漂ってきたであろう世界に、突然くるっと手の平を返され、私は強制的に帰らされていく。
 その道中で光の眩しさを感じ、閉じていたシャッターをゆっくりと開けた。
 不思議なもので、眼前に広がる光景を目にすると、お留守になっていた全てがいつの間にか帰宅していて「ずっと眠っていたんだよ」と言う事を分からせる。
 その事にひとまず「そっか」と頷くも、新たな直近の疑問に顔を曇らせた。
 ここ、どこだろう・・?私、紲さんと魁魔の世界に居たはず・・だよね?
 まだ霞がかった頭でぼんやりと考えだし、目だけをくるっと動かしてみる。
 お洒落な黒色のシーリングファンがくるくると回り、リラックス出来るクラシック音楽(多分、ショパン?)がどこからか流れている。近くに置いてある加湿器の煙がたなびいているだけではなく、私の顔はカーテンを通して緩やかに射し込む太陽の光を受けていた。
 それに、今横になっているベッドは自分のベッドよりも遙かにふかふかで上質。
 うーん、こんなに限定的な視界と横になっている感覚じゃどこかなんて分からないなぁ。
 起き上がろうと決意し、体を一動きさせた時だった。
「お、やっと起きたな」
 聞き馴染みのありすぎる声が唐突に横から聞こえたせいで、意識を霞ませていた霧が一気に晴れる。
 バッと慌てて体を起こし、横に居る人物に目を丸くするばかりか、素っ頓狂な声で叫んでしまった。
「迦那人にぃ!」
「おー、叫ぶ元気は戻ったみてぇだな。良かった、良かった」
 迦那人にぃは持ち前のスルースキルで私の素っ頓狂さをいなし、朗らかに笑う。笑顔は律華ねぇそっくりなのに、その温和さは律華ねぇには確実にないものだ。
 間違い無い。今、目の前に居る迦那人にぃは本物だ。
「迦那人にぃ、ど、どうして?」
 驚きを露わに投げかけると、迦那人にぃは腕を組みながら「どうもこうもねぇよ」と苦笑を浮かべる。
「妹が倒れたって聞いたら、すっ飛んでくるに決まってんだろ」
 迦那人にぃ、本当に律華ねぇとは大違いだ。律華ねぇだったら、私が倒れたって聞いても「え?叶架が?まぁ、大丈夫でしょ」って、絶対に聞き流すよ?
 迦那人にぃと律華ねぇを見て育つと本当に思うよ。兄弟のどっちかがちゃらんぽらんだったら、どっちかは絶対しっかりするんだなって。
「話を聞いてすぐに駆けつけたらさ、丁度紲様にお姫様抱っこされたお前が本鏡をくぐって帰ってきたもんだから、俺、もうパニックよ」
 えっ!私、紲さんにお姫様抱っこされて戻って来たの?!それは凄く嬉しい様な、恥ずかしい様な・・・。
「おい、そこ照れる所じゃねぇからな。目の前で妹が魁魔の世界で倒れたまま帰ってくる恐怖が分かるか?俺、マジで焦ったぞ。律華程ではねぇにしてもだ、お前もそう言う所が大いにあるからな。兄貴の気持ちをもっとよく考えて行動してくれよ、分かったな?」
 厳しい諫言に、私は素直に「ごめんなさい」と答えようとしてしまったが。
 ようやく、迦那人にぃのおかしさにハッと気がつき「ちょ、ちょっと待って?!」と、ストップをかける。
「迦那人にぃ、なんで色々知っている訳?!魁魔の世界とか、本鏡とか、紲様って。どうして知っているの?!どういう事なの?!」
 さも当然と話していた迦那人にぃのおかしさを盛大に突っ込むと、迦那人にぃは「そりゃあ知ってるよ」と朗らかに笑った。
「俺、鏡番だからな」
 あっけらかんと答える迦那人にぃに対し、私は「えっ?!」と素っ頓狂に叫んでしまう。
 そしてしばらくフリーズし、唾と共に彼の言葉をゆっくりと飲み込んでから、弱々しく言葉を吐き出した。
「・・・嘘だぁ・・・」
「気持ちは分かるが、嘘じゃねぇよ。俺は鏡番だし、ついでに言えば親父もそうだ。今は俺の代わりを務めてくれているから、ここには来られてねぇけど。親父、俺以上にパニックだったぞ。叶架が、叶架がって」
