夏の夜、始まりは、唐突な電話からだった。



「……もしもし?」


『もしもし』


「どうしたの……?」


『いや、その、暇なのか訊きたくて』


「……暇、だけど?」


『そっか。……じゃあさ、夏祭り行かね?』


「夏祭り……?」


 私はゴロンと体の向きを変えてカレンダーを見る。


 8月7日。

 今日。

 その日は、大きな赤丸で囲まれていた。

 それは私が描いたもの。
 それは、故意につけられたもの。


「あー、七夕祭りか……」


『そう。綺麗だしさ、花火も上がるみたいだし。行こうぜ』
 

「んー、そうだね……」
 

 私は少し考えてから、上半身を起こす。  


「わかった」


          *


 遠くから祭り囃子が聴こえる。夜の帷が降りた世界で、仙台駅だけが、異世界のように輝いていた。正直、今の私にとっては眩しすぎる。

 ガタンゴトン、と地下鉄に揺られる。夏祭りだけあって、地下鉄内はとても混み合っていた。「仙台駅、仙台駅」とアナウンスが鳴り、目的の場所に着く。私は人の流れに沿って歩き、西口から地上に出た。人工的な照明の強さに、一瞬だけ目を細める。

 周りは家族やカップルばかり。愛という糸で結ばれた関係の塊の中で、私は独りぼっち。

 こんな場所、本当は来たくなかった。いや、逆に行きたかったのかもしれない。でも、こんな形じゃなくて、あの人(・・・)と、手を繋いで。

 なんて、今更思っても遅い。願うはずのないことを考えるほど、時間を無駄にしていることはないと言えるだろう。


「はぁ……」


 足はかろうじて動く。だけど、心はまるで、鉛のように重かった。それでも進めば、あいつ(・・・)の姿が見えてくる。


「お待たせ」


「おう。……って、お前浴衣じゃん」


「えっ、ああ、うん。何となく、ね」


「そうか」


「……変、かな?」


「いや、似合ってる」


「あ、そう……?」


「うん、可愛い」


「……ありがとう」


「じゃあ行こうか」


「うん」

 
 待ち合わせしていたこいつ、水戸部(みとべ)と並んで、私たちは歩き始める。
 
 彼は中学と高校が一緒だった同期。私の中の男友達の中ではよく話す方で、大学になった今も時々会っていた。もちろん、互いに親友という立場で。


「凄いよな、人」


「うん、そうだね」


「俺さ、何気にこの祭り来たことなかったんだ。地元なのに」


「私も同じだよ」


「お、じゃあ二人して初だな」


「うん」


 水戸部(みとべ)は明るい声で話題を振ってくる。それは、過去も今も、いつだって同じだった。


「お、これじゃね?メインの吹き流し」


「そうみたい。……すごく、綺麗」


 目の前に現れた巨大な吹き流しに、私はしばし目を奪われる。

 テレビや雑誌では、何度も見たことがあった。けれど、やっぱり実物を目の当たりにしないと、その素晴らしさは分からないみたい。

 水色と白の、手のひらに乗る折り鶴が何百、何千と連なり、一本の糸となっている。それがまた、何十本と束になって、風が吹くたびに揺らめく。


「すげーな」


「うん……」

 
 夢うつつのまま、吹き流しの真下に行く。顔を上げた瞬間、息を呑んだ。

 視界は360度、水色と白に埋め尽くされている。まるで、小川の流れを眺めているようだった。

 そして、ちょうど真上はガラス張りになっていて、満月が夜空に浮かんでいた。ふわりと風が吹く。月を中心とした水色と白が織りなす世界に波紋が生じる。

 なんて、なんて綺麗なんだろう。ずっとここにいたい。こんな、夢のような世界に。

 けれど、そんな想いに反して、ずっとここにいたらいけない気がして、するりとその場から離れた。


「どう?」


「……凄かった。なんて言えばいいのか分からないけど、夢みたいな、そんな風だった」


「そっか。……なんかお前、少しだけ生きた表情になったな」


「えっ」


「良かったよ」

  
 ふっと彼は柔らかく笑った。


 生きた表情?
 私、死んでたのかな?

 自分の顔は自分では見れないから、水戸部(みとべ)の言うことが正しいのかは判断できない。けど、多分、そうなんだと思う。

 吹き流しを見た時、炭で塗りたくられた心が、一部分だけ、拭き取られて外に触れられるようになった気がした。そのせいかも。


「小学校の時ってさ、よく折り鶴作らなかったか?」


「作ってたね、毎年」


「だよな。一人じゃあんなちっこいのしかできないのに、沢山集めたらこんなにでかくなるなんて」


「私もびっくりだよ。繋げるだけで、姿が変わっちゃうんだね」


 そう、この幻想的な吹き流しの原型は、たった一つの折り鶴。手のひらを握れば簡単に潰せるあれが、数え切れないほど連なることで、不思議な魅力を得る。

 人の集団は、怖い。だけど、儚いものは、集まると美しいものに変幻する。


「あっちには店が作った吹き流しもあるんだってさ。行ってみよう」


「そうだね」


 名残惜しさと期待を胸に、私は水戸部(みとべ)について行く。少し歩くと、すぐに目当てのものが視界に入る。目の覚めるような色見、凝った飾り。それに、私はまたも、目を見開いた。

