暁音さんと共に勉強することが続いて、気が付けば共に遊びに行こうと誘われるまでの関係となっていた。
最初は当然戸惑ったのだ。だって、こうして誰かと〝遊び〟に出掛けるのは本当に何年かぶりで。
両親に、休日に出掛けると報告したときに「誰と?」と問われた時に迷わず「友達」と返したけれど、間違いではなかっただろうか。大丈夫だと信じたい。暁音さんには友達になってほしいと言われていたのだし、私はそれに頷いたのだから。
それでも、不安はある。私なんかで良いのかと。こんな自分といて、彼女に何か徳があるのかと。そんな疑問を口にすれば、星叶に鼻で笑われるのだけれど。
因みに、両親は私の報告に嬉しそうな顔をしていたので、少し拍子抜けしたのは秘密だ。
友人と遊ぶと言っても、何をするのか思いつかなくて心配していた私をよそに、暁音さんは遊びのプランを立ててくれていたようで、それがとてもありがたかった。向こうには「勝手に決めてごめん」と謝られたけれど、そんな謝罪されるようなことは全く無かった。
予定の時間より早く起きて、星叶に服を選んでもらって、ヘアアレンジもしてもらって。メイク道具を持っていないと言えば「知ってた」と言わんばかりに、彼女の化粧ポーチを出されて、生れてはじめてメイクと言うものを経験した。待ち合わせ時には、暁音さんにこれ以上ないくらい褒められて心がムズムズしちゃって、顔を真っ赤にしてしまった。電車に乗って、隣街に行って、一緒に街中を歩いたり話題らしいパンケーキなどを食べたり、本屋に寄って互いに選んだ本の趣味が同じで笑ったり、楽しい時間はあっという間に過ぎるようだ。
沢山遊んで、夕方も過ぎようという頃、電車に乗っていた時に、暁音さんが窓の外を指さした。
「ほら、あれが花影大」
彼女に示された大学は数秒で過ぎ去ってしまったけれど、大きな敷地の中に設置している建屋は、私の脳に染み込むには十分な存在感だった。
学校のシンボルらしい一番大きな建屋にはクラシカルな時計があって、その建物の前には芝生の広場があった。時間の影響もあったのか人影は少なかったけれど、夕方の朱色がキャンパスを照らし、長い影が伸びて人々を覆い、その影から人は脚を踏み出す。それがなんとも一つの絵になるような一瞬だった。
「きれいな学校だったね」
「うん。あの外観に一目惚れしたのもある」
「ああ、気持ちわかるなあ」
ボックス席で向き合いながら話しているこの時間はとても穏やかで、沈んでいく太陽の明かりがまばゆく濃い影を世界に創り出していく。建物の横を通るたびに、私達に一瞬の影が落ちる。それでも世界はオレンジ色に染まっている。これから、オレンジ色の世界は深い青色に染まって、暗闇に沈んで、太陽の代わりにまばゆい建物の光に照らされていくのだろうか。
誰かにとっては日常の一つの光景なんだろうけれど、私にとっては非日常な一コマで、身体の至る機能が忘れまいと必死に働いていたのが分かった。
最寄り駅にたどり着いた時にはすっかり夕方の時間は過ぎていた。ほんのりと遠くが淡いピンク色に染まっているけれど、これから間もなく静かで涼しい夜になるのだと、頬を撫でた風が教えてくれた。
「今日の夕飯はどうする?」
「ああ、えっとお母さんには夕飯はいらないって言っているから……」
「じゃあ夕飯はうちで食べていきなよ!」
にぱ、と眩しい笑みを見せてくれた彼女につられるように、私も小さく笑みがこぼれた。
彼女と共に勉強する毎日を過ごしてはいるけれど、あのお店で夕飯を食べるのは初めてだ。ケーキと飲み物以外を口にするのが楽しみで、口元が意識しなくとも綻んでいく。
今日の楽しかったことを会話しながらお店に向かって歩いていると、向かい側から通行人が来るのが空気で察せれる。ぶつからないように少しだけ歩む速度を下げて、暁音さんの後ろに並ぶようにする。それでも互いに会話を続けていた時だった。
「火燈さん?」
突然己の苗字と思われる単語を聞いて、思わず私達の動きと会話が止まる。私の苗字は決してありきたりなものとは言えない。寧ろ珍しいと言われるくらいでもあるだろう。第一、ここに居るのは私達二人と、すれ違った人たちだけだ。
