「……広い」
「海だもんな」
「んー! 気持ちいい!」
かたん、ことん、と鳴っていた電車の枕木の音は、今度はざざん、ざぶん、という波の返す音になる。
砂浜は白々とひろがって、見通しがよくきいた。優しい陽光と、秋の空色と相まって淡い色の海。耳元で、しきりに風が鳴っている。少しだけひんやりとした潮風が、心をすり抜けていく。
蛍さんは海の広さに感動して、そんな彼女の言葉に昴さんは冷静に言葉を返す。那沙さんは海風に当たられながら体を伸ばしていた。
ちらりと横を見れば、蛍さんの隣にはいるけれど、彼女の手から解放された星叶さんが、真っ直ぐと海を眺めていた。凪いた海のように、ただ静かに、この景色を眺めている。
「なんだか、落ち着くね」
風が強くないから波もそんなに高くないから、波音も穏やかだ。海のシーズンも過ぎたようだから、人の姿も見えない。
「月並みな感想だけど、海って広いんだ」
蛍さんも言ったな、と思ったけれど、星叶さんの言葉に蛍さんは気にしていないようだ。
「自分が居た世界の小ささが分かるよ」
「自分が居た世界?」
星叶さんを挟んで隣にいる蛍さんの言葉に問いかければ、彼女はこちらに向けて小さく笑って、再び海の方へ顔を向けた。
「星叶に助けてもらえるまで、私の世界はひどく狭かったからさ」
その横顔が、星叶さんに少し似ていた。顔つきや髪型など違うのに、少し遠くの、届かないようなものを見つめるような、寂しそうな顔つき。
「少し遊んでいきます?」
「そうね、靴ぬいじゃお」
少し前に居る昴さんと那沙さんがそれぞれ、靴と靴下を脱いでいく。そして振り向いて、俺達の方へ笑みを浮かべる。
「蛍ちゃんと晶斗くんも靴脱いだら? 砂が入っちゃうよ」
「ここの砂浜、危ないもの落ちてないと思うよ」
後ろに居た高校生三人の俺達は顔を見合わせる。最初に動いたのは蛍さんで、彼女も靴と靴下を脱いで裸足となった。彼女の目が、俺も誘っている。
少しだけ迷ってから、結局脱いで裸足となる。ズボンをはいている人たちは裾をまくって、俺も真似して汚さない様にと気を付けている。
「もう冷たいかなあ」
ざざ、と穏やかな波が足元を濡らすあたりまでやってきて、那沙さんはそうっとつま先を濡らした。ひゃ、と短い声をあげて、少し大きな波に足元をさらわれてゆく。
「冷た! 浸かったら風邪引くわ」
「気を付けてくださいよ」
「水の掛け合いっこをしてみたいけれど、風邪を引かせたら良くないよね」
なんて言いながら、那沙さんが少しだけ力強く海面を蹴った。それは昴さんの足首にかかり、彼は小さく声を上げた。
「言葉と行動一致させてください」
そう言いながら彼もやり返すけど、その水の量は少なく濡れる範囲は控えめだ。
「……私達も行こうか!」
ぐい、と蛍さんはオレと星叶さんの腕を引っ張って、星叶さんの事は腕の中に閉じ込めた。と、オレ達の足元もじゃぷんと波に濡らされていく。足の下の砂がずずずと引っ張られてゆく感触がくすぐったかった。
「うわ、くすぐった」
「面白いね、この感覚」
ざあ、ざあと何度も繰り返されるその感触。こんなの久しぶりだな、と、冷やされる足の裏を楽しむ。
星叶さんはどうだろうかと彼女を見れば、彼女の足は沈むことは無く、ただ水の流れを眺めている。けれど、どこか顔が輝いているように見えるから、それはそれで楽しんでいるのかもしれない。蛍さんは星叶さんを腕の中から解放して、大人組の方へ歩いていく。
そんな彼女を見送っていれば、三人で波打ち際を歩いて楽しそうにしている。波打ち際、ぎりぎりのところに足跡をつける。それはすぐに波にさらわれて消えてゆく。
「……迷子になりそう」
「ん?」
「足跡。消えちゃうから」
ぽつり、と隣にいる彼女が呟いた。あの人達はまっすぐに歩いているだけなので、そんなことないのだが。