 先ほどよりはやや小さめな吹き流し。だけど、あの水色と白のものとは違った魅力を纏っていた。流しの部分は、折り鶴ではない。上部は和紙の花で、下部は帯で作られていた。それも、ただ付けられているだけではない。帯の部分は、花のような模様が敷き詰められていた。名前は分からないけど、日本の花のような気がする。花の部分は、3色の花が流れる輪のように並んでいた。


「すげぇよな、これも。なんか店が個人で出してるんだって」


「こんな綺麗なのを……?」


「そうだってよ」


「へぇ……!」


 店の人たちが、か。さっきの吹き流しは、市内の小中学生が折った鶴で出来ていた。何千という子供達の手から生まれたもの。

 規模には劣るが、同等に近いものを作れるとなると、一体どれほどの人の手が必要なのだろう。

 これも、さっきのも、沢山の人の願いが詰まっている。大きさと美しさが、そんな人々の想いの強さを物語っている気がした。


「仙台七夕と言えば吹き流しだけど、それ以外の飾りもあるらしい。見に行くか?」


「うん」


 水戸部(みとべ)にリードされ、私はまた、新たな輝きを見に行く。

 アーケードの通りは凄く賑やかで、華やかで、何処を見ても全く飽きない。むしろ、見れば見るほど、心が弾むような、不思議な感覚が湧き上がってくる。


「ほら、ここには笹がある」


「あ、ほんとだ」


 家庭の庭にでも飾れそうな小さな笹に、いくつかの七夕飾りが揺れていた。実際に見るのは初めてかもしれない。


「凄く細かい……。これが、折るだけでできるんだ」


「作った人は器用だよな」


「うん」


「特にこれ、網飾り。大漁を願って飾るんだって。切るだけでできるっつうけど、俺には無理だ」


「うん、私も作れないよ」



「あとはこの巾着。金が貯まるように願うんだって。俺も吊るしたら金持ちになれるかな」


「さぁ」


「冷たっ!まぁいいけど。俺はそんな奴だしさ」


 幼子のように口を尖らせる水戸部(みとべ)に、思わず頰が緩んだ。こんな風に、誰かと笑ったのは久しぶりだった。

 本当なら、私は今頃も、幸せを噛み締めていたのに。あの人(・・・)と一緒に、ここに来ていたはずだった。


『愛してるよ、羽純(はすみ)