呼ばれた名が誰を示しているのかなんて、簡単に分かった。だけれど、私の脳内は、身体は振り返りたくないと訴えている。心拍数が上がり、息の回数が上がっていくのが分かる。心臓がばくんばくんと騒いでいるのが伝わってくるほどうるさい。
「え? 火燈? うわー全然気付かなかった」
「アンタ、それは薄情じゃない? だって、いつも一緒に遊んであげてるもんね?」
向こうの二人で盛り上がっていると、一人が私の肩に手を乗せて体が近寄ってきた。それだけで、私の肩は大きく跳ねる。かすかに香る甘いにおいは、学校でいつも嗅いでいるものと同じだった。匂いによって、まるでしつけられているかのように体が縮こまっていく。
暁音さんはどういうことかと首をかしげているが、すぐに私の知り合いと察したらしい。喋っていた口を閉じて、私達の様子を伺っていた。
「なんだ、今日は遊んでたの? いつもと雰囲気違うからびっくりしたよ?」
「……あ、はは。そう、だね」
口を引きつらせ、少しだけ震わせながら放った言葉は、唇と同様に震えていただろう。
どうして、どうして彼女たちがここに。学校でいつも私をいじめている彼女たちがここに。いや、別におかしなことではない。同じ高校に通っているんだから、町中、それも駅周辺で知り合いとすれ違うことは、変なことではない。
それでも、どうして、という恐怖と、信じたくないという思いがあふれ出てしまう。
ぎゅう、と鞄を握りしめながら返答している私を見て、彼女達は先ほどまで浮かべていた笑みを完全に消した。
「まさかこんなところで会っちゃうなんてね? 胸糞悪いわ」
「良い子ちゃんなアンタが珍しいじゃん? なに? 自分は勉強しなくても余裕ってことかな?」
引きつった口角は完全に閉じられて、唇を思わず嚙み締める。
「なに? 無視? アンタもずいぶん偉くなったもんだね?」
「返事でもしたらどうですか~?」
にやにやと笑いながら、私の前髪を引っ張ってきた。ぐいっ、と引っ張られて頭皮が痛みを訴えてくる。星叶に整えてもらった髪の毛が、簡単に崩れてしまう。じわり、と目頭がにじんだのは体への痛みからか、それとも別のものが原因なのか。
「ねえ、一緒に居る人って友達とか?」
「まさか! こいつなんかに居るわけないでしょ!」
二人揃って夜の街に響くような笑い声をあげる。私はもう何も言葉を返すこともできなくて、前髪を掴まれたまま、顔を伏せてただ、ぼうと地面を眺めるだけ。
まるで心臓に刃が突き刺さったような気分だ。刺された心臓から、ぽたぽたと血が地面にこぼれ落ちて弾けたように見えた。どんどん、どんどんと血液が流れ出て行って、血の池が出来ていくようだ。
彼女達の言葉が、ただ私に刺さる。『こいつなんかに』か。知っているよ、それくらい。彼女たちに目をつけられたあの日から。クラスで存在しない者の扱いをされたあの日から。汚いものとして、人間じゃない様に扱われたあの日から。
心を殺して学校に通い続けて、それでも親や大人の期待に応えるように必死に生きても、それさえも己を苦しめるだけで。
どうして、なんで私は、いつもこんなに弱いんだろう。
逃げてしまいたい。もう、終わりたい。このまま、死んでしまいたい。消えてしまいたい。
じわじわと、胸が熱くなってきて、目頭が熱くなってきて、色々な感情と共に涙が出そうになる。
「……ねえ」
血の池に溺れてしまいそうになった時、まるで引っ張られるようにして、はっと酸素が体にめぐる。意識が戻ってくる。
誰が出したのか分からないくらいに、低い声が聞こえた。
「話、終わった?」
低い声のまま言葉が続けられる。私の目の前にいる同級生達も驚いたのか、私の前髪から手を離す。その様子から、声の主は彼女達ではないのだと自然と察せられた。
そうなると誰か。ゆっくりと顔を上げる。
そこに、こちらを真っ直ぐと見つめている暁音さんが居た。意志の強そうな瞳で、どこかその瞳の奥には炎が上がっているように見えたのは気のせいではないはずだ。
同級生の彼女たちはそれ気付かずに、暁音さんに声をかける。
