと、私の中で敵意と言う剣を握る手が強くなる。
 だが、その瞬間。お爺さんが「あぁ、そう言えば名乗っておりませんでしたな」と、唐突に切り出してきた。
 私が強張っているのは「知らない人」を相手にしているからだ。と、でも思ったのかな。私の警戒がそんな所から来ている訳ないのに。
「私は大黒司家三十八代目当主大黒司崇人《だいこくしたかひと》と申します。よろしくお願い致しますなぁ」
「僕は、分家大黒司家の人間で怜人と申します。玉陽の巫女、貴女に会えて光栄です。そこに居るのは、僕の相棒です。十二天将の一人、騰蛇《とうだ》の蛇豸です。かなり口は悪いですが、根は良い奴ですから。安心して下さい」
 怜人と名乗った人は、蛇豸と言う恐ろしい式神の事も紹介し、私に蠱惑的な笑みで「よろしくお願いします」と言ってきた。
 彼の事を「とても落ち着いた人柄で、優しい笑顔を称えた好青年」と、捉えた第一印象が大きく覆る。いや、覆ると言う表現は適切じゃなかった。私は思い知ったのだ。
 彼は「とても食えない青年」だと言う事を。落ち着いた雰囲気は、相手を油断させる為の気体化された毒。柔らかな微笑は、相手に感情を読み取らせない為の冷ややかな作り笑い。
 悪を悪と感じさせない恐ろしさは、まっすぐな邪悪よりも恐ろしいと痛感する。
 私はキュッと拳を作ってから「鏡番の方々、ですね?」と言った。
 崇人さんは「おお、そうです。そうです。嬉しいですなぁ、我々を知って下さっているとは」と、手を揉みながら喜色を浮かべる。
「良かった、良かった。それなら話が早そうですな」
 恭しい口調ながらも不穏めいた単語に、私は怪訝を露わにして「話?」と反応した。
「何の話ですか」
 つっけんどんに尋ねると、崇人さんは「そう構えなさるな」とカラカラと笑う。
「何も悪い話ではない。端的に申し上げますと、我が大黒司家にお入り下さいと言う事ですよ」
 にこやかに告げられた話に、私は「入る?」と思い切り首を傾げた。
「どういう事ですか?」
「なぁに、我が家の保護下で暮らして頂きたいと言う簡単な話ですよ。いかんせん、貴女の力を狙っている者はとても多い。それらが全て弱ければ簡単に排除出来ますが、中には強い力を持った者も居る。それでは同等の強さを持った守りを側に置かないと、貴女の安全が確保されないでしょう?となると、やはり貴女を完璧に守れるのは我が家だけと言う事になるのですよ」
「大丈夫です」
 まだだらだらと話が続きそうだったが。一区切りした段階を見計らって、私はバッサリと申し出を拒否した。強い意志を見せつける様にピンと背筋を伸ばして、まっすぐ相手と対峙する。
「ご心配ありがとうございます。でも本当に大丈夫です、必要ありません。今までずっと普通に、平和に生きていられましたから。ここに連れ去られたのが初めての危険だったので、何も問題ないかと思います」
 艶然としながらも、最後にパンチを効かせた皮肉を放ってやると。崇人さんの眉間の皺がピクッと不自然に強張った。
 けれど、小娘の付け焼き刃で壊せる程その鉄仮面は脆くなく、すぐにまた嘘くさい笑みに戻り「必要ない、とは言えませんなぁ」と、白々しく吐き出してくる。
「今の貴女を守っているのは、あの清黒の若僧でしょう?アレはですねぇ、鏡番に向いていない奴なのですよ。未熟で突出した力もない。叔母の五十鈴と違って、アレは弱い。本当にダメな奴ですからな、貴女の守りが完璧とは言えないのです。虚を突かれ、貴女の身が危険に晒される事になるのは目に見えていますよ」
 つらつらと流されたのは、思いがけない悪口だった。
 あまりにも唐突な悪口だったと言うのもあるけれど。全く訳が分からなくて、点々としてしまう。そう、文字通り点々と。
 そんな私の前で、崇人さんはへつらいながら流暢に言葉を続けた。
「力のない弱者が力のある強者に敵うと思いますかな?適切な守護者を置かないと、ただただ貴女の御身が危険に晒されるだけですよ。何か起こった後では遅い、何か起きる前に正しい手を打たねば。何か起きてしまえば、手の打ちようがなくなってしまう事だってあるのですからね。あちらの世界に連れ去られでもしたら、貴女も我々も終わりですよ?ですから、適切な守護者を置かねばならないのです。いいですか、玉陽の巫女。私の言葉は、全て貴女の為を思っての事です」
 貴女は聡明なお嬢さんに見えますから、理解出来ましょう?と、ニヤリと下卑た笑みで怜人さんを振り返った。
「怜人ほど、貴女の守りを務めるに申し分ない人間はいませんよ。えぇ、えぇ。我が家では十二天将を四人、他多数の精鋭達を抱えておりますが。怜人はその中でも、一番の実力者でしてな。怜人だけではなく、蛇豸も十二天将のナンバーツーに匹敵する力がある。ですから、怜人と蛇豸に守りを任せておけば、不測の事態なんて馬鹿みたいな事は起きんのですよ」
 意地悪な笑みを受けた怜人さんが、爽やかな笑みを称えながらスッと私の方に進み出る。
「僕達が貴女を必ずお守りしますよ。僕達、紲君よりは力になるはずです」
 彼がニコリと目を細めると、崇人さんがその答えを強調する様に「その通り!」と叫んだ。
「怜人はあの若僧よりも力になる!私が保証しますよ!清黒の若僧は、周りに祭り上げられただけの無能!清黒は落ちた所まで落ちたと思ったが、アレを見るとまだ下があったと思う程だ」
 私への媚びを忘れ、自身が抱く清黒さんへの憎悪を剥き出しにする崇人さん。
 そしてそんな崇人さんを止める事も窘める事もせず、怜人さんは「紲君は紲君なりに頑張っているよ」と上から目線の一言を口にするだけだった。何の感情も読み取れぬ、食えない笑みで。
 何故、彼等がこうも清黒さんを罵っているのかが分からない。清黒さんはこんな風に言われる人じゃないのに。
 だって、彼は私の意志を汲み、この世界に無理やり引き入れなかった。彼は、私の思いを尊重して、平和な世界に行かせてくれた。本当はそんな風にさせたくないだろうに、私のわがままを許してくれているのだ。
 そればかりか、私が危険な時に真っ先に駆けつけてくれた。助けてくれた後は何事もなかった様に、元の世界に戻らせてくれた。
 そんな人が無能な訳があるか。無力な訳があるか。
 私の中で、段々と怒りが滾ってきた。
 こんな人達が、清黒さんの事を悪く言う資格は一切ない。て言うか、この人達が清黒さんの悪く言うなんて論外。
 清黒さんは、私の意識を失わせて、助けも呼べない辺鄙な所に攫うなんてしなかったから。他人をとことん見下して自分の株を上げようなんてしなかったから。
 そう、だから私からしてみれば彼等の方が「無能」だ。人を思いやる脳がないし、人を正しく見る事も出来ないんだから。
「返答に困る必要はありませんよ、玉陽の巫女」
 崇人さんが恭しく言うと、怜人さんが私の方に歩み寄り、サッと手を差し伸べてきた。
「僕達が命がけで貴女をお守りしますから、どうかこの手を取っていただけませんか?」
 まるでおとぎ話のワンシーン。王子が大切なお姫様を守る事を誓って、手を差し伸べるなんて。お姫様はそんな王子様にキュンとときめくんだろう。
 でも、私はお姫様じゃない。よしんば私がお姫様であっても、この王子様の手は絶対に取らない。こんな王子様にキュンとときめく事なんて、もっとない。
 私は目の前の怜人さんを怒りの孕んだ目で睨みつけ、「取りません」とけんもほろろに答えた。
「絶対に嫌です」
 私の答えに、怜人さんは「嫌われちゃったなぁ」とおどけて答えるが。崇人さんは信じられないと言わんばかりに「馬鹿を言わんでくれ!」と怒声を張り上げた。
 けれど私も怒りに染まっているから「言っていません」と、冷淡にぴしゃりとはねのける。
「色々とお話を聞いた上で、冷静に判断して言っています」
 私の冷徹な一言に、崇人さんの顔に朱が注がれ始めた。仮面がボロボロと崩れ、本性と言う名の素顔が見えてくる。
「生意気を言うな、小娘!我が家の力が一番相応しいと言う、簡単な事が分からんのか?!自分の身が危険に晒されても良いと言う事か?!」
 あれほど、聡明なお嬢さんだなんだとへつらっていたのに。こうも居丈高に怒鳴り散らすなんて。
 豹変ってこういう事かぁ。なんて、内心で小さく笑みを零してしまった。
「貴方方に守られなくても大丈夫です。私を危険から守ってくれる人は他に居ますから」
 無自覚に口角が緩み、声も朗らかに弾んでしまう。内心で留めたつもりの笑みが、表にも現れてしまったみたいだ。
 目の前の崇人さんの顔がどんどん怒りに歪み、激昂の準備に移っていく。
 こう言うタイプの人が激昂したら、何をしでかすか分からない。怜人さんの事も警戒しつつ、逃げ道に飛び込める様にしておかないと。
 私がパッと一瞬で部屋を見渡すと同時に、激怒が到来した。
「彼女がそこまで言っているのですから、素直に手を引くべきではありませんか?」
 スパンッと横の襖が勢いよく開かれると、清黒さんと桔梗さんが現れた。
 突然の来訪者に、私は唖然と彼等に釘付けになってしまうけれど。清黒さんは私を一瞥する事もなく、静かな激怒で大黒司の二人を睨んでいた。桔梗さんも蛇豸を睨みつけ、火花を散らしている。
 けれど、大黒司の人達はその怒りをものともしていなかった。崇人さんは「貴様等!」と吠え、怜人さんは「わぁ紲君、随分早かったねぇ」と飄々とした賞賛を送る。
「何の連絡も寄越さず、我が大黒司本家の敷地を貴様等如きが踏んで良いと思っているのか?!とんと無礼な若僧だ!さっさと出て行け!」
「確かに、その点については詫びを入れましょう。しかし俺達の無礼は無礼だと喚き立てる程じゃないはずですよ、崇人さん。貴方の方が無礼、いや、非礼を働いていると思いませんか?何らこの世界に関わりない一般の女性を、しかも未成年の高校生を勝手に攫い、挙げ句家で囲おうとしたんですから」
「この世界に関わりない一般の女性だと?!馬鹿を言うな、この娘子は玉陽の巫女なのだぞ!魁魔がこぞって狙う、伝説の力を持つ娘子だ!我々が守るべき宝だ!」
「だからと言って、こんな事をして良いとはなりませんよ。彼女の意志を無視して、自分の話を強要する事も良い行いだとは到底思えませんね」
 淡々と言葉を突き詰める清黒さんに対して、怒声を張り上げるばかりの崇人さん。色の違う激怒は互いに一歩も退く事なく、激しくぶつかり合った。
「こんな事をさせたのは、お前のせいだと言うのが分からんか!お前が甘い事をしているせいで、魁魔の手が彼女に伸び続けているのだぞ!それだからワシが貴様の代わりに最善の手を打ってやっているのだ!お前が頼りない弱者だから、このワシが直々に舵を切ってやっているのだ!そんな事も分からんのか、愚か者めが!」
「貴方に言われるまでもなく、自身の力量不足は理解しています。ですから、俺では手が届かない所を叔母上や他の方々に頼んで対応していただいている。良いですか、崇人さん。俺達は、彼女をただの女子高生で留める為に動いているのですよ。なので、貴方が勝手にしゃしゃり出て来て、勝手にとんちんかんな舵を切られてもこちらが困ります」
「生意気を言い続けるのも大概にせんか、若僧が!誰に向かって物を申しているのだ!」
 崇人さんが、唾を盛大に撒き散らしながら今日一番の怒声を張り上げた。大きな牙で、清黒さんに容赦なく噛みつく。
 だが、その大きな牙は相手に食らいつく前にバキッと折れた。「それはこちらの台詞だ」と言う、物々しい声によって。
「俺に対して、随分と口が過ぎているとは思わないか?俺がどの立場に立っているのか、アンタが知らない訳ないだろう」
 清黒さんの丁寧な口調が、がらりと変わった。だが、変わったのは口調だけでない。込められている圧も、声音も、態度も、全てのスイッチがバチッと切り替わった。
 その瞬間、崇人さんは怒りに震えながらも苦々しく顔を歪める。何か思い当たる節があるのか、悔しそうな眼差しで彼を射抜くばかりで何も言い返さなかった。あれほど怒り狂っていたのに、潮騒がサーッと引いていく様に沈静化されていく。
 私は、この状況に愕然とした。
 崇人さんなら、あんな言葉を言われたら余計に怒ると思ったのに。怒りもせずに、言い返しもしないなんて・・・。
 どうしてだろう?と不思議に思っていると、清黒さんからその訳が明かされる。
「俺が今の鏡番総統であり、主三家の宗主だぞ。そろそろ、いい加減にしてもらおうか」
 鏡番総統で、主三家の宗主って事は・・・清黒さんが、鏡番の人間で一番偉い人って事だ!だから崇人さんも牙を収めて、黙るしかなかったんだ!
 彼の一言で全て理解する。そして戦慄にも近い感情を抱き、彼の凄さを痛感した。
 清黒さんが鏡番の一番上に立つ存在だったなんて・・・。
 私は愕然としてしまうが、清黒さんは話の流れを止めずに「良いか」と続けた。
「彼女、神森叶架さんを二度と拉致するな。こうして自家で囲い、所有物の様に扱う事も許さない。これは忠告ではなく、現主三家宗主・鏡番総統清黒紲からの直々の命だ。分かったな?俺の命に従えないと言うのなら、大黒司家の当主だろうが、先代宗主だろうが関係無い。厳罰に処す」
 今回俺が受け付けるのは彼女への謝罪のみだ。と、崇人さんを底冷えした眼差しで貫きながら、物々しく告げる。
 崇人さんは「クソガキがぁ」と苦々しく呻き、憤懣とするが。数分後には「畏まりました、謹んでお受け致します」と忌々しそうに答えていた。明らかに不承不承の降参と言うのが分かる。
 清黒さんはその答えを聞くと、一人飄々としている怜人さんに視線を移した。
「貴方も従ってもらいますからね、怜人さん」
 再び物腰柔らかな口調に戻し、怜人さんに投げかける。怜人さんは「勿論」と、蠱惑的に微笑んだ。
「喜んで従うよ?宗主様からの命は最優先すべきものだし、従わないと言う選択はないからね」
 清黒さんを安心させる様に朗らかに答えるが、やはり彼の笑みは腹の内が読めない。
 清黒さんもそれをよく分かっているのだろう。「信用して良いのか?」と言わんばかりの胡乱げな眼差しで、彼を射抜いていた。
 そうして怜人さんを図った結果、彼は「ありがとうございます」と一礼する。
「では、今後この様な事をなさらない様に」
 ぐぬぬと歯がみしている崇人さん、食えない笑みを浮かべている怜人さん、「だっせぇ」と嘲笑を零している蛇豸を順に見てから、彼は最後に私を見据えた。
「戻るぞ」
 温かな微笑を浮かべ、彼は手を差し伸べる。
 それを見た瞬間、私の中で一気にそれぞれの感情が動き回った。これを言葉で現すのはあまりにも難しい。それぞれがガツガツと主張し合いながら私の中を生きているから、ピタリと当てはまる物が分からない。
 嬉しい?こそばゆい?温かい?幸せ?・・・ううん、今は「どれだろう」とか考えなくてもいいよね。今はただ、清黒さんの手を取れば良いんだ。
「はい!」
 タタタッと小走りで彼の元に駆ける。
 そして私の手がしっかりと彼の手に受け止められた。
 その刹那、私の心の中でパアッと一つの花が咲く。綯い交ぜになった感情も、一つ一つの花びらとなり、その花を際立てる。
 複雑だとか、言葉にするには難しいとか思っていたけれど。単純明白な答えだ。何も複雑なんかじゃない、言葉にするのも難しくない。
 私は、彼が好きだ。
 清黒紲さんが、好きだ。

「本当に申し訳ない!」「申し訳ありませんでした!」
 鏡を経由し、デパートに戻ってくるや否やで、清黒さんと桔梗さんから深々と頭を下げられる。自分から見ても、他者から見ても、これはとんでもない構図だ。大の男二人が揃って腰を九十度に折り曲げ、女子高生に頭を下げているのだから。(他の人から見たら、清黒さん一人だけどね)
 私は「二人が謝る事なんて何もないですから!」と、必死に頭を上げさせた。
「謝るべきは大黒司の二人と一匹ですから!二人が謝る必要なんてどこにもないですよ!寧ろ私の方が謝るべきです、またご迷惑をおかけしてすみませんって」
 申し訳なく言った瞬間、重力に縛り付けられていた頭がパッと上がり「それは違う」と、毅然と返される。
「逆だ、君は俺達から迷惑をかけられているんだよ」
 彼は苦しげに顔を歪め「本当に申し訳なく思う」と言い、再び頭を深々と下げた。
「今回の大黒司の暴走だって、本来であれば未然に防げた事だ。それでも止められなかったのだから、俺の力不足と言う他ない」
「そんな事言わないで下さい」
 私は直ぐさま物々しく言い放ち、彼の言葉を否定する。
 そんな事ないのに力不足と自分を否定し、責め続ける彼の姿が嫌だったと言うか、許せなかったのだ。
 清黒さんは「だが」と頭を上げながら反論を口にしかけるが、その前に私が口早に答える。
「清黒さん、すぐ助けに駆けつけてくれたじゃないですか。清黒さん自身が要因となって起きた事じゃないのに。いつも来てくれるじゃないですか。だから私、清黒さんに迷惑をかけていると思った事はあっても、かけられているなんて思った事ないですよ。今まで一度も」
 だからそんな事言うのは無しです!もう二度と言わないで下さいね!と、憤然とすると、彼の目は少し丸くなった。私がこんな風に言うのが意外で、呆気に取られてしまったのだと思う。
 けれど、彼はすぐに顔を柔らかく綻ばせ「分かった」と答えた。私はその答えにホッと胸をなで下ろすと、すぐに彼から「だが」と言葉を続けられる。
「君も、俺達に迷惑をかけて申し訳ないなんて二度と思わないでくれよ?」
 おあいこだ、と彼は蠱惑的に微笑んだ。その笑みに、ハートのど真ん中をドスッと簡単に射抜かれる。
 こんな挑発的な笑みを浮かべる人だったなんて、とたまらないギャップにやられてしまったのだ。
 あぁ、もうこれは完璧に清黒さんに惚れている証拠だよね・・?
 きゃーっと内心で黄色い悲鳴をあげた、その瞬間。「何してんのよぉ!」と理性と言う名の私から激しい突っ込みが入り、浮ついていた私がバキッと殴り倒される。
 その衝撃で、私は「そうだ・・」と当たり前の事に気がついた。
 恋心ほど、バレちゃいけないものはないんだから。こんなに分かり安くときめくなんて論外だよね。
 馬鹿じゃないのと私を責める理性に「ごもっともです」と頷くが。理性は「甘いわよ」と言う様に、くどくどと説教を続けてくる。
 こんな国宝級イケメンに値する程の人が彼女いない訳ないでしょ。それにこの人は私の事を守る対象としか思っていないよ?正義感が強いし、鏡番のトップだから目をかけているだけ。
 分かる?この人が特別な感情を私に抱く訳ないの。だからこっちが浮ついたり、ときめいたりしても、後々悲しくなるだけだよ。
 理性の容赦ない正論が、ドスドスッと心に深く突き刺さっていく。おかげさまで、浮ついた気持ちが鎮まったどころか、ズシンと石の様に心が重たくなった。
 しばらく好きな人なんていなかったから、心から忘れ去られていた切ない感情が戻って来る。
 恋心ほど、苦しいものはない・・。
「大丈夫か??」
 不安げな声が耳に入り、私はハッとする。
 急いで目の前に意識を集中させると、清黒さんが私を不安げな眼差しで見つめていた。桔梗さんも同じ顔をしている。
 私は慌てて「あ、ごめんなさい!」といつもの笑みを上手に取り繕った。
「何でもないです、ちょっとボーッとしちゃいました!」
 アハハッと笑い飛ばす様に元気よく答える。
 清黒さんは「本当か?」と言わんばかりの顔をしていて、胡乱げに突っ込んできそうになったけれど。彼が何かを言う前に、ズボンに入っていた私のスマホが綺麗なメロディを奏で、彼の口を閉ざした。
 これぞまさしく天の助け!助かったぁ!