それでも、彼女の気持ちが微かに伝わってくるような気がした。
「いや、だからこそ、消えるのにここはちょうど良かったのかもしれない」
「……オレは、ずっと一緒に居たかった」
ぽつり、と言葉を紡げば、彼女は俺の方へ顔を向ける。自ら命を断とうとした俺の前で再会したときの、真っ直ぐで強そうな瞳とは違って、彼女が亡くなってしまいそうなときに似た、不安定な瞳。
彼女が命を絶つ前や、子供の頃は強そうな瞳をしていたのに、どうしてそんな目になってしまったのか。
「だから、オレ、アンタの後を追おうと、死のうとして。でも、出来なくて。覚悟も何も無かった」
大切な彼女が目の前から消えて、最初に責めたのは己の事。
どうして彼女の事を助けられなかったのか。彼女が命を投げ捨てる前に、何故もっと一緒に居なかったのか。沢山自分の事を責めて、責めて、苦しくて。
じゃあ死のう、楽になろうって思ったのに、彼女に止められて。
鼻の奥がツンと痛み、目の縁から涙が染み出てくる。ここで泣くのは卑怯だと分かっているくせに、己の体は言うことを聞かない。瞼を焼くような熱い涙が目から流れ出る。目元を擦って、何とか拭って涙を止めようとするも、瞬きをするたび、また涙が海の中にこぼれ落ちていった。
目の前の彼女はじっとオレを眺めていたがオレの頬に手を添えて、一緒に涙を拭おうとしてくれた。冷たい手が火照った顔に気持ち良かった。
「覚悟がある方が良くないんだって」
「星叶さんにはあったじゃん」
「私のは覚悟とか綺麗な言葉じゃないよ」
くすくすと笑いながら、彼女は海の方へ目を向ける。
「やっぱり、こんなきれいな海で死ぬのは申し訳ないから、止めといてよかったかな」
彼女につられるように、海の方へ目を向ける。そこには太陽の光で眩しいくらい輝いている海面が見えた。
「水月家はね、私にとって唯一の居場所だったよ。だから、自分を責めないで」
「っ、オレは」
消えていく、きっと。
出会ったことも、一緒に過ごしたことも、笑いあったことも。オレのこの今の記憶が、思い出が、足跡のように消えていくのが怖かった。あの赤で塗りつぶされていくのが、怖かった。
思わず目の前の彼女の肩を勢いよく掴む。驚いた彼女はバランスを崩し、背中から倒れそうになる。それにつられて、オレの体もまた倒れていく。
バシャン! と大きな音と水柱を立てて、俺達は共に海へ転んだ。遠くからオレ達の名を叫んでいるのが聞こえた。全身が冷たい水に沈み冷えていくのが分かる。
海水に全身沈んだ体を起こして、頭のてっぺんから海水をこぼしながら、未だにお尻は海水に浸かりながらしゃがみ込む。
「星叶さん、すみません……」
「……ふ、」
やってしまった、と頭を軽く下げていると、目の前から我慢していた声をこぼすような音が聞こえた。
ゆっくりと顔を上げれば、目の前にいる彼女の瞳はキラキラと澄んでいて、向こう側の世界がすけて見えそうなほど綺麗で、輝いた。そんな瞳を閉じるほど、顔をくしゃりとさせ顔一杯に笑いを広げ、声を上げて笑っていた。
海水に濡れてびしょびしょだけれど、太陽光に当たって輝いているように見える金髪と、白い制服が余計に顔を明るく見せている。
彼女がこんなに笑っているのをはじめてみた。それはこちらに駆け寄ってきた彼女たちも同じだったようで、驚いているのが雰囲気でも察せられた。
「あはは! まさかこんなに濡れるなんて思わなかった!」
「……はあ、当たり前じゃん」
少し呆れたような声色で蛍さんが言う。そんな彼女たちの声を聞いて、更に彼女は笑う。
暫し笑ってから、彼女は笑いつかれたのか、何とか声を押さえていく。まだ頬は緩んでいるし、笑いすぎて涙は浮かべているけれど。
「はあ、笑った。生きている時と今も含めて、一番笑った」
「ブラックジョークすぎる」
「でも実際にそうなんだもん」
昴さんの言葉に、星叶さんは唇を少しだけとがらせる。