 朗らかに笑いながら話す迦那人にぃだが、私の顔は一向に朗らかにならない。朗らかどころか、どんどんと顔が険しく、そして厳めしくなっていく。
「ちょ、ちょっと待って?迦那人にぃだけじゃなくて、父さんも鏡番なの?」
「そうだよ。神森家は昔から黒壁家傘下の家の一つだからな。家の人間ほとんどが鏡番だよ」
「嘘・・そんな事・・私、全然知らなかったんだけど・・」
 唖然と答えると、迦那人にぃは小さく肩を竦めて「だろうな」と朗らかに言った。
「この事を知らないのは、神森の人間ではお前と律華くらいだと思うよ」
「私と律華ねぇだけ?じゃ、じゃあ母さんも鏡番なの?!」
「いや、お袋は鏡番じゃねぇよ。けど、結婚時に神森家の事を聞かされたらしいからな。この世界の触り程度は知ってるはずだよ」
「・・・し、知らなかった・・・」
「俺達の両親、まぁ特にお袋の方だけど。子供は平和で暮らして欲しいって言う方針だったからな。俺達には話さなかったんだよ」
 成程、父さんと母さんらしい方針だなぁ。と思いながら「成程ねぇ・・」と頷くと、迦那人にぃは「お前、本当に事の受け入れがはえぇよなぁ」と苦笑交じりに言う。
「嘘でしょ、そんなの信じないから!って喚き立っても良いぞ?お兄ちゃん、真摯にお前の混乱を受け止めてやるからさ」
「そんな事しないよ。そんな突っ込みは無駄って、もう学んでるから」
 淡々と打ち返すと、迦那人にぃは「流石、俺の妹」と小さく笑った。
 私はその答えに小さく笑ってから「それじゃあ」と話を先に進ませる。
「迦那人にぃは、私が玉陽の巫女って言うのも知っているって事?」
「勿論だ。ま、本鏡の方が忙しかったから、最近聞いたばっかりだけどな。マジで驚いたよ、お前があの伝説の玉陽の巫女だったなんてなぁ。でも、だからかって腑に落ちた所もあるから、親父よりは驚かなかったと思うよ」
 意味深な言葉に首を少し傾げてしまうが。ひとまず、始めの小さな疑念を取るべく「迦那人にぃ、本鏡の鏡番なの?」と尋ねた。
「おう、今は熊本本鏡の鏡番をやらせてもらってるよ。なんとか食らいついてるって感じだからさ、結構大変なんだよ」
 なんて謙遜気味に答えられるけれど、私は知っている。本鏡の鏡番に選ばれる凄さを。
 今まで知らなかった兄の凄さを知り、私は「えっ、熊本本鏡?!凄いね?!」と、驚きつつも賞賛を送った。
 迦那人にぃは「ありがとな」と喜色を浮かべるが。すぐに「でもな」と、まだ驚くなかれと言わんばかりの顔つきになる。
「俺なんかよりも紲様の方がすげぇよ?なんたって」
「迦那人」
 迦那人にぃの言葉を呆れ混じりに遮り、迦那人にぃの後ろのドアから入って来たのは・・なんと紲さんだった。
 紲さんの登場には「紲さん!」と歓声をあげる私。「これはこれは、紲様」と、パッと立ち上がり、恭しく彼を迎え入れる迦那人にぃで分かれた。
 紲さんは私に「良かった、目が覚めたんだな」と柔らかな微笑をくれてから、恭しい姿勢をしたままの迦那人にぃを冷めた目で一瞥する。
「らしくない事をするな、迦那人。あと、叶架に俺の事を変に吹き込むのも辞めろ。そんな事をする前に、俺達に一言意識が戻ったと入れるべきだろうが」
 全くと嘆息混じりに非難すると、迦那人にぃは恭しい態度から一転し「吹き込んでねぇよ」と砕けた口調で、紲さんに話しかけた。
「妹の中で紲の株を急上昇させてやろうと言う、兄貴の粋な計らいだと分かって欲しいもんだな」
「余計な世話を焼くな」
 ピシャリと冷たく言い放つと、迦那人にぃは面白そうにクックッと笑いながら紲さんの肩にもたれかかる。
「良いのか?兄貴からの直々のアシストなんだぞ」
「それが余計な世話だと言っているんだよ」
 ・・え。この二人、知り合いだったの?しかも、ふざけ合いが出来ちゃう程の仲・・?
