「えっと、躓いちゃったのはここなんだけど……」
「ここはね、少し公式を組み合わせるんだよね」
 暁音さんが予備校で分からなかったという場所は、運良く自分では理解していた数学の解き方だった。公式の名を口にすれば、彼女はすぐに解き方を思い出したようだ。カリカリとシャーペンを動かし、「こう?」と問われ、確認してみれば何も問題はないようなのでこくりと頷けば、彼女はパッと顔を明るくした。
「本当にありがとう! 助かった~」
「先生早口だもんね」
「そうだよね! 少しでも疑問を持った瞬間、もう置いていかれているの」
 はあ、と深いため息を吐きながら、彼女はテーブルの上で腕を組んで、腕の上に顔を突っ伏した。彼女の行為に少しだけ動揺してしまった。なんて声をかければいいのだろうとか、どう接するのが正解なのか。人と接し慣れていないせいでコミュケーション不足だ。泣きたくなってきた。
「えっと、暁音さんって、どこの学校通ってるの?」
「私? 東だよ。ああ、私服だから分かりにくいよね」
 ここら辺では唯一の私服校。偏差値も高いが、部活も盛んだと言われていたはずだ。何個かの部活はインターハイに出場と、地元の新聞にも載っていた。
「蛍ちゃんは穂坂だよね。セーラーだからすぐに分かった」
「ここら辺、セーラーはうちだけだからね」
「それに地元で一番の進学校だし」
 地元で一番の進学校、という言葉に思わず苦笑いだ。そんな私の姿を見て、彼女は少しだけ首を傾げるけれど。地元で一番頭が良い、と言われているのが、在学している県立穂坂高校で、有名大学への進学者数は中々の物。というのがウリなのだそうだ。先輩たちの実績のおかげで、自称進学校にならないのが救いである。
 学生という身の自分が、大金をポンッと用意できるわけではない。大人でも簡単ではないのは分かっているつもりだけれど。だから、私は親に迷惑をかけないように、公立でなるべくお金のかからない、それでいて将来有望とも思われるように、自ら穂坂高校を選んだ。目標があるだとか、夢があるだとか、何か理由を述べれば、優しい両親はどこを選んでも了承してくれるかもしれないが。
 だけど、そんな優秀な頭脳が集まるはずの学校で、私はひどく馬鹿な行為を受けている。己で馬鹿だと分かっているのに、その行為が苦痛だと感じているのだから、人間とは本当に面倒な生き物だ。
「蛍ちゃんどうかした?」
「何でもないよ」
 少し考え事をしていたのだと、心配をかけないように頑張って笑みを浮かべるけれど、鏡を見ないでも分かる。きっと、自分は不格好な笑みを浮かべていたのだろう。暁音さんは少し疑問を持ったようで、首を傾げながら口を開こうとする。
 その瞬間が、ひどく恐ろしいと感じた。小さく息を飲んで、心臓が大きく飛び跳ねる。己の苦衷を見られるのが怖い。他人に弱い自分を見せるのは恐ろしい。
 どうしよう。そんな思いが頭の中で埋め尽くされそうになった時。
「はい、ケーキだよ」
 ことり、と小さく音を立てながらテーブルの空いているスペースに、ケーキの乗ったお皿が置かれた。声をかけられたことと、突然視界にケーキが飛び込んできたことにびっくりしていると、一人の男性が優しい笑みでこちらを見ていた。
 誰か、と思ったけれど暁音さんが親し気にお礼を述べて、彼も会話を続けていたので、きっとバイトの人だと考えが行きついた。ぺこりと頭を下げたけれど、どうしてケーキ?