ああ、なんだか懐かしい。まだ彼女の家庭がまだそこまで崩壊していなくて、まだいじめも無くて、ただ楽しく一緒に遊んでいたあの時のような笑顔だ。
「こうして笑えたのアンタ達のおかげなんだよ」
「え?」
「あはは、私、生まれ変わるならアンタ達の傍にいる猫になりたいなあ」
濡れた髪の毛を掻き上げながら、彼女は嬉しそうな顔でそう口にした。
上書きされていく。彼女の最期の姿が、太陽の光に当たりながら満面の笑みを浮かべ、嬉しそうな声をこぼす、眩しいものへと。
ぼろ、とまた止まりかけた塩水が流れる。あーあー、と星叶さんは苦笑して、手の平でぐいとオレの目の淵をぬぐった。
「大洪水じゃん」
ぽん、と頭を抱えられて、そのまま彼女の胸元に引き寄せられた。自身も濡れているから気にしないようだ。俺としては、異性の胸元に顔を預けられて少し混乱したが、彼女がゆっくりと濡れた頭を撫でてきたので、甘えるように胸元に頬を寄せる。ひどく冷たい身体だ。濡れて冷えたからではなく、もう彼女は人間ではないから。
「ずっとずっと、お礼言いたかったよ。本当にありがとね」
泣き止ませる気ないのだろうか。ぼろぼろと止まることを知らない涙が止まるまで、ここに居る全員が、静かに俺達を見つめていた。
さくさくと砂浜を踏み鳴らして、オレ達は荷物のところへ戻る。
「しかし、全身びしょ濡れだなあ」
「新しい服、買う? あ、お金ある? 私が買う?」
「あります!」
昴さんに少し笑いながら呆れられ、那沙さんが心配そうに彼女のお金で買おうと提案してきたので、必死に自分で買うことを訴えれば、蛍さんと後ろに居る星叶さんに笑われた。
振り向いて、笑うなと言葉を返そうと思えば、思わず小さく声がこぼれ、足が止まる。彼女はどうしたのかと聞いてきた。
「足跡」
オレの言葉を聞いて星叶さんが振り返る。そしてすぐに、小さく微笑んだ。
「……そうだね」
四人分の、裸足の足跡。今度はしっかりと、何にもさらわれることなく、残っていた。
ただ、後ろに居る彼女の足跡だけは無かったけれど。
それが寂しいという気持ちは、正直ある。それでも、俺だけではない足跡が残っているというのは、心に安らぎを持たせてくれた。
「単純かな、オレ」
「優しくされたり、楽しんだら元気になるのは当然だよ」
そこで彼女は小さく息を吸った。
「良かったねえ」
「……星叶さん、本当にありがとう」
「全然? 付き合ってくれてありがとうね、生きていた時も、今回も」
後ろの太陽の光で反射した海の眩しさに負けないくらい、彼女の顔が輝いて見えた。
わけのわからない、形もない不安。それでも引きずって、跡だけ残して、何とか必死で足を動かしていく。
それでいいのだ、と、彼女は肯定してオレを生かす。
「本当は、まだ居なくならないでほしいよ」
彼女の手の指先を、力なく掴む。離したくなかった。まだまだ彼女と共に居たかった。
初めて星叶さんに出会った時から、彼女はオレの憧れだった。ずっと傍にいる人なんだと、信じて疑わなかった。
「あの日はひどいことを言って、追い出してごめん」
さっきより握る力が強まる。そんなオレを彼女は笑うのだ。
「馬鹿だなあ。気にしてないよそんなの」
「うそつき」
彼女の噓は分かりやすい。本当はちょっとは傷ついていただろうに。
そんなオレを見て、彼女は小さく息を吐いてから笑みをこぼす。
「だったら言うのが遅い!」
「う、おっしゃる通りで……」
「だから、これからは気をつけなさい。新しい出会いや、大切な家族たち相手には」
彼女の言葉を聞いて、ゆっくりと振り向く。そこにはもう身支度を終えた皆が、こちらを温かく見守っていた。
好きなだけ話せばいいと、一緒に居ればいいと、言われている気がした。
「私、死んでから気付いたよ。この世界も案外捨てたものじゃなかったって」