 私は小さく息を飲んでから「あの」と、二人の会話に口を挟む。
「紲さんと迦那人にぃって、友達だったんですか?」
 訥々と尋ねると、二人から同時に「ああ」「そうだよ」と、あっけらかんと答えられた。
「もう十年以上の仲になるか?同い年だし(えっ、そうだったんですか!?と愕然としながら紲さんを見ると、紲さんは「あぁ、まぁ」と歯切れ悪く頷いた)趣味も合うし、話も合うし、鏡番だしで結構共通点があってな」
 屈託の無い笑みを浮かべながらじゃれ合う二人(迦那人にぃの一方的な感じではあるけど)を前に、私は何だか疎外感を覚えてしまった。
 すると「叶架」と、迦那人にぃが私の疎外感を見透かした様に「これもお前が知らなくて当たり前」と、朗らかに言う。
「俺も紲も話さなかったんだからさ」
一切悪びれない、堂々とした発言に、私はムスッとし「なんで話してくれなかったの?」と、迦那人にぃだけを非難する。紲さんは何かあったにしても、迦那人にぃの方は幾らでも話す機会があったんだから、教えてくれたって良かったでしょ、と。
 非難を向けられた迦那人にぃは「仕方ねぇだろ」と小さく肩を竦めた。
「お前、俺に仲良い友達の話なんかしねぇだろ?したとしても、俺じゃ無くて律華の方だろ?それと一緒。俺も妹に仲良い友達の話なんかしねぇって事だよ」
 うううぅ・・。正論過ぎて、何も言い返せない・・・。
 私はくっと奥歯を噛みしめて「そうだけど・・」と、渋々引き下がる。私を言い負かした迦那人にぃは口角をニッと上げて「だろ?」と言った。
「それに紲の方は、俺よりもお前には話せねぇよ。コイツはなぁ」
「迦那人」
 紲さんが迦那人にぃの言葉を唐突にバッサリと遮り「俺は叶架と話があるから、お前は席を外してくれないか」と、ぶっきらぼうに告げた。
 迦那人にぃはカラカラと笑いながら素直に「はいよ」と答え、「親父に連絡してくるよ」と、私を一瞥してから部屋を出て行ってしまった。
 紲さんは迦那人にぃの後ろ姿を見送ると、ゆっくりと私に向き直り「意識が戻って良かった」と、話の流れを強引に自分の方へ敷く。
「気分はどうだ?どこか具合が悪いとかあるか?傷の方は、多分もう綺麗に治っていると思うから大丈夫だとは思うんだが」
 傷と言う言葉で、私は「あ、そう言えば」と、自分の手の平に目を落とした。
 あんなにボロボロ、と言うかドロドロだった手のはずなのに。なんと全て綺麗に治っていた。痛みもなければ、傷痕もない。道理で「そう言えば」と言う感覚だったのだ。
 私はパッと紲さんに視線を戻してから「も、もしかして・・」と、恐る恐る切り出す。
「私が倒れてから、かなり時間が経っていたりとかしますか・・?」
 戦々恐々とした問いかけに、紲さんは「いや」と首を振った。
「そこまで時間は経っていない。今が火曜の十時過ぎだから、本鏡から出て来て丁度半日って所だな」
 半日と言う絶妙な時間に、私は「あぁ、良かったぁ」と言う安堵が半分、「いや、良かったのか?」と何とも言えない気持ちが半分の状態に陥った。
 そんな私を前にした紲さんは、口元を少し緩めながら「叶架が倒れた原因は」と言葉を紡ぐ。