 内心では嬉々としながらも、表では申し訳なさそうに「ごめんなさい」と断りを入れてから、スマホを取り出した。
 画面に表示されていたのは、「律華ねぇ」。その名前で「そう言えば、私、律華ねぇと映画に来ていたんだ!」と思い出し、慌てて着信ボタンを押した。
「ごめん、律華ねぇ!」
 開口一番に謝罪を入れると、電話の向こうから「うるさっ」と突っ込みを入れられたが。すぐに律華ねぇは自分のペースを敷いて「やっっと出たわね。アンタ、今どこにいる訳?」と尋ねる。
「電話も出ないし、メッセージも既読付かないし。どんだけ心配したか」
「ごめん、ちょっと色々あったの。でも、大丈夫。問題無いよ。今戻って来て、律華ねぇと別れた所の近くに居る」
 安心させる為に少し口早に答えると、律華ねぇからはーっと安堵の息が零れた。
「じゃあ、本当に大丈夫って事で良いのね?」
「うん、大丈夫。心配かけてごめんね。律華ねぇ」
 律華ねぇは「ほんとよ。猛省して、アタシに心配をかけさせた事に」と私を責める様に言うが。その声は柔らかく、心の底から安心している声だった。
 私はそんな律華ねぇに、もう一度「ごめんね」と伝える。律華ねぇはそれを受け取ると、ふうと短く息を吐いてから「もう良いわ」と投げやりに答えた。
「アンタも無事だし、映画も見られた事だしね」
 サラリと告げられた最後の一言に、私は「えっ?」と愕然としてしまう。
「ちょ、ちょっと待って。律華ねぇ・・・映画、見て来たの?一人で?」
「そうよ。いや、ね?辞めとこうって思ったわよ、勿論。でも、お金が無駄になるって思ったら、見てくるしかないって思ったのよ。結構面白かったわ」
 あっけらかんとした告白に、私は「えええっ」とすぐに非難の声を上げた。
「妹の事は心配じゃなかったの?!」
「心配だったわよ。大切な妹だから、当たり前にものすごーく心配したわよ?」
「そう言う割には、一人で映画行ったじゃん」
 ぶすっと不満げな声で突っ込むと、スマホの向こうに居る律華ねぇは「まぁね」と、ケロリと開き直る。
「叶架、アンタはアタシの妹でしょ?だからね、大丈夫だって思ったのよ。そんで案の定アンタは無事だった。ね?アタシは映画を見てきて大正解だったって訳よ」
 おかしな点があるなら言ってみなさいよ、と言わんばかりに言われ、私はグッと言葉に詰まってしまった。
 確かに、騒ぎ立てられていても困る所だったのは間違いない。大勢を巻き込んだ大騒動に発展しなかったのは、律華ねぇがドンと構えていたおかげだ。
 だから律華ねぇが映画を一人で見た事については、ある意味正しい選択だったと言える。
 でも、その選択には私としては突っ込み所が沢山ある訳ですよ。
 もっと心配してよ!もっと必死に探してよ!映画見る余裕なんてないはずでしょ!って言う、怒濤の突っ込みが。
 けれど、それらは律華ねぇにぶつけられないし、ぶつける必要もないのだ。
 それらをぶつける事が出来る時は、何もなくて良かったねと収まる結果で終わっていなかった場合のみだから。
 私は、はぁと嘆息してから「そだね」と苦々しく答えた。勝利を掴んだ律華ねぇは、ふふんと鼻を鳴らしてから「じゃあ、帰るわよ」と言う。
「今アタシ、二階に居るから。すぐ来て、絶対に寄り道しないでまっすぐ来るのよ」
「ん、分かった」
 ブツッと電波の繋がりが切れると、私は重々しいため息をつきながらスマホを耳元から離す。
 その時。私は目の前がお留守になってしまっていた事に、ようやく気がついた。
 私は気まずさやら恥ずかしさやらで、爆発しそうになってしまうが。グッと奥歯を噛みしめて堪え、曖昧な笑みを作って浮かべる。
「す、すみません。見苦しい所を・・・」
 頭を少し掻きながら謝ると、彼は「俺も身内にそう言う系統の人が居るから。よく分かる」と絶妙なフォローを入れてくれた。
 気を遣わせてしまって申し訳ないと思うと同時に、羞恥心や気まずさがより刺激される。
 私は「すみません」と蚊の鳴く様な声で答え、体をこれでもかと言う程に縮込ませた。
 そしてその気まずさと羞恥心から逃げる様に「あの!急いで姉の元に戻らなくちゃいけないのでもう行きます!」と、口早に宣誓する。
「それじゃあ!」
 バッと勢いよくターンしたが。「俺達も一緒に行こう」と言う一言のせいで、足がもつれ、その場で倒れない様にたたらを踏んでしまった。そればかりか、「はいっ?!」と素っ頓狂な声が零れ、目は飛び出そうになり、口は半開きでキープされる。
 けれど、彼はそんな奇行を気にも止めずに「お姉さんの元に連れて行ってくれるか」と、大真面目に案内を促してきた。
 私は思わず「どうして?」と、タメ口で突っ込んでしまう。
「勿論、君のお姉さんに謝りに行く為だが」
 きょとんと返された言葉に、私は「謝りに行く?」と眉根を寄せた。
「ど、どうしてですか?清黒さん、何も悪い事していないのに」
 敬語は取り戻されたものの、理知的な姿勢は未だに取り戻せず、質問を重ねてしまう。
 それでも清黒さんは呆れる事無く、丁寧に答えてくれた。
「組織の不始末は一番上が責任を負うべき事でもあるし、俺にも一因がある事は確かだからな。それに俺から話を通しておけば、君がお姉さんに怒られる事も、何かあったのかと突っ込まれる事もないだろ?」
「それは、まぁ、そうですけど・・・」
「だから俺達も行く。念の為に、桔梗は離しておくが。俺一人だけでも、しっかりと君のお姉さんには頭を下げないといけない」
 清黒さんはきっぱりと言うと「早く行こう。そうしないと君が怒られてしまうからな」と、私を急かした。まるで、これ以上の意見や質問は必要ないと言わんばかり。
 私はそんな彼に気圧されて何も言い返せず「じゃあ・・」と、先を歩き出した。
 そうして一緒に律華ねぇの元に向かって行くが、私の内心は穏やかなものじゃなかった。
 だって、これから対峙する相手はキャピキャピ女子の権化とも呼べる律華ねぇだよ?
 こんな国宝級イケメンを連れて行けば、絶対騒音レベルで騒ぐ事間違いない。ただでさえ、今も他の女性の方からの歓声が凄いのに。これ以上が、待ち構えているかと思うと・・・。
 なんて思い、私は二人の対面に変な緊張感を持っていたのだけれど。
 いざ二人が対面すると、律華ねぇは冷静沈着だった。清黒さんの低心頭の謝罪をキチンと受け入れ、まことしやかに語る話をまっすぐに聞き、話の締めに至っては「わざわざ妹を連れてきて下さり、ありがとうございました。お手数をおかけいたしまして、申し訳ありません」と、キチンとお礼を述べていた。一瞬たりとも、はしゃぐ事はなかった。
 私にとっては、それがもの凄く衝撃的だったから、会話の途中で「どうしちゃったの、律華ねぇ」って、何度突っ込みそうになった事か。
 だから律華ねぇと二人で帰路についた時、私は堪えきれずに訊いてみた。「あの人、格好良くなかったの?」と。
「え?バリバリに格好良かったわよ?一緒にいたアンタが羨ましかったから、殴りかかろうとしちゃったわ」
「えっ、そうだったの?でも、それにしては全然騒がなかったじゃん。いつも俳優とか見ると、イケメンだってはしゃぐくせに」
「あのねぇ、アタシは誰彼構わず騒ぐ馬鹿じゃないのよ」
 律華ねぇは呆れ混じりに答えると、ニカッと白い歯を見せて笑い「こういう二人だけの時に、あの人イケメンだったよねって騒ぐ方がうんと良いのよ」と、私の額に軽いデコピンを打ち込んだ。
 いてっ!と額を押さえ、与えられた痛みに小さく呻くが。私の心はぽかぽかとしていた。
そしてあまり持つ事がなかった姉への尊敬の念が沸々と生まれ、その温かさを彩っていく。
 律華ねぇが、私の姉で本当に良かったなぁ・・。
「叶架、アンタ何かコンビニで奢んなさいね。心配かけさせた罰としてだから、拒否権は無いわよ」
 前言撤回。律華ねぇを尊敬するのは、まだ先の話だね・・。

 その翌日、私は昨日と同じ映画館の前に立っていた。周りから見れば、私は平然と誰かと待ち合わせをしている人に見えるのだろう。
 でも、そう見えるのは私の努力の賜。実は、必死に冷静な顔を取り繕っているのだ。
 こう言えば、もう分かるだろうけれど。今の私は、激しくバタバタと慌てふためいている。ドコドコッと心臓が古の儀式に使われていた大太鼓の様に鳴り、視界も普段より何倍も窮屈だ。耳も辺りの喧噪を一切入れてこない。聞こえる音と言えば、自分の浅薄な呼吸と大き過ぎる心音だけ。
 自分の世界だけに、これほど精一杯になった事は十八年生きていて初めての事だと思う。
 なんでこうも私が凄まじく荒ぶっているのか、と言うと・・・。
 今、私が待っている相手が清黒さんだからだ。
 それだから、あまり袖を通した事がない、大人っぽいブルーグレーのプリーツワンピースだって着ちゃっているし。いつもそのままの髪だって、今日は編み込みハーフアップで纏めているのだ。
 彼の隣を歩くに少しでも相応しい様にと、大人らしさを重視しつつ、気合いの入り込み具合も上手くかき消す様なコーデにしたけれど。女子高生らしい可愛さをもっと取り入れた方が良かったかなぁ。
 なんて事を思いながら、ワンピースのリボンを直していると。ふと、昨日の事を思い出した。今日この時間を迎えるきっかけとなった、昨日の夜九時頃を。
 始まりは、私の部屋の窓をコンコンッとノックする甲高い音。二階の部屋だから、普通じゃあり得ない音に「ひっ」と、恐怖で竦みそうになったのだけれど。
「叶架お嬢様、夜分遅くに大変申し訳ありません。桔梗でございます」
 と、桔梗さんの声がしたものだから、恐怖は一気に解かれ、急いで窓を開けた。(丁度湯上がりのパジャマ姿だったから、恥ずかしいなぁ。とは思ったけれど・・)
 窓を開けてみると、そこにはミミズク姿の桔梗さんがパタパタと飛んでいて「お休みになられる所でしたか?」と、申し訳なさそうに尋ねてくる。
「いえ、まだですから大丈夫ですけど。どうしたんですか?」
 私が尋ね返すと、桔梗さんは窓枠に止まり、キュッと羽を収めてから「主様からお手紙を預かって参りましたので」と、にこやかに右足をあげて答えた。
 彼の細い足に、手紙がキュッと結ばれているのを見た瞬間。某魔法学校の世界だ、と心の中で突っ込まずにはいられなかった。
 けれど、そんな突っ込みを打ち消す様に私は軽く頭を振ってから「すみません、取りますね」と彼の足から手紙を解き、パタパタと広げ、文に目を通す。
『今日は鏡番の内輪揉めに巻き込んでしまい、本当に申し訳なかった。君と別れて、すぐに鏡番の家々で集まり色々と決定したから、この様な事は二度と起きないはずだ。起きてしまったとしても、今度は必ず未然に防ぐから安心して欲しい。
 まぁ、次の事に関して先の話だと思う。師匠がえらくお怒りになっていたからな、当分反抗勢力も大人しいはずだ。あんな姿を目にしたんだからな、大人しくならざるを得ない』
 私は文の途中だったが、五十鈴さんの半端ない怒り具合が目に浮かび「わぁ」と小さく零してしまった。
「五十鈴さん、そんなに怒って下さったんですね・・」
「えぇ、五十鈴様の怒り具合は半端ではありませんでしたね。牙琥でも止められず、鏡番の五人、十二天将が三人出張ってようやく止められましたよ。ですが、その時にはすでに実行犯の騰蛇と大黒司怜人様は瀕死でしたけどね。崇人様はご高齢の為、手はあげられていませんでしたが。幾度もあげそうになりましたし、口撃が凄まじかったですよ」
「それは・・・凄いですね・・・」
 私の代わりにやり返してくれて、胸がスッとすく様な思いになるかと思えば。大黒司の面々を不憫に思ってしまう。
 けれど「まぁでも、自分が蒔いた種だからなぁ」と思い直す事にして、私は改めて清黒さんの手紙に目を落とした。
『それで、本題だが。明日、今日見るはずだった映画を見に行かないか?』
 淡々と書かれた一言に、私は「えっ?!」と驚愕してしまう。下から「叶架、うるさい!何時だと思ってんの!」と、母さんに怒鳴られたけれど。それを無視して、私は続きを読み進めた。
『お姉さんは見てしまったのだろう?だから俺とで良ければ、一緒に見に行かないか?勿論、断っても何も問題ない。
 何も問題がなく、俺と行っても良いと思ってくれたのであれば、明日の十三時に映画館前で待ち合わせして、十三時半の回を見る形でどうだろう。
 最後に、これから先の事を考えて、君と連絡先を交換しておきたい。これが俺の電話番号だから、連絡を入れて欲しい』
 と、清黒さんの携帯番号が綴られ、その下に綺麗な達筆で紲よりと締められてあった。
 清黒さんと・・・一緒に映画?!
 キャーッと歓喜の叫びをあげそうになるのをグッと堪え、私は「これ、本当ですか?」と桔梗さんに確認を入れる。桔梗さんは「ええ」と苦笑気味に答えていた。(今思い返してみると、多分私が興奮過ぎたからだろうな)
「叶架お嬢様さえよろしければ、ぜひ主様とご一緒にどうでしょうか?お返事は、私の方からでもお伝えできますが。主様に直接して頂けると幸いです」
 と、桔梗さんがニコッと目を細めた所で。少し長めの回想に終止符を打ち、私は意識を現在に戻した。
 昨日の夜から、今この瞬間も私はずっとドキドキとしたまま。
 初めて男の人と二人で映画に行くから?それとも、相手が自分の好きな人だから・・?
 私はパチンと両手で頬を叩き「いやいやいや」と、小さく吐き出した。
 落ち着いて、私。清黒さんは、お詫びとして付き合ってくれているだけよ。あの人は義理堅い人だし、そういう所が細かい人だから。あっちは好きとかじゃないから、こっちだけだから。
 心の中で淡々と言葉を敷き詰め、最後に「あっちは今回の事に、何の思い入れも無いんだからね」と、釘をしっかりと打ち込んだ。
 すると途端に、荒ぶる自分がひゅんっと大人しくなっていく・・いや、違う。これは瀕死に近づいていっているのだ。どうやら私の恋心が、相当な大ダメージを負ってしまったらしい。
 はぁぁと絶望的に嘆息し、がっくりと肩を落としてしまった。
 その刹那
「早いな」
 聞き馴染みのある声が、しっかりと鼓膜を通って入って来た。
 その声にハッとし、心の世界から現実に戻ると。いつの間にか、目の前に清黒さんが立っていた。
 無地の白Tシャツと紺色のサマージャケットに、黒のズボンと、いつものラフな感じとは少し違った大人なファッションだ。
 あぁ、この服装で良かったぁ!これじゃなかったら、きっと幼く見えすぎていた所だったぁ!と、内心でガッツポーズを取ってしまう。
「すまない、待たせてしまったか?」
 彼の問いに、荒ぶる自分を艶然と取り繕い「いえ!」と首を横に振った。
「ついさっき着いたばかりです!」
 本当は三十分以上も前に着いちゃって、一人そわそわと早くから待っていたけれど。それは隠して、今さっき来たと嘯く私。
「清黒さんも早いですね。まだ待ち合わせの十分前じゃないですか」
「あぁ。まぁ、君より早くに着いておきたかった所だけどな」
 さらっと何でも無い風に打ち返された答えに、必死で取り繕っている表がガラガラと音を立てて崩れ、赤々とした照れが姿を現し始める。
 だって、こんな事を目の前で言われたら!しかも、相手が自分の好きな人ときたら!誰だってこうなる!
 私は文字通り、軽く泡を食ってしまうが。それらを全て誤魔化す様に「そう言えば!」と声を張り上げ、強引に話題を次へ変えた。
「今日は、桔梗さん居ないんですか?姿が見えないし、声もしないんですけど」
 軽く見渡してから尋ねると、彼は「桔梗・・?」と、何故だか眉根をキュッと寄せる。
 そして「まぁ、居るには居るが」と渋面で答えられてから「何故?」と返されてしまった。
 そんな風に突っ込まれるとは思っていなかったから、言葉を詰まらせてしまう。聞かなきゃ良かったかも・・なんて後悔も、内心に小さくじわりと生まれた。
「えーっと、た、大した事じゃないですよ?いつもは清黒さんの隣に居るのに、どうして今日は居ないんだろうなって気になって」
 しどろもどろに答えると、彼の顔から「ああ」と怪訝がスーッと引いていく。
「居ない訳じゃない、出さないと言うだけだ。桔梗自身も、今日は外に出ないと言っていた。だから今日は俺だけだ」
 口元を軽く綻ばせて返されると、私の体にトキメキが走った。ほんの数秒前に生まれた小さな後悔なんて、この微笑で簡単に消される。
 ドコドコと心臓が再び大太鼓の様に鳴り出し、顔も堪えきれずにゆるゆると瓦解していくが。幸運にも、彼はそんな私に気がつかなかった。腕時計に目を落とし、時間を見ていたから。
 危な!と思いつつ、トキメキをぱーっと一掃し、自分の体勢を整える。
 だから彼の顔がパッと上がった時には、すでに元通り。何食わぬ顔で彼と対峙した。
「少し時間に空きがあるが、どうする?席はネットで取ってあるから良いとして、もう中に入るか?それとも近くの店を見て回るか?」
「うーん、時間的にはもう中に入っていた方が良いのかなって思います」
「ん、じゃあ中に入ろう」
「ハイッ!」
 私は元気よく頷くが、「あ!」と零してから慌ててバッグに手を伸ばす。
「その前にチケット代渡します!」
 手が財布を掴み、バッグの中で宙に上がるが。「いらない」とぴしゃりと言い放たれ、財布は宙ぶらりんの状態で止められてしまった。「えっ?いや、でも」と食い下がると、彼はさっきよりも強く「本当にいらない」と言い放つ。
「良いから、行くぞ」
 フッと柔らかな微笑を零してから、彼は先を歩き始めた。
 私は慌ててその後ろを追って「ありがとうございます」と横に並び、映画館の入り口をくぐっていく。
 扉が開くと、外には無かった喧噪が訪れた。そしてそれと同時に、私の耳元で彼がコソッと耳打ちをする。
「今日の服と髪、とても似合っているな」
 喧噪にかき消されない様に耳元で囁かれ、その艶やかな声が脳内までしっかりと届く。
 私はボンッと爆発し、あわあわと囁かれた耳を押さえた。急速に血が駆け、バコンッバコンッと聞いた事ない音で心臓が跳ねる。
 こ、こんな不意打ち無理、ずるい・・!
 私が惚けて立ち止まってしまっていると、少し先を歩いていた清黒さんがきょとんとした顔で振り返った。
「ん?行かないのか?」
 なんて、白々しく尋ねてきちゃって。本当にずるい、この人!
 私はグッと歯がみしてから、パッと耳元から手を離し「行きますよ!」と、隣を歩いた。ツンとして、綻んでしまいそうになる自分を必死で繋ぎ止めて。
 けれどその時も、脳内で彼の言葉が低速再生で繰り返されていた。
 ようやくその再生が止まったのは、映画が始まって数分後くらいだった。
・・・
「結構面白かったな」
「はい、最高でした!しかも続編が出そうな終わり方でしたよね?いつ出るのか楽しみだけど、ちょっと焦れったいかも」
 興奮冷めやらぬ状態で答えると、清黒さんは「だな」と口元を綻ばせる。
 私はその微笑みに、少しぐらりとしてしまったが。そのトキメキを誤魔化す様に「それにしても!」と声を上げた。
「清黒さんもこういうヒーローものの映画見るんですね!こういう映画は見ない人なんだろうなぁって思っていたので、意外でビックリしちゃいました!」
 ペラペラと勝手に口が動き、言わなくて良い事までも突っ込んでしまう。
 ああぁ、余計な事を!と内心で悶えるが。彼はその突っ込みを素直に受け取り、「意外?そうか?」と、軽く首を傾げた。
「結構好きで、よく見るぞ」
 清黒さんは端的に答えると「あと、前々から言おうと思っていたんだが」と、徐に話題を切り替える。
「俺の事、紲で良い。清黒さん、じゃなくて」
 唐突な申し出に、私は「えっ?!」と狼狽えてしまうが。彼は淡々と「自分で言うのもなんだが、清黒って言いにくいだろ?」と話を続ける。
「だから紲で良い」
 いやぁ・・良い、と言われても。急に名前呼びするのは、大分勇気がないと出来ないし・・。
 私は「ええっと」と口ごもり、目をバシャバシャと泳がせ、逃げ道を探す。
 けれど、目の前から「早く」的な感じの圧が送られて来ているせいで、逃げ道が次々と消えていく。
 ううぅ、これは言うしかない・・。頑張って言おう、名前呼びをしよう!
 頑張れ、私!たかだか名前呼びでしょ!と及び腰になる自分を叱咤し、「じゃあ」と恐る恐る吐き出した。
「紲・・さん?」
 彼の名前を口にした瞬間、自分の中にあった照れがボンッと爆発する。たかだか名前呼び、されど名前呼びだった様だ。
「さん付けじゃなくて良いが・・まぁ、それが精一杯そうだな」
 紲さんはクスッと悪戯っ子の様な笑みを零し、余裕の無い私をからかう。
 小馬鹿にされた様な感じに、私の負けん気スイッチがカチッとオンになり「紲さんも呼んでみて下さい」と、突っかかりに行ってしまった。
「私の事、呼び捨てで呼んでみて下さい!」
「叶架」
 間髪入れずに、サラリと名前を呼び捨てされてしまう。何故、名前呼び程度で恥ずかしがるのか分からないと言わんばかりで。
 そんな彼を前に、荒んでいた私はどうなったか。
 ときめく要素がギュッと凝縮された名前呼びに、完全なる返り討ちに遭ってしまった。
「そこまで照れられるとは思わなかったな」
 益々意地悪くなった笑みで言われたおかげで、私はすぐに平常心を取り戻す。
「照れてません。全然、全く、微塵も!」
 心外と言わんばかりに噛みつくと、彼は「そうか」と軽やかに私の怒りをいなし「で、どうする?」と、にこやかに尋ねた。
「カフェでもよるか?」
 強引な気の取りなし方に、私は「どちらでも良いですけど」とブスッとして答える。そんな私に、紲さんはクスッと笑みを零した。
「じゃあ、行くか?まだ時間もあるしな」
「はい・・」
 私が膨れっ面で答えた瞬間、「主様!」と桔梗さんの切羽詰まった声が聞こえた。
 あれ?桔梗さん?と思い、上や横を見渡すが。彼の美麗な姿はどこにもない。
 私が困惑していると、紲さんが辺りを見渡してから「出ろ」と端的に言葉を発した。
 すると彼が付けているシルバーのバングル、その中央に填められている小さなアメジストが光り、ヒュンッと何かが飛び出す。その光が弱まると、バサッと大きく翼を広げたミミズクバージョンの桔梗さんが現れた。
 わお!と驚嘆が飛び出そうになったけれど。彼の「デート中の所、大変申し訳ありません!」と言う第一声によって、その驚嘆は「違いますけど?!」と言う鋭い突っ込みに変わった。
 だが、紲さんも桔梗さんも、その突っ込みに反応する時間も惜しい様で「どうした?」と、冷淡に会話を続ける。
「太裳《たいじょう》より緊急連絡です。十二天将継ぎの鏡番、総員の緊急招集がかけられました。主様にも、すぐ東京本鏡にお戻りいただきたいとのことです」
 切羽詰まった報告に、紲さんは愕然とし「何があった?」と詰め寄った。
「本鏡五点、同時襲撃が起きた様です」
「何だと?!」
 紲さんは声を張り上げ「馬鹿な」と蒼然とし始める。
「・・玄武の守りはどうした」
「玄武の居る北海道本鏡から攻め、守りが弱まった他四点を同時に破ってきたそうです」
 苦々しく告げた桔梗さんの言葉を聞くと、紲さんは絶句してしまった。鏡番の触りしか知らない私も、彼等が蒼然としている様子で、流石に異常事態が起きていると分かる。
「私の方で、羽織と刀の支度は整えてあります。すぐに参りましょう」
「・・あぁ」
 渋面のまま頷くと、紲さんはこちらを向いた。
「すまない、俺は本鏡に行かないといけない。だからカフェはまた今度だ」
 伏し目がちに申し訳なさそうに告げる彼に、私は「大丈夫ですよ」と首を振りながら答える。
「緊急事態だって分かっていますから」
「すまない、ありがとう」
 強張った顔を柔らかく崩すと「叶架は気をつけて帰ってくれよ」と、私の頭にポンと手を乗せてから、足早にどこかに駆けていった。
 多分、人目に付かない鏡に向かっているのだろう。そこから東京のどこかにある本鏡に赴く為に。
「気をつけて下さいね」
 彼の後ろ姿を見つめながら、ぼそりと吐き出す。その言葉は、風によってあらぬ方向へ運ばれてしまった。彼の耳に届かず、どこかに虚しく消えていく。
 胸がギュッと締め付けられた。
 自分の声が彼の耳に届かなかった事に?彼が私の言葉を聞かずに行ってしまった事に?彼が危険な所へ行ってしまった事に・・?