 突然、頭の中に声が響いた。録音していた音声を流されたみたいに、鮮明に。


 忘れていたかった声。
 思い出したくなかった言葉。


「……おい、どうかしたか?」


「えっ……なんで?」


「だってほら、お前……泣いてるから」


「泣いて、る?」


 そんなの嘘だ、と手を頰に当てる。感じるのは、冷たい液体の感触。


「あ……っ」
 
 
 水戸部(みとべ)の言う通り、私は何故か、泣いていた。


「あれれ……おかしいな。なんで……だろう?」


 泣くつもりなんてない。元より、自分自身が泣く理由が分からない。なのに、涙はとどめなく溢れてくる。


「なん、で……私、泣いちゃうの……?」


 とうとう嗚咽まで漏れてきた私は、目を覆った。


「お、おい、大丈夫か?」


「だいっ、じょう……ぶっ」


「絶対ダメなやつじゃん、それ」


 水戸部(みとべ)は小さく息をついて、私の腕を引っ張る。そして、人通りが少ない通りまで連れてきてくれた。


「ここなら邪魔にならねぇから、ほら、座れよ」


「う、うん……」


 言われた通り、ベンチに座って心を落ち着かせようと試みる。雑音も眩しすぎる照明も何もない夜を肌で感じた。

 静寂に包み込まれる空間。なのに、寂しいという感情よりも、何故か安堵のほうが大きい。

 夜って、こんなに穏やかだったんだ。

 その中で、水戸部(みとべ)も、その夜を感じれと言わんばかりに無言を貫く。


「ごめんね、突然こんなことになっちゃって」


「謝る必要はねぇよ。てか、もう大丈夫か?」


「大丈夫、落ち着いたから」


「そうか。……答えたくないなら無理には言わせないが、なんでこうなった?」


「……」


「もしかして、古見屋(こみや)のせいか?」


「……」


 声を出す代わりに、こくんと頷く。


「そうか……。でも、もう別れたんだろう?」


「うん……」


 あの人ー古見屋(こみや)ーは、私の元カレだった。高校で出会って、大学まで付き合っていた人。そして、1ヶ月前に私をフッた人。


「馬鹿だよね、私。こんなにも昔の恋を引きずるなんてさ……。もう、何したって無駄なのに」

 
 何か大きな原因があったわけじゃない。ただ、大学に入ってから、日に日に古見屋(こみや)の態度が冷たくなって、最後には「好きじゃなくなった」の一言で締められた。

 なんでこうなったのか、今になっても私には分からなかった。


「無意味だって分かってる。だけど、別れたことを認めるたびに、心にぽっかりと穴が空いたみたいで、すごく虚しくなる」


「……」


「あははっ。すぐに諦めろって話なんだけどね、結局。……私って、ほんと馬鹿なやつだよ」


「ほんとだよ。そんな奴のことなんて、忘れちまえばいいんだよ」


「えっ、あ、うん。だよね……」


 水戸部(みとべ)の少々乱暴な言い方に戸惑う。彼がこんな口調になるなんて珍しい。それほどまでに、私のことを呆れているのだろうか。そう思うと、胸の奥が締め付けられる感じがした。

 ぎゅっと浴衣の裾を握る私を見て、水戸部(みとべ)は大きなため息をついた。


「……それさ、俺じゃダメなのか?」


「……えっ?」

 
 聞き間違いだろうか。私はもう一度同じ事を言ってもらおうと顔を上げる。そこで、真剣な瞳を私に向ける水戸部(みとべ)の表情を見た。


「お前のその心の穴を埋めんのってさ、俺じゃ出来ないのか?」


「え、何言って……」


「俺と付き合えよ」


 今度ははっきりと聞こえた。あまりにも唐突で、だけど嘘が1ミリも混じっていない、彼の本心。


「付き合う……?」


 なんで、どうして。

 そんな言葉を口にする代わりに、私は首を傾げた。すると、彼はグシャリと前髪を掻き上げた。何気ないその仕草は、妙に色気を感じた。


「俺が、どんだけお前のことを好きだと思ってんだよ」


「えっ……?」


「そんな嫌な思い出なんて消し去ってやるから。楽しい思い出をいっぱい作ってやるから」


 月光が水戸部(みとべ)の顔を照らす。整った顔立ちの頰が、僅かに紅に色づいている。

 見たことのない表情。だけど不思議とおかしいとは思わなかった。


「そんな……本気で言ってるの……?」


「ああ、本気だ」


「……駄目、か?」


「駄目……じゃない。けど……」

 
 いいのかな、水戸部(みとべ)の告白を受け取って。
 
 古見屋(こみや)と別れたとは言え、こんな早くに乗り換えなんかしていいのかな。


 胸の中にある鎖がじゃらりと音を立てる。それが、私の思考の自由を奪う。

 どうする、私はどうすればいい。
 どうすることが一番正しいのか。


「あいつのこと、まだ頭に浮かぶのか?」


「う、うん……。なんか、悪いなって思っちゃって……」


「あいつのことなんて考えなくていい」


「え……」


「お前自身の気持ちが聞きたい。誰の、なんの配慮もいらない。お前の本心はどうなんだ?」


「本心……」


 私は、どうしたいんだろう。
 一体、何を求めているんだろう。


「お前は本気で、あいつのことを引きずってんのか?」


 ううん、違う、と思う。


「お前はあいつに遠慮しなきゃいけないとでも思ってんのか?」


 ううん。正直、そんなのいらないと思う。


「お前は、俺と一緒にいるのは嫌か?」


「……そんなわけ、ないじゃん」

 
 胸の奥で絡まっていた何かが外れる音が聞こえた気がした。不思議と体が軽くなる。飲み込んでいた言葉たちが溢れ出す。


水戸部(みとべ)といるのが嫌なわけないじゃん。むしろ……楽しいよ。だって、ずっと一緒だったもん。いっぱい話して、笑って。水戸部(みとべ)といる時間が、一番楽しい」


 もう、偽りの感情なんていらない。


「こんなことを言っちゃっていいのか分からないけど……多分、私は水戸部(みとべ)が好きなんだと思う」


「……良かった」


 緊張が解けた表情で、彼は私を抱き寄せた。久しぶりに感じる人の体温は、暖かくて優しかった。

 不意に大きな音が鳴って、空が明るくなる。


「お、花火が始まったな」


「えっ……あ、ほんとだ」


 顔を上げると、濃紺の空は鮮やかに彩られていた。次から次へと上がる花火は、一瞬にして大輪の花を咲かせ、あっという間に散っていく。


「綺麗……花火って、こんなに綺麗だったんだ」


「だな。俺も久しぶりに見た」


 しばらく二人して無邪気な子供みたいに目を輝かせて空を眺めた。


「なぁ」


「ん?」


羽純(はすみ)の嫌な思い出、全部忘れさせてやるから。絶対、これからの思い出全部、いいものにしてやるから」


「うん、期待してる。……ありがとう」


 私は彼の胸にそっと顔を埋めた。


 そこにはもう、過去に囚われる私は居なかった。