予備校の授業はそつなく行われた。テキストを一緒に見ていた水月さんも、私も、両者共に問題なく終わることが出来て良かった。
 この後はいつも通り、自習室で本日の授業の復習や予習など色々な勉強をして帰る予定……なのだけれど。なぜだろう。隣から凄い視線を感じる。鞄に道具をしまっている私を、ずっと見ている。
 もしかして、テキストが見えにくかったとか、勉強中の私の態度が酷かったとか、そういった文句だろうか。
 少しだけ冷や汗を流していると、「ねえ」と隣から声をかけられて、驚いて肩を跳ねらせつつ、彼女の方顔を向ける。怒った表情を向けられると思ったが、その顔は少しだけ緊張でもしているのか強張っているようにも見えた。予想外の表情に思わず瞬く。
「今日は本当にありがとう」
「え? いや、全然大丈夫だよ」
「ううん。最初本当にどうしようかと思っていたから、気持ち的にも助かったんだ」
 にこにこと笑みを浮かべながら言うもので、同年代の子にここまで感謝も笑顔も向けられるのも久しぶりで、嬉しいながらも照れてしまう。ここまで感謝されるとは思っていなかったから。
「それでね、火燈さんにお礼がしたいなって思って」
「そ、そこまで大げさにしなくても大丈夫だよ?」
 慌てて両手を振っていると、彼女は少しだけ視線を泳がせてから、己の心の中で考えて、それを話すことに決めたらしい。一瞬で真っすぐと私を見て、口を開く。
「えっと、正直にいうと火燈さんと友達になりたいとずっと思っていたの」
 彼女の言葉に、一瞬思考が放棄されてしまったが、すぐに変な声が出てしまった。
「へ?」
「テストの順位でいつもトップ争いしてて、すごい勉強熱心な姿を見ていたから。いつか話してみたいなと思っていたの。だから、今日、隣に来てくれた時、今日しかないって思った」
 自身の両手を握りながら、少しは緊張をしているらしいが、真っ直ぐと私の目を見続けている。それだけ本気なのだろうと自然と察せられた。
 けれど、友達か。ここ数年で縁の無くなってしまった甘い単語に、心が揺れる。
 友達になってほしいと言ってもらえるのは嬉しい。勉強している私を否定しないでくれる彼女を、素敵な人だと簡単に感動してしまう。それと同時に、本当に彼女を信じて良いのかという、寂しくも最低な考えも浮かんでしまう。
 少し戸惑っていると、目の前の彼女の眉が下がっていく。
「やっぱり、急だったし、なんか都合のいいような言葉になっちゃったし、迷惑だったかな」
 眉を下げながら苦笑いを浮かべて。そんな顔をさせたいわけではなかったから、私の中に残っていた良心がツキリと痛んだ。
 それと同時に、ずっと見守っていたらしい星叶が口を開いた。
「思いを受け取るだけ受け取ってみれば?」
 他人には見えない彼女を見るために、振り向いて後ろを見るのは不自然だ。振り返ることはできない。私の両肩に、彼女の両手が、ぱらぱらとピアノを弾くように流しながら乗せてきた。
 元々、こうした状況を作ったのは後ろに居る彼女だ。わざと一人で座らせないようにして、自分から他人に声をかけて、相席をさせるようにしてきた。
「居心地がいいと思えば関係を続ければいい。悪いと思ったらそっと距離を取ればいい。付き合う人間を選べるほど、人という存在は沢山いる」
 耳元で囁くように紡がれた言葉。もし我々の姿を他人が見えるとしたら、悪魔にそそのかされている人間のようにも見えるかもしれない。
 だが、囁いてくる彼女は悪魔ではなく天使。星叶の言葉は、そっと背中を押してくれる風のようにも思えた。あくまで彼女は私に判断をゆだねさせる。きっかけは作るが、結果は私が作り出さないといけない。そこがきっと、天使と悪魔の違いなのかもしれない。
 こっそりと手を握って、目の前の彼女に向かって、ゆっくりと笑みを浮かべた。
 相手の言う迷惑という言葉を否定しながら、首を横に振って口を開く。
「ううん、嬉しいよ。少し戸惑っちゃったんだ。よろしくね」
 私の言葉を聞いた彼女は心底嬉しそうな表情を浮かべて、礼を述べてきた。礼を言うべきは誘われた私の方なのにな、なんて少しだけ苦笑いになってしまった。

 水月さんに一緒に帰ろうと誘われたので、頷いて肩を並べ予備校から出た。
外を走る車のライトに、思わず目を眇める。予備校を随分久しぶりに早く出る。いつもだったら車の通りも少ないのに、今日はまだ車が多く走っている。よく考えてみると、いつも危ない時間に外を一人で歩いていたんだなと気付いた。