「もっと早く気づけよ」
「皆と出会ってから分かったの。だから晶斗も、今まで以上に踏ん張ってみせないとね。簡単に倒れちゃダメ。もしも、もう無理だとか思ったら、後ろに居る皆を呼ぶんだよ」
彼女の手を握って、そのまま頬に添える。そんなオレの姿を見て、彼女はまたしょうがないなと言わんばかりの表情を見せる。すり、と優しく最後に頬を一撫でして、彼女は微笑む。
「もうこの姿では会えなくなるけれど、大丈夫。絶対に」
「言い切れるんだ」
「勿論」
満面の笑みを浮かべ、彼女は宣言する。
「これからどんなに辛いこととか色々なことがあったとしても、私達が一緒に歩いてきた足跡は消えないよ」
そう、かもしれない。
「そうだといいな」
ぽつりと願いを口にすれば、晴れ晴れした微笑を口角に漂わせ、星が瞬くような笑みを見せた。
ぱちぱちと星が弾けたように瞬きをすると、星叶さんは静かに優しく、温もりだけを残して、オレ達の前から消えていった。
思わず天を見上げていると、後ろからオレの名前が呼ばれる。彼女が作ってくれた、オレ達の居場所。
振り向いて、真っ直ぐと前を見て歩けば、皆も満足そうに微笑む。それにつられて自身の口角も上がったのが分かる。
今の自身の足元が、さらさらと消えていく脆い砂のようなものだったとしても、きっと周りの大切な人たちが助けてくれる。
本当は生前の彼女を助けたかった。助けられなかった、とこれから先も悔やむことがあるかもしれない。
楽しさを、達成感を、幸せを、温かさを、アンタに届けたかった。
それでも、オレが生きている限り、オレが金咲星叶を忘れない限り、アンタは死なないんだろう?
だから、アンタの分まで生きて、たくさんのことを経験してやる。他人に迷惑かけてやる、他人に期待もしてやる、他人に愛も捧げてやる、他人を大切にしてやる。
アンタの分まで。
それが天使となった彼女の願いであり、オレの居場所なのだろう。
「海だもんな」
「んー! 気持ちいい!」
かたん、ことん、と鳴っていた電車の枕木の音は、今度はざざん、ざぶん、という波の返す音になる。
砂浜は白々とひろがって、見通しがよくきいた。優しい陽光と、秋の空色と相まって淡い色の海。耳元で、しきりに風が鳴っている。少しだけひんやりとした潮風が、心をすり抜けていく。
蛍さんは海の広さに感動して、そんな彼女の言葉に昴さんは冷静に言葉を返す。那沙さんは海風に当たられながら体を伸ばしていた。
ちらりと横を見れば、蛍さんの隣にはいるけれど、彼女の手から解放された星叶さんが、真っ直ぐと海を眺めていた。凪いた海のように、ただ静かに、この景色を眺めている。
「なんだか、落ち着くね」
風が強くないから波もそんなに高くないから、波音も穏やかだ。海のシーズンも過ぎたようだから、人の姿も見えない。
「月並みな感想だけど、海って広いんだ」
蛍さんも言ったな、と思ったけれど、星叶さんの言葉に蛍さんは気にしていないようだ。
「自分が居た世界の小ささが分かるよ」
「自分が居た世界?」
星叶さんを挟んで隣にいる蛍さんの言葉に問いかければ、彼女はこちらに向けて小さく笑って、再び海の方へ顔を向けた。
「星叶に助けてもらえるまで、私の世界はひどく狭かったからさ」
その横顔が、星叶さんに少し似ていた。顔つきや髪型など違うのに、少し遠くの、届かないようなものを見つめるような、寂しそうな顔つき。
「少し遊んでいきます?」
「そうね、靴ぬいじゃお」
少し前に居る昴さんと那沙さんがそれぞれ、靴と靴下を脱いでいく。そして振り向いて、俺達の方へ笑みを浮かべる。
「蛍ちゃんと晶斗くんも靴脱いだら? 砂が入っちゃうよ」
「ここの砂浜、危ないもの落ちてないと思うよ」
後ろに居た高校生三人の俺達は顔を見合わせる。最初に動いたのは蛍さんで、彼女も靴と靴下を脱いで裸足となった。彼女の目が、俺も誘っている。