「ねえ、君ってこいつの友達とか?」
「あはは、そんなことは無いとは思うけど。だって、こいつ学校では――……」
ああ、やめて。やめて。そんなことして貴方達に何の得があるの。これ以上私から奪って、何がしたいの。
ぎゅ、と力強くこぶしを握って唇をかみしめる。
「私はさ、話は終わったかって、聞いているんだよね」
変わらずに低い声で、彼女は真っすぐと鋭い目つきで相手の目を射抜く。見つめるというよりは、にらみつけるといった表現が似合うだろうか。
そんな彼女の様子を見て、同級生達が小さく息をのんだのが分かった。それは私も同じで、暁音さんの変貌具合にただ驚くことしかできない。
彼女はゆっくりと一歩を踏み出した。それと同時に同級生達は一歩後ろに下がる。人数は圧倒的に暁音さんが不利なはずなのに、彼女は決して臆さない。というよりは、彼女に逆らってはいけないと簡単に脳が理解する。彼女の逆鱗に触れたのだと、馬鹿でも分かるだろう。
「早くどこかに行って。話したくもない」
彼女の言葉を聞いて、同級生達はか細い悲鳴を上げてから、駆け足でこの場から離れていった。その様子を呆けて眺めていたが、ゆっくりと足音が近づいてくる。
慌てて顔を上げ見れば、暁音さんの表情は先ほどとは打って変わって、今にも泣きだしてしまいそうなほどに悲しいものとなっていた。眉を下げて、唇を少し震わせて、何度か口を開けては呼吸をして。そしてそのまま、ゆっくりと私が握りしめていた手を両手で包んで、ゆっくりと手を開かせた。私の手のひらは、爪が食い込んだ跡がついていた。そんな手のひらを見て、彼女は再度泣きそうな顔をする。
「……ごめんね」
「なんで蛍ちゃんが謝るの?」
「こんな、弱い私で」
泣き出しそうな私の顔を見て、彼女はゆっくりと何かを決意したような表情へと変えていく。
「うちに行く前に、少しだけ話さない?」
彼女と共に向かった先は、駅から少しだけ歩いたところにある公園だった。
外はいつの間にか暗くなっていて、星が綺麗に見えた。
二人でそれぞれブランコに腰かけて、暁音さんはゆっくりと漕いでいる。キィ、キィ、と少しだけ錆びた鉄と鉄が擦れる音がする。それに反して私は漕ぐことも無く、ただぼうっと空を眺める。
私達の間に会話は無かった。話そうと言った暁音さんから会話が始まるのを待っていた。
本当は、さっきまでのことを説明するべきなのかもしれない。だけど、それができない。私が、弱虫なままだから。
勝手に成長していると思っていた。少しずつ一歩を踏み出せているのだと思っていた。
けれど、このザマ。あのような言葉をぶつけられれば、私はいとも簡単に心がぽきりと折れそうになる。今回は隣にいる彼女が助けてくれたけれど、また同じような目に遭ったら、今度こそ私は、心が死んでしまうんじゃないかって、怖がっている。
「……前にさ、知識は己を守る手段にもなると思うって、私が言ったの覚えてる?」
暁音さんが口を開いた。顔を彼女の方に向ければ、変わらずブランコを漕いだまま言葉を紡いでいる様だった。
「覚えているよ」
衝撃的な言葉だったから、忘れようにも忘れられないと思う。私は知識をそのように考えたことが無かったから。あくまで、義務的なものだと思って生きてきたから。
彼女は夜空の星を眺めるように顔を上げて、少しだけ眉を下げて目を細める。まるで多くの星々の中から、何かを探しているようにも思えた。
「そう思ったきっかけはさ、私達姉弟の幼馴染なんだ」
「幼馴染?」
「うん。私と同い年で、皆と仲が良かったの。お店にも来ていたし、よく遊んで。明るくて真っすぐで強くて、本当に良い子だった」
だった? 過去形の言い回しに思わず首をかしげる。それと同時の疑問。私はその幼馴染という人と一回も出会ったことがない。
「最初は些細だった。だんだんと一緒に居るのを避けられるようになって。どうしてだろうと思っていたら、最後に見た彼女の姿は私の知っている、強い彼女ではなかった」
ぎゅ、とブランコの鎖を握る手に力がこもる。彼女の手にも力がこもってきたのか、ブランコがいびつに揺れ始めている。