 ううん、違う。きっとそんな理由じゃない。
 安全な世界に居続ける私を慮った彼の一言に、私の胸はギュッと締め付けられているのだ。
「叶架は気をつけて帰ってくれよ」
 彼はそう言った。叶架「は」と言い、私を自分達鏡番の世界とは無関係の存在とした。
 自分はこれから危険な戦場に赴き、恐ろしい存在と戦うと言うのに。安寧な世界に居続ける私なんかを憂慮してくれたのだ。
 それだと言うのに・・。私は「気をつけて」とただ見送るだけで、何もしなかった。
 恥ずかしくない?
 自分だけにしか出来ない事があるくせに、それを放棄して、何もしないで見送るだけなんて。
 本当に情けなくない?
 自分ばっかり、自分の世界を守ろうとして。いつまでも傍観者で居続けるなんて・・。
 心に黒い染みが生まれると、じわじわと責め立てる様に内側を蠢いていく。
 いい加減、逃げる事を辞めたらどう?いい加減、自分のやるべき事を全うしたらどう?
 そうよ、五十鈴さんも言っていたでしょ。世界がどうとか、責任がどうとか。そう言うのが嫌なら、ただ単純に自分の好きな人の為に動くんだって思ったらどう?
 彼が怪我する所は見たくないでしょ?彼が倒れたりするなんて絶対に嫌でしょ?
 でも、自分が側に居たら、彼の怪我は治せるし、未然に防げる事も出来るかもしれないんだよ?
 それって、私にしか出来ない事なんだよ?好きな人の力になれるって、滅多にないよ?
 こんこんと敷き詰められていく言葉で、私はハッと気がついた。
 私を責め立てているのが、「私」だと言う事に。
 ずっと見て見ぬ振りをし続けて、内側で離反していた私を「私」が迎えに来たのだ。
 そうだ。もう逃げないで、ちゃんと受け入れなくちゃ。
 私は「私」が差し伸べている手を取る。
 ギュッとその手を強く握った刹那、隔てていた境界線がパリンと音を立てて砕け散った。私の世界と向こう側の世界が、一つの大きな世界となる。
 そうして初めて分かる。境界線を引いていた向こうの世界が私の世界に繋がっても、何も変らない事に。ただ少し目の前に広がる世界が大きくなっただけだった。
 私が変ってしまうかも、自分の世界が変ってしまうかも。なんて思っていた自分が馬鹿みたいに思う。
 私は私のまま、神森叶架のままだ。私の性格も、私の気持ちも、何も変わらない。
 私は頬を挟み込む様に両手でパチンと強く打った。頬がヒリヒリと痛むが、その痛みはメラメラと燃え上がる決意に飲み込まれていく。
 こうして呆然と突っ立っている場合じゃない!私も行かなくちゃ!急いで紲さんを追わなくちゃ!
 鏡を通してどこかに行くやり方は、何回か見ているから。多分、私も鏡を通って本鏡に行けるはず!
 地面に突き刺さっていた足をバッと引き抜き、私は彼の居る世界に向かって駆け出した。
 自分の足で力強く進む、少し大きくなった世界を。
 そうして人目に付かない鏡を見つけると、私は「あった!」と小さく声を上げて駆け寄った。
 えーっと、名前を言ってからどこに繋げてくれって言えば良いんだよね。東京の本鏡に繋げてって言えば良いのかな?
 あ・・そう言えば、前に五十鈴さんが京都本鏡連絡鏡に繋いでくれって言っていたから。東京本鏡連絡鏡に繋いでくれって言えば、紲さんの居る東京の本鏡に繋がるよね?
 後の事は・・・ノリで行こう!ノリでなんやかんやうまく行く事も多いし!大丈夫、いけるいける!まぁ、多少向こう見ずな気もするけれど・・大丈夫だ!
 私は自分を無茶苦茶に叱咤してから、鏡の中の自分としっかり目を合わす。
「神森叶架です。あ、玉陽の巫女の神森叶架です。東京本鏡連絡鏡に繋げて下さい」
 強張りながら告げると、鏡がぶわんっと波紋を作った。
 この波形って、繋がったって事だよね?いつも紲さんがやっている形と同じだから、大丈夫だよね!
 やった!と思い、足を一歩踏み出そうとした。
 その瞬間だった。
「そっちから来てくれるなんてなぁ、手間が省けたぜぇ」
 全身が総毛立つ様な恐ろしい声が聞こえたかと思えば、波紋からいつぞやの赤い手が素早く伸び、私の手首をガシッと掴んだ。
 そして振りほどく間も無く、私は呆気なく鏡の向こうの世界へと引っ張り込まれてしまった。
 暗雲漂う紫色の空が広がり、荒廃しきった土地が広がっている。禍々しい空気が漂い、呼吸するだけでも不快感を覚える。肌を突き刺す様な冷気もビシビシと感じるけれど。これは冷気と言うよりも、目に見えない棘だ。可視化出来ない棘で、全身を傷つけられている様に感じる。
 けれど、今の私はそれらの嫌悪に意識を割かれていなかった。それらの気持ちをぺしゃんこに潰す程、目の前の恐怖が私を圧倒している。
 邪悪な笑みを浮かべて、私の手首をがっちりと力強く掴んで離さない。人の様な姿をしているけれど、人ではない事は一目瞭然だ。
 全身大火傷を負った様に真っ赤で、傷痕だらけの肌。鋭い牙と爪。凄まじい憎悪を孕んだ真っ赤な瞳。
 麻で出来た様なボロボロのズボンを履いているだけで、上裸姿で裸足。髪もボサボサで、身なりにはかなり無頓着な姿をしている。
 もしかしてこれが、讐?魁魔の中でも一番強くて、恐ろしい力を持っている存在・・。
 ヒュッと息を飲むと、ぐんっと乱暴に引き寄せられ、邪悪な笑みを近づけられた。
「うざったらしい邪魔が何度も入ったが。よぉぉやく、玉陽ぉ、てめぇを手に入れられたぜぇ」
 人間の男性の様な声なのに、まるで違う。そこに含まれている恐ろしい感情が、しっかりと感じられて、ゾクリと体の芯までも凍りつかせられてしまう。
「これからてめぇはこの俺様、羅堕忌《らだき》様に仕えるんだぜぇ?光栄に思えよぉ?」
 私の視界いっぱいに、邪悪で恐ろしい笑みが広がった。
 あまりの恐怖で、じわりと涙で視界を滲ませる事も出来ない。ガタガタと震える事も恐ろしくて出来ない。ただ全身を竦ませ、怯える事しか出来なかった。
 紲さん、助けて!紲さん!紲さん!
 何度も心の中で紲さんに助けを求めるが。その心を見透かされた様に「助けなんざこねぇよ」と、冷淡に告げられる。
「いや、来られねぇと言った方が良いなぁ。ここは魁魔の世界だぜぇ?他の人間共は、誰も来られやしねぇのさぁ。鏡番の奴らも来られねぇよぉ。お前だけだ、玉陽。ここに来られるのも、生きていられるのもなぁ」
 にんまりと口角を上げられて告げられると同時に、手首に付けてあったブレスレットを外された。
 ブチッとチェーンを引きちぎられると、目の前で粉々に砕かれる。チャームで付けられていた桔梗の花が、無残にパラパラと砕け散った。
 目の前で希望が散った様な感覚に陥り、深い闇に突き落とされる。
「紲さん・・・」
 彼の名を呼び、闇のどん底から手を必死に伸ばすが。彼の手を掴むどころか、手を見る事も出来ずにいた。
 そうして彼の名前が虚空に消えてしまうと、私は羅堕忌に「こっちだ」と、深い闇の中を引きずられてしまう。
 私も役目を全うするって決めたばかりなのに。役目を全うする所か、紲さんに会う事も出来なくなってしまった。
 あぁ、紲さんに私も付いて行くって言えば良かった。
 そうしたら、こんな事にはならなかったかもしれないのに。
 もっと早くに、自分から紲さん達の世界に飛び込んで行けば良かった。
 そうしたら、もっと長く紲さんの側に居られたかもしれないのに。
 本当に私は馬鹿だ・・・。それに臆病者で、救いようのない愚か者・・。
 自分を激しく責め立てる。馬鹿だ馬鹿だと、何度も酷い言葉をぶつける。
 けれど、自分を責めた所で何にもならなかった。どうしようも出来なかった。
 後悔がじわりじわりと自分を蝕むと、それはポロリポロリと目から零れ落ちていく。
 ボロボロと悔し涙ばかりが溢れ、私の全てが後悔に集中していくが。突然ドスッと腹部に強い衝撃を受けると、その集中が容易に弾け、私は本物の闇に引きずり込まれてしまった。
 ポタッポタッと不規則に雨が降る。荒廃している地面が小さく濡れ、星の様に散らばっていく。
 それに気がつく事はなかった。
 私も、羅堕忌も、他の誰かにも・・・。
・・Side 紲 俺がすべき事・・
 俺が鏡を通り、東京本鏡に現着すると。十二天将青龍の翠《すい》と、その主黒壁幸輝《くろかべこうき》を筆頭に、多くの鏡番達がすでに憎魔や妖魔と戦っていた。玄武の結界が弱まっているせいで、次から次へと妖魔と憎魔が押し寄せてきている。
「桔梗、止めろ!」
 桔梗に鋭く命令を飛ばすと同時に、自分の現着を周囲に知らせると「紲様だ!」「幸輝様、紲様が現着されましたよ!」と、歓喜やら安堵やらがあちこちであがった。
 憎魔と戦っていた幸輝も、俺の到着に気がつき、こちらの方にパッと顔を向け「紲!」と声を張り叫ぶ。翠も「あぁー、桔梗だぁ!」と喜色を浮かべた。
 二人とも、怪我は負っていない様だが。疲弊が現れていて、俺が来るまで前線で奮闘してくれていたとすぐに分かった。
「幸輝!遅れてすまない!」
「気にするこっちゃねぇよ、紲!俺達で一気に片付けるぞ!」
「ああ!」
 刀を抜き、ダッと幸輝達の加勢に駆けた。その瞬間
「六合の人間」「下がる」「戻ろ」「六合来た」「だからなぁに?」
 妖魔達が口々に言い合い、スーッと本鏡に戻って行く。
 すると桔梗が押さえていた憎魔達も「グオオオオオオッ!」と雄叫びを上げ、豪腕で枝を引きちぎり、くるりと踵を返して魁魔の世界に戻っていった。
 急に戦いを辞め、一斉に撤退していく。
 俺達鏡番は、その姿に愕然とした。奴らは、戦いを辞めてまで戻る事はない。鏡番を前にしていたら、必ず刃向かってくる。
 だからこんな事はあり得ない。示し合わした様に戻って行く事だって、普通ではないのだ。
 俺が目を白黒とさせ、目の前の事態に唖然としていると
「おいおい、どういう事だよ」
 翠に乗りながら、幸輝がこちらに寄ってくる。
「一斉に尻尾巻いて逃げるなんて事、今までなかったよな?て言うか、こんなの初めての事じゃねぇ?」
 幸輝はストンと翠から降り立つと、撤退していく憎魔をぼんやりと眺めながら独りごちる様に尋ねた。
「同時襲撃も、出てくる数も異常だったが。終わり方も異常だぜ。お前が来た瞬間撤退するなんてよ」
 釈然としないと言わんばかりに呟く幸輝に、俺は小さく頷く。
 すると翠が喜色を浮かべながら「リーダー、リーダー!安心してよぅ!」と、嘴を容れてきた。
「他の本鏡も、同じ状況になったって!これで平和だよぅ!良かったねぇ!」
 屈託の無い笑みで告げる翠に「マジかよ!」と幸輝は愕然とする。
「翠、本当か?」
 俺が冷静に尋ねると、翠は大きく頷き「ほんと」と答えた。
「幸輝が他に伝えておけってボクに言ったからね、他の十二天将達と連絡し合ったの。そしたら皆、自分の所もだって言ったよぅ。ほんとだよぉ、嘘じゃないよぉ」
 他四点も同じ状況だと?ここだけが異常と言う訳じゃないのか?
「何か、おかしい」
 怪訝を声に乗せて吐き出すと、不穏と言う土壌の中に何とも言えない焦燥感が植えられ、すくすくと大きく育っていく。
 何だ、この胸騒ぎは・・・。
 グッと奥歯を噛みしめ、軽く顔を歪めてしまうと。前からポンッと軽く肩を叩かれる。その衝撃にハッとすると、幸輝が「重く受け止める事はねぇさ」と、無邪気に笑っていた。
「今は取り敢えず、奴らが撤退した事を喜ぼうぜ」「そだよ、リーダー!僕らみたいに、もっとお気楽に構えなよぉ!ハイ、リラァックス~」
 二人からニカッと同じ様な笑みを向けられる。だが、俺の顔も心も晴れなかった。
 五点同時襲撃から始まり、五点同時撤退で終わる。奴らが徒党を組むなんて、あり得ない事だが。こうなると、奴らは協力し合ってこんな事をしたとしか思えない。
 何故そうなるに至ったのかは分からないが、何か狙いがあったのだろう。
 じゃあ、奴らの狙いとは何だ?奴らが徒党を組む程の「狙い」とは・・・。
 憮然としながら考え込むと「主様!」と桔梗の切羽詰まった声が、俺を現実に引き戻した。
 そして俺が「どうした」と尋ねようとする前に、桔梗は口早に告げる。
「叶架お嬢様が魁魔の世界に行かれました!近くに讐の気配を感じるので、讐に引き込まれた様です!」
 その言葉を聞いた瞬間。思考がぶっ飛ばされ、俺は本鏡の方へバッと駆け出していた。後ろで「叶架お嬢様って、まさか玉陽の巫女か?!」「えー、どうするのぉ?!」と、慌てふためく二人を置いて。
 これが不穏の正体か。奴らの狙いは、五点同時襲撃にあった訳ではない。
 俺達鏡番の主戦力を各鏡に集中させ、単体になった玉陽の巫女乃ち叶架を攫う事が目的だったのだ。
 俺の瞼裏に叶架の笑顔が映る。だが、その笑顔は瞬く間に黒い暗雲に覆われてしまった。まるでもう手が届かない様な嫌なイメージが広がり、俺はぶんぶんと頭を振る。
 叶架に俺の手が届かない事なんてない。叶架には、あのブレスレットがある。叶架には師匠が作ったと嘘を伝えたが。本当は俺と桔梗、そして十二天将・天空の合作で、GPSの様な物なのだ。
 何かあれば、すぐに桔梗が場所を把握して駆けつけられる様にしてある。だからいつも駆けつけられていた。
 間に合わなかった時はない。絶対に俺の手は届いた。この手で叶架を守る事が出来ていた。今回だって間に合うはずだ。
「主様・・」
 桔梗が重々しい声音で俺を呼ぶ。だが、俺はそれに答える事も、足を止める事もせずに、本鏡に突っ込んで行った。
「ブレスレットが破壊されました。叶架お嬢様の位置が・・把握出来ません」
 あと二歩で魁魔の世界に飛び込めたと言うのに、その前に絶望が俺を襲う。全てが黒に塗りつぶされ、手を伸ばしてみても虚空を掴むばかりだ。
 闇の中で立ち尽くしそうになった瞬間「ごちゃごちゃ考えている場合か!」と理性が怒鳴り、最悪だけを浮かべる頭を強く殴打した。
 その衝撃でハッと我に帰り、「その通りだ」と忸怩たる思いに駆られる。
 絶望に佇んでいる場合ではない。光が消えた訳ではなく、俺が闇に沈んでしまっただけだ。
 だから俺が突き進んでいけば、光を取り戻す事が出来る・・・!
 ふううと胸の内にあったものを全て吐き出し、羽織に仕舞い込んでいた護符を取り出す。
「主様、まさか!」
 桔梗が愕然とするが、俺は冷静に「そのまさかだ」と打ち返した。
「いけません、危険過ぎます!」
「それは百も承知だ。だが、叶架を助けに行くにはこれしかない。賭けだが、やるしかない。全鏡番に伝えておけ。何かあってもすぐ次は立つ、と」
「主様、今賭けに出ずとも良いではありませんか!何か他に手があるはずです!応援を呼ぶとかして、確実に叶架お嬢様を救える方法を打ち出しましょう!」
 必死に止めてくる桔梗に、俺は「次策を考える時間はない」とピシャリと言い放つ。
「叶架の身に危険が迫っているんだぞ。一秒でも早く動いた方が良いに決まっているだろ」
 ぶっきらぼうに答えてから、俺は護符の中で眠り続けている式神を覚ました。
 叶架、俺が必ず助けに行く。
 だからもう少しだけ、待ってろ。
「この我を呼び起こすとは・・紲よ。それ相応の事があってであろうな?つまらん事では、我は動かぬぞ」

 紲さんの声が聞こえた気がして、ハッと顔をあげて辺りを見渡す。けれど、どこにも紲さんの姿は無かったし、人の居る気配すら無かった。
 それはそうだよね。居る訳ないよね。ここは、魁魔の世界なんだから。
 案の定、幻聴だったので私はがっくりと肩を落とした。もしかしてと淡い期待を抱いてしまった事もあり、かなり気落ちしてしまう。
 体育座りの姿勢を更にキュッとコンパクトにして、顔を膝の間に埋めた。
 ここがどこかも分からないし、時間も分からない。それに逃げようにも、羅堕忌が目の前にずっと居るせいで逃げられない。
 絶望が重くのしかかり続ける状況は、私の気力をどんどんと奪っていった。今では逃げようと言う気力も、立ち向かう勇気も湧き上がってこない。
 もしかして紲さんの声が聞こえた気がしたのは、そんな自分を奮い立たせようとした自分の声だったのかな・・・。
 私は膝の間で、重々しいため息を吐き出した。余計な事をした小さな自分に、虚しい怒りが湧き上がる。おかげで零だった気力がマイナスになったよ、と。
 だが、その時だった。ずしんずしんと荒々しい足音が幾つも聞こえ、私はビクッとして顔を上げる。
 見れば、巨大なサイズの異形の化け物達が一斉にこちらに向かって来ていた。あれが憎魔なのだろうが、自分が想像していたよりも禍々しい容貌で恐ろしい。
 私は恐怖で身を竦ませてしまうが。憎魔達は私に向かってきた訳ではなく、羅堕忌の前で一列に止まった。
 何?どういう事?と眉根をキュッと寄せた瞬間、憎魔達が羅堕忌に猛々しく吠え始める。
「話、違う!」「お前、騙した!」「お前、与える、言った!」「嘘つきが!」「許さんぞ!」
 同じ魁魔だから、讐と憎魔は仲間同士で仲が良いと思っていたけれど。本当は、そうじゃなかった・・?
 私が目の前の光景に、少し驚いていると。轟々と吠える憎魔に対し、羅堕忌は冷笑を浮かべて「騙すだぁ?」と声を張り上げた。
「何を言っているのか、ちっとも分からんなぁ!能なしの弱者共をこの俺様の役に立たせてやったのだぞ!俺様に伝えるのは、感謝の言葉なんじゃねぇのかぁ?!」
 せせら笑いながら告げた言葉が、憎魔達の怒りに油を並々と注ぐ。
「鏡番と戦ってやった!」「仲間、殺された!」「お前のせい!」「玉陽を返せ!」
 先程よりも凄まじい罵声に、私は堪らずに耳を塞いでしまうが。突然中心に居た大柄の憎魔が、私にぎょろりと恐ろしい目を向けた。
 嫌な予感が警報のスイッチを押し、頭の中でうーうーとけたたましい警報が鳴り響く。
「玉陽は俺の物だ!」
 私の体がすっぽり入ってしまう程の大きな手が、容赦なくこちらに伸びてきた。あの手に捕まれば最後と言うのは、嫌でも目に見えている。
 だが、恐怖で竦んだ体を俊敏に動かすなんて、今の私には出来なかった。出来た事と言えば、迫り来る恐怖に目を大きく見開く事だけ。
 早く体を動かさないとダメ!動いて!動いて、体!動け、動け!