「玉陽の巫女の力を使いすぎた事と羅堕忌の攻撃を受けてしまった事にある。その二つの要因が消えたから、半日と言う短い時間で目覚められたのだろう。こちらで傷だけを治療し、叶架の体を玉陽の力の回復だけにあてさせたんだ。玉陽の力は、叶架自身が回復させるしかなかったからな」
 かなり不安だったが、目覚めてくれて本当に良かった。と、弱々しく告げる紲さんに、キュンと胸を高鳴らせしてしまう自分もいたけれど。痛切に反省する自分の方が圧倒的に強くて、すぐに「本当にすみません!」と頭を下げた。
「迷惑をかけた上に、心配までかけさせてしまうなんて。本当にすみませんでしたっ!」
 頭が膝にくっつく程深々と下げると、紲さんから「叶架、頭を上げてくれ」と言われる。その言葉に従い、ゆっくりと頭を上げると。
 頭を上げた先の紲さんは、少し怒っていた。
「迷惑をかけられたなんて思ってない。それにその言い分だと、俺は君の心配もしてはいけないと言う風に聞こえるんだが?」
 思わぬ受け取り方に私は「えっ?」と唖然としてしまうが、彼は淡々と言葉を突き詰める。
「心配する事もさせてもらえないのか?何も関わる事を許されない赤の他人と言う事なのか?君にとって俺はそんな程度と言う事か?」
 静かな怒りが込められた言葉に、私はぶんぶんと首を振り「そ、そ、そんな事ないです!」と慌てて答えた。
 その答えに、紲さんは「なら良かったが」と一転して、顔を柔らかく綻ばせる。
 けれど、すぐに険しい顔になり「もう二度とそう言う風に言うなよ」と、厳しめに告げられた。勿論、私の答えは素直に「はい」だ。
 紲さんは満足げに頷いてから「そう言えば。ここがどこか、まだ話してなかったな」と、言葉を継ぐ。
「ここは京都にある師匠の家だ。治療に最適な場所だし、迦那人が気兼ねなくすぐに駆けつけられるからな。魁魔の世界から出て、すぐに来たんだ。今、師匠は別件で居ないが。桔梗が呼びに行ったから直に戻ると思う」
 君をえらく心配していたから、目覚めたと知ったら桔梗を引きずって戻ってくるぞ。と、苦々しく言った。
 私はその言葉を否定出来ず「五十鈴さんならそう来そうだなぁ」と、苦笑を浮かべてしまう。
 すると紲さんが「その大怪物《ししょう》が来る前に」と、私を真剣な眼差しで見据えた。
「叶架に話がある」
 突然改められる雰囲気と言い、声のトーンと言い、これから紲さんが話す話が自分に良い物だとは思えなかった。
 これは絶対に怒っている・・・。
 いや、でも紲さんが怒っているのも当然だよね。私、魁魔の世界で紲さんの怒りを買う事ばっかりしていたから・・・。
 私は話を聞く姿勢を作りながら「何でしょうか?」と、ガチガチに身構えてしまう。
 すると紲さんから「そんなに身構えないでくれ」と、優しく宥められた。
「大切な話だが、そう身構えられると、とても言い出し辛い。それに、とても話し辛くなるから、そんな身構えずに聞いて欲しい」
 常に淡々と喋る紲さんらしくない、たどたどしい喋り方。常に端的に話す紲さんらしくない、長い前置き。
 怒っているって感じじゃない。と、ひとまずはホッとするものの、これはこれで「どうしたのだろう」と不安になった。不安と言うか、怪訝・・?