「店長から頼まれたんだ。是非食べてほしいって」
「え?」
「ほら、勉強には甘いものが良いからね」
 にこにことお兄さんは笑みを浮かべる。その考えには納得するのだけれど、突然現れた優しく甘いにおいを届けてくれるケーキに戸惑っているのだ。だって、私は注文もしていないし。
「蛍ちゃん食べてみて! お姉ちゃんケーキを作るのも上手だから」
「で、でも……」
「あ、お金は気にしないで!」
 いや、気にするんだよなあ。これが誰かの家で出されるおやつだったら、ここまで悩んだりもしないし、折角の好意だからありがたく頂くのだろうけれど、ここはお店だ。自店だから自宅でもある、と言われてしまえばお終いなのだけれど。
 戸惑っていると、バイトのお兄さんが私の様子を見てくすりと笑う。
「真面目な子だね」
「そうでなきゃ、こんなに真剣に教えてくれないよ」
「それは確かに」
 お兄さんと暁音さんが話をしている中、私はテーブルに置かれたケーキに目を奪われていた。ケーキなんて、どれくらいぶりだろう。誕生日とか、クリスマスとか、特別な日に食べるイメージしかない。こうして外でケーキを食べた記憶が、遠い昔のようだ。
「店長が、暁音ちゃんと友達になってくれたお礼なんだって。是非貰ってあげてよ」
 お兄さんの声色や目から嘘は感じられない。ちらりと横目でお姉さんを盗み見れば、他のお客さんに注文されている品でも調理しているのか、フライパンを手際よく振るっている。
 よく見えるオープンキッチンに居るお姉さんをずっと見ていれば、視線を感じたのかもしれない。彼女と目が合った。すると嬉しそうな笑みを見せてくれた。その表情は、どこか見覚えがある。そう、私が幼い頃に、自宅に友達を招いた時に迎え入れたお母さんが浮かべた、嬉しそうな表情と似ている。
 自分でも分かる程に顔を赤くして、礼を述べるために頭を下げた。
「じゃあ……いただきます」
 手を合わせて礼を述べてから、ケーキにフォークを突き刺した。シフォンケーキにメレンゲ状のクリームがかけられ、トッピングとして可愛らしい果実。ケーキにクリームをつけて口に運ぶと、ふわふわな生地に、さっぱりとした甘みが広がるしっとりとした舌触りのクリームがじわじわと広がって、とても美味しい。自分の目が輝いたのがハッキリとわかる。
「とっても美味しい」
「でしょ?」
「これは毎日食べたいなあ」
 半分冗談だが、それでもこんなにおいしいものを毎日幸せだろうと、もう半分は本気で口にすれば、目の前の暁音さんの目が今まで以上に輝いた。
「じゃあ! これからも帰りに寄ってよ!」
「え? でも迷惑じゃ……」
「大丈夫だよ。この時間の常連さんは私が居るのに慣れてるし」
 彼女が腰を捻りながら振り返れば、店内に居る何組かのお客さんがニコニコと笑みを浮かべながら頷いたり、こちらに手を振ったりしていた。
 ほらね? と問い返されて、呆気に取られてしまう。このお店の居心地がいいのは、ここの空間に居る人間の心が温かいからなのだろう。
 椅子の引く音に気を配ったり、咳をするのも我慢したり、物を落とさない様に余計なものを出さない様になど、ずっと気を張り詰めている予備校の自習室とは違う。確かに向こうは静かで、周りの人たちも集中しているから、負けられないなという気持ちも沸いて出るけれど、私は安らかな時間が流れるこの空間の方が居心地よく感じた。
 ああ、これが星叶の言っていた居場所の様なところなのだろうか。
 小さく笑みがこぼれてから、何度目かの礼を込めて頭を下げた。
「じゃあ、よろしくお願いします。あ、でもケーキ代などは払います……」
 私の言葉を聞いて、暁音さんは少し驚きながらも、心底嬉しそうに笑みを浮かべて喜んでくれた。

「そういえば蛍ちゃんって大学はどこ志望なの?」
「え? えっと、穂坂……」
「穂坂なんだ。でも蛍ちゃんなら楽勝じゃない?」
 少しだけニヤニヤとしながら彼女は言う。
高校と同じ名の大学を選んだのは、地元で唯一の国公立だからだ。国公立なだけあって偏差値も低くはない。折角大学進学を許されるなら、親に迷惑をかけない様にと、学費が少しでも下がるように、独断で決めた。