 心が必死に体を叱咤するが、頑として体は動かなかった。その間にも、巨大な危機は迫っていると言うのに。
 そして遂に巨大な手の影が私をすっぽりと覆い被さった、刹那。
「身の程を弁えろ、屑が!」
 荒々しい怒声が発せられたかと思えば、巨大な手が眼前でゴロリと落ちた。
 え?と思うやいなや、ブシューッと黒い血飛沫が飛び、断末魔の悲鳴が発せられる。憎魔は右手首を堅く押さえ、ジタバタとたたらを踏む程苦しんだが。
 それだけでは終わらなかった。
「俺様に敵わねぇ弱者が、舐めた真似すんじゃねぇ!この俺様の前で調子に乗るとどうなるか、思い知らせてやるよぉ!」
 羅堕忌は声を荒げると、ぴょんと軽やかに飛び上がり、憎魔の心臓部を素手でドスッと躊躇無く突き刺した。
 あれほどたたらを踏み、断末魔の叫びをあげていたと言うのに。羅堕忌が手を引き抜くと同時に、嘘みたいに大人しくなった。そして身じろぎ一つもせず、何の言葉も発さず、ただ白目を剥いてバタリとひっくり返る。
 羅堕忌はストンと着地すると、せせら笑いながら「俺様の前で図に乗ったんだ!当然こうなるわなぁ?!」と言い放った。
 命を躊躇いも無く奪った後だと言うのに。愉快と言わんばかりの笑みを浮かべている姿に、私の体に戦慄が走る。ぶわっと全身の肌が粟立ち、ガチガチに強張った筋肉のまま小さく震え出す。
 羅堕忌が見せた、圧倒的な強さと真の恐ろしさにしっかりと囚われてしまった。
だが、この場でそうなっていたのは私だけ。恐怖で身を竦ませている憎魔はいなかった。グオオオオッと恐ろしい咆哮をあげ、羅堕忌を取り囲む様にして一斉に襲いかかる。
 多数の敵に取り囲まれている羅堕忌はと言うと、まるで動じず、平然としていた。
 いや、平然としていた訳ではない。瞳を爛々と輝かせ、手をパキパキと挑戦的に鳴らしていた。
 恍惚とした表情にも見えるけれど、そこにあるのは恐ろしい感情だ。相手の命を奪える楽しみと言う、ひどく悍ましい感情に今の羅堕忌は染まっている。
 羅堕忌は「これだから無能共は」と嘲笑を浮かべながら唾棄すると、ドンッと力強く地面を踏みしめた。
 荒れ果てた大地にビキビキッと亀裂が走り、ゴゴゴッと唸る様に大きく揺れ動く。
「暇潰しだ、特別に遊んでやるよぉ!虫けら共ぉ!」
 怪獣大戦争の火蓋が目の前でぷつんと切られてしまった。
 激しい戦いに巻き込まれない様に、私は急いで物陰に隠れるが。岩陰に身を落とした瞬間、頭の中で名案と言う稲妻が迸る。
 これって、逃げるチャンスじゃない?!羅堕忌も憎魔も、私の事なんか眼中にない様に争っている。
 つまり今が逃げるチャンス!
 滅多に訪れない好機に気がつくと、頭で「こうしよう、ああしよう」と考えるよりも先に体が動き出していた。
 岩陰から、そのまま一直線に逃げ出す。後ろを振り返る事もなく、足を止める事もなく、ただまっすぐ突き進んだ。
 持久走は得意ではないし、足の速さだって中間くらいの私だけれど。未だかつてない程の走力を出し続け、無我夢中になって魁魔の世界を疾走した。そしてそれと並行して、頭の中であれやこれやと必死に最善策を巡らせる。
 ここがどこか、なんて今は関係無い!少しでも遠くに逃げる事が最優先!私が居なくなった事に気づかれる前に、少しでも遠くに逃げないと!
 でも、このまま走り続ける事が最善とは言えないよね。それは分かってる。体力もきっと持たないだろうし、他の魁魔に見つかって襲われる可能性もあるんだから。
 そうだ。身を隠しながら進もう!そこで出口を見つければ良いんだ。出口を・・。
 出口?・・・あっ!
「そうだ!」
 言葉の偶然が生み出したヒントに、私は声を上げ「それだ!」と興奮気味に走り出す。
 魁魔が鏡を通して、人間の世界に来ているのならばこっちにも鏡があるんじゃない?!それに紲さんが、玉陽の巫女は魁魔の世界と人間の世界を行き来出来るって言っていた!
 だから鏡を探して見つければ、私の勝ち!人間の世界に戻れる!
 どんよりと広がっていた暗雲に、一筋の光芒が差し込む。か細く差し込み、次第にゆっくりと幅を広げて、私をふわりと優しく包み込んだ。
 そうして温かな光が私の全身を覆うと、この世界から脱出してやると言う気概が瞬く間にメラメラと燃え上がる。
 走りながら鏡を探そう!それで紲さんの元に行くんだ!
 やってやる!と、辺りを見渡しながら走り出した。
 その時だった。
 ヒューッと言う落下音が遠くで聞こえたかと思えば、徐々に音が大きくなっていく。どんどんと不穏が近づいてくる様な音に顔を曇らせ、思わず立ち止まってしまった。
 そして急に止まった足が地面を擦ると同時に、ドオオオオオンッと爆発音が弾け、凄まじい衝撃波が生み出される。荒々しい音と共に襲ってくる砂礫や砂塵。咄嗟に目を瞑り、顔を守る様に腕を掲げるが。完璧に守る事は出来ず、隙間からピシピシッとそれらが侵入してきた。
 一体、何が起きたの・・?!
 砂塵の中、微かに目を開けると。私の行く手を阻む様に、巨大な黒い山がそびえ立っていた。
 でも、山にしては随分おかしな形だし。急に目の前に山が屹立するなんてあり得ない。
 じゃあ、山じゃなければ何?これは一体、何・・?
 視界が開ける様になるまで、私はジッと待つしかなかった。徐々に収まる砂塵が朧気にさせていた物の正体を明かしていく。
 その正体を目にした瞬間、私は慄然としてしまった。
 私が山だと錯覚してしまった正体は、あまりにも恐ろしいものだった。急にそびえ立つ不気味な山の方が、どれほど良かった事だろう。
 何かの見間違いではないか。目を大きく開き、目の前に落ちてきた物を視認する。
 けれど残念な事に、目の前の物は間違い無く、羅堕忌に怒り狂っていた憎魔のうちの一匹だった。
 恐ろしい牛の様な化け物の姿形が印象的で覚えていたけれど、さっきとは姿が違っている。片方の角は根元からバキリと折られ、ぎょろりと飛び出した目玉は色を映していなかった。ぽっかりと大きな空洞が胸に出来ているし、筋肉もだらんと弛緩しきっている。
 羅堕忌に殺されたのだと言う事は、一目瞭然だった。
 なんでこの憎魔は、こんな所に落ちてきたの?ふっ飛ばされて、偶然ここに落ちてきたって言う事?
 止まっていた思考を辿々しく再稼働させるが、恐怖に蝕まれているせいで動き出しが悪い。そればかりか、嫌な方向ばかりに思考が流れてしまう。
 私が逃げ出した事に気がついた羅堕忌が、もうすぐそこまで迫ってきているのではないか。牽制としてここまで飛ばしてきたのではないか・・・。
 ううん。違う、違う、違う!絶対にそうじゃない!悪い方向に飲まれちゃダメ。私が向かって行くのは、そっちじゃないんだから。絶対にそっちに行っちゃダメ!
 私はぶんぶんと大きく頭を振り、止まっていた足を一歩前に踏み出した、が。
「俺様は手間をかけさせられる事が大嫌いなんだよなぁ」
 ゾクリと恐ろしい声が聞こえ、バッと後ろを振り向いた刹那。急に喉元を圧迫され「あぐっ」と、呻きが飛び出した。地面からも簡単に足が離れ、体がプラプラと虚空に留まる。喉元の圧迫を剥がそうと、必死に手や体をジタバタと動かすが、喉元を締め上げている手が緩む事は無かった。
 羅堕忌は呆れた顔つきで「面倒を起こすなよぉ」と、ぶっきらぼうに告げる。
「俺様の許可無く勝手をするんじゃねぇよぉ。俺様がやれと言った事だけをやれ。俺様の手を二度と煩わせるんじゃねぇ。分かるなぁ?物は好き勝手しちゃなんねぇって事だよ」
 今度逃げようとしたら、こうじゃすまねぇからなぁ?と、にんまりと意地悪く口角の端をあげられると、パッと喉元の圧迫が消えた。
 ドサッと膝から崩れ落ち、ゲホゲホと何度もむせ込みながら、必死に堰き止められていた酸素を取り入れる。
 ぜはぜはと浅薄な呼吸を繰り返していると、脳内で羅堕忌の言葉が反芻された。
 私が物?こんな奴の、物?
 何度も何度も繰り返される横柄な物言いが、与えられた苦しさを徐々に怒りに塗り替えていく。
 冗談じゃない。私は私、神森叶架よ。物なんかじゃない。自分の意志をちゃんと持った人間よ。
 私の意志は、こんな奴の言いなりになんかなりたくないって叫んでいる。私の心は、ここを出て行くと奮い立っている。
 だからこんな野蛮で横柄な奴の言いなりになんか、絶対になるもんか。絶対に泣き寝入りなんかするもんか。
 絶対に人間の世界に、紲さんの居る世界に戻ってやる!
 臆すな、怯えるな、怯むな。
 私はもう何からも逃げないって決めたんだから!自分も戦うって決めたんだから!
「さっさと戻るぞ」
 羅堕忌の手が、私の手首に伸びてくるが。私はバシッとその手を強く振り払い、呼吸を無理やり整えながら羅堕忌を強く睨めつけた。
「私は、貴方の物なんかじゃ、ない!」
 きっぱりと力強く言い放つと、すぐに「あぁ?!」と声を荒げられ、怒りを露わにされるが。負けるもんかと自分を奮い立たせ、私は「貴方の言いなりになんか、成り下がらないから」と強気に出た。
「私は物じゃないから、意志がある。どんなに恐ろしい圧をかけられても、悍ましい力で縛り付けられようとも。私の意志は確固としてありつづける。だから私は貴方に抗い続ける。言いなりになんかならないから!」
 一方的に言い捨て、私は反対方向にダッと駆け出した。脇目も振らず、前だけを見て必死に走る。
 簡単に追いつかれるだろうけれど。それでも抗わないよりはマシ!今はとにかく走れ、前に向かって走れ、私!
 グッと強く歯がみし、呼吸の苦しさを紛らわせた時だった。
 突然私の腹に何かが巻き付き、ガクンッと走る力を止められてしまう。
 何?!と、慌てて腹部を見ると、真っ赤な蔦の様な物がキツく巻き付けられていた。剥がそうにも凄まじい力で巻き付いているせいで、剥がす所か緩ませる事も出来ない。
 私は「仕方ない!今は逃げる事が優先!」と、蔦を巻き付けたまま再び走り出そうとするが。前に走り出す事は出来なかった。ぐんっと力強く後ろに引っ張られ、ずるずると後ろに引きずられていく。
 必死に前へ進もうと抗っているのに。私の抵抗を歯牙にも掛けず、引力は私に逆走を強いていた。体が蔦によって簡単にくの字に折り曲がり、重心が後ろに持っていかれているせいで、うまく踏ん張れないのだ。
 ヤバい、ヤバい、このままじゃヤバい!羅堕忌が居る所に戻らされる!マズい、マズい、マズい!
 焦燥が恐怖を生み、恐怖が危機を生み、危機が更なる焦燥を生む。その繰り返しだ。
 最悪な歯車がガチャンと音を立てて動き出し、私と言う小さな歯車も巻き込んで、ガタガタと急速に回り出す。
 止められない。私じゃ止められない。この最悪の歯車は、私一人の力じゃ止められない。
 じわりと涙が目の表面にうっすらと現れた。
 けれど、まだ私は希望に見捨てられていなかったみたい。
 突然蔦の引っ張る力がフッと無くなり、その反動で私はドサッと前のめりに倒れてしまった。
 慌てて後ろを振り返ると、私を引っ張っていた蔦がだらんと力なく地面に伏せっている。私の近くでぶっつりと切断され、向こうから伝えられていた力を遮断されたのだ。
 それだけでも愕然とする光景だけれど、それ以上がまだ目の前にはあった。
 蔦を切断した場所で、私を背に庇う様にして立っている人。
 私よりも頭一つ分ほど高い身長。私よりも大きくて逞しい背中。すらりと細身の体躯。特別な鏡番の黒い羽織を纏い、黒曜石の様に美しい漆黒の刀と赤い刀身の脇差しを握りしめている。
 臨戦態勢を作り、こちらを一切振り返らずに相手だけを見据えていたが。目の前の人が誰かなんて、一目見た瞬間に分かった。
「紲さん・・・!」
 じわりと現れていた涙は恐怖から歓喜に変わり、ポロポロと流れ出す。その涙は彼を呼ぶ声を掠れさせ、私の声を小さくさせた。
 もう一度、大きな声で名前を呼ぼう。こんな声じゃ、また紲さんに届かない。
 涙を乱雑に拭い、口を開きかけるが。その前に、彼が「叶架」と呼び返してくれた。私の小さな声をしっかりと受け取ってくれたからこその返しに、私の涙はわっと激しさを増す。
 今度はちゃんと私の声が届いた。彼にしっかりと届いただけじゃない。二度と聞けないと思っていた彼の声がもう一度聞けた。私の名前を呼んでくれた。こんなに嬉しい事はないよ・・・。
 胸がぎゅーっと温かくなり、私の心を蝕んでいた恐怖がその温かさで徐々に浮かび上がっていく。
「もう、大丈夫だ」
 力強く告げられた言葉が、浮かび上がった恐怖を綺麗に一掃し、温かいヴェールの様に私の心をそっと包んでくれる。二度と恐怖が入り込まない様に、優しく覆ってくれたのだ。
 私は溢れ出る涙を拭いながら、うんうんと何度も頷く。
 温かな雰囲気が私達二人の間に作られ、二人の世界が一つに繋げられた。
 だが、その穏やかさを容易く引き裂く、鉄の甲高い悲鳴が突然発せられる。
 ガキイイインッと激しく身を削り合った音と共に、ごうっと衝撃波が襲いかかった。
 その衝撃波は凄まじく、吹っ飛ばされそうになるが。咄嗟に全身を岩の様に硬化させて踏ん張り、「紲さん!」と声高に叫んだ。
 紲さんは私の声に答えない。いや、答えられないのだ。
 両方の刀を前でクロスさせ、ギチギチと羅堕忌のパンチを必死に受け止めているから。
 私の目では、何も追えなかった。それほど羅堕忌の攻撃は素早かった。勿論、そのあり得ない速さに食らいついた紲さんも凄すぎる。
 恐怖にも似た衝撃を覚えていると、羅堕忌がケラケラと楽しそうに笑った。
「なかなかはえーなぁぁぁ?やるじゃぁねぇかぁ」
 羅堕忌が挑発的に言葉をぶつけると、紲さんの踏ん張っていた足が更に地面を抉りながら後ろに滑る。
「今の一発でぶっ殺すつもりだったが。貴人当代の力はダテじゃねぇって事かぁ?」
 てめぇ、よえぇ六合だけじゃなかったんだなぁ?と、からかう様に言うが。紲さんは挑発に乗らず、淡々と「黙れ」と底冷えした声で一蹴した。
「叶架を攫い、恐怖を植え付けた事を後悔させてやる。楽に逝けると思うなよ」
「おいおい、てめぇ正気かぁ?その言い方だとよぉ、この俺様を倒すつもりでいるって言ってる様なもんだぜぇ?」
「そう言ったと言う事が、讐の頭では理解出来ないらしいな」
 紲さんは羅堕忌を挑発し、グッと力強く地面を踏み込んで、刀を前に押し出した。
 拮抗している力が崩れ、羅堕忌が押され始めるが。その力を流す様に、羅堕忌がひょいっと身軽に飛び退く。
 そしてストンッと軽やかに距離を取った羅堕忌の顔は、憤怒に歪んでいた。
「決めたぜぇ!てめぇはただ殺すだけじゃ足りねぇわ、ぐちゃぐちゃになぶり殺してやるよぉ!」
 憎悪を纏わせた怒りが、空気をも圧倒させながらぶわっと広がる。
 その途端に、私の体に異変が起き始めた。呼吸はヒューッヒューッとか細くなり、体もカタカタと顫動する。震えを抑えようと自分を抱きしめる様に二の腕を掴むが、ざらりと肌が粟立っている感触が余計に自分の震えを加速させた。
 私に向けられた威圧ではないと頭では分かっている。でも、体が命の危機を鮮明に感じ取ってしまって、その恐怖に耐えられないのだ。
 グッと鳥肌に爪を突き立て、痛みでなんとか震えを止まらせようとするが。
「怒りを覚えているのが、お前だけだと思うな」
 底冷えした声に、ハッとして紲さんを見つめた。
 紲さんが、怒っている・・・。
 ガタガタと恐怖に震え、自分に精一杯だったから全く気がつかなかった。
 紲さんは、羅堕忌の物々しい威圧に屈していなかった。同じ威圧を、いや、それ以上の威圧を相手にぶつけ、堂々と構えている。
 彼の静かな大激怒が私を捕らえていた恐怖の檻を破壊し、体の異変を止まらせた。
口に出されず、音になっていないだけの大激怒の方、つまり紲さんの怒りに私は圧倒されてしまう。
 私がゴクリと唾を飲み込むと、紲さんがチャキと刀を構えた。
「俺はお前を許さない」
 バチバチと互いの怒りがぶつかり、闘気がドンドンと張り詰められていく。
 静寂がその闘気を強く刺激し、空気がビリビリと震撼した。大地も堪らずにゾクリと震え、彼等の足下の砂利が小さく跳ねる。
 気を一瞬たりとも抜けない緊張感が、場を支配していた。瞬きする事も許されず、呼吸すらもままならない。
 空気が張り詰められ過ぎて、ぴきぃぃんと悲鳴の様な物をあげた。
 その刹那、凄まじい衝撃音と暴風が起きる。ごうっと吠える様な暴風は、私を吹っ飛ばすだけではなく、地面の砂塵や荒廃した瓦礫をも吹っ飛ばした。
 キャアッと悲鳴をあげ、ぐるんっと後転してしまうが。急いで体勢を整え、何が起きたのかと砂塵が巻き起こる中心部に目を凝らす。
 だが、それを見る前に突然ぐんっと体が何かに攫われ、そのまま空へ運ばれてしまった。予想外の出来事が到来し、パニックに陥りかけるが。
「叶架お嬢様!」
 聞き覚えのある声にハッとし、その声の方に急いで顔を向けると。ミミズク姿の桔梗さんが、バタバタと私の横を飛んでいた。
「遅くなり大変申し訳ありません!安全な場所にお連れ致します!」
「き、桔梗さん?!」
 えっ、じゃあ私を掴んでいるのは誰?!
 慌てて見上げると、私の口から「ぅえっ?!」と素っ頓狂な声が飛び出した。
 私を優しく掴みながら、ぴゅーんっと飛んでいたのは大きな青い龍。私が見ていると気がつくと、龍はニコッと笑みをこちらに見せて「落とさないから安心してねぇ」と朗らかに言った。
 大きな体躯と厳めしい顔つきに似合わず、無邪気な子供の様な龍に私は些か面食らうが。すぐに「そうなってる場合か!」と頭を振り、「止まって!」と声を張り上げる。
「紲さんがあっちで戦っているんです!だから私もあそこにいなくちゃ!」
 どんどんと戦いの場から離れて行く青龍と桔梗さんに強く訴えるが、二人は止まらなかった。「従えない」と言わんばかりの態度に、私は「どうして?!」と声を荒げてしまう。
「紲さん一人を残して行くなんてダメです!戻って下さい!」
「叶架お嬢様を現世に連れ戻す、それが我々に課せられた主様からの厳命です。ですから、叶架お嬢様のお言葉を承服する訳には参りません」
 桔梗さんが冷淡に言い放つと、青龍の子も「リーダーからの直々の命だからねぇ」と桔梗さんに同調する。
 取り付く島も無い式神二人に、私は「だからって、紲さんだけを残して行くんですか?!」と噛みつくが。桔梗さんは淡々と語る。
「今の主様と讐の戦闘は、桁違いの強さがぶつかり合った状態ですよ。故に、私共が戻った所で何も出来ません。主様の足手纏いにしかなりませんよ。叶架お嬢様は主様の戦いの邪魔となり、主様を追い詰めたいのですか?」
 ぐうの音も出ない正論を冷たくぶつけられ、反論する言葉を潰されてしまった。桔梗さんを言い負かす言葉も出ず、「でも」と小さくまごつく他ない。
「私も叶架お嬢様と同じ気持ちを抱えておりますので、お気持ちは大変理解出来ます。しかし私は己の気持ちよりも主様の意志を尊重し、こうして命を遂行しているのです。何を優先すべきか、叶架お嬢様もお考え下さい」
「ボクもねぇ、桔梗の意見に賛成かなぁ。巫女ちゃんがリーダーの決死の覚悟を無下にしちゃあさぁ、リーダーが可哀想だからねぇ。汲み取ってあげてなよぅ」
 二人から窘められる様に言葉をかけられるが。私は青龍の子の何気ない一言に引っかかった。
「決死の覚悟って、どういう事ですか」
「例えですよ、そう重く捉える必要はございません」
 厳しく問い詰めると、桔梗さんにはひょいと躱されてしまったが。青龍の子は「誤魔化す」と言う事が出来なかったみたいだ。
「桔梗、ボクの言葉は例えじゃないよぅ!あの貴人を躊躇いもなく起こした位だから、文字通り決死の」
 まくし立てる様に答える青龍の子に対し、桔梗さんは言葉を遮って「翠!」と叱りつけた。けど、もう遅い。すでに言葉はストンと私の耳に入っているのだから。
「貴人って言う力を使うと、紲さんが死ぬって言う事ですか?」
「い、いえ。そうではございませんが」
「が?何です?どういう事になるんですか?」
 詰問すると、桔梗さんの口が途端に重くなり始めた。「それは」と口ごもり、必死に探している。紲さんの思いを無下にせず、私を納得させるに充分な言い訳を。
 私は痺れを切らして「止まって!」と、怒声を張り上げた。
 その怒声に気圧され、翠君と桔梗さんはおずおずと速度を弱め、身近にあった崩れかけのビルに降り立つ。私は降り立つとすぐに体勢を整え「桔梗さん」と、真剣に向き合った。
「教えて下さい。貴人の力って何ですか。それを使うと、紲さんはどうなるんですか」
 誤魔化す事は許さないですよと言わんばかりの圧を目に込めながら、桔梗さんを脅す。
 桔梗さんはキュッと真一文字に口を堅く結び、俯いてしまった。内心で戦っているのだと思う。明かすべきか、明かさないべきか。紲さんの思いを無下にしない為に、自分はどの選択を取れば良いのか。彼は苦悶しているのだ。
 でも、迷われている時間が惜しい。一分一秒でも早く、私は紲さんの元に駆けつけたい。
 私はパッと顔を青龍の子の方に向け「翠君!」と、問い詰め先を変えた。翠君は「えぇ」と困惑しながらも、「うーんとねぇ」と切り出してくれたが。「叶架お嬢様」と重々しい言葉が重なった。
「私から、ご説明致します」
 いつの間にか人の姿に戻った桔梗さんは、私をまっすぐに見据えていた。
 腹を決めた桔梗さんに対し、こちらも同じ真剣さで「お願いします」と答える。
「貴人とは、私共十二天将の頂点に立つ最強の式神ですが。私共と同列ながらも同列には語れぬ存在です。他の十二天将らとはまるで比べ物にならない、一線を画した強さを持っているのです。いえ、力だけが別格と言う訳ではありません。彼は全てにおいて、私共とは違います。普通であれば人と式神は力の貸し借りを行い、協力し合って互いを高めるものですが。貴人はその体系を取りません。貴人は逆に人を使役するのです。憑依する、と言う方が近いかもしれませんね」
「憑依、ですか?」
「そうです。しかしその強大な力に人の体は耐える事が出来ず、適応する事が出来ません。故に、貴人の当代はすぐに変わるのです。貴人自身も相当奔放で勝手な性格だからと言う事も、多少は関係しているでしょうが。今まで貴人を継承した者は、千を越えます。ですが、貴人を使いこなせた人間はたった一人。初代のみです」
 使いこなせたのは、たった一人の初代だけ?!