「彼女と同じ学校に通う弟が言っていた。『彼女はいじめられてるんじゃないか』って」
どくん、と心臓が大きく跳ねた気がした。心臓をぎゅうと握られて、そのまま刃が突き刺されたような気分だ。
思わず己に降りかかっていることを思い出し、顔をゆっくりと伏せる。手は汗で湿っていた。今ブランコを漕いだら、手が滑って転げ落ちるか吹き飛んでいくだろう。
「それで……?」
「……死んじゃったんだ、彼女」
ヒュッと息を飲んだ。決して他人事とは思えない話だったから。
「死因は事故死なんだけど、弟曰く、飛び込んだように見えたって」
「そっ、か」
それは、少しでも人生の何かがズレていたら私が迎えるはずだった物語のようにも思えたのだ。
ずっと、この世界から消えたいと思っていた。そんな私がこうして生きていられるのは、星叶があの夜、声をかけて現実に縫い付けてくれたからで。そして隣の彼女たちのような優しい人達と出会ったからで。
亡くなったその人は、そうした人は居なかったのだろうか。いや、本当は居たはずなんだ。その時は視野が狭くて、世界が自身を嫌っているようにしか感じられなくて、味方など存在しないと感じて、助けを求めることが出来なかったのだ。
「暁音さんが私と仲良くしてくれているのは、その幼馴染さんと似ていたから?」
「……ごめんね。少し雰囲気が似ていたんだ。自分勝手で、本当にごめん」
暁音さんはブランコを漕ぐのを完全にやめて、私に向かって頭を下げる。
きっと私には怒る資格があるのだと思う。勝手に誰かと重ねられて、勝手に救おうと思われたと、もう関わらないでほしいということだって許されるはずだ。
だが、私にはそんなことなどできるはずがなかった。
「それでも、蛍ちゃんと、友達になりたいと言ったのは嘘じゃない。彼女と重ねたとかではない」
「うん」
「勝手だって分かってる。けれど、蛍ちゃんさえ良かったら、これからも友達でいてほしい」
ぎゅ、と彼女はきつくこぶしを握る。声が震え、けれど真っ直ぐな言葉は、本心なのだと察するには容易かった。
一瞬の間をあけてから、彼女がきつく握っている拳を握る。彼女は驚いて私の顔を見上げた。今にも泣きだしてしまいそうな彼女の表情を見て、自然と眉の下がった笑みがこぼれたのが分かる。
「本当に勝手だね。私が断れるわけがないって、分かっているくせに」
ふふ、と小さく笑みを浮かべれば、彼女は少し驚いたようだけれど、だんだんと目に涙を浮かべていく。そして目をいっぱいに潤した雫は、ゆっくりと頬を伝って落ちた。
「さっき助けてもらった時、本当に嬉しかった。暁音さんが居なかったら、私はきっと挫けていた。本当にありがとう」
「ううん、あれは私が本当に許せなかったからで」
「それでもね、自分の為に誰かが相手に怒ってくれるっていうのが初めてのことで、本当に、本当に救われたんだよ」
今までに経験のしたことのないような出来事だったのだ。誰かが、自分の代わりに怒ってくれて、助けてくれたことは。当然と言えば当然なのだけれど。今までは誰かに助けを求めたことが無かったんだから。
「さっきの通り、私は学校でいじめられている。それこそ、消えたいと思っていたくらいには」
「……うん」
「だけどね、暁音さんや他にも色々な人に出会って、私ってまだここで生きてて良いんだって思えたの」
星叶と出会って、暁音さんたちと出会って、あのカフェで過ごす時間は特別なものとなった。学校でいじめられても、あのカフェに行けば大丈夫だと、そう思えるようになった。だから、学校に行く勇気をもらえたのだ。
彼女達は私にとって、本当に心のありどころのような存在となってしまった。そんな存在を、今度は私も守りたいと、思ったのだ。
「こちらこそ、こんな私だけど、友達でいてくれる?」
ばくんばくんと騒がしい心臓。手を繋いでいる彼女に伝わってしまわないだろうか。そんな不安を感じていると、彼女は潤んでいる瞳のまま、真っ直ぐと私を見つめる。
「当り前!」
その短い言葉に、すべてが詰め込まれている気がして、嬉しくてしょうがなくて。気が付いたら小さく吹き出して笑ってしまった。