少しだけ迷ってから、結局脱いで裸足となる。ズボンをはいている人たちは裾をまくって、俺も真似して汚さない様にと気を付けている。
「もう冷たいかなあ」
ざざ、と穏やかな波が足元を濡らすあたりまでやってきて、那沙さんはそうっとつま先を濡らした。ひゃ、と短い声をあげて、少し大きな波に足元をさらわれてゆく。
「冷た! 浸かったら風邪引くわ」
「気を付けてくださいよ」
「水の掛け合いっこをしてみたいけれど、風邪を引かせたら良くないよね」
なんて言いながら、那沙さんが少しだけ力強く海面を蹴った。それは昴さんの足首にかかり、彼は小さく声を上げた。
「言葉と行動一致させてください」
そう言いながら彼もやり返すけど、その水の量は少なく濡れる範囲は控えめだ。
「……私達も行こうか!」
ぐい、と蛍さんはオレと星叶さんの腕を引っ張って、星叶さんの事は腕の中に閉じ込めた。と、オレ達の足元もじゃぷんと波に濡らされていく。足の下の砂がずずずと引っ張られてゆく感触がくすぐったかった。
「うわ、くすぐった」
「面白いね、この感覚」
ざあ、ざあと何度も繰り返されるその感触。こんなの久しぶりだな、と、冷やされる足の裏を楽しむ。
星叶さんはどうだろうかと彼女を見れば、彼女の足は沈むことは無く、ただ水の流れを眺めている。けれど、どこか顔が輝いているように見えるから、それはそれで楽しんでいるのかもしれない。蛍さんは星叶さんを腕の中から解放して、大人組の方へ歩いていく。
そんな彼女を見送っていれば、三人で波打ち際を歩いて楽しそうにしている。波打ち際、ぎりぎりのところに足跡をつける。それはすぐに波にさらわれて消えてゆく。
「……迷子になりそう」
「ん?」
「足跡。消えちゃうから」
ぽつり、と隣にいる彼女が呟いた。あの人達はまっすぐに歩いているだけなので、そんなことないのだが。
それでも、彼女の気持ちが微かに伝わってくるような気がした。
「いや、だからこそ、消えるのにここはちょうど良かったのかもしれない」
「……オレは、ずっと一緒に居たかった」
ぽつり、と言葉を紡げば、彼女は俺の方へ顔を向ける。自ら命を断とうとした俺の前で再会したときの、真っ直ぐで強そうな瞳とは違って、彼女が亡くなってしまいそうなときに似た、不安定な瞳。
彼女が命を絶つ前や、子供の頃は強そうな瞳をしていたのに、どうしてそんな目になってしまったのか。
「だから、オレ、アンタの後を追おうと、死のうとして。でも、出来なくて。覚悟も何も無かった」
大切な彼女が目の前から消えて、最初に責めたのは己の事。
どうして彼女の事を助けられなかったのか。彼女が命を投げ捨てる前に、何故もっと一緒に居なかったのか。沢山自分の事を責めて、責めて、苦しくて。
じゃあ死のう、楽になろうって思ったのに、彼女に止められて。
鼻の奥がツンと痛み、目の縁から涙が染み出てくる。ここで泣くのは卑怯だと分かっているくせに、己の体は言うことを聞かない。瞼を焼くような熱い涙が目から流れ出る。目元を擦って、何とか拭って涙を止めようとするも、瞬きをするたび、また涙が海の中にこぼれ落ちていった。
目の前の彼女はじっとオレを眺めていたがオレの頬に手を添えて、一緒に涙を拭おうとしてくれた。冷たい手が火照った顔に気持ち良かった。
「覚悟がある方が良くないんだって」
「星叶さんにはあったじゃん」
「私のは覚悟とか綺麗な言葉じゃないよ」
くすくすと笑いながら、彼女は海の方へ目を向ける。
「やっぱり、こんなきれいな海で死ぬのは申し訳ないから、止めといてよかったかな」
彼女につられるように、海の方へ目を向ける。そこには太陽の光で眩しいくらい輝いている海面が見えた。
「水月家はね、私にとって唯一の居場所だったよ。だから、自分を責めないで」
「っ、オレは」
消えていく、きっと。