 語られた真実が衝撃的過ぎて、愕然としてしまうが。そうなるのはまだ早いと言う様に、桔梗さんは更に驚きの真実を明かした。
「そうなってしまうのも、貴人が私共とは違った作りだからでしょう。貴人は、初代鏡番総統と初代玉陽の巫女が協力して作った讐なのです」
 厳密に言えば、似て非なるものですが。と、淡々と付け足される。
 けれど、その付け足しは右耳から左耳へとまっすぐに通り抜け、頭に残る事はなかった。讐と言う予想外の言葉が、私を茫然自失にさせたから。
 嘘ですよね?と疑りたくもなったけれど。桔梗さんの顔を見れば、それが嘘偽りのない真実だと言う事がすぐに分かってしまった。
「以前、主様が魁魔の世界に行ける人間は玉陽の巫女のみとお話されましたが。例外があるのです。その例外と言うのが」
「・・貴人の力を授かった鏡番、ですね」
 呆然としながらも言葉を先取って答えると、桔梗さんは「そうです」と大きく頷いた。
「讐だからこそ、そして人間に憑依する形で使えるからこそ、魁魔の世界での戦闘が可能になる。これは他の式神達には出来ない、貴人だけの利点です。しかし利点はそれのみ、と言っても過言ではありません」
 桔梗さんは重々しく言葉を紡ぎ「貴人の力は諸刃の剣です」と、呻く様に言う。
「貴人を御す事に必死になり、戦い所ではなくなる。人間と言う弱い生き物では、強大な力を扱いきれないのです」
「それじゃあ、今の紲さんも・・・」
 まさかと慄然としながら尋ねると、桔梗さんは小さく頷いた。
「大黒司崇人様から貴人を継いでから、主様も訓練を重ねられておりましたが。例に漏れず、使いこなせた事はありません。一度も、です」
 残酷な言葉が紡がれてしまうが。その残酷な言葉のおかげで、私はようやく理解出来た。
 彼等が話していた、紲さんの「決死の覚悟」の意味を。
 私はキュッと拳を堅く作ってから「桔梗さん」と、鬼気迫った形相で詰め寄った。
「紲さんの所に戻って下さい!例え足手纏いになったとしても、私はあそこにいなくちゃいけません!そんな状態の彼を一人で戦わせるなんて出来ないです!」
 まくし立てる様に告げるが。桔梗さんは動じる事なく、冷静に「主様が何の為に貴人を呼び起こしたとお思いですか」と打ち返してきた。
「危険も何もかも全て承知した上で、主様は貴人を使って讐と戦う事を選ばれたのです。全ては、叶架お嬢様を救う為。叶架お嬢様をお救いし、叶架お嬢様を安寧の世界に戻す為ですよ」
 主様の思いを無下になさるおつもりですか、と怒りが孕んだ目で訴えられる。
 桔梗さんは、私に「そうですよね、分かりました」と大人しく引き下がらせたいのだ。いや、桔梗さんと言うよりも、紲さんがそう望んでいるのだろう。
 桔梗さんは紲さんに従順な式神兼相棒の様な存在だから、主の意志を寸分違わずに汲み取り、行動しているのだ。
 だからきっとこれは、紲さんの意志。
 紲さん。本当は私ね、ちゃんと分かっているんです。素直に引き下がるべきだって言う事も。紲さんが何の為にこんな所まで助けに来てくれたのか、何の為に危険な力を躊躇なく使ってくれたのかも。
 分かっているんです。けど、それら全てに「納得」が出来ないんです。
 だから紲さん、私は絶対に引き下がらない。
 紲さんを一人で戦わせたくないから。一人で危険な目になんか遭わせたくないから。私が、隣で紲さんを支えたいから。
 これが、私の意志だから。
 私は桔梗さんの眼差しをしっかりと受け止めながら、ゆっくりと言葉を吐き出した。
「紲さんの意志も、想いも理解した上で言います。紲さんの所に私を戻して下さい」
 桔梗さんも翠君も私の力強い言葉に面食らう。桔梗さんは反論しかけるが。何も言わせまいと、先に「私、決めたんです」と言葉を続けた。
「もう紲さんを見送るだけは辞めよう、どんな事があっても同じ世界に居ようって。彼の世界から逃げて遠ざかって、見送るだけだった結果がこれです。だからもう、同じ轍は踏みたくありません」
 そう、同じ後悔はしたくない。だから私は行くんだ、紲さんの所に。
 私は頑として譲らないと言う強硬な姿勢で自分の本気を見せつける。
 だが、彼等も彼等で頑としていて、首を縦に振らなかった。渋面を作り、私を止めようと思案を巡らせている。
 そんな二人を前に、私は「もう良いです」と言った。
「もう二人に無理は言いません」
 私の言葉に、二人は分かり安く安堵の表情を浮かべたが。その表情はすぐに消えた。
「二人が紲さんの意志を貫く様に、私も自分の意志を貫かせてもらいます!足手纏いになろうとも、私は紲さんの所に行きます!」
 自分の足で紲さんの元に行きますから!と力強く宣誓し、(言い捨てるって言う方が近いかも)私はくるっと踵を返す。
 そして紲さんの元に向かおうと、一歩踏み出したが
「何故、そうも必死に主様の元へ駆けつけようとなさるのですか」
 静かな問いかけに、私の足はピタッと止まり、軽く前につんのめる。
「戦場に赴いた所で、足手纏いにしかならないと分かっておられるのに。何故ですか」
 重ねられる問いにくるりと振り返ると、桔梗さんは私を推し量る様に見据えていた。揺らぐ事のない、まっすぐな瞳で。
「ご自身が玉陽の巫女だから、ですか」
「違います」
 そんな大層な肩書きは何も関係ありません。と、私は間髪入れずに答えた。
 そして「単純な理由です」と、小さく口元を綻ばせる。
「好きな人の側に居たいだけって言う、本当に単純で不純な動機があるから行くんですよ」
 桔梗さんはその答えに、呆気に取られた顔つきになったが。すぐに顔を綻ばせて「成程、確かに」と、しみじみと吐き出した。
「今までの叶架お嬢様のお言葉には全て、その動機が込められていらっしゃる。私が、気がつかなかっただけの様ですね」
 艶然とされながら返される言葉に、内側からぶわっと羞恥心が沸き起こる。
 恋心に解説を入れられると、こんなにも恥ずかしいのか・・・。
 恥ずかしさで身悶えし、目の前で「えっと、あっと」としどろもどろになってしまうが。桔梗さんはそんな私にフフッと艶やかな微笑みを零すだけに留め「叶架お嬢様」と、次に話を進めた。
「私共が主様の元へお連れ致します」
 優しく告げられた言葉に、私は大きく目を見開き「えっ?!」と素っ頓狂な声を上げてしまう。翠君もこれには予想外だったみたいで「えっ?!」と、私と同等の驚きを発していた。
「ちょ、ちょっと待ってよぅ!命令違反するって事ぉ?本気で言ってるぅ?!」
 翠君が桔梗さんを窺う様に尋ねると、彼は「そうですよ」と一瞥してから私に向き直る。
「参りましょう。私共が叶架お嬢様を命がけでお守り致しますので、どうかご安心下さい」
 スッと優しく手を差し伸べられるが、私はこの急速な展開について行けていなかった。
 意固地な姿勢の桔梗さんを折るのは正直無理だろうから、一人で突っ走るしかない。そう思っていたものだから、こんな展開になるとは夢にも思っていなかった。
 私の味方に付いてくれたのは本当に嬉しい事だし、とっても助かるけれど。急にこんな風にコロッと手の平を返されても戸惑ってしまう。
 私はそんな狼狽を隠しきれずに「えっと。い、良いんですか?」と、胡乱げに尋ねる。
「紲さんの厳命を無視して、私の勝手な言い分を優先させるなんて」
 おずおずと言うと、桔梗さんは柔らかな笑みを称えながら「良いのです」と、きっぱりと答えた。
「下された命に従う事も重要な使命ですが。私の最たる使命は、主様の最善の為に行動をする事ですからね」
 主様もきっと分かって下さります。と、にこやかに言葉を紡ぐ桔梗さん。
 そんな彼を前にすると、私の戸惑いはガラガラと音を立てて瓦解していった。
「ありがとうございます、桔梗さん」
 相好を崩しながら彼の手を取り、礼を述べると。桔梗さんは小さく首を振り「いいえ、叶架お嬢様」と私の手を優しく握った。
「それは私の言葉にございますよ」
 包み込まれる温かな手から、彼の温かな言葉を感じ取る。
 その温かい言葉に顔を綻ばせると、彼も微笑み返してくれた。
「では、急いで参りましょう。叶架お嬢様」
「はい、よろしくお願いします!」
 私の元気な声を受けると、蚊帳の外だった翠君が唐突に「あぁぁ、怒られるぅ」と悲痛に暮れた声を上げる。
「幸輝から、リーダーから、ボクは大目玉を食らうんだぁ!やだなぁ、やだなぁ!ボク、巻き込まれただけの可哀想な子供なのにぃ!」
 大きな駄々っ子が出現するが、瞬時に桔梗さんが「翠」と冷静に窘めた。
「一切の責を負うのは私ですから、お前が怒られる事はありませんよ」
 だから早く伏せなさい、と告げると。ぶうぶうと膨れっ面をしていた翠君の顔が、一気にパーッと晴れやかになる。
 やったぁ!言質取ったからねぇ!と言わんばかりに嬉々とし「分かったぁ!」と、べたりと地面に伏せた。
 その無邪気さに、私はやや唖然としてしまうが。桔梗さんは慣れたものなのか、平然としていて「では、上がりますよ」と私を支えながら、翠君の背に飛び乗った。
 私達が背に乗ると、翠君は地面をぐっと力強く蹴り上げて飛翔する。
 そうして翠君は私達二人を乗せながらうねうねと空を泳ぐ様にして、紲さんの気配を辿りながら進んでいく。
 ドンドンと引き離されていた距離が縮まっていく。
 今度は、私が紲さんを迎えに行く番だ。
 紲さん、私が駆けつけるまでもう少しだけ頑張って下さい。
 それまで絶対に負けないで。羅堕忌から、貴人から、そして死からも。
 何一つ、絶対に負けないで。
 絶対だからね、紲さん。
・・Side 紲 もう一度、君の笑顔を・・
 ひんやりとした地面が、痛む体に一瞬の和らぎを与えてくれる。俺のすぐ後ろでは、パラパラと壁の一部が崩れる音がしていた。飛ばされてきた俺を受け止めた事による衝撃で、崩れかけの壁が更に壊れたのだろう。
 俺はグッと奥歯を噛みしめて、よろよろと刀を支えにして立ち上がった。すでに満身創痍の体は、立ち上がると言う単純な動作ですらも大きな悲鳴をあげる。
 だが、今の俺には体の痛みを気にする余裕はなかった。貴人の力が、体の痛みを凌駕しているからだ。
 やはり貴人の力は内側からの圧倒的暴力だ。自我を保つ事だけに精一杯になり、もはや戦い所ではない。
 俺はふうううと自我を保つ様に、痛みを和らげる様に長く息を吐き出した。
 この状況なら使いこなせる、そう思ってしまったが。やはり貴人は俺の手には扱えない代物、初代以外では扱える事が出来ない強力な式神なのだ。
 強く柄を握りしめた、刹那。どおおおおんっと目の前の廃ビルが丸ごと吹っ飛び、砂塵の中から悠然と羅堕忌が歩いてきた。
「この俺様に、追いかけさせるなんて言う煩わしい真似をさせるんじゃねぇ!」
 随分と傲慢な物言いで腹立たしいが。俺は何も言い返さずに攻撃に備えて刀を構える。
 だが、羅堕忌は不自然な間合いで立ち止まった。先程までは息つく間もなく攻撃を繰り出してきたと言うのに・・。
 怪訝に思っていると、羅堕忌は「てめぇ、弱すぎやしねぇか!」と唐突に激昂した。
「そんなもんだったのかよ、貴人の強さってやつはよぉ!俺様は貴人と戦える日を長い事待ち望んでたんだ!貴人を使ったお前が現れた瞬間、俺様は久方ぶりに血が滾った戦いが始まると心躍ったんだぜ!だが、いざ戦ってみたら遊びにもなりゃあしねぇとは!最悪だぜ!失望以外の言葉があるかぁ?!」
 自分勝手な怒りが、俺の耳に、俺の心に、深々と突き刺さってくる。
 分かってんだよ、そんな事。お前なんかに言われなくとも、自分が弱い事なんて痛い程分かってんだよ。
 師匠の様な武力もなければ、他の十二天将継ぎの鏡番達の様な知力も、胆力も、強みもない。他と比べると、俺は圧倒的に力が足りない。
 それだから、俺は持っている弱さを強さに塗り替えようとしてきた。訓練を重ね、努力する事を怠らなかった。求める強さに辿り着こうと必死だった。
 だが、それでも足りない。
 俺は弱いままだ、弱すぎるままだ。
 自分の浮き彫りになった弱さを痛切に感じ、グッと奥歯を噛みしめるが。「ぐちゃぐちゃになぶり殺すだけじゃ足りねぇなぁ!」と言う怒声で、俺は目の前の現実に引き戻される。
「存在が憎い罪、俺様を前に調子に乗った罪、俺様から玉陽を勝手に引き離した罪、俺様の楽しみを台無しにした罪、そしてゴミの様に弱すぎる罪!こんだけの罪をてめぇは重ねたんだからよぉ!」
 ダンッと力強く地面を蹴り上げ、間合いがグッと一気に詰められた。
 目で何とか追え、刀を構えようとしたものの。内側から暴れる力が、その反応の足枷となった。ぐらりと視界が歪み、意識が全て内側に引っ張られる。
 マズいと思った時には、もうすでに遅かった。
 ドンッと深々と羅堕忌の重たい拳が胸部にめり込み、「ぐあっ」と言う呻きと共にバキバキッと胸骨を中心として肋骨辺りまでヒビが入る嫌な音が爆ぜる。
 俺は弱い、弱いから勝てないのだ。羅堕忌にも、貴人にも、そして死にも・・。
 朧気に現れる死が、俺の指先を掠める。
 その時だった。俺をあちらに連れて行こうとしていた死が「お前はまだ違った」と、ぷいっと背き、遠のいていく。
 突然自分の身体が何かに支えられ、横たわらされた。
 俺の全てが迅速に生命維持に取りかかっていく。すでに生を諦めていたにも関わらず、必死に命を繋ぎ止めていった。
 一体、何が起きた?どうなっているんだ?
「紲さん、紲さん!しっかりして、紲さん!」
 聞こえるはずのない声が朦朧とした世界に響き、俺は無理やり意識を目の前に集中させる。カッと目を開き、朦朧も混乱も全て破った。
 そして愕然とする、目の前の存在に。
「きょ、叶架」
 彼女の名前を呼んだ瞬間、言葉にうまく出来ない感情が俺を支配した。どうしてと驚く様な、何故ここに居るんだと怒る様な、そして会えて嬉しい様な気持ちが綯い交ぜになる。
 だが、蘇ってくる全身の痛みのおかげで、喜びに浸っている場合ではないと気持ちが冷静にカシャンと切り替わった。痛みを堪えながら「何故戻って来たんだ」と、厳しく問い詰める。
「早く逃げろ、人間の世界に戻れ」
「嫌です!」
 予想外の言葉に俺はやや面食らってしまったが。彼女の反駁を封じるべく口を開こうとする。
 だが、俺の言葉は温かくて柔らかな衝撃に封じられ、言葉にならなかった。

 ただ彼を救いたかったから。彼が「逃げろ」と突き放そうとしてくるが嫌だったから。一方的に強く自分の唇を押しつけた。
 ただ、それだけ。キスみたいな甘い感じはまるでなかった。ロマンチックさもなければ、トキメキも一切ない。人を救う為に、必死で行う人工呼吸と一緒。送り込む物が酸素から、ありったけの想いと特別な力に変わっただけ。
 私は彼にその全てが渡されるまで、強く押しつけ続けた。そっと唇を離す時も、自分の中でそれらが残らない様に最後までちゃんと渡しきる。
 そして目を大きく見開き、固まっている彼を見据えながら「絶対に嫌です」と改めて訴えた。
「私は逃げません。私がここに戻って来たのは、紲さんと一緒に戦う為ですよ。だから絶対に逃げません。逃げるならば紲さんと一緒に、です」
 きっぱりと宣誓すると、紲さんの口から「なっ」と衝撃が零れ、生気が戻りかけている顔に焦燥の様な怒りが現れる。
 けれど、その怒りを浴びせられる前に、私は口早に言葉を続けた。
「紲さんが何と言おうと自分の意志を曲げるつもりはありません」
 取り付く島も無い私に、紲さんはギリッと強く歯がみしてから「叶架」と苦々しく言葉を吐き出す。
「自分のすべき事をしっかりと見ろ。君はこんな事を」
「全てを考慮した上で、自分が一番にやるべき事を導き出した結果がこれです」
 私は彼の諫言をバッサリと遮り、食い下がる。
 すると紲さんは「俺の言う事を聞け!」と声を張り上げ、完璧に回復しきっていない体を無理に起こして、私をまっすぐ見据えた。その瞳は悲しげな訴えを宿らせていて、その表情は苦悶に歪んでいた。そのせいで、私の強気な姿勢がぐらりと傾いてしまう。
「君が他人を放っておけない優しい性格なのは知っている。だが、今はそんな事をしなくて良い。頼むから、早く逃げてくれ。俺はこれ以上、君を危険な目に遭わせたくない。だから早く向こうに戻ってくれ。俺を放って、早く行ってくれ」
 それが君の本当の望みのはずだろ、と遠回しに言われている。
 これは、今まで私がこの世界から逃げ続けてきた結果だ。
 だから紲さんは私一人を遠ざけようとしている。今までの私はそれで良かったし、それが良かった。
 けど、今の私は違う・・!
 私はぶんぶんと首を振り「そうじゃないです」と返し、彼の言葉を二つの意味で否定する。
「紲さんは間違っています。私はそんな他人思いで優しい人間じゃないです。好き勝手ばかりをするんです。だから私はここに居るんです」
「・・叶架」
「私も間違っていました。でも、私はその間違いに気がついたんです。だから私はここに居るんです」
 言葉を勝手に重ね続ける私に、紲さんは真剣に説き伏せる言葉を探し始めるが。
 私はそんな彼を前に「もっと言うと!」と、ギアを上げて強く反発する。ううん、心にある一番の想いを彼にぶつけたのだ。
「私、紲さんにそんな事を言われたくないんです!私は紲さんの側に居たいから!ずっと紲さんの側に居たいって思っているから、紲さんの力になりたいから!私はここに居るんです!」
 熱い想いが乗った言葉を吐き散らかすと、ぶわっと一緒に涙まで決壊する。
 私はその熱い涙を拭う事なく、ぐにゃぐにゃと歪む紲さんに向かって「それでもまだ戻れって言いますか?!」と噛みつき続けた。
「紲さんはちゃんと見えてない!私の心も、自分が本当にすべき事も!だからそうして誰の為にもならない事をしようとするんでしょ?!」
 紲さんはその言葉に「誰の為にもならないだと?」と憤激する。
「馬鹿を言うのもいい加減にしろ!これは叶架の為だ!叶架の為に、俺は」
「そんなの私の為なんかじゃない!本当に私の為を思っているなら、私の想いを蔑ろにしないでよ!分かったってちゃんと受け止めてよ!突き放そうとしないでよ!ここで終わらせようとしないでよ!」
 紲さんの言葉を最後まで聞かずに荒々しく遮り、こちらも自分の思いを怒りに乗せてぶつける。
 ちゃんと私を見て、ちゃんと私を分かって。
 なんて子供っぽい怒りだ。と、理性が冷静に突っ込んでくるけれど。
 これが私の想いだから、子供っぽかろうが何だろうが関係無い。ただ紲さんに、ちゃんと伝われば良いの。
 はぁはぁと肩を上下させながら全ての想いをぶつけると、私はようやく涙を拭った。
 こんなにも痛い涙は初めて・・・。こんな激情をぶつけたのも初めて・・・。
 嗚咽を漏らしながら、ゴシゴシと拳で涙を止める様に圧迫する。それでも涙は止まらず、拳の圧から逃れる様に目の端から流れていった。
 すると突然紲さんが私の手首を掴み、そのまま自分の方にグッと力強く引っ張った。咄嗟の力に、私は流される様に前のめりになり、そのままストンと彼の胸板に受け止められる。
 そしてそのままギュッと力強く、でも私が息苦しくない様に優しい力で、彼は私を抱きしめた。
 その瞬間、奔流だった涙がピタッと止まり、体の内側から嬉しさやら羞恥やらがぶわっと沸き起こる。そのせいで、怒りでいっぱいだった自分が、急速な展開に全くついて行けずに「?!?!?!」と、オーバヒートした。
「あ、あ、あの、紲、さん」
 しどろもどろに言葉を吐き出すと、抱きしめられている力が強まり、耳元で囁かれる。
「すまない、俺が間違っていた」
 痛切に告げられる言葉に、私の止まっていた涙がチクチクと刺激され、再びゆっくりと流れ出す。
 だって、この言葉は彼が私をちゃんと見てくれた証拠。
 私の心をちゃんと分かって、しっかりと受け止めてくれた証拠だから。
「叶架を向こうに逃がす事が最善の選択だと思っていたが、それは最善ではなかったんだな。叶架の涙でようやく分かった。本当の最善の選択が、何か」
 紲さんは腕の中に収めていた私を少し離し、私の顔を見つめながら「叶架」と、しっかりと私の名前を呼んだ。
「絶対に守るから、俺の側から離れないでくれるか」
 その言葉を聞くや否や、私はバッと紲さんの胸に飛び込む様に抱きついていた。ギュッと強く彼を抱きしめ、彼の首元に顔を埋めて何度も「うん、うん」と頷く。
 嬉しいと言う言葉では飾り足りない。今の私の気持ちは、そんな一言では収まらなかった。溢れる思いが熱い涙と重なり合って零れ、えぐえぐと嗚咽が酷くなる。ぐちゃぐちゃに彼の衣服を濡らしていると思ったけれど、それでも彼から離れなかった。
 紲さんも拒否する事なく、受け入れてくれた。そればかりか、私の後頭部を柔らかく押さえる様に、自分の方に強く引き寄せてくれる。
 ずっとこのままで居たかったけれど、彼が私を呼ぶ様にトントンと背中を叩いた。私はその合図に従い、とろんと甘い思考に支配されたままゆっくりと離れる。
 だが、その瞬間。私は甘い世界から現実に引き戻され、「あっ?!」と泡を食った。
 なぜなら、涙と鼻水でぐちょぐちょの顔を好きな人の眼前に見せつけたばかりか、鼻水がつーっと軽く糸を引いたからだ。
 好きな人に対して絶対見せる顔じゃない!いや、それよりも糸が引く程の鼻水を人の肩に付けるなんて・・!