最初は当然戸惑ったのだ。だって、こうして誰かと〝遊び〟に出掛けるのは本当に何年かぶりで。
両親に、休日に出掛けると報告したときに「誰と?」と問われた時に迷わず「友達」と返したけれど、間違いではなかっただろうか。大丈夫だと信じたい。暁音さんには友達になってほしいと言われていたのだし、私はそれに頷いたのだから。
それでも、不安はある。私なんかで良いのかと。こんな自分といて、彼女に何か徳があるのかと。そんな疑問を口にすれば、星叶に鼻で笑われるのだけれど。
因みに、両親は私の報告に嬉しそうな顔をしていたので、少し拍子抜けしたのは秘密だ。
友人と遊ぶと言っても、何をするのか思いつかなくて心配していた私をよそに、暁音さんは遊びのプランを立ててくれていたようで、それがとてもありがたかった。向こうには「勝手に決めてごめん」と謝られたけれど、そんな謝罪されるようなことは全く無かった。
予定の時間より早く起きて、星叶に服を選んでもらって、ヘアアレンジもしてもらって。メイク道具を持っていないと言えば「知ってた」と言わんばかりに、彼女の化粧ポーチを出されて、生れてはじめてメイクと言うものを経験した。待ち合わせ時には、暁音さんにこれ以上ないくらい褒められて心がムズムズしちゃって、顔を真っ赤にしてしまった。電車に乗って、隣街に行って、一緒に街中を歩いたり話題らしいパンケーキなどを食べたり、本屋に寄って互いに選んだ本の趣味が同じで笑ったり、楽しい時間はあっという間に過ぎるようだ。
沢山遊んで、夕方も過ぎようという頃、電車に乗っていた時に、暁音さんが窓の外を指さした。
「ほら、あれが花影大」
彼女に示された大学は数秒で過ぎ去ってしまったけれど、大きな敷地の中に設置している建屋は、私の脳に染み込むには十分な存在感だった。
学校のシンボルらしい一番大きな建屋にはクラシカルな時計があって、その建物の前には芝生の広場があった。時間の影響もあったのか人影は少なかったけれど、夕方の朱色がキャンパスを照らし、長い影が伸びて人々を覆い、その影から人は脚を踏み出す。それがなんとも一つの絵になるような一瞬だった。
「きれいな学校だったね」
「うん。あの外観に一目惚れしたのもある」
「ああ、気持ちわかるなあ」
ボックス席で向き合いながら話しているこの時間はとても穏やかで、沈んでいく太陽の明かりがまばゆく濃い影を世界に創り出していく。建物の横を通るたびに、私達に一瞬の影が落ちる。それでも世界はオレンジ色に染まっている。これから、オレンジ色の世界は深い青色に染まって、暗闇に沈んで、太陽の代わりにまばゆい建物の光に照らされていくのだろうか。
誰かにとっては日常の一つの光景なんだろうけれど、私にとっては非日常な一コマで、身体の至る機能が忘れまいと必死に働いていたのが分かった。
最寄り駅にたどり着いた時にはすっかり夕方の時間は過ぎていた。ほんのりと遠くが淡いピンク色に染まっているけれど、これから間もなく静かで涼しい夜になるのだと、頬を撫でた風が教えてくれた。
「今日の夕飯はどうする?」
「ああ、えっとお母さんには夕飯はいらないって言っているから……」
「じゃあ夕飯はうちで食べていきなよ!」
にぱ、と眩しい笑みを見せてくれた彼女につられるように、私も小さく笑みがこぼれた。
彼女と共に勉強する毎日を過ごしてはいるけれど、あのお店で夕飯を食べるのは初めてだ。ケーキと飲み物以外を口にするのが楽しみで、口元が意識しなくとも綻んでいく。
今日の楽しかったことを会話しながらお店に向かって歩いていると、向かい側から通行人が来るのが空気で察せれる。ぶつからないように少しだけ歩む速度を下げて、暁音さんの後ろに並ぶようにする。それでも互いに会話を続けていた時だった。
「火燈さん?」
突然己の苗字と思われる単語を聞いて、思わず私達の動きと会話が止まる。私の苗字は決してありきたりなものとは言えない。寧ろ珍しいと言われるくらいでもあるだろう。第一、ここに居るのは私達二人と、すれ違った人たちだけだ。
