「前から聞きたかったんだけどさ、それ素?」
「……え?」
バスって、こんなに揺れたっけ?と思うほど、視界がぐらりと動いて、胃に不快感が襲いかかる。
それとも先ほど大学の飲み会で、食べすぎたのかもしれない。ノンアルコールを頼んだ私はひたすら枝豆やポテトなど、お皿に残った物を食べていた。話題についていくよりも、その方が楽だったのだ。
「いや〜……なんていうかさ」
嘲るような口調で彼女は言葉を続ける。
「いい人のフリすんの疲れないのかなって。私そういうのなんかちょっと察するんだよね。今無理してるんだろうなぁとか」
誰かにそんなことを言われたのは初めてだった。
頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けながら、私は口元が引きつらないように笑って見せる。
「そんなことないよ」
軽い口調で、傷ついていないふりをして、目を細めて笑う。
一刻も早くこの場所から抜け出したくなったけれど、この狭い箱の中から出ていくこともできない。
膝の上に置いている鞄を掴みながら、早く終わってと何度も心の中で唱えた。
「ごめん、悪気があって言ったわけじゃなくてさ。私にはできないっていうかさ、合わない人と仲良くするのってエネルギー使うじゃん?」
悪気がなければ、なんでも言っていいの?と言葉を飲み込んで、「そうだね」って同意する。
疲れるよ。エネルギーたくさん使うよ。それでも——
「私、合わない人にはすぐ素っ気なくしちゃうんだよね。だから、みんなに親切にできるのすごいなーって思うけど、疲れないのかなって気になったんだ」
少しでも合わないなって思うからって素っ気なくしたら、された方はどんな気持ちになるの。
言えない気持ちばかりが、心に降り積もる。
自分の気持ちに正直になって、言いたいこと言って生きるって、誰かの傷の上で成り立っていることだってあるんだよ。
***
真っ直ぐ家に帰る気にはなれず、私は普段はあまり立ち寄らない街に立ち寄った。
ビルや店の看板の光が荒波のように襲いかかる。目の奥を刺激する眩さを突きつけられ、足を止めていた私の肩に誰かがぶつかってよろけてしまう。体が前のめりになり、数歩進んで俯いた。
——息苦しい。溺れてしまいそう。
けれど賑やかな街の夜に潜れば、孤独感が薄れる気がした。だから私は縋るようにここまでやってきたのだ。
覚束ない足取りで繁華街を進んでいく。すれ違う人たちは、酔っ払っているのか陽気で声を上げて笑っている。無表情であてもなく歩き続ける私だけが、この街の中で異質な存在みたいだった。
——誰か、たすけて。
口にできない言葉が乾いた唇を震わせた。
たすけてくれる人なんているはずもないのに。
ふとブラックボードに書かれた白い文字が目にとまる。
『バニラアイスホットコーヒーはいかがですか』
どうやら喫茶店のようだけれど、変なメニューだと眉根を寄せる。すると中から店員らしき男性が出てきた。時間的にもう店を閉めるのかもしれない。
見上げるほど背が高く、肩幅も広い。格闘技をやっていそうな筋肉質な人だった。私が見すぎてしまったからか目があってしまい、彼の鋭い眼差しに息をのむ。不快に思われたかもしれない。
早く立ち去ろうと一歩踏み出したときだった。
「いらっしゃいませ」
相手の発言に私は身体が硬直する。
どうやら、お客さんだと勘違いされたようだ。変わったメニューに気を取られていたのは事実だけど、入る気は特になかった。でも、この強面の店員さんにはっきりと言うのはかなり勇気がいる。
「ラストオーダー五分前なので間に合いますよ」
「え……あ……」
「どうぞ」
顔が引きつりながらも、私は頷いてしまう。
「あ、ありがとう、ございます……」
いつも私はそうだ。人からなにか頼まれたり誘われたら断れなくて、どう思われるのかばかりを気にしてしまう。
今だってメニューを見ていたのは入りたかったからではないと言えない。
流されるがまま、いつも自分の意志を持たずにふらふらとしてしまう。
——別に好きな人以外から、どう思われてもよくない?
大学の友達に聞かれたとき、私は頷けなかった。どう思われてもいいなんて考えたこともなかったから。
だって、できれば好かれていたいし、他人を好きでいたい。
クラスの子も、隣のクラスの人たちも、先生も、先輩も。
私の中で、関われる範囲にいる人たちは、どうでもいい他人なんかじゃなかった。
それにもしもその誰かひとりにでも嫌いと言われたら、息が止まってしまいそうな気がした。
嫌われるって、私の中でそれほど大きな負の感情だった。
だから私、いい人ぶってるって言われちゃうのかもしれない。
***
窓際の席に座るとすぐに先程の店員さんがやってきて、注文を聞かれる。私は迷うことなく「バニラアイスホットコーヒー」を頼んだ。
テーブルの上に置かれたメニュー表を改めてじっくりと見ていると、下の方に書かれた営業時間に一瞬思考が止まった。
「え……」
戸惑っていると、店員さんがトレイにバニラアイスとホットコーヒー、おしぼりをのせてやってきた。
そして目の前におしぼりをふたつ置かれた。
「右が冷たいおしぼりで、左が温かいおしぼりです」
「えっと……」
「手と目元にお使いください」
泣いてから時間が経ったから目の腫れは引いていると思っていた。けれど彼には気づかれていたみたいだ。
「あと、こちらはサービスです」
ホットコーヒーのカップと、バニラアイスがのったガラスの器がテーブルに置かれる。
「サービス?」
「強引に店内に引き入れてしまったので。それと、アイスはお好みの量をコーヒーに入れてください」
一礼する店員さんに、私は手を握りしめて頭を下げる。
「……っ、ありがとうございます!」
視線を戻すと店員さんは、首を横に振って小さく笑った。
〝三十分以上前〟に終わったラストオーダー。そして今は閉店時間を過ぎている。
きっと私の目が腫れていることに気づいて、声をかけてくれたのかもしれない。
私は人の優しさに触れて、静かに涙を流しながら、冷たいおしぼりを目元にあてた。
意見を言えず、流されて、こういう自分はよくないのかもしれないと思っていた。
だけど、流されてこうしてたどり着く場所もあるんだ。
——流されるって、悪いことばかりじゃないのかも。
涙が止まってから、私はバニラアイスをホットコーヒーに入れてみた。
それはまろやかな甘さで、けれどすぐにほろ苦い温かさがじんわりと伝わってくる。
溺れそうな夜に、優しい酸素がここには在った。
もう少し、私は私を生きてみよう。
夜を泳ぐ 完