 最低、私、最低!
 慌ててずびいいいっと鼻水を鼻の奥に引き戻し「ごめんなさいっ!」と、ハンカチが入っているポケットに手を伸ばす。
 けれど、紲さんがその手を素早く引き止め「良いから」と、私の顔を上げさせた。
 その行動にドキリと痛い程に胸が高鳴り、その真剣な眼差しにドクンと心臓が大きく高鳴る。
「紲、さん」
 彼の名前を呟くと、彼は私の頬を包み込む様に手を添えた。
 親指で零れる涙を優しく拭ってくれて、それで・・・。
 私達にとっての、本当のファーストキス。トキメキだけが押し寄せて、甘くて蕩けてしまいそうになる。心臓がうるさい位に跳ねるのかなと思ったけれど、意外とすごく冷静だった。他の気管も何もかもも、全てが平静を保っていた。
 このトキメキだけに浸って、そう言われているみたいだった。
 そして温もりが離れると共に小さなリップ音が弾ける。
 嬉しい様な恥ずかしい様な気持ちがぶわっと全身を駆け巡り、口元がへにゃりとだらしなく緩んでしまいそうになったが。真剣に何かを考え込んでいる紲さんを見てしまうと、その緩みが正されるどころか、戸惑いに塗り替えられていく。
 今はロマンチックに浸っている場合じゃない。それは分かっているけれど、そんなすぐに余韻から抜け出さなくても良くない?
 ・・ハッ。も、もしかして、このキスでやっぱり嫌になった、とか・・?
 情緒不安定に陥った瞬間、紲さんが「成程」と自嘲気味に呟いた。私は荒ぶる内心を隠す様に取り繕って「何がですか?」と、冷静に尋ねる。
「いや、道理で初代以外が扱えなかった訳だと思ってな」
 自嘲気味に答えられるが、その言葉の意味を理解出来ない私は「??」と素直に首を傾げた。
「やはり俺が間違っていたって事だ。何から何まで、な」
 紲さんは言葉の意味を明瞭にせず曖昧に答えると、スッと立ち上がる。
「叶架、アイツを倒す為には君の力が必要不可欠だ。君の力を貸してくれ」
 彼の力強い言葉に、私は嬉しくなり「勿論です!」と食い気味に答えた。
 だが、その直後。私は「あ、でも・・」と眉を曇らせた。
「私の力、玉陽の巫女の力を使っちゃうと。全部治っちゃって逆に強くなりませんか?私、紲さんの足手纏いどころか、邪魔者になりませんか?」
 戸惑いを露わにしながら尋ねると、「大丈夫だ、そうはならない」と一蹴される。
「玉陽の巫女の力は、癒しの力じゃないからな」
「?!ど、どういう事ですか?!」
 狼狽に近い驚きを発した私に対し、紲さんは泰然と「俺も今まで勘違いしていたが」と言葉を継いだ。
「玉陽の巫女の本来の力は魁魔を浄化する力だ。怪我を治していた訳ではない。魁魔の邪気に蝕まれていた体を蝕まれる前の状態に戻していた、と言う方が正しいんだ。だが、その様は誰の目から見ても怪我を治した様にしか見えない。だから玉陽の力は治癒、乃ち癒しの力だと思われたのだろう」
 記録の少なさや伝聞による曖昧も手伝って、誰も気がつかなかった訳だ。と、話される。
 その時初めて、私は自分が持つ玉陽の巫女の力に納得した。色々と「だからかぁ」と腑に落ちたのだ。
 今まで沢山怪我をしてきたけれど、どれも触れただけでは治らなかった訳だ。自分達が負っていた怪我は、魁魔に負わされたものではなかったから。
 自分がこの力に今まで気がつかなかった訳だ。それまでは力の対象である、魁魔自体を知らなかったのだから。
 あの時、倒れた紲さんに出会っていなければ、この力は私の中で間違い無く眠り続けていたのだろう。そのまま眠り続けて、真価を発揮せずに一生を終えてしまっていたのではなかろうか。
 そう思うと、こうして花開いた力の幸せに、彼と出会えた幸せに、錫色で隔てられた彼等の世界に気がつけた事の幸せを痛感する。
 運命と言うものの刻みを感じ取る。
 私は拳をキュッと胸の前で作ってから「紲さん」と、真剣な眼差しで彼を見つめた。
「私は何をしたら良いですか?どうしたら紲さんの力になれますか?」
「手や腕や肩、とにかくどこでも良いが。叶架の手がアイツの体のどこかに触れられれば、浄化の力が伝わり、アイツは戦闘不能になるはずだ」
「じゃあ、私の手が羅堕忌に触れたら勝ちって事ですね!」
 任せて下さい!と気も高ぶらせて息巻いたが。すぐにそんな私を宥める様に「そうだが」と、紲さんにしっかりと釘を刺される。
「叶架が触れるタイミングは、アイツが弱り果てて動けなくなったら、だ。俺が奴を確実にそこまで追い込んでから合図を出す。それまで叶架は安全な所で待機していてくれ」
 危険な事だから、こればかりは言う事を聞いてくれ。と強く念を押してから、近くに転がっていた愛刀を手にした。
 何度見ても、刀を持った紲さんの凜とした姿にはドキッと見惚れてしまう。そういう時じゃないって言うのに・・。
 私はそんな胸の高鳴りを抑えながら「分かりました」と、しっかりと答える。
「・・叶架」
「はい」
「一緒に、アイツを倒すぞ」
 一緒に、その一言で胸が熱くなる。視界がじわりと歪みそうになる。
 私はその言葉をしっかりと噛みしめてから「ハイッ!」と、私らしく元気に答えた。
 紲さんはその答えに、フッと柔らかく顔を綻ばせる。けれど、すぐにその微笑は崩され、キリッと空を睨む様に見上げた。
 その目線の先では、桔梗さんと翠君が羅堕忌と交戦している。
 何故、桔梗さん達が空中で羅堕忌と戦っているのか。それは桔梗さんと翠君が、羅堕忌を抑える役目を買って出てくれたからだ。私が紲さんを助ける事に集中出来る様に、と。
「叶架お嬢様。これが、私共のやるべき事です。叶架お嬢様は主様をお願い致します。その間、私共が絶対に抑えますのでご安心を」
 桔梗さんは笑顔でそう言っていた。
 そしてその言葉通り、彼等は必死に食い止め続けてくれている。猛る羅堕忌に、二人は防戦を強いられているが。それでも絶対下には行かせまいとした戦い方をしている。
「紲さん、あの」
 私が説明をしようと口を開きかけるが。紲さんは「分かってる」と、私の言い分を先取って答えた。
「本当に桔梗は・・俺には勿体無い相棒だ」
 紲さんはしみじみと吐き出すと、刀を鞘に収める。そしてギコギコと言う擬音が聞こえてきそうな程の屈伸を始めた。
 いよいよ、紲さんが参戦する。でも、今回は彼を一人で戦いに行かせる訳ではない。
 私も、ここで一緒に戦うんだ。
 堅く作った覚悟で自身を奮い立たせる。そしてギコギコと屈伸を繰り返す彼に「紲さん」と声をかけた。
「合図、待ってますね」
 頑張って下さい、絶対に負けないで下さい、絶対に無茶はしないで下さい、怪我を負わない様にして下さい。
 色々とかけたかった言葉があったのに、するりと出たのはただその一言だけだった。
 紲さんは私の言葉を受け取ると「あぁ」と言った。雄々しさと自信が溢れた、とても凜々しい微笑で。
「待っていてくれ」
 私にしっかりと言葉を届けると同時に、紲さんはダンッと力強く地面を蹴り上げ、戦いの場に向かって飛び上がった。(普通じゃ考えられない高さを軽々と行っているが、きっと貴人の力なのだと思う)
 戦いの闖入者に、羅堕忌は「見えてんだよぉ!」と声を荒げ、驚きで隙を見せた式神二人を散らして紲さんに向かっていく。
 正面激突、止まっていた彼等の戦いが再び動き出した。
 だが、開戦早々に戦場が空から地上にと移り変わる。ひらりと蝶の様に相手の攻撃を躱し、そこから流れる様にたった一発の蹴りを入れ込んで、相手を地に叩き落としたからだ。
 ぶわっと砂煙が巻き起こり、少し離れたここにもその衝撃が襲ってくる。
 私は唖然としてしまった。その攻撃があまりにも流麗だったからだろうか。あまりにも強い一撃だったからだろうか。
それとも、相手をいとも簡単に地に叩き落としたのが、紲さんだったからだろうか。
 何の理由が、私をそうさせたのかは分からない。
 けれど間違い無く、この開戦の狼煙は衝撃的だった。
・・Side 羅堕忌 最強と言う名の頂・・
 今まで俺様は戦いにおいて、恐れや怯えを感じた事はねぇ。
 自分が生き延びたかったら。そんな感情を抱くよりも前に、相手よりも先に、自分の力を振るわなくちゃなんねぇから。
 そうして俺様は生きる為に力を振るい続け、相手をぶちのめしていった。讐と成るまで、ずっと。
 讐と成ってからは楽だった。生命の怯えもなければ、自分が一番と言う愉悦に浸れる。頂点からの眺めは最高だった。
 だが、俺様はその景色にすぐ飽いてしまった。いや、ゆるりとした眺めを見続ける事が苦痛だったのだ。
 こんな自分は自分じゃないと身が苦しみで悶え、戦いが欲しいと渇く心が強く求める。
 だから俺様は生温い安寧《くつう》から脱却し、頂点の先に進む事に決めたのだ。
 俺様の他にも讐が居る事は知っていたから、次なる相手はすぐに見つかるだろうと思っていた。
 だが、他の讐達は皆、俺様とは戦わなかった。どうしてかは分からねぇ。他の讐と会って分かった事と言えば、外で戦いを求める他ないと言う事だけだった。
 外、つまり人間の世界に的を変えてみたのだが。俺様の渇きは潤わなかった。すぐにまた頂のつまらねぇ景色を目にする羽目になった。
 もう、俺様以上の強者はいねぇ。
 俺様の前に、無と言う絶望が広がっていた。最悪だと思いながらも、ただその絶望に喰われるしかなかった。
 だが、その絶望に喰われる寸前に、俺様は思い出したのだ。俺様の渇きを満たしてくれる存在を。
 俺様達魁魔の間で、伝説として残る最強の鏡番と貴人のコンビの存在を!
 鏡番の方はもうとっくの昔にお陀仏だろうが。貴人は今も尚存在している、その強さを持ち続けながら!
 まぁ、貴人は滅多に姿を現さぬ式神と知った時にはがっかりしたもんだが。これしかねぇと思ったからこそ、俺様は頂にどっかりと座り直した。時間がカチカチと前に進む度、俺様の楽しみは増幅するばかりだったから、貴人を待つ事に苦痛はなかった。
 そうして、事態はある日を境に動いた。人間界を暴れ回る手駒の一つが、玉陽の巫女を偶然見つけたのだ。
 天が健気に待ち続ける俺様を哀れみ、褒美を与えてくれた。俺様はそう思えてならなかった。
 邪魔が都度都度入ったが、やっと玉陽をこちらに引き込む事が出来た。そればかりか、なんと玉陽の救援として貴人の当代が現れたのだ。
 ようやくか!と快哉を叫びそうになり、今までの空白の時間が一気に満たされていった。
 押し寄せる幸運に、流石の俺様も頬を緩ませちまったが。本当に押し寄せてきたのは幸運ではなく、今まで以上の不幸だった。
 こんなもんかと強大な失望感を覚え、また一人で頂からの眺めを見るしかなくなった。誰からも引きずり落とされない、つまらねぇ頂に君臨する他なくなった・・はずだった。
 一体どうなってんだよ、なんでこの俺様が追いやられてんだ!
 俺様は手前の瓦礫をドカンッと荒々しく蹴り飛ばした。
 スタスタと間合いを詰めてくるアイツに自分の怒りをぶつける様に蹴ったのだが、それは呆気なく粉々に砕かれる。
 畜生、どうしてだ!?遊びにもなりゃあしねぇ、つまらねぇ相手だったはずだぞ!
 それなのに、どうして俺様が防戦一方になっている?どうして俺様が手も足も出ずにやられているんだよ?!
 一体、アイツに何があった?!たった数分、俺様が式神風情に足止めされている数分間に、ここまでの強さを得たのは何故だ?!
 腹立たしい。忌々しい。こんな事を考える事も、この俺様がこんなクソみてぇな状況に追いやられている事も。
 俺様の全てが、許せねぇと暴れ出した。ガリッと音が立つ程、キツく奥歯を噛みしめる。
「悔しそうだな」
 飄々とかけられた言葉に、俺様は「あぁ?!クソが調子に乗るんじゃねぇよ!」と声を荒げた。だが、俺様の怒りを歯牙にも掛けずに奴は言葉を続ける。
「調子になんか乗っていない。俺は、貴人の強さを量りたいと言うお前の望みを叶えさせてやっているだけだ。長い時を待たせた挙げ句遊びにもなりゃあしねぇと唾棄され、ボコボコにされた恩《かり》もある事だしな。厳しい様なら辞めるが」
 まだ十パーセントの力も出していないぞ。と付け足され、俺様の血管がブチブチッと次々と弾けた。
「ふざけやがって!今のてめぇの強さは偽りだろ?!どうせ玉陽だろうが!玉陽に楽にしてもらったから、その強さを持てているだけだろうが!何が貴人の強さだ、玉陽の力でドーピングしているだけじゃねぇか!それに玉陽は俺様の物だぞ、勝手に使うんじゃねぇよ!」
 怒りと憎しみが混ざり合った感情を全てぶつけ「讐焉術《しゅうえんじゅつ》!」と胴間声を張り上げて、手の平に朱殷色の球体を現れさせる。
「怨撞牙《えんとうが》!」
 俺様の叫びと共に球体から無数の礫がバシュバシュッと矢の如く放たれた。アイツを穿つ為に放たれた無数の礫は、物理の法則から外れた多角的な攻撃で同時に攻め込む。
 逃げ場を潰す、それだけが怨撞牙の怖さだと思ったら大間違いだぜ。怨撞牙の真価は、別にあるんだよ!
「それに当たったら即死だぜぇ?!猛毒だからなぁ!」
 声高に叫ぶと同時に、アイツの未来が瞼裏に浮かび、ゾクゾクとする楽しみに身を震わせた。
 ズタズタになるだけじゃなく、猛毒で苦しみながら死に絶えるなんてよぉ。調子こいた奴に相応しい、良い死に方じゃねぇかぁ!
 俺様の目と口が、三日月の様にニヤリと曲がった刹那。アイツの飄々とした声が耳に突き刺さる。
「貴冤術《きえんじゅつ》。光焰《こうえん》」
 パンッと軽やかな音が弾けると共に眩い光と熱風が放たれた。
 俺様はバッと防御の態勢を取り、次に構えるが。その時には、もうすでに事態は次へと動いていた。
 アイツは何事もなかったかの様に平然と佇み、放った怨撞牙は全て消えている。アイツの術に消されたと言うのは、一目瞭然だった。
 馬鹿な!逃げ場を潰され、当たったら即死と言う絶望に追い込んだはずだぞ?!それなのにどうして無傷でいやがる!どうしてだ!?
 混乱しながらも、再び怒りが轟々と唸る様に燃え上がる。
 するとアイツが静かに口を開いた。相変わらず飄々とムカつく顔つきのまま。
「偽りの状態と呼ぶに相応しいのは今ではなく、再戦する前の俺の状態だぞ。あの時の俺は、貴人を使っていながら一切使えていない状態だったからな」
「・・なんだと?」
「玉陽の巫女の力があってこそ貴人は本来の力を発揮する。つまり今が本物の貴人の強さ、と言う事だ」
 今の力が偽りではなく、本来の強さだと?つまりこの状況が、俺様の本来の姿だったと?・・・俺様達の本当の勝敗だと?
 目の前の奴は「分かった様だな」と、底冷えした声で告げる。
「お前の詰み、だ」
 ぶわっと肌が粟立ち、言葉に出来ない程の胸くそ悪い感覚が全身に広がった。
 そして瞼裏にあった無残な死に様をしたアイツの姿が、自分の姿にゆっくりと変わっていく。その変化は一切止められず、アイツの姿に戻す事も出来ない。
 まるで揺らぐ事のない未来だと言わんばかりじゃねぇか・・。
 俺様は強く拳を作り、手の平に鋭い爪をグッと射し込んだ。手の平の肉にもろに突き刺さり、俺様の指の間からツウと冷たい液体が滑り落ちる。
 くそったれが。認めてたまるか、俺様がこんな奴にやられる訳ねぇだろ!
 そうだ!俺様に敵う奴は、誰一人としていねぇんだよ!皆、俺様以下のゴミだ!弱者共だ!
 誰も俺様を蹴落とせねぇ!俺様を頂《ここ》から落とす奴なんてなぁ、この世には存在しねぇんだよ!
 馬鹿げた思考を払拭する為、俺様は爪を手の平の肉に更に深く突き刺し、だらだらと流れる血を漸増させる。
「俺が、お前を許すならば話は違ってくるが。俺はお前が叶架にした事全て、許すつもりは一切ない。だからお前は終わりだ」
 つらつらと吐き出される耳障りな言葉に、怒りがぶわっと沸き立った。感じていた最低な感情も、この激情に全て飲み込まれていく。
 俺様は「ぬかせ!」と声を荒げ、クソ野郎を睨めつけた。
「俺様に敵う奴は誰もいねぇんだよ!俺様よりも強ぇ奴なんざ存在しねぇんだ!讐焉術!伐活閻牙《ばっかつえんが》!」
 怒声と共に、俺様の血が一斉に襲いかかる。流れていた血も、やられて撒き散らされていた血も一斉に軍を成した。
 散っていた血が鎖として形を成し、奴の体を縛り付けると同時に、襲いかかっていた血の全てが高波の様に一つになる。
 そしてその波は急速に円形へと形を変え、クソ野郎を完全にその中に封じ込んだ。
これが俺様の最高傑作の術だ!
 あの球体の中では幾つもの刃が襲いかかり、骨になるまでその身を削る!捕まっているから逃げる事も出来ず、一方的にやられるしかねぇ!骨までズタズタにならねぇと、その鎖から外れる事もできねぇ!
 つまり捕まれば最期だ!肉がズタズタになるだけじゃ終わらねぇ、骨までズタズタになってようやく死ねる地獄を味わいやがれ!
「粋がった事を後悔しながら、惨たらしい死を迎えやがれ!」
 ざまぁみろ!と高らかに笑いながら告げる。もう俺様の声なんざ聞こえていない、アイツに向かって。
 これでようやく鬱陶しい感情から逃れられた。もうアイツはいねぇ。
 俺様の、勝ちだ。
 頭の中で「勝ち」と言う言葉が生まれた瞬間、ぶわっと変な汗が噴き出る。加えて、心にあった嫌なさざめきが徐々に収まっていった。
 こんな風になるのは初めてだな・・。
 鬱陶しく纏わり付いていた「何か」が剥がれていく感覚がするが、俺様はぶんぶんと首を振った。
 今はそんな事に気を回している場合じゃねぇ。さっさと近くに居る玉陽を回収しねぇと、また手を煩わせられちまう・・。
 クルッと踵を返し、この近くに居る玉陽の元へと駆けようとするが。
 突然、ドスリと変な音が弾けた。そして肌にぬるりと何かが滴れ落ちる感覚も。
 何か、起こったのか・・・?
 何故だか目がふいっと下に落ちた。そこで初めて、これは他人事ではないと気がつく。
 馬鹿みてぇだが、本当に分からなかった。
 自分の目玉二つが、自分の胸に屹立した黒い刀身を映すまでは。ズキズキと苦痛を感じる様になるまでは。
「お前が驕ってくれていたおかげだな」
 背後からの囁きに、止まったはずの嫌な汗が全身の毛穴からぶわっと噴き出た。
 俺様はグッと奥歯を噛みしめて、ぶんっと出鱈目に拳を後ろに振り抜くが。当たった感触はなく、俺様の拳は空を切った。
 そして素早く抜かれた刀が、置き土産の様に痛みを残して行く。
「一突きでは死なないか」
 まぁ、分かっていた事だが。と、奴は飄々と刀を構え直した。夢の様な光景ばかりを目にし、俺様の瞳がぐらぐらと大きく揺らぐ。
 何故、アイツが目の前にいる?いや、それよりも何故無傷でいやがるんだ?俺様の術に、間違い無く捕まったはずだぞ。俺様の目がしかとその姿を捉えていたんだ、見間違いなんかじゃねぇ。アイツは、アイツはまだ俺様の術中に居るはずだぞ!