呼ばれた名が誰を示しているのかなんて、簡単に分かった。だけれど、私の脳内は、身体は振り返りたくないと訴えている。心拍数が上がり、息の回数が上がっていくのが分かる。心臓がばくんばくんと騒いでいるのが伝わってくるほどうるさい。
「え? 火燈? うわー全然気付かなかった」
「アンタ、それは薄情じゃない? だって、いつも一緒に遊んであげてるもんね?」
向こうの二人で盛り上がっていると、一人が私の肩に手を乗せて体が近寄ってきた。それだけで、私の肩は大きく跳ねる。かすかに香る甘いにおいは、学校でいつも嗅いでいるものと同じだった。匂いによって、まるでしつけられているかのように体が縮こまっていく。
暁音さんはどういうことかと首をかしげているが、すぐに私の知り合いと察したらしい。喋っていた口を閉じて、私達の様子を伺っていた。
「なんだ、今日は遊んでたの? いつもと雰囲気違うからびっくりしたよ?」
「……あ、はは。そう、だね」
口を引きつらせ、少しだけ震わせながら放った言葉は、唇と同様に震えていただろう。
どうして、どうして彼女たちがここに。学校でいつも私をいじめている彼女たちがここに。いや、別におかしなことではない。同じ高校に通っているんだから、町中、それも駅周辺で知り合いとすれ違うことは、変なことではない。
それでも、どうして、という恐怖と、信じたくないという思いがあふれ出てしまう。
ぎゅう、と鞄を握りしめながら返答している私を見て、彼女達は先ほどまで浮かべていた笑みを完全に消した。
「まさかこんなところで会っちゃうなんてね? 胸糞悪いわ」
「良い子ちゃんなアンタが珍しいじゃん? なに? 自分は勉強しなくても余裕ってことかな?」
引きつった口角は完全に閉じられて、唇を思わず嚙み締める。
「なに? 無視? アンタもずいぶん偉くなったもんだね?」
「返事でもしたらどうですか~?」
にやにやと笑いながら、私の前髪を引っ張ってきた。ぐいっ、と引っ張られて頭皮が痛みを訴えてくる。星叶に整えてもらった髪の毛が、簡単に崩れてしまう。じわり、と目頭がにじんだのは体への痛みからか、それとも別のものが原因なのか。
「ねえ、一緒に居る人って友達とか?」
「まさか! こいつなんかに居るわけないでしょ!」
二人揃って夜の街に響くような笑い声をあげる。私はもう何も言葉を返すこともできなくて、前髪を掴まれたまま、顔を伏せてただ、ぼうと地面を眺めるだけ。
まるで心臓に刃が突き刺さったような気分だ。刺された心臓から、ぽたぽたと血が地面にこぼれ落ちて弾けたように見えた。どんどん、どんどんと血液が流れ出て行って、血の池が出来ていくようだ。
彼女達の言葉が、ただ私に刺さる。『こいつなんかに』か。知っているよ、それくらい。彼女たちに目をつけられたあの日から。クラスで存在しない者の扱いをされたあの日から。汚いものとして、人間じゃない様に扱われたあの日から。
心を殺して学校に通い続けて、それでも親や大人の期待に応えるように必死に生きても、それさえも己を苦しめるだけで。
どうして、なんで私は、いつもこんなに弱いんだろう。
逃げてしまいたい。もう、終わりたい。このまま、死んでしまいたい。消えてしまいたい。
じわじわと、胸が熱くなってきて、目頭が熱くなってきて、色々な感情と共に涙が出そうになる。
「……ねえ」
血の池に溺れてしまいそうになった時、まるで引っ張られるようにして、はっと酸素が体にめぐる。意識が戻ってくる。
誰が出したのか分からないくらいに、低い声が聞こえた。
「話、終わった?」
低い声のまま言葉が続けられる。私の目の前にいる同級生達も驚いたのか、私の前髪から手を離す。その様子から、声の主は彼女達ではないのだと自然と察せられた。
そうなると誰か。ゆっくりと顔を上げる。
そこに、こちらを真っ直ぐと見つめている暁音さんが居た。意志の強そうな瞳で、どこかその瞳の奥には炎が上がっているように見えたのは気のせいではないはずだ。
同級生の彼女たちはそれ気付かずに、暁音さんに声をかける。
「ねえ、君ってこいつの友達とか?」