 隣を歩いている水月さんは色々な話題を口に出してくれるので、私達の間に気まずい空気が流れることは無かった。きっと、彼女は学校でも人気者なのだろうな、と考えると少し胸が痛んで、自分のクラスメイトが脳裏に過ったが何とか影を振り払った。
「あ、うちはここだよ」
 もう別れるのか、と少し寂しい気持ちが沸き出てきて自分でも驚いた。動揺してしまったのは、他人にもバレやすいだろう。必死に誤魔化そうと思ったが、そんな心配はなさそうだ。
 彼女はとある建屋を指で示していた。どこか北欧風をイメージさせる、可愛らしい外観の一軒家。一階が白で、二階より上が淡いブルーのツートンで、三角屋根を合わせてシャープでおしゃれな印象にさせる。小さな人形のハウスと言われても疑問は持たなそうだ。
 よく見ると、外に折り畳み式の黒板ボードが置かれて、外壁に可愛らしい装飾がされている。ボードは『本日の日替わりメニュー』と『アルバイト募集中』の二つが置かれている。
「もしかして、カフェ?」
「うん。お姉ちゃんがやってるんだ」
 壁にはおしゃれな文体で『café 寄り道』と書かれてあった。彼女曰く、一階がお店で、二階より上が住居のようだ。もしかして、彼女は両親と共にではなく、姉と一緒に暮らしているのだろうか。
 疑問を口にする暇もなく、水月さんが扉を開いた。
 ――ちりん。扉を引っ張れば、来客を知らせる高く澄んだ鈴の音が聞こえた。
「お姉ちゃんただいま」
 カフェのはずだけれど、ただいまと挨拶をするのがどうも不思議な感覚がして、瞬きを数回しつつ、彼女の数歩後ろで待っていた。
「あら、暁音おかえり」
 挨拶に返事をしたのは、多分お姉さんだろう。水月さんの肩越しに見えた容姿は、柔らかそうな茶色の髪を一つにまとめられ、優しそうな笑みを浮かべていた。
 カフェ独特の珈琲や紅茶などの合わさった、香ばしくもとろりとした眠気を感じる。そんな空気とお姉さんはよく合っていた。
 店長であるお姉さんは、隠れていたにもかわらず私に気が付いて、少し驚いてから笑みを浮かべてこちらに歩み寄ってきた。
「お姉ちゃん。この子、同じ予備校に通っている火燈蛍ちゃん」
「友達?」
「そう!」
 満面の笑みで言うものだから、思わず面食らってしまった。確かに友達になってほしいと言われ、私もそれに賛同したけれど、ここまで堂々と言われると聊か照れてしまう。
 お姉さんは嬉しそうに、妹と似た笑みを浮かべる。
「そうなの。じゃあ蛍ちゃん、暁音と仲良くしてくれると嬉しいわ」
「あ! お姉ちゃんだけ名前呼び! ずるいよ、私も蛍ちゃんって呼んでも良い?」
 また、だ。キラキラとした、期待に満ちた、眩しい瞳で見られる。何だかむず痒いと思いつつ、決して不快ではないので頷いた。寧ろ、喜びに心をくすぐられているくらいだ。
「やった! じゃあ私のことも名前で呼んでよ」
「え、えっと……じゃあ暁音、さん?」
「んー、及第点」
 少しだけ口をとがらせてからも、彼女は笑みを浮かべた。さん付け呼びはまだ少し距離を感じるのかもしれないが、私からすれば下の名前で呼ぶこと自体、少し難易度が高いのだ。思わず苦笑いを浮かべてしまう。
 それと同時に、どうして星叶にはすぐに名を呼べたのだろう、という疑問も浮かぶ。
「じゃあお姉ちゃん。私達ここで勉強してるね」
 水月……いや、暁音さんの言葉に驚いて小さく声をこぼす。そんな私の様子に気付いて、彼女は人当たりの良い笑みを浮かべた。
「蛍ちゃんっていつも予備校で勉強しているんでしょ? その時間を奪っちゃうのは申し訳ないから。ここで一緒に勉強してってよ」
 良いのだろうか。そんな思いで目を泳がせて、まともな言葉が出てこなくて。えっと、とか、その、とか弱気な言葉がこぼれたけれど目の前の姉妹は大して気にしていないようだ。
「逆にここで集中削がれないかしら?」
「そんなことないです! むしろ、心地いいですし……集中もできそうですし」
 まだ入店して数分しか経っていないのに、このお店のことなど詳しくないのに、ぽつぽつと言葉が自然と出てくる。そんな私を見て、二人は嬉しそうに安堵の表情を見せるのだけれど。
「じゃあ飲み物でもどう?」
「私はオレンジジュース! 蛍ちゃんは?」
 えっと、と言葉を詰まらせつつ、アイスコーヒーを頼もうと思えば、星叶が耳元で少しドスの聞かせた低い声で囁く。
「珈琲なんて飲むなよ。眠れなくなるよ」
 脅しのような囁きだった。私の思考がまるわかりだったようだ。今は横に居る彼女から、親から隠し事をする幼い子供のように視線をそらして冷や汗を流して、新しい友人と同じオレンジジュースを頼むことにした。