出会ったことも、一緒に過ごしたことも、笑いあったことも。オレのこの今の記憶が、思い出が、足跡のように消えていくのが怖かった。あの赤で塗りつぶされていくのが、怖かった。
思わず目の前の彼女の肩を勢いよく掴む。驚いた彼女はバランスを崩し、背中から倒れそうになる。それにつられて、オレの体もまた倒れていく。
バシャン! と大きな音と水柱を立てて、俺達は共に海へ転んだ。遠くからオレ達の名を叫んでいるのが聞こえた。全身が冷たい水に沈み冷えていくのが分かる。
海水に全身沈んだ体を起こして、頭のてっぺんから海水をこぼしながら、未だにお尻は海水に浸かりながらしゃがみ込む。
「星叶さん、すみません……」
「……ふ、」
やってしまった、と頭を軽く下げていると、目の前から我慢していた声をこぼすような音が聞こえた。
ゆっくりと顔を上げれば、目の前にいる彼女の瞳はキラキラと澄んでいて、向こう側の世界がすけて見えそうなほど綺麗で、輝いた。そんな瞳を閉じるほど、顔をくしゃりとさせ顔一杯に笑いを広げ、声を上げて笑っていた。
海水に濡れてびしょびしょだけれど、太陽光に当たって輝いているように見える金髪と、白い制服が余計に顔を明るく見せている。
彼女がこんなに笑っているのをはじめてみた。それはこちらに駆け寄ってきた彼女たちも同じだったようで、驚いているのが雰囲気でも察せられた。
「あはは! まさかこんなに濡れるなんて思わなかった!」
「……はあ、当たり前じゃん」
少し呆れたような声色で蛍さんが言う。そんな彼女たちの声を聞いて、更に彼女は笑う。
暫し笑ってから、彼女は笑いつかれたのか、何とか声を押さえていく。まだ頬は緩んでいるし、笑いすぎて涙は浮かべているけれど。
「はあ、笑った。生きている時と今も含めて、一番笑った」
「ブラックジョークすぎる」
「でも実際にそうなんだもん」
昴さんの言葉に、星叶さんは唇を少しだけとがらせる。
ああ、なんだか懐かしい。まだ彼女の家庭がまだそこまで崩壊していなくて、まだいじめも無くて、ただ楽しく一緒に遊んでいたあの時のような笑顔だ。
「こうして笑えたのアンタ達のおかげなんだよ」
「え?」
「あはは、私、生まれ変わるならアンタ達の傍にいる猫になりたいなあ」
濡れた髪の毛を掻き上げながら、彼女は嬉しそうな顔でそう口にした。
上書きされていく。彼女の最期の姿が、太陽の光に当たりながら満面の笑みを浮かべ、嬉しそうな声をこぼす、眩しいものへと。
ぼろ、とまた止まりかけた塩水が流れる。あーあー、と星叶さんは苦笑して、手の平でぐいとオレの目の淵をぬぐった。
「大洪水じゃん」
ぽん、と頭を抱えられて、そのまま彼女の胸元に引き寄せられた。自身も濡れているから気にしないようだ。俺としては、異性の胸元に顔を預けられて少し混乱したが、彼女がゆっくりと濡れた頭を撫でてきたので、甘えるように胸元に頬を寄せる。ひどく冷たい身体だ。濡れて冷えたからではなく、もう彼女は人間ではないから。
「ずっとずっと、お礼言いたかったよ。本当にありがとね」
泣き止ませる気ないのだろうか。ぼろぼろと止まることを知らない涙が止まるまで、ここに居る全員が、静かに俺達を見つめていた。
さくさくと砂浜を踏み鳴らして、オレ達は荷物のところへ戻る。
「しかし、全身びしょ濡れだなあ」
「新しい服、買う? あ、お金ある? 私が買う?」
「あります!」
昴さんに少し笑いながら呆れられ、那沙さんが心配そうに彼女のお金で買おうと提案してきたので、必死に自分で買うことを訴えれば、蛍さんと後ろに居る星叶さんに笑われた。
振り向いて、笑うなと言葉を返そうと思えば、思わず小さく声がこぼれ、足が止まる。彼女はどうしたのかと聞いてきた。
「足跡」
オレの言葉を聞いて星叶さんが振り返る。そしてすぐに、小さく微笑んだ。
「……そうだね」