「あはは、そんなことは無いとは思うけど。だって、こいつ学校では――……」
ああ、やめて。やめて。そんなことして貴方達に何の得があるの。これ以上私から奪って、何がしたいの。
ぎゅ、と力強くこぶしを握って唇をかみしめる。
「私はさ、話は終わったかって、聞いているんだよね」
変わらずに低い声で、彼女は真っすぐと鋭い目つきで相手の目を射抜く。見つめるというよりは、にらみつけるといった表現が似合うだろうか。
そんな彼女の様子を見て、同級生達が小さく息をのんだのが分かった。それは私も同じで、暁音さんの変貌具合にただ驚くことしかできない。
彼女はゆっくりと一歩を踏み出した。それと同時に同級生達は一歩後ろに下がる。人数は圧倒的に暁音さんが不利なはずなのに、彼女は決して臆さない。というよりは、彼女に逆らってはいけないと簡単に脳が理解する。彼女の逆鱗に触れたのだと、馬鹿でも分かるだろう。
「早くどこかに行って。話したくもない」
彼女の言葉を聞いて、同級生達はか細い悲鳴を上げてから、駆け足でこの場から離れていった。その様子を呆けて眺めていたが、ゆっくりと足音が近づいてくる。
慌てて顔を上げ見れば、暁音さんの表情は先ほどとは打って変わって、今にも泣きだしてしまいそうなほどに悲しいものとなっていた。眉を下げて、唇を少し震わせて、何度か口を開けては呼吸をして。そしてそのまま、ゆっくりと私が握りしめていた手を両手で包んで、ゆっくりと手を開かせた。私の手のひらは、爪が食い込んだ跡がついていた。そんな手のひらを見て、彼女は再度泣きそうな顔をする。
「……ごめんね」
「なんで蛍ちゃんが謝るの?」
「こんな、弱い私で」
泣き出しそうな私の顔を見て、彼女はゆっくりと何かを決意したような表情へと変えていく。
「うちに行く前に、少しだけ話さない?」
彼女と共に向かった先は、駅から少しだけ歩いたところにある公園だった。
外はいつの間にか暗くなっていて、星が綺麗に見えた。
二人でそれぞれブランコに腰かけて、暁音さんはゆっくりと漕いでいる。キィ、キィ、と少しだけ錆びた鉄と鉄が擦れる音がする。それに反して私は漕ぐことも無く、ただぼうっと空を眺める。
私達の間に会話は無かった。話そうと言った暁音さんから会話が始まるのを待っていた。
本当は、さっきまでのことを説明するべきなのかもしれない。だけど、それができない。私が、弱虫なままだから。
勝手に成長していると思っていた。少しずつ一歩を踏み出せているのだと思っていた。
けれど、このザマ。あのような言葉をぶつけられれば、私はいとも簡単に心がぽきりと折れそうになる。今回は隣にいる彼女が助けてくれたけれど、また同じような目に遭ったら、今度こそ私は、心が死んでしまうんじゃないかって、怖がっている。
「……前にさ、知識は己を守る手段にもなると思うって、私が言ったの覚えてる?」
暁音さんが口を開いた。顔を彼女の方に向ければ、変わらずブランコを漕いだまま言葉を紡いでいる様だった。
「覚えているよ」
衝撃的な言葉だったから、忘れようにも忘れられないと思う。私は知識をそのように考えたことが無かったから。あくまで、義務的なものだと思って生きてきたから。
彼女は夜空の星を眺めるように顔を上げて、少しだけ眉を下げて目を細める。まるで多くの星々の中から、何かを探しているようにも思えた。
「そう思ったきっかけはさ、私達姉弟の幼馴染なんだ」
「幼馴染?」
「うん。私と同い年で、皆と仲が良かったの。お店にも来ていたし、よく遊んで。明るくて真っすぐで強くて、本当に良い子だった」
だった? 過去形の言い回しに思わず首をかしげる。それと同時の疑問。私はその幼馴染という人と一回も出会ったことがない。
「最初は些細だった。だんだんと一緒に居るのを避けられるようになって。どうしてだろうと思っていたら、最後に見た彼女の姿は私の知っている、強い彼女ではなかった」
ぎゅ、とブランコの鎖を握る手に力がこもる。彼女の手にも力がこもってきたのか、ブランコがいびつに揺れ始めている。
