あの人はね、と誰かが言う。あの人は、強い子だったんだよと。
 あの人はな、と誰かが言う。あの人は、真面目な人なんだよと。
 あの人はね、と誰かが言う。あの人は、優しく真っ直ぐな人なんだよと。
 あの人はね、と親しくしてくれた皆が言う。
 最初は怖く見えるかもしれないけれど、本当は優しくて、個人を受け入れてくれて、話を聞いてくれて、褒めてくれて、真面目で真剣に取り組んで努力家で強い人だと。

 けれど、「あの人は」と、とある人は言う。
 あの人はとても弱い人だった、と。

 始終やわらかい目色で私達を見守ってくれていた、私の世話をしてくれた天使さまが、子供に読み聞かせをするように、優しい顔と声色で言葉を綴る。凪いた海のように澄みきった、親切な目。


 私はただの一般人だった。
 これと言って秀でたものは特にない、それこそ普通な女である。
 ただ私の家庭は、一般的な家庭より居心地は悪かったかもしれない。物心ついた頃から両親は飽きることなく喧嘩をしており、私は家での存在を許されていない気分となった。
 きっかけはもう何だったのか覚えていないけれど、突如として学校でいじめが始まった。くだらないと自分に言い聞かせてはいたが、季節が過ぎていくごとに感覚はマヒしていった。
 幼馴染である彼女達には迷惑をかけたくなくて、いつだって何でもないと嘘の笑顔を浮かべていた。心配されているのを、勝手に無視をしていた。これは自分の問題だからと、助けの求め方も忘れてしまった。
 それが寂しかった。けど、どうしたらいいのかが分からなくて。私はきっと、一人になってしまう人間なのだとあきらめてしまう日もあった。
 ずっとどこかで信じていた。この状況を我慢し続けて耐えていたら、いつか、世界から抜け出すことが出来るのだと。

「だけど私は嫌われ者だったから」
「それでも、君には新しい友達が出来たじゃないか」
「……本当に?」

 本当に? そうかなあ?

 思わず相手の方へ顔を向ける。泣きそうになってしまう。友達という言葉が、ひどく嬉しいという思いもあれば、不安にもなる。何かを失ったり心が弱ると、不安になる。
「当然だ」
 優しい笑みを浮かべた天使さまは、人間に慈悲を与えるような穏やかな声で言ってくれる。
「えらかったな」
 まさか、今更、こうした言葉をもらえる日が来るとは思わなかった。
「がんばったな」
 どこか、半分諦めていた。そのような言葉が届くことを。
 自分でも気づかないうちに、瞼から筋を引いて涙がこぼれる。溢れ出た涙が、頬からポタポタと雨だれのように大粒になって落ちていく。
 頭をゆっくりと撫でられる。相手の手からなぜか熱が伝わってくるようで、それが酷く懐かしく涙が溢れて、視界がどんどんと滲んでいく。まるで湧き水みたいに、止まることのない涙は、何だか胸に温かいものを与えてくれるような気がした。

 強くなりたいって、ずっとずっと思っていた。強くなるという定義は、人によって考えが違うのかもしれない。
 私は物心ついた時からずっと考えていたけれど、何で強くなりたいのか、と聞かれたら、一番に思い浮かぶのは自分の為で。自分を守るために、いつだって強くなりたがっていた。
 弱い自分を否定し続けたら、気が付いたら修正できない程ボロボロになっていて、それでも頑張って、また強さを求めた。
 もう嫌だも逃げたいも怖いも言えなかった。
 失望の眼が怖くて悪いか、呆れられたくないと、見栄を張って悪いか。
 だって情けない姿を見せたら、もう誰からも力を貸してもらえなくなる。
 だから走り続けてきた脚と心はボロボロで、何度も転んで大怪我もして。そしてある日、ぽきりと心が完全に折れて、私は己の世界からさようならをしてしまった。
 後悔はしていない。私は解放されるためにその道を選んだから。
「だけど、最後に皆と別れる時、勝手に寂しくなっちゃった。ひどい奴だよね」
「そうだな。俺達は、ずっとひどい奴と言われ続けるだろう」
 自ら命を捨てた卑怯者。そう指をさされても仕方がないだろう。それでも、私達はこれしか道を選べなかった。
「それでも、課題をすべてこなしたのは本当に立派だった」
 泣き続けている私の頬を、天使さまは手で優しく拭ってくれた。
「だから、次はどこでどういう世界を生きたい?」
 選んでいいの? そう問いかければ、勿論だと相手は頷いた。
「許されないんじゃない?」
「許されるよ」
「そうかな……? そうだと良いな」
 今度は自身が笑みをこぼす番だった。

 相手が手を差し伸べて、こちら側も手を差し伸ばす。
「私は、水月家の猫になりたいなあ」
 ゆっくりと言葉を紡げば、天使さまは何度か頷いて、任せておけと笑みを浮かべた。私の手を取って、ゆっくりと足を進める。
「次の命では、自分を大切に」
 親が子に言いつける様に、けれども優しい声色で相手は言う。

 悔いの無いように物事を選ぶのは難しい。ずうっと悔いのある物ばかり選んできただろう。
 悔いの無いようにと思ったものが、後々に悔いを産む。そうして今まで過ごしてきた。だから、今回選ぶことも、後々の後悔に回るのではないか。そう思ったのだ。
 産まれた時に比べて、沢山の事を学んできた。大切な誰かとの永遠の別れも経験したし、悔しい挫折だって経験したし、悲しくて涙で枕を濡らしてもきたし、一人で辛さを我慢だってしてきたし、大切な出会いだって経験したし、夢だって見てきたし。
 きっと、産まれた時と比べたら、随分と人間らしくなった。
 あの人はね、と皆が、誰かが、言う。
 だから、だから何だって言うんだろう。他人から見えた我々への評価に、我々は生かされていたのだ。結局こういうモノだ。
「は、はは……」
 どうしよう。笑えてきた。本当にその通りだったなと思う。死んだ後に全て気付くなんて、なんと滑稽なのだろう。けれど、けれど、もう良いか。
 新しくできた道の先に、誰かが立っていた。誰かが、ゆっくりと、新しい私の名を呼んだ。
 振り向いた先に、天使さまはもういない。後は己の足で、この道を歩いていくだけ。己が選んだ命を、今度は最後まで、生きていくだけ。

「今までお世話になりました!」