「てめぇ、どうしてだ!」
 混乱を露わにして吠えると、胸の傷からトクトクと穏やかに流れていた血が奔流となって流れ、痛みも増す。
 だが、今はそんな事どうでも良かった。「何故アイツが眼前にいるのか」と言う事以外、どうでも良かった。
「逃げる事が出来たから、俺はここに居る。ただそれだけの話だ」
「・・逃げ場なんか、どこにもなかったはずだぜ」
 苦々しく言葉を吐き出すと。奴は「上には、な」と意味深に答え、トンと自身の影を踏んだ。
 俺はその些細な動作に「まさか」と目を大きく見開かせる。
「影、か」
「正解だ。捕まった瞬間、貴冤術を使って影に逃げ、影を通ってお前に攻撃を入れた訳だ」
 淡々と明かされる真実に、俺様の体は顫動した。
 なんだ、この震えは。怒りで震えているのか?それとも驚きからか?
 ・・いや、違う。これは今まで見てきた事がある。
 そうだ、あの震えだ。面白いとからかっていた、弱者の震え。圧倒的強者を前にした弱者が見せる、絶望した時の震えだ。
 つまり、この正体は「恐れ」か・・?
「・・・馬鹿な」
 俺様は弱々しく唾棄した。この馬鹿げた現実を、この腑抜けた感情を一蹴する様に。けれど、言葉を吐き出した程度では何も蹴り飛ばす事が出来なかった。
「俺はお前の驕慢さに救われた。始めから全力でかかられていたら、今頃俺は息をしていなかっただろう。だから俺はお前を全力で倒す。その驕りに足を掬われない様に、な」
 奴は底冷えした声で告げると、刀を地面に突き刺し「貴冤術」と淡々と呟く。
「戯《あじゃら》」
 軽やかに指を滑らせ、パチンッと溌剌な音が弾けた。
 その刹那、奴の刀身から黒の弾丸が飛び出す。いや、弾丸ではない。飛ばされてくる物は全て、鋭い刃を持った小さな暗器だ。
 攻撃に構えろと脳が体に命令を下したが。その時にはすでに、ドスドスッと鋭い切っ先が俺様の身体を貫き、血肉を荒々しく削っていた。
 ガハッと喀血し、俺様の体は踏ん張る事も出来ずに前のめりにドサリと倒れる。幾年ぶりに、冷たくざらついた砂の感触に触れた。片方の耳が地面に這いつくばっているせいで、ヒューッヒューッと浅薄な呼吸が脳内にやかましく響く。
 なんて俺様らしくねぇ呼吸だよ。こんな屈辱はねぇ。速いとこ攻撃に転じて、同じ目に遭わせてやろうじゃねぇか。
 なんて、思っているのだが・・・俺様の体は不思議と動かなかった。いや、動かせねぇんだ。頭から足の爪先まで、全て。指先を動かすと言う単純動作すらも出来ねぇ。
 まさか、神経毒か?戯とか言う術は、俺様の怨撞牙と似た術だったのか?
「全ての点穴を突かれた挙げ句、打ち込んだ暗器で体内から押さえつけられているんだ。もうお前は動けないぞ」
 俺様の思考を読み取ったのか、奴がご丁寧に俺様の状況を明かしてくれる。
 点穴か、道理で動けねぇ訳だ。と、腑に落ちたが。這いつくばって動けねぇ事の屈辱が俺を燃え上がらせ、何とか体を動かそうとする。
「無駄だ。諦めろ、羅堕忌。お前の負けだ」
 ・・お前の負け、だと?この俺様が負けるだと・・?
 動かせない体の内側からボンッと爆発する様に、怒りと憎しみが綯い交ぜになった業火が広がった。
 この俺様が、負ける訳ねぇだろ。俺様は全ての頂点に君臨する、最強の讐だ!
 その俺様が、人間なんざに負ける訳ねぇだろ!
 俺様が負ける時なんざ来ねぇ、終わる時なんざ来ねぇんだよ!
「調子に・・乗るんじゃねぇ」
 動かせない体は、轟々と燃える全てに強く突き動かされる。
 グオオオオオオッと雄叫びを上げ、屈辱的な姿から抜け出す。ブシュブシュッとあちこちから血が噴き出そうが、骨がギチギチと軋もうが、激痛が全身に走ろうが関係無かった。
 全て、どうでも良かった。相手をぶちのめす為だけに、俺様は動く。
「この世界で、俺様に勝つなんざぁ出来る訳ねぇんだよぉ!」
 激しい憎悪が俺様の思いを強くする。屈辱が俺様の思いを闇に深めていく。苦痛が俺様の思いを禍々しく装飾していく。
「この俺様が最強なんだよぉぉぉぉ!」
 俺様を前にして生き延びた奴はいねぇ。俺様が皆ぐちゃぐちゃにしてやったんだ。
 だからアイツもぐちゃぐちゃにしねぇと、俺様の最強の称号に傷が付く。
 そうだ。早く、アイツをぶっ殺さねぇと。早く、アイツをぶっ殺しとかねぇと。
「讐焉術!!」
 俺様の全てがどろどろとした真っ黒の闇に染まっていく。
 その時だった。
「もう、止まって」
 眩い白色の光が俺様の手を温かく包み込む。
「そうしないと、どんどん遠のくだけだよ。羅堕忌の本当の望みが」

 私はずっと翠君と桔梗さんに守られながら、いつでもすぐ飛び出せる距離に居た。
 羅堕忌が紲さんに倒された時も。ボロボロになりながら、再び立ち上がった時も。禍々しい黒色のモヤが纏われ、他人所か羅堕忌自身も危険な状態に陥った時も。
 すぐ近くで、ずっと見ていた。
 だからこそ、今この時しかないと思ってパッと飛び出した。桔梗さんと翠君を振り切って、「叶架!よせ、まだだ!」と怒鳴る紲さんの制止も振り切って。
 今飛び出したら、私はただじゃ済まないだろう。大怪我を負うかもしれない。
 そんな考えは当然頭の中にあったし、飛び出す事の恐怖心も勿論あった。
 それでも私は飛び出した。怯みそうになる心を捨てて、恐怖心に囚われた体を捨てて、私は羅堕忌の元に走った。
 彼を止めようと手を伸ばしたが。黒いモヤがカマイタチの様に、ザシュザシュッと細かくて鋭い傷を次々と入れ込んで来た。まるで自分以外の全てを拒絶する様な攻撃に、私は顔を歪めてしまう。
 けれど、私は進み続けた。
 そして与えられる苦痛を振り切る様に手を伸ばし、禍々しい術を生み出している手に無理やり自分の手を重ね、ギュッと包み込む。
 その瞬間、黒いモヤ以上の痛みが私を襲った。肌が焼けただれる程の灼熱に触れ、手が一瞬にして大火傷を負う。更に、そんな手を破る様に何かが体内に入り込み、ズキズキと内側を破壊されていく。
 言葉にならない苦しみがひどく暴れ出したが。私はグッと奥歯を噛みしめ、苦痛を押し込めながら言葉を吐き出した。
「もう、止まって。そうしないと、どんどん遠のくだけだよ。羅堕忌の本当の望みが」
 私は苦痛を押し込む様に唾を飲み込んでから「こんな事、本当はしたくないんでしょ」と声をかける。
「羅堕忌、貴方の望みは誰かに止めて貰う事でしょ。そしてこの憎しみから、この苦しみから解放される事。そうでしょ?」
「・・・・何を言ってやがんだ」
 羅堕忌は冷淡に言葉を返すが、その語勢は酷く弱々しかった。私の中にあった疑念が「やっぱりそうだ」と、確信に変わる。
「羅堕忌、貴方は自分が見えてない」
「勝手な事を・・べらべらと」
「本当の自分が見えていたら、そんな言葉は出ないよ」
 羅堕忌の言葉を遮ってズバリと指摘し、淡々と言葉を続けた。
「自分が見えなくなって、かなり長い時を過ごしてしまったんでしょ。だから無自覚に言動に矛盾が生じるし、私の言葉に戸惑いを覚えるんでしょ」
「ち、ちげぇ」
「じゃあ何故、自分以上の強さを求めていたの?最強の座に固執しているのに、どうして?最強は自分だと酔いしれる為?最強と言う冠が相応しいのは自分しか居ないと痛感する為?私にはそうは見えなかったよ」
 容赦ない詰問に、羅堕忌の精神が大きく揺らぎ出す。いや、すでに崩壊している精神が別の意味で崩壊を始めたのだ。「何故」とぶつぶつと繰り返し、体が強制的に突きつけられる矛盾を拒絶する様に震える。
 それでも私は口を閉ざさなかった。まだあると言う様に、ドンドンと言葉を重ねていく。
「どうして玉陽の巫女の力を持った私を手元に置こうとしているの?強い讐には必要のない力のはずなのにどうして?私達人間と違って、傷を負ってもすぐ治っていたのに。どうして玉陽の巫女の力を欲しがっているの?」
 それらがどう言う意味を持った行動か、分からない?と、焦点が合わなくなった羅堕忌の真っ赤な目をまっすぐ射抜いた。
「自分を止めて欲しい、自分を楽にして欲しい。羅堕忌の行動には、ずっとその想いが根底に込められているの。無自覚に込められてしまう程、その想いは強いんだよ」
 無自覚に溶け込んでしまった本心を揺さぶる様に言葉を紡ぎ、ギュッと戦い続けた拳を強く握りしめる。
「紲さんが止める、私が楽にする。だからもう動かないで」
 私は「羅堕忌」と優しく名前を呼んでから、ゆっくり歩み寄り、ボロボロの体を優しく抱きしめた。
「止まれる時が来たんだから、今ここで止まろう。これ以上進むと、本当に戻れなくなるよ。もっと自分が見えなくなるし、もっと苦しみ続けなくちゃいけなくなる。だから止まろう、羅堕忌。もう、これ以上苦しみを抱える必要はないよ」
 泣き喚いている子供を宥める様に、優しくトントンと背中を叩きながら告げる。
 すると羅堕忌の体が急激に弛緩し、ガクンッと倒れかかってきた。体を操っていた糸が切れたのだろう。私はなだれかかってきた体をしっかりと抱きとめるが、支えるには重すぎてずるずるとしゃがみ込んでしまった。
 膝枕に切り替え、倒れてしまった羅堕忌を窺うと。羅堕忌は正気を取り戻した瞳で私を映し、ぼんやりと「温けぇ」と呟いた。
「これが、この温かさが、俺様の求めていた事だった・・のか?」
 長い事見えていなかった自分の声が、ようやく届いた瞬間だった。疑問符が付いているから、まだ完璧には聞こえていないのだろうけれど。
 それでもずっと聞こえていなかった声なのだから、それが少しでも届いたと言う事は大きな進歩だ。
 私はニコリと目を細めて「そうだよ」と答える。
 すると羅堕忌はハッと鼻で笑い「こんな物をここで得ようとしていたのか」と唾棄した。
「っとに、馬鹿げてるぜぇ・・戦い以外に心を奪わる奴が死んでいく世界でよぉ。こんなもんがある訳ねぇのによぉ」
 自嘲を浮かべながら告げられた言葉で、私はやっと分かる。
 何故、羅堕忌がこうなってしまったのか。大きな齟齬に苛まれている苦しみにも気がつかなくなってしまったのは、どうしてか。
 この魁魔の世界と言う過酷な世界が「戦いを辞める」と言う選択肢を排斥し、戦いを続ける生き方を強制していたからだ。そうしなければ死ぬと、常に眼前に突きつけていたからだ。
 なんて苦しすぎる世界だろう。なんて残酷な世界だろう・・・。
「だから自分じゃ止まれなかったし、止まって良いって言う存在も居なかったんだ・・」
 顔を苦悶に歪めながら吐き出すと、目の前の羅堕忌はハッと鼻で笑い、一蹴した。
「止まる必要なんざねぇからなぁ」
 止まる必要がないから戦い続ける。そうして一人で戦い続けた結果が、これなんて・・。
 私はキュッと唇を一文字に結んだ。
 私が、羅堕忌の負う苦しみをもっと早くに見抜くべきだった。私が、もっと早くに羅堕忌を止めるべきだったんだ。
「・・・ごめん、羅堕忌」
 目頭が熱くなり、視界がじわじわと歪んでいく。瞼の緩やかな湾曲を滑って、雫がポタッと羅堕忌の顔に滴り落ちた。一滴、また一滴と雨の様に落ちていく。
 羅堕忌はその雫に弱々しく目を開けて「なんでだよ」と、呆れ混じりに訊いた。
「俺様に殺されかけたって啖呵切ってくる女が、なんでこんな所で泣いてんだよ」
 意味分かんねぇと小馬鹿にされるが。私の涙は止まらず「だって、だって」としゃくり上げるばかりだった。
 そこから先の言葉を紡ぎたくなかったから。
「生き直す時間が、羅堕忌にはもうなくなってしまったから」
 あまりにも残酷な言葉だから、絶対に言葉にしたくなかった。
 でも、そんな残酷な言葉しか、この現実には当てはまらない。
 ボロボロと瓦解していく体が残された時間はもうない、と物語っているから。
 あぁ、なんて残酷な世界なんだろう・・。
 止めてくれる誰かもいない。痛みを訊いてくれる誰かもいなければ、痛みを分かち合ってくれる誰かもいない。
 負の念だけを抱えて生きる事を強いられ、その道を一人で歩き続けた結果がこれだなんて。
 最後の最後まで、この世界は残酷すぎる。
 言葉が嗚咽の中に消えていくと、羅堕忌が唐突に口を開いた。
「こんな温けぇ光に包まれて逝くとはなぁ」
 柔らかく言葉を紡ぐと、羅堕忌は小さく笑った。初めて見る、柔らかな微笑。ゾクリと総毛立つ様な冷笑ではない、温かな心が溢れた笑みだった。
「存外、悪くねぇ・・。最後の最後で闇以外の物を見られたし、こんな最期を迎えられる讐は他にいねぇだろうからよぉ」
「・・羅堕忌」
 惜しむ様に彼の名前を呼ぶと、羅堕忌は手の形を留められなくなった手をゆっくりと上げ、私の頬に触れる。触れていない様で触れている手の感触に、私はしゃくり上げてから自分の手を彼の手に重ねた。
 すると羅堕忌は口元を優しく綻ばせ「あぁ」と、しみじみと吐き出す。
「ようやく分かったぜぇ。俺様は、戦いのつまらなさに苦しんでいたんじゃねぇなぁ。ずっと解放されたかったんだなぁ・・こんな風になりたかったから、俺様は苦しんでいたんだなぁ」
 弱々しくもしっかりと吐き出された言葉に、私はハッとした。
 最後の最後で、ずっと見つからなかった自分を見つけられる事が出来たんだって分かったから。
 緩んでいた涙が再び勢いを取り戻し、羅堕忌の顔にポタポタと雨の様に零れ落ちる。
 良かった、本当に良かった・・・。
「・・なぁ、玉陽。お前、玉陽って言うんじゃねーよなぁ?」
 私は空いた手で涙を乱雑に拭いながら「うん」と頷き、クリアになった視界に羅堕忌の顔をしっかりと映す。
「叶架。私の名前、神森叶架って言うの」
 力強く答えると、羅堕忌は満足げに「叶架」と呟き、ニカッと口角の端を上げた。
 すると急速に体の瓦解が進んでいく。胸辺りから下は一切がボロボロと塵の様に虚空に消え、頬を触れられている感覚もどんどんと無くなっていく。
 私はその手を閉じ込める様にギュッと強く握りしめ「羅堕忌!」と叫んだ。
 これが最期だと思うと、ぶわっと伝えたい言葉がせり上がってくる。
 けれど、どれを言うべきかと取捨選択する間も無く、勝手に言葉が飛び出していた。
「憎魔に襲われそうになった時、助けてくれてありがとう!」
 伝えるべきだったけれど、今までずっと伝えられなかった感謝の言葉。
 私の唐突な礼に、羅堕忌は軽く呆気に取られたが。すぐに相好を崩し「ばぁか」と答える。
「お前を助けた訳じゃねぇ。あの愚図共にムカついてやっただけだぁ」
 フッと鼻で笑うと、柔らかな眼差しで私をしっかりと見据えた。
 ボロボロと手が消えていく。
「こんな言葉を言う日が来るなんてなぁ・・」
 顔がボロボロと崩れ、消えていく。
「叶架」
 真っ赤な瞳も、高い鼻も、鋭い歯が生えている口も。
「ありがとなぁ」
 囁く様に告げた一言を最期に、羅堕忌と言う讐は跡形も無く消えてしまった。
 赤と黒と紫色の塵となって、虚空へと消えてしまったのだった。
 生きていた事も何も残らない、虚しい最期。
 私の涙が荒廃した土地に降り注ぐ。
 どうか、もう二度と羅堕忌が讐になりません様に。
 生まれ変わる事が出来たら、沢山の幸せのなかを歩めます様に。
 そんな羅堕忌と、もう一度出会えます様に・・・。
・・・
 嗚咽を漏らしながら、羅堕忌の最期を悼んでいると、紲さんが私の肩をそっと抱いた。ギュッと包み込む様な優しさに、私の涙が少し緩まるが。
「叶架、悲しみは今ここで断ち切っておけ」
 かけられた言葉が厳しいと言うよりも冷淡な一言で、唖然としてしまった。
 紲さんは、羅堕忌と命がけの戦いをしていたからそう言うのだろうけど。でも、だからってこんな悲しい最期に対して、そんな言い方はないでしょ・・?
 信じられないと、沸き立ってきた怒りをぶつけようと口を開きかけるが。
「あんな幸せそうな最期に、悲しみの涙はいらないだろう?」
 静かに告げられた言葉に、私は「え」と一言零し、何度も目を瞬かせてしまう。
 紲さんはそんな私を一瞥もせずに、羅堕忌が居た場所だけに目を向け、柔らかな微笑を浮かべた。
「あんなに幸せそうな最期は初めて見たよ。普通であれば、憎しみや苦しみを吐き出しながら消えていくんだ。それなのに、アイツは一言もそんな風には言わなかった。ありがとうと感謝を述べ、幸せそうな笑顔でいっただろう?だから俺はアイツの最期を悲しいとは思えないし、嘆く事も出来ない」
 これがアイツの最初で最後の幸せだったと思うからな。と、紲さんは私の頭を自分の肩に優しく引き寄せ、腕の中に包み込む。
「叶架がアイツの死に悲しさや虚しさを覚えていたら、アイツは救われたのに救われなかった事になるんじゃないのか。君に与えられた幸せが、幸せと呼べなくなってしまうんじゃないのか。アイツに幸せをあげた君自身が、アイツの幸せを否定する様な真似をして良いのか」
 耳元で力強く告げられる言葉によって、堰き止められていた涙が決壊し、滝の様に流れ出す。
 紲さんの言葉は羅堕忌を嫌っているが故の冷たい言葉ではなかった。
 羅堕忌の気持ちを蔑ろにしない為の思いやりに溢れ、私よりもしっかりと羅堕忌の最期の気持ちが見えていたからこその言葉だった。
 とんちんかんな怒りを覚えた自分が恥ずかしい。本当に大切な事が見えていなかった自分にも、忸怩を覚える。
 私は目元をパッパッと拭い、鼻水をずびぃっと勢いよく啜った。
「ごめんなさい、紲さん。私、羅堕忌の思いを踏みにじる所でした。紲さんが止めてくれなかったら、私・・本当にごめんなさい・・」
 紲さんは何も言わずに、私の頭を優しく撫でる。
 私は手から伝わる温かな言葉を受け取ってから、最後の悲しみをパッパッと払った。
 もう泣かない。彼への餞に、この涙はいらないって分かったから。
 私が涙を払うのを見ると、紲さんは腕の中から私をゆっくりと離した。そして「ここを出るぞ」と立ち上がり、手を差し伸べてくれる。
「俺達はこの世界にいるべき存在じゃないからな」
「はい」
 コクリと頷き、彼の手を取ろうと自分の手を伸ばすが。
 突然ぐらりと大きく視界が傾いた。
 あれ?と怪訝に思った時には、体の感覚がフッと消えてしまっていた。
 そうしてやって来たのは、純白の世界。
 え?どうして?これ、どうなっているの?私、どうしちゃったの・・?
 訥々と自分の中で言葉を並べたが、自分の状況を理解する事は出来なかった。勿論、そんな自分を何とか回復させようと言う事も。
 ただ、自分の全てが白色に奪われていく。
「叶架!叶架!桔梗、翠!来い!手を貸せ!」
 紲さんの切羽詰まった声を最後に、私は完璧に白色に塗りつぶされた。
 でも、不思議と嫌な感じは全くしなかった。

 漂ってきたであろう世界に、突然くるっと手の平を返され、私は強制的に帰らされていく。
 その道中で光の眩しさを感じ、閉じていたシャッターをゆっくりと開けた。
 不思議なもので、眼前に広がる光景を目にすると、お留守になっていた全てがいつの間にか帰宅していて「ずっと眠っていたんだよ」と言う事を分からせる。
 その事にひとまず「そっか」と頷くも、新たな直近の疑問に顔を曇らせた。
 ここ、どこだろう・・?私、紲さんと魁魔の世界に居たはず・・だよね?
 まだ霞がかった頭でぼんやりと考えだし、目だけをくるっと動かしてみる。
 お洒落な黒色のシーリングファンがくるくると回り、リラックス出来るクラシック音楽(多分、ショパン?)がどこからか流れている。近くに置いてある加湿器の煙がたなびいているだけではなく、私の顔はカーテンを通して緩やかに射し込む太陽の光を受けていた。
 それに、今横になっているベッドは自分のベッドよりも遙かにふかふかで上質。
 うーん、こんなに限定的な視界と横になっている感覚じゃどこかなんて分からないなぁ。
 起き上がろうと決意し、体を一動きさせた時だった。
「お、やっと起きたな」
 聞き馴染みのありすぎる声が唐突に横から聞こえたせいで、意識を霞ませていた霧が一気に晴れる。
 バッと慌てて体を起こし、横に居る人物に目を丸くするばかりか、素っ頓狂な声で叫んでしまった。
「迦那人にぃ!」
「おー、叫ぶ元気は戻ったみてぇだな。良かった、良かった」
 迦那人にぃは持ち前のスルースキルで私の素っ頓狂さをいなし、朗らかに笑う。笑顔は律華ねぇそっくりなのに、その温和さは律華ねぇには確実にないものだ。
 間違い無い。今、目の前に居る迦那人にぃは本物だ。
「迦那人にぃ、ど、どうして?」
 驚きを露わに投げかけると、迦那人にぃは腕を組みながら「どうもこうもねぇよ」と苦笑を浮かべる。
「妹が倒れたって聞いたら、すっ飛んでくるに決まってんだろ」
 迦那人にぃ、本当に律華ねぇとは大違いだ。律華ねぇだったら、私が倒れたって聞いても「え?叶架が?まぁ、大丈夫でしょ」って、絶対に聞き流すよ?