 けれど、その怪訝を露わにする事は出来なかった。「叶架」と熱が籠もった眼差しに囚われると、そんな怪訝は消えていく。ドンドン顔は火照り、ドキドキと痛い程に胸が高鳴っていった。
 か細く「はい」と答えると、緊張感がドクドクと加速する。
「俺は、叶架が好きだ」
 あのキス以上のトキメキと、人生で一番の歓喜の荒波がザパァッと私を飲み込んだ。一気に夢見心地になり、ふわふわと現実と夢の狭間を漂う。
 私は茫然自失の状態に陥ってしまうが。紲さんは、まだ言い足りないと言う様に言葉を重ねてきた。
「君は年下だとか、高校生だとか、迦那人の妹だとかって言う憚りもあったんだが。会う度に想いは強まって、会う度に君に惹かれていくばかりで、俺の気持ちは何も引かなかった。それらなんかでは何の憚りにもならない程になっていたんだ」
 照れくさそうに言いながらも、嘘偽りがないと言わんばかりに語気は力強かった。
 けれど私は、その言葉を素直にストンと受け取れなかった。
「その気持ちは・・私が、玉陽の巫女だから・・ですよね?」
 恋心に溺れる私を散々冷徹に叩き落としてきた理性が、そう尋ねさせる。
 私が玉陽の巫女だから、そう言ってるだけでしょう?玉陽の巫女として見ているのであって、私としては見ていないんでしょう?と、仄かに険を含ませて。
「違う」
 紲さんは理性《わたし》の思惑をピシャリと払いのける様に、すぐに力強く否定した。
「俺は叶架の持つ力や肩書きに惹かれた訳じゃない。叶架の人柄に惚れたんだ。とても優しい所に、凜とした所に、色々な表情を見せる所に、とても可愛らしい所に惚れたんだぞ。だから君が玉陽の巫女である事なんて、この気持ちには何の関係もない」
 私の心に訴える様に告げると、紲さんはキュッと私の手を握りしめる。
「叶架、俺は・・こんなにも好きだと思える人に出会えたのだから、こんなにも愛しいと思う君を見つけられたのだから、とても幸運だと思っている」
 私はその言葉にハッとし「その言葉・・」と小さく呟き、大きく見開いた目で紲さんを見つめた。
 それは玉陽の巫女である私を見つけられたから、と言う事じゃなかったの・・?と言わんばかりに。
 すると紲さんは弱々しく口元を綻ばせ「そうだ」と答えた。
「やっと分かってくれたな」
 優しく告げられた瞬間、私の全身から喜びが溢れ出る。ボロボロと目からは歓喜を流し、顔が柔らかく綻んだ。素直ではなかった心も全てを受け入れ、喜びに浸っていく。
「私も、私も・・」
 えぐえぐと嗚咽を漏らしながらも、自分の思いを言葉に紡いでいく。彼にしっかりと届く様に、彼にちゃんと伝わる様に。
「私も、紲さんが好きです。大好きです!」
 自分史上一番輝く笑顔で告げた瞬間、紲さんは驚きに固まった。
 けれど、すぐに顔を嬉しそうに綻ばせ「俺もだ」と、優しく言葉を返してくれる。
 蕩ける程甘い喜びが二人をほわほわと覆っていく・・が。
「叶架ちゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!」
 五十鈴さんの叫声が二人の甘い空気を引き裂いた。ドタドタッと廊下を踏み鳴らす音が迫ってくる。「迦那人!そこのきぃや!!」と、一回だけ足音は静かになったものの、すぐにドタドタドタッと荒々しい音が再開する。
 そしてばぁぁんっと荒々しく部屋の扉が開かれると、五十鈴さんが姿を見せた。
 私を見るや否や「叶架ちゃぁぁぁぁん!」と歓喜の叫びをあげ、「邪魔や!!」と紲さんをワンパンでふっ飛ばし、ギュッと私を強く抱きしめる。
「怖い思いさせてしもうて、ほんま堪忍ねぇぇえ!ほんま不甲斐ないうちらを許したってぇぇぇ!あぁぁぁ、良かったわぁぁ、目覚めてくれてほんま良かったわぁぁぁぁぁ!ほんま堪忍ねぇぇぇぇ!もう二度とあんな事は起こさせへんからなぁぁ!仏さんに誓って、絶対絶対ウチが守ったるからなぁぁ!」
 頭に並んだ言葉をそのまま吐き出して叫び、抱きしめる力をどんどん強める五十鈴さん。