 暁音さんの言葉に少し苦笑いを浮かべながら、オレンジジュースをストローですすった。果汁百パーセントらしく、甘酸っぱいさわやかな味わいが思考をリフレッシュさせてくれる。
「暁音さんは?」
「私? 私はね花影」
 彼女が口にした大学名に思わず目を丸くする。花影といえば、ここからバスで少し時間がかかる場所にある、県内では一番偏差値の高い私立大学だ。優秀で有名な卒業生を多く送り出したこともあり、県外からも希望者が多くやってくる。
 進路相談を担任や予備校の先生にした時に、他校のパンフレットを渡され、その中に花影大学が入っていたことも覚えている。
「その大学、かなり評判いいね」
 私の隣に座り続けていた星叶が、彼女のスマホをいじりながら言う。画面を指でタップして、画面をスクロールでもしているのか、彼女の大きな瞳にスマホの光が流れるように反射する。
「学生に理解のある教員の方ばかりで、とても居心地が良いです。勉強する環境が整っています。他の大学では得られない知識がたくさん得られると思います。結構自由だしアンタ好みそうな場所だ」
 彼女の言葉を耳に入れつつ、目の前の友人にも目を向ける。すると、どこか顔に少しだけ影を帯びている様にも見えた。
「どうして、その大学に?」
「うーん、法学部があるっていうのが一番かな」
 驚いた。私の周りに、法学部を目指す人を聞いたことが無かったから。まあ、友達が居ないからという理由も含めてだけれど。それでも、花影の案内では、二年までは学習する学部をはっきりと決めないでも大丈夫だとあった。それでも、彼女ははっきりと明確な学科希望がある。
 彼女にはハッキリとした目標が存在しているのだろう。大した考えも無く、人目を気にして、何がやりたいかもわかっていない私とは違う。
「法曹三者のどれかを目指しているの?」
「まあ、そうかな」
 簡単なことじゃない。大学卒業の後に大学院などに通ったり、司法試験などを受けてその後数年の経験を得る必要だってある。合格率の低い狭き門をくぐらないといけない。それぞれ夢を叶えるための先が長い。それでも、彼女は真っすぐと未来を見ていた。
「どうしてそこまで?」
「……法律ってさ、人を守るためにも存在していると思うの」
「例えば?」
「……人権、とか?」
 にこ、と笑みを浮かべた彼女を見て、自然と体に力がこもったのが分かる。真っすぐで力強い声や言葉に、心をわしづかみにされているような気がする。
 そこまで彼女を奮い立たせるきっかけがあったのだろうか。そんな思いで彼女を見れば、すぐに私の考えなど察したらしい。笑みを崩さないまま、コップに入っているストローをくるくると回しながら語る。カラコロと氷の透き通った音が響くように思えた。
 これ以上踏み込むのは、失礼だろう。小さく謝れば、気にしないでと、すぐにさっきまでの眩しい笑みに表情を変えた。
 そっか、彼女が真っすぐに前を見ているように感じたのは、ハッキリとした目標があったから。
 それじゃあ、私は?
「知識って、自分や大切な人を守る手段でもあると思うんだ」
 彼女は優しくも真っ直ぐな声で言い放つ。
 自分や大切な人を守る手段の一つ。ぽつり、と言葉を反復する。そうした考えは持ったことが無かった。いつだってただ身に着ければいいと思っていた。
「まあ、勉強は場所を選ばなくてもできると思うけど」
 それは確かに。
 社会人の知識は、社会人でしか得られない。けど、勉強に関しては、近年では場所や人を選ばなくなってきた。
「そうだね」
 笑みを返したけれど、私の心は少しもやもやしているようにも思った。それは何が原因なのか分からない。今までの自分の考えに疑問を持ったのか。違和感を抱えたのか。
 私は今まで、自分の声を素直に聞いていただろうか。
 そんな疑問が脳裏から離れなくなった。
「今度、花影のオープンキャンパス、行ってみようかな」
 ポツリと呟いた独り言なのに、目の前の彼女には聞こえたらしい。パアッと目を輝かせたのが分かった。