四人分の、裸足の足跡。今度はしっかりと、何にもさらわれることなく、残っていた。
ただ、後ろに居る彼女の足跡だけは無かったけれど。
それが寂しいという気持ちは、正直ある。それでも、俺だけではない足跡が残っているというのは、心に安らぎを持たせてくれた。
「単純かな、オレ」
「優しくされたり、楽しんだら元気になるのは当然だよ」
そこで彼女は小さく息を吸った。
「良かったねえ」
「……星叶さん、本当にありがとう」
「全然? 付き合ってくれてありがとうね、生きていた時も、今回も」
後ろの太陽の光で反射した海の眩しさに負けないくらい、彼女の顔が輝いて見えた。
わけのわからない、形もない不安。それでも引きずって、跡だけ残して、何とか必死で足を動かしていく。
それでいいのだ、と、彼女は肯定してオレを生かす。
「本当は、まだ居なくならないでほしいよ」
彼女の手の指先を、力なく掴む。離したくなかった。まだまだ彼女と共に居たかった。
初めて星叶さんに出会った時から、彼女はオレの憧れだった。ずっと傍にいる人なんだと、信じて疑わなかった。
「あの日はひどいことを言って、追い出してごめん」
さっきより握る力が強まる。そんなオレを彼女は笑うのだ。
「馬鹿だなあ。気にしてないよそんなの」
「うそつき」
彼女の噓は分かりやすい。本当はちょっとは傷ついていただろうに。
そんなオレを見て、彼女は小さく息を吐いてから笑みをこぼす。
「だったら言うのが遅い!」
「う、おっしゃる通りで……」
「だから、これからは気をつけなさい。新しい出会いや、大切な家族たち相手には」
彼女の言葉を聞いて、ゆっくりと振り向く。そこにはもう身支度を終えた皆が、こちらを温かく見守っていた。
好きなだけ話せばいいと、一緒に居ればいいと、言われている気がした。
「私、死んでから気付いたよ。この世界も案外捨てたものじゃなかったって」
「もっと早く気づけよ」
「皆と出会ってから分かったの。だから晶斗も、今まで以上に踏ん張ってみせないとね。簡単に倒れちゃダメ。もしも、もう無理だとか思ったら、後ろに居る皆を呼ぶんだよ」
彼女の手を握って、そのまま頬に添える。そんなオレの姿を見て、彼女はまたしょうがないなと言わんばかりの表情を見せる。すり、と優しく最後に頬を一撫でして、彼女は微笑む。
「もうこの姿では会えなくなるけれど、大丈夫。絶対に」
「言い切れるんだ」
「勿論」
満面の笑みを浮かべ、彼女は宣言する。
「これからどんなに辛いこととか色々なことがあったとしても、私達が一緒に歩いてきた足跡は消えないよ」
そう、かもしれない。
「そうだといいな」
ぽつりと願いを口にすれば、晴れ晴れした微笑を口角に漂わせ、星が瞬くような笑みを見せた。
ぱちぱちと星が弾けたように瞬きをすると、星叶さんは静かに優しく、温もりだけを残して、オレ達の前から消えていった。
思わず天を見上げていると、後ろからオレの名前が呼ばれる。彼女が作ってくれた、オレ達の居場所。
振り向いて、真っ直ぐと前を見て歩けば、皆も満足そうに微笑む。それにつられて自身の口角も上がったのが分かる。
今の自身の足元が、さらさらと消えていく脆い砂のようなものだったとしても、きっと周りの大切な人たちが助けてくれる。
本当は生前の彼女を助けたかった。助けられなかった、とこれから先も悔やむことがあるかもしれない。
楽しさを、達成感を、幸せを、温かさを、アンタに届けたかった。
それでも、オレが生きている限り、オレが金咲星叶を忘れない限り、アンタは死なないんだろう?
だから、アンタの分まで生きて、たくさんのことを経験してやる。他人に迷惑かけてやる、他人に期待もしてやる、他人に愛も捧げてやる、他人を大切にしてやる。
アンタの分まで。
それが天使となった彼女の願いであり、オレの居場所なのだろう。