 うっ、死ぬ・・!とは思ったけれど。彼女の言葉が喜びに満ち溢れた安堵だと言うのが痛い程伝わってきたから、そんな苦しげな気持ちはどこかに行ってしまった。
 私は五十鈴さんの背に手を回し「ありがとうございます、五十鈴さん」と声をかける。
「五十鈴さんのおかげで、もうすっかり元気になりました」
 本当にありがとうございます、と伝えると。五十鈴さんは「叶架ちゃぁぁぁぁん!」と、耳元で泣き喚めいた。きーんと耳鳴りを起こし、思わず苦笑が零れてしまうが。
「師匠」
 紲さんが五十鈴さんを強制的に引き剥がし、仲裁に入る様に私達の間に立った。
「俺の彼女をあまり困らせないで下さい」
 か、彼女・・。今、紲さん私の事を「俺の彼女」って・・・。
 ちらとドギマギしながら紲さんを窺うと、紲さんはすぐに微笑みをくれる。いつもと違った、甘い微笑みを。
 言葉とのダブルコンボが刺さり、ボンッと私は爆発した。心はこそばゆい様な感情でいっぱいになり、頭は「自分が紲さんの特別になったんだ」と、嬉しい実感でいっぱいになる。
 けれど、そんな甘い世界に突入する前に、私は現実に強く引き戻された。
「マァジかぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー?!」
バックグラウンドとして鳴っているクラシック音楽がかき消される事は勿論、空気も五十鈴さんの叫声に染まっていく。
 あまりの叫声に、私は「うっ」と渋面を作ってしまうが。五十鈴さんは依然大はしゃぎ。「えっ、ほんまに?!彼女ってほんま?!ほんまに付きおうたって事?!ほんまにド屑の坊が、こないめんこい子落としよったの?!!ほんまに?!」と、目を爛々とさせながら何度も確認を取っていた。
 その様に、紲さんが「はぁ」と苦々しい嘆息を零し「牙琥!」と声を張り上げる。
「師匠をリビングの方に《《早く》》連れて行け。桔梗、迦那人。お前等は牙琥の加勢だ」
 いつの間にか、扉の後ろで団子三兄弟の様に覗いていた牙琥、迦那人にぃ、桔梗さんに容赦ない厳命を下した。
 三人はぎくっと身を強張らせたけれど。素直に「はい」と蚊の鳴く様な声で答え、さっと足早に部屋に入ってきた。
 そうして牙琥を中心にして暴れる五十鈴さんを何とか取り押さえ、抵抗する彼女をずるずると引っ張りながら部屋を出て行く。
 パタンと部屋の扉が閉ざされると、嘘みたいに静かな空間になった。その代わり、この部屋から少し離れた所から嵐の音が聞こえる。
「全く、あの人は・・・」
 紲さんがこめかみを抑えながら吐き出すと、申し訳なさそうにこちらを振り返った。
「すまない、叶架。俺からそっとしておいてもらえる様に言っておく」
 彼の苦々しい言葉に、私は間髪入れずに「大丈夫です」と首を振る。
「何も言わないで下さい」
 喜色を浮かべながら答える私に、紲さんは少し目を丸くしてから「良いのか?」と怪訝な表情になった。
「確かに、言っても止まらない人ではあるが。言わないより言った方がマシだぞ。言わないと本当に際限がなくなるからな。言う方がややマシになるぞ?」
 紲さんが学んだ五十鈴さんの扱い方に、私は苦笑を零してから「良いんです」と答える。
「それが、とても嬉しいから」
 紲さん達の仲間に入れた気がして、紲さんの世界に自分もちゃんと組み込まれた気がして。
 私はフフッと喜色を浮かべて「紲さん」と、彼を呼んだ。
「私、これから頑張ります!紲さんの彼女としても、鏡番を助ける玉陽の巫女としても!紲さんの力になれる様に、私、頑張ります!」
 ふんっと意気込むと、紲さんは「叶架」と柔らかく相好を崩す。
「君は君のままで良い。そう肩肘を張る必要はない」
 温かな言葉に胸をじぃんと打たれ、「紲さん・・」と感激で言葉を詰まらせてしまうが。
「これからも、これから先もずっと隣に居てくれ。ただそれだけで良い。分かったな?」
 返事は?とニッと口角を上げられると、詰まっていた物がスコンと外れた。
 そして返事をする、私らしい溌剌とした声で。平和な世界に響く程の大きな声で。
「ハイッ!」
                                   了