「彼女と同じ学校に通う弟が言っていた。『彼女はいじめられてるんじゃないか』って」
どくん、と心臓が大きく跳ねた気がした。心臓をぎゅうと握られて、そのまま刃が突き刺されたような気分だ。
思わず己に降りかかっていることを思い出し、顔をゆっくりと伏せる。手は汗で湿っていた。今ブランコを漕いだら、手が滑って転げ落ちるか吹き飛んでいくだろう。
「それで……?」
「……死んじゃったんだ、彼女」
ヒュッと息を飲んだ。決して他人事とは思えない話だったから。
「死因は事故死なんだけど、弟曰く、飛び込んだように見えたって」
「そっ、か」
それは、少しでも人生の何かがズレていたら私が迎えるはずだった物語のようにも思えたのだ。
ずっと、この世界から消えたいと思っていた。そんな私がこうして生きていられるのは、星叶があの夜、声をかけて現実に縫い付けてくれたからで。そして隣の彼女たちのような優しい人達と出会ったからで。
亡くなったその人は、そうした人は居なかったのだろうか。いや、本当は居たはずなんだ。その時は視野が狭くて、世界が自身を嫌っているようにしか感じられなくて、味方など存在しないと感じて、助けを求めることが出来なかったのだ。
「暁音さんが私と仲良くしてくれているのは、その幼馴染さんと似ていたから?」
「……ごめんね。少し雰囲気が似ていたんだ。自分勝手で、本当にごめん」
暁音さんはブランコを漕ぐのを完全にやめて、私に向かって頭を下げる。
きっと私には怒る資格があるのだと思う。勝手に誰かと重ねられて、勝手に救おうと思われたと、もう関わらないでほしいということだって許されるはずだ。
だが、私にはそんなことなどできるはずがなかった。
「それでも、蛍ちゃんと、友達になりたいと言ったのは嘘じゃない。彼女と重ねたとかではない」
「うん」
「勝手だって分かってる。けれど、蛍ちゃんさえ良かったら、これからも友達でいてほしい」
ぎゅ、と彼女はきつくこぶしを握る。声が震え、けれど真っ直ぐな言葉は、本心なのだと察するには容易かった。
一瞬の間をあけてから、彼女がきつく握っている拳を握る。彼女は驚いて私の顔を見上げた。今にも泣きだしてしまいそうな彼女の表情を見て、自然と眉の下がった笑みがこぼれたのが分かる。
「本当に勝手だね。私が断れるわけがないって、分かっているくせに」
ふふ、と小さく笑みを浮かべれば、彼女は少し驚いたようだけれど、だんだんと目に涙を浮かべていく。そして目をいっぱいに潤した雫は、ゆっくりと頬を伝って落ちた。
「さっき助けてもらった時、本当に嬉しかった。暁音さんが居なかったら、私はきっと挫けていた。本当にありがとう」
「ううん、あれは私が本当に許せなかったからで」
「それでもね、自分の為に誰かが相手に怒ってくれるっていうのが初めてのことで、本当に、本当に救われたんだよ」
今までに経験のしたことのないような出来事だったのだ。誰かが、自分の代わりに怒ってくれて、助けてくれたことは。当然と言えば当然なのだけれど。今までは誰かに助けを求めたことが無かったんだから。
「さっきの通り、私は学校でいじめられている。それこそ、消えたいと思っていたくらいには」
「……うん」
「だけどね、暁音さんや他にも色々な人に出会って、私ってまだここで生きてて良いんだって思えたの」
星叶と出会って、暁音さんたちと出会って、あのカフェで過ごす時間は特別なものとなった。学校でいじめられても、あのカフェに行けば大丈夫だと、そう思えるようになった。だから、学校に行く勇気をもらえたのだ。
彼女達は私にとって、本当に心のありどころのような存在となってしまった。そんな存在を、今度は私も守りたいと、思ったのだ。
「こちらこそ、こんな私だけど、友達でいてくれる?」
ばくんばくんと騒がしい心臓。手を繋いでいる彼女に伝わってしまわないだろうか。そんな不安を感じていると、彼女は潤んでいる瞳のまま、真っ直ぐと私を見つめる。
「当り前!」
その短い言葉に、すべてが詰め込まれている気がして、嬉しくてしょうがなくて。気が付いたら小さく吹き出して笑ってしまった。