 迦那人にぃと律華ねぇを見て育つと本当に思うよ。兄弟のどっちかがちゃらんぽらんだったら、どっちかは絶対しっかりするんだなって。
「話を聞いてすぐに駆けつけたらさ、丁度紲様にお姫様抱っこされたお前が本鏡をくぐって帰ってきたもんだから、俺、もうパニックよ」
 えっ!私、紲さんにお姫様抱っこされて戻って来たの?!それは凄く嬉しい様な、恥ずかしい様な・・・。
「おい、そこ照れる所じゃねぇからな。目の前で妹が魁魔の世界で倒れたまま帰ってくる恐怖が分かるか?俺、マジで焦ったぞ。律華程ではねぇにしてもだ、お前もそう言う所が大いにあるからな。兄貴の気持ちをもっとよく考えて行動してくれよ、分かったな?」
 厳しい諫言に、私は素直に「ごめんなさい」と答えようとしてしまったが。
 ようやく、迦那人にぃのおかしさにハッと気がつき「ちょ、ちょっと待って?!」と、ストップをかける。
「迦那人にぃ、なんで色々知っている訳?!魁魔の世界とか、本鏡とか、紲様って。どうして知っているの?!どういう事なの?!」
 さも当然と話していた迦那人にぃのおかしさを盛大に突っ込むと、迦那人にぃは「そりゃあ知ってるよ」と朗らかに笑った。
「俺、鏡番だからな」
 あっけらかんと答える迦那人にぃに対し、私は「えっ?!」と素っ頓狂に叫んでしまう。
 そしてしばらくフリーズし、唾と共に彼の言葉をゆっくりと飲み込んでから、弱々しく言葉を吐き出した。
「・・・嘘だぁ・・・」
「気持ちは分かるが、嘘じゃねぇよ。俺は鏡番だし、ついでに言えば親父もそうだ。今は俺の代わりを務めてくれているから、ここには来られてねぇけど。親父、俺以上にパニックだったぞ。叶架が、叶架がって」
 朗らかに笑いながら話す迦那人にぃだが、私の顔は一向に朗らかにならない。朗らかどころか、どんどんと顔が険しく、そして厳めしくなっていく。
「ちょ、ちょっと待って?迦那人にぃだけじゃなくて、父さんも鏡番なの?」
「そうだよ。神森家は昔から黒壁家傘下の家の一つだからな。家の人間ほとんどが鏡番だよ」
「嘘・・そんな事・・私、全然知らなかったんだけど・・」
 唖然と答えると、迦那人にぃは小さく肩を竦めて「だろうな」と朗らかに言った。
「この事を知らないのは、神森の人間ではお前と律華くらいだと思うよ」
「私と律華ねぇだけ?じゃ、じゃあ母さんも鏡番なの?!」
「いや、お袋は鏡番じゃねぇよ。けど、結婚時に神森家の事を聞かされたらしいからな。この世界の触り程度は知ってるはずだよ」
「・・・し、知らなかった・・・」
「俺達の両親、まぁ特にお袋の方だけど。子供は平和で暮らして欲しいって言う方針だったからな。俺達には話さなかったんだよ」
 成程、父さんと母さんらしい方針だなぁ。と思いながら「成程ねぇ・・」と頷くと、迦那人にぃは「お前、本当に事の受け入れがはえぇよなぁ」と苦笑交じりに言う。
「嘘でしょ、そんなの信じないから!って喚き立っても良いぞ?お兄ちゃん、真摯にお前の混乱を受け止めてやるからさ」
「そんな事しないよ。そんな突っ込みは無駄って、もう学んでるから」
 淡々と打ち返すと、迦那人にぃは「流石、俺の妹」と小さく笑った。
 私はその答えに小さく笑ってから「それじゃあ」と話を先に進ませる。
「迦那人にぃは、私が玉陽の巫女って言うのも知っているって事?」
「勿論だ。ま、本鏡の方が忙しかったから、最近聞いたばっかりだけどな。マジで驚いたよ、お前があの伝説の玉陽の巫女だったなんてなぁ。でも、だからかって腑に落ちた所もあるから、親父よりは驚かなかったと思うよ」
 意味深な言葉に首を少し傾げてしまうが。ひとまず、始めの小さな疑念を取るべく「迦那人にぃ、本鏡の鏡番なの?」と尋ねた。
「おう、今は熊本本鏡の鏡番をやらせてもらってるよ。なんとか食らいついてるって感じだからさ、結構大変なんだよ」
 なんて謙遜気味に答えられるけれど、私は知っている。本鏡の鏡番に選ばれる凄さを。
 今まで知らなかった兄の凄さを知り、私は「えっ、熊本本鏡?!凄いね?!」と、驚きつつも賞賛を送った。
 迦那人にぃは「ありがとな」と喜色を浮かべるが。すぐに「でもな」と、まだ驚くなかれと言わんばかりの顔つきになる。
「俺なんかよりも紲様の方がすげぇよ?なんたって」
「迦那人」
 迦那人にぃの言葉を呆れ混じりに遮り、迦那人にぃの後ろのドアから入って来たのは・・なんと紲さんだった。
 紲さんの登場には「紲さん!」と歓声をあげる私。「これはこれは、紲様」と、パッと立ち上がり、恭しく彼を迎え入れる迦那人にぃで分かれた。
 紲さんは私に「良かった、目が覚めたんだな」と柔らかな微笑をくれてから、恭しい姿勢をしたままの迦那人にぃを冷めた目で一瞥する。
「らしくない事をするな、迦那人。あと、叶架に俺の事を変に吹き込むのも辞めろ。そんな事をする前に、俺達に一言意識が戻ったと入れるべきだろうが」
 全くと嘆息混じりに非難すると、迦那人にぃは恭しい態度から一転し「吹き込んでねぇよ」と砕けた口調で、紲さんに話しかけた。
「妹の中で紲の株を急上昇させてやろうと言う、兄貴の粋な計らいだと分かって欲しいもんだな」
「余計な世話を焼くな」
 ピシャリと冷たく言い放つと、迦那人にぃは面白そうにクックッと笑いながら紲さんの肩にもたれかかる。
「良いのか?兄貴からの直々のアシストなんだぞ」
「それが余計な世話だと言っているんだよ」
 ・・え。この二人、知り合いだったの?しかも、ふざけ合いが出来ちゃう程の仲・・?
 私は小さく息を飲んでから「あの」と、二人の会話に口を挟む。
「紲さんと迦那人にぃって、友達だったんですか?」
 訥々と尋ねると、二人から同時に「ああ」「そうだよ」と、あっけらかんと答えられた。
「もう十年以上の仲になるか?同い年だし(えっ、そうだったんですか!?と愕然としながら紲さんを見ると、紲さんは「あぁ、まぁ」と歯切れ悪く頷いた)趣味も合うし、話も合うし、鏡番だしで結構共通点があってな」
 屈託の無い笑みを浮かべながらじゃれ合う二人(迦那人にぃの一方的な感じではあるけど)を前に、私は何だか疎外感を覚えてしまった。
 すると「叶架」と、迦那人にぃが私の疎外感を見透かした様に「これもお前が知らなくて当たり前」と、朗らかに言う。
「俺も紲も話さなかったんだからさ」
一切悪びれない、堂々とした発言に、私はムスッとし「なんで話してくれなかったの?」と、迦那人にぃだけを非難する。紲さんは何かあったにしても、迦那人にぃの方は幾らでも話す機会があったんだから、教えてくれたって良かったでしょ、と。
 非難を向けられた迦那人にぃは「仕方ねぇだろ」と小さく肩を竦めた。
「お前、俺に仲良い友達の話なんかしねぇだろ?したとしても、俺じゃ無くて律華の方だろ?それと一緒。俺も妹に仲良い友達の話なんかしねぇって事だよ」
 うううぅ・・。正論過ぎて、何も言い返せない・・・。
 私はくっと奥歯を噛みしめて「そうだけど・・」と、渋々引き下がる。私を言い負かした迦那人にぃは口角をニッと上げて「だろ?」と言った。
「それに紲の方は、俺よりもお前には話せねぇよ。コイツはなぁ」
「迦那人」
 紲さんが迦那人にぃの言葉を唐突にバッサリと遮り「俺は叶架と話があるから、お前は席を外してくれないか」と、ぶっきらぼうに告げた。
 迦那人にぃはカラカラと笑いながら素直に「はいよ」と答え、「親父に連絡してくるよ」と、私を一瞥してから部屋を出て行ってしまった。
 紲さんは迦那人にぃの後ろ姿を見送ると、ゆっくりと私に向き直り「意識が戻って良かった」と、話の流れを強引に自分の方へ敷く。
「気分はどうだ?どこか具合が悪いとかあるか?傷の方は、多分もう綺麗に治っていると思うから大丈夫だとは思うんだが」
 傷と言う言葉で、私は「あ、そう言えば」と、自分の手の平に目を落とした。
 あんなにボロボロ、と言うかドロドロだった手のはずなのに。なんと全て綺麗に治っていた。痛みもなければ、傷痕もない。道理で「そう言えば」と言う感覚だったのだ。
 私はパッと紲さんに視線を戻してから「も、もしかして・・」と、恐る恐る切り出す。
「私が倒れてから、かなり時間が経っていたりとかしますか・・?」
 戦々恐々とした問いかけに、紲さんは「いや」と首を振った。
「そこまで時間は経っていない。今が火曜の十時過ぎだから、本鏡から出て来て丁度半日って所だな」
 半日と言う絶妙な時間に、私は「あぁ、良かったぁ」と言う安堵が半分、「いや、良かったのか?」と何とも言えない気持ちが半分の状態に陥った。
 そんな私を前にした紲さんは、口元を少し緩めながら「叶架が倒れた原因は」と言葉を紡ぐ。
「玉陽の巫女の力を使いすぎた事と羅堕忌の攻撃を受けてしまった事にある。その二つの要因が消えたから、半日と言う短い時間で目覚められたのだろう。こちらで傷だけを治療し、叶架の体を玉陽の力の回復だけにあてさせたんだ。玉陽の力は、叶架自身が回復させるしかなかったからな」
 かなり不安だったが、目覚めてくれて本当に良かった。と、弱々しく告げる紲さんに、キュンと胸を高鳴らせしてしまう自分もいたけれど。痛切に反省する自分の方が圧倒的に強くて、すぐに「本当にすみません!」と頭を下げた。
「迷惑をかけた上に、心配までかけさせてしまうなんて。本当にすみませんでしたっ!」
 頭が膝にくっつく程深々と下げると、紲さんから「叶架、頭を上げてくれ」と言われる。その言葉に従い、ゆっくりと頭を上げると。
 頭を上げた先の紲さんは、少し怒っていた。
「迷惑をかけられたなんて思ってない。それにその言い分だと、俺は君の心配もしてはいけないと言う風に聞こえるんだが?」
 思わぬ受け取り方に私は「えっ?」と唖然としてしまうが、彼は淡々と言葉を突き詰める。
「心配する事もさせてもらえないのか?何も関わる事を許されない赤の他人と言う事なのか?君にとって俺はそんな程度と言う事か?」
 静かな怒りが込められた言葉に、私はぶんぶんと首を振り「そ、そ、そんな事ないです!」と慌てて答えた。
 その答えに、紲さんは「なら良かったが」と一転して、顔を柔らかく綻ばせる。
 けれど、すぐに険しい顔になり「もう二度とそう言う風に言うなよ」と、厳しめに告げられた。勿論、私の答えは素直に「はい」だ。
 紲さんは満足げに頷いてから「そう言えば。ここがどこか、まだ話してなかったな」と、言葉を継ぐ。
「ここは京都にある師匠の家だ。治療に最適な場所だし、迦那人が気兼ねなくすぐに駆けつけられるからな。魁魔の世界から出て、すぐに来たんだ。今、師匠は別件で居ないが。桔梗が呼びに行ったから直に戻ると思う」
 君をえらく心配していたから、目覚めたと知ったら桔梗を引きずって戻ってくるぞ。と、苦々しく言った。
 私はその言葉を否定出来ず「五十鈴さんならそう来そうだなぁ」と、苦笑を浮かべてしまう。
 すると紲さんが「その大怪物《ししょう》が来る前に」と、私を真剣な眼差しで見据えた。
「叶架に話がある」
 突然改められる雰囲気と言い、声のトーンと言い、これから紲さんが話す話が自分に良い物だとは思えなかった。
 これは絶対に怒っている・・・。
 いや、でも紲さんが怒っているのも当然だよね。私、魁魔の世界で紲さんの怒りを買う事ばっかりしていたから・・・。
 私は話を聞く姿勢を作りながら「何でしょうか?」と、ガチガチに身構えてしまう。
 すると紲さんから「そんなに身構えないでくれ」と、優しく宥められた。
「大切な話だが、そう身構えられると、とても言い出し辛い。それに、とても話し辛くなるから、そんな身構えずに聞いて欲しい」
 常に淡々と喋る紲さんらしくない、たどたどしい喋り方。常に端的に話す紲さんらしくない、長い前置き。
 怒っているって感じじゃない。と、ひとまずはホッとするものの、これはこれで「どうしたのだろう」と不安になった。不安と言うか、怪訝・・?
 けれど、その怪訝を露わにする事は出来なかった。「叶架」と熱が籠もった眼差しに囚われると、そんな怪訝は消えていく。ドンドン顔は火照り、ドキドキと痛い程に胸が高鳴っていった。
 か細く「はい」と答えると、緊張感がドクドクと加速する。
「俺は、叶架が好きだ」
 あのキス以上のトキメキと、人生で一番の歓喜の荒波がザパァッと私を飲み込んだ。一気に夢見心地になり、ふわふわと現実と夢の狭間を漂う。
 私は茫然自失の状態に陥ってしまうが。紲さんは、まだ言い足りないと言う様に言葉を重ねてきた。
「君は年下だとか、高校生だとか、迦那人の妹だとかって言う憚りもあったんだが。会う度に想いは強まって、会う度に君に惹かれていくばかりで、俺の気持ちは何も引かなかった。それらなんかでは何の憚りにもならない程になっていたんだ」
 照れくさそうに言いながらも、嘘偽りがないと言わんばかりに語気は力強かった。
 けれど私は、その言葉を素直にストンと受け取れなかった。
「その気持ちは・・私が、玉陽の巫女だから・・ですよね?」
 恋心に溺れる私を散々冷徹に叩き落としてきた理性が、そう尋ねさせる。
 私が玉陽の巫女だから、そう言ってるだけでしょう?玉陽の巫女として見ているのであって、私としては見ていないんでしょう?と、仄かに険を含ませて。
「違う」
 紲さんは理性《わたし》の思惑をピシャリと払いのける様に、すぐに力強く否定した。
「俺は叶架の持つ力や肩書きに惹かれた訳じゃない。叶架の人柄に惚れたんだ。とても優しい所に、凜とした所に、色々な表情を見せる所に、とても可愛らしい所に惚れたんだぞ。だから君が玉陽の巫女である事なんて、この気持ちには何の関係もない」
 私の心に訴える様に告げると、紲さんはキュッと私の手を握りしめる。
「叶架、俺は・・こんなにも好きだと思える人に出会えたのだから、こんなにも愛しいと思う君を見つけられたのだから、とても幸運だと思っている」
 私はその言葉にハッとし「その言葉・・」と小さく呟き、大きく見開いた目で紲さんを見つめた。
 それは玉陽の巫女である私を見つけられたから、と言う事じゃなかったの・・?と言わんばかりに。
 すると紲さんは弱々しく口元を綻ばせ「そうだ」と答えた。
「やっと分かってくれたな」
 優しく告げられた瞬間、私の全身から喜びが溢れ出る。ボロボロと目からは歓喜を流し、顔が柔らかく綻んだ。素直ではなかった心も全てを受け入れ、喜びに浸っていく。
「私も、私も・・」
 えぐえぐと嗚咽を漏らしながらも、自分の思いを言葉に紡いでいく。彼にしっかりと届く様に、彼にちゃんと伝わる様に。
「私も、紲さんが好きです。大好きです!」
 自分史上一番輝く笑顔で告げた瞬間、紲さんは驚きに固まった。
 けれど、すぐに顔を嬉しそうに綻ばせ「俺もだ」と、優しく言葉を返してくれる。
 蕩ける程甘い喜びが二人をほわほわと覆っていく・・が。
「叶架ちゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!」
 五十鈴さんの叫声が二人の甘い空気を引き裂いた。ドタドタッと廊下を踏み鳴らす音が迫ってくる。「迦那人!そこのきぃや!!」と、一回だけ足音は静かになったものの、すぐにドタドタドタッと荒々しい音が再開する。
 そしてばぁぁんっと荒々しく部屋の扉が開かれると、五十鈴さんが姿を見せた。
 私を見るや否や「叶架ちゃぁぁぁぁん!」と歓喜の叫びをあげ、「邪魔や!!」と紲さんをワンパンでふっ飛ばし、ギュッと私を強く抱きしめる。
「怖い思いさせてしもうて、ほんま堪忍ねぇぇえ!ほんま不甲斐ないうちらを許したってぇぇぇ!あぁぁぁ、良かったわぁぁ、目覚めてくれてほんま良かったわぁぁぁぁぁ!ほんま堪忍ねぇぇぇぇ!もう二度とあんな事は起こさせへんからなぁぁ!仏さんに誓って、絶対絶対ウチが守ったるからなぁぁ!」
 頭に並んだ言葉をそのまま吐き出して叫び、抱きしめる力をどんどん強める五十鈴さん。
 うっ、死ぬ・・!とは思ったけれど。彼女の言葉が喜びに満ち溢れた安堵だと言うのが痛い程伝わってきたから、そんな苦しげな気持ちはどこかに行ってしまった。
 私は五十鈴さんの背に手を回し「ありがとうございます、五十鈴さん」と声をかける。
「五十鈴さんのおかげで、もうすっかり元気になりました」
 本当にありがとうございます、と伝えると。五十鈴さんは「叶架ちゃぁぁぁぁん!」と、耳元で泣き喚めいた。きーんと耳鳴りを起こし、思わず苦笑が零れてしまうが。
「師匠」
 紲さんが五十鈴さんを強制的に引き剥がし、仲裁に入る様に私達の間に立った。
「俺の彼女をあまり困らせないで下さい」
 か、彼女・・。今、紲さん私の事を「俺の彼女」って・・・。
 ちらとドギマギしながら紲さんを窺うと、紲さんはすぐに微笑みをくれる。いつもと違った、甘い微笑みを。
 言葉とのダブルコンボが刺さり、ボンッと私は爆発した。心はこそばゆい様な感情でいっぱいになり、頭は「自分が紲さんの特別になったんだ」と、嬉しい実感でいっぱいになる。
 けれど、そんな甘い世界に突入する前に、私は現実に強く引き戻された。
「マァジかぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー?!」
バックグラウンドとして鳴っているクラシック音楽がかき消される事は勿論、空気も五十鈴さんの叫声に染まっていく。
 あまりの叫声に、私は「うっ」と渋面を作ってしまうが。五十鈴さんは依然大はしゃぎ。「えっ、ほんまに?!彼女ってほんま?!ほんまに付きおうたって事?!ほんまにド屑の坊が、こないめんこい子落としよったの?!!ほんまに?!」と、目を爛々とさせながら何度も確認を取っていた。
 その様に、紲さんが「はぁ」と苦々しい嘆息を零し「牙琥!」と声を張り上げる。
「師匠をリビングの方に《《早く》》連れて行け。桔梗、迦那人。お前等は牙琥の加勢だ」
 いつの間にか、扉の後ろで団子三兄弟の様に覗いていた牙琥、迦那人にぃ、桔梗さんに容赦ない厳命を下した。
 三人はぎくっと身を強張らせたけれど。素直に「はい」と蚊の鳴く様な声で答え、さっと足早に部屋に入ってきた。
 そうして牙琥を中心にして暴れる五十鈴さんを何とか取り押さえ、抵抗する彼女をずるずると引っ張りながら部屋を出て行く。
 パタンと部屋の扉が閉ざされると、嘘みたいに静かな空間になった。その代わり、この部屋から少し離れた所から嵐の音が聞こえる。
「全く、あの人は・・・」
 紲さんがこめかみを抑えながら吐き出すと、申し訳なさそうにこちらを振り返った。
「すまない、叶架。俺からそっとしておいてもらえる様に言っておく」
 彼の苦々しい言葉に、私は間髪入れずに「大丈夫です」と首を振る。
「何も言わないで下さい」
 喜色を浮かべながら答える私に、紲さんは少し目を丸くしてから「良いのか?」と怪訝な表情になった。
「確かに、言っても止まらない人ではあるが。言わないより言った方がマシだぞ。言わないと本当に際限がなくなるからな。言う方がややマシになるぞ?」
 紲さんが学んだ五十鈴さんの扱い方に、私は苦笑を零してから「良いんです」と答える。
「それが、とても嬉しいから」
 紲さん達の仲間に入れた気がして、紲さんの世界に自分もちゃんと組み込まれた気がして。
 私はフフッと喜色を浮かべて「紲さん」と、彼を呼んだ。
「私、これから頑張ります!紲さんの彼女としても、鏡番を助ける玉陽の巫女としても!紲さんの力になれる様に、私、頑張ります!」
 ふんっと意気込むと、紲さんは「叶架」と柔らかく相好を崩す。
「君は君のままで良い。そう肩肘を張る必要はない」
 温かな言葉に胸をじぃんと打たれ、「紲さん・・」と感激で言葉を詰まらせてしまうが。
「これからも、これから先もずっと隣に居てくれ。ただそれだけで良い。分かったな?」
 返事は?とニッと口角を上げられると、詰まっていた物がスコンと外れた。
 そして返事をする、私らしい溌剌とした声で。平和な世界に響く程の大きな声で。
「ハイッ!」
                                   了

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