この世界から抜け出す方法を、いつだって探している。
 けれど、それはいつも叶うことのない夢として終わる。私が私で居続けて、この世界にしがみついて生きていく限り。

「いい加減にしてよ!」
 いつも通りの怒鳴り声で目が覚めた。
 夢うつつでぼんやりとした空気に浸ることもできず、嫌でもこの世界に呼び起され、逃げ出すことを許されない。はっきりと覚醒した体に、嫌でも耳に入ってくる内容はいつもの両親の喧嘩だ。
 二人はいつものように一階で互いに言葉で殴り合う。私の部屋は二階だというのに、ここまで聞こえるなんて、朝から近所迷惑すぎるだろう。結局、嫌な目、可哀そうな目で見られるのは私だというのに。
 今日は月曜日。何もかもが憂鬱な一日のスタートだ。
「最悪」
 そう呟いた声は誰にも聞こえることは無い。着替えるのは、いつも食事の後。家から出る寸前まで、汚さない様に。
 ベッドから降りてすぐに置いてある姿見で自身の姿を見れば、生気などまるで感じないような顔色だ。いつものことか、と気にすることも無く、慣れてしまっている自分も嫌になる。

 ゆっくりと階段を下りれば、リビングは殺伐とした空気が張り詰めていた。まるでガソリンが気化した空間に、ちょっとした火花でも爆発するような。
 母は食器を洗っていて、父は出社の時間までテレビを見ている。ちょっとした動作、言葉で大爆発してしまう部屋。
 朝ごはんなど用意されていない。母が適当に買ってきた食パンを一枚手にしてお皿の上に置く。コップに牛乳も注いで、その二つをテーブルの上に置いてから椅子に腰かける。
 母は日々家事や仕事などに追われ、最近では父の浮気が発覚して、すっかり精神が弱っている。父は家庭に全く関与しようと思わず、仕事一筋という雰囲気を出しているが、その実、アルコール中毒一歩手前だし、女好きの浮気野郎。
 両親の稼ぐお金は、父が消費している。最近では母も当てつけのように、浮気をしていることを知っている。

 そこまでして夫婦でいる必要はあるのか。共に、もう一緒に居る気持ちなど微塵も無いだろうに。子供である私の事を気に掛けることも、興味を持つことも無いくせに。

「なに? こっち見ないでくれない?」
 食パンを食べている最中、無自覚にいつの間にか母を見つめてしまったらしい。内心、しまった、と焦りの感情が沸き上がる。気を付けていたはずなのに、自分で火種を作ってしまった。
「アンタのその目、本当に嫌い。何か言いたいことでもあんの?」
 ここでなんて言葉を返すのが正解なのか、未だに分かっていない。ただ、目を逸らせばそれはそれで怒られるし、どういう行動をとればいいのかもわかっていない。
 母から目を逸らせないでいると、それがついに癇に障ったらしい。
 母親は苛立ちを隠さない目で、私に向かってスポンジを投げつけてきた。
 ベシャ、と音を立てて私の体に叩きつけられる。泡がついたままで水分が多く含んでいたため、しっとりと冷たい。そのまま地面に落ちて、私はそれを拾う。母は、まだ怒号を貴方にまくし立てる。ヒステリックな高い声が実に不愉快だ。
 そんな母の声を聞いて、父が「うるせえぞ」と怒鳴り散らす。血が上って赤くなった顔の父は、力任せに机を拳で思い切り叩く。それが火種となったのか、二人がまた怒鳴り声が飛び交う空間となってしまった。
 毎日の光景。だからと言って、この空間に慣れることは無いのだろうけれど。
 頭と耳がズキズキと痛くなる。ばくばくと心臓の鼓動が体内に響き、体が微かに震えていく。得体のしれない感情が増していく。
 椅子から立ち上がって、注いだ牛乳を、申し訳ないなと思いながら排水に捨てて、コップとお皿を置いて、パンを無理やり口の中に放り込み、空間から出ようとする。
「どこに行くの」
「……部屋に。学校、準備しないと」
「アンタは良いわね、嫌になったらこうして逃げれて」
 母親の言葉を背に向けられ、少しだけ視線を両親のいる方へ向ける。
 逃げられる、なんてどこから出た言葉なのか。子供である私は、まだ一人で生きていくには難しいのに。この世界から逃げ出したくても、それも叶わないというのに。
 何も言い返さない私に腹が立ったのかもしれない、母は再度頭に血を上らせ、置いたばかりのコップを手に取って、こちらに向かって投げつけてきた。
「言いたいことあるなら言いなさいよ! いい加減キモイんだよ!」
 その言葉と共に、体にぶつかったガラス製のコップが私に傷を作る。ぶつかったときは割れなかったけれど、地面に落ちた瞬間にガラスは割れて、破片が飛んできて素肌に傷を作り血が薄らとにじむ。
 ずきずき、と至る所が痛む。どこが痛いかなんて、もう、分からなくなってしまった。
「ごめん」
 小さく謝って、落ちて割れたコップの破片を手に取って集める。その際にガラスで手が切れて赤くにじんでいくけれど、気にすることも許されない。
 全部拾ってからようやく両親に背を向けて、廊下で新聞に包んで、それを持って部屋に向かう。後日、今までのゴミもまとめて出そう。
 部屋に着いた頃には、手は真っ赤になっていて、二階にある洗面所で血を洗い流す。真水が傷口に沁みて痛い。洗い流してから、自分の部屋で傷口の手当てをする。両手が傷だらけだから、今日一日不便かもしれないな。
 改めて洗面所に向かって、学校に向かう身支度をする。歯を磨いて、顔を洗って。その際もずきずきと手が痛んでいやになる。
 部屋で制服に着替えて、鏡を取り出してメイクをする。
 髪の毛は、自由な校風であるのを良いことに、入学と共に髪を染めた。何度も脱色してから、毛先に色を入れた。ピアスをつけるために、何か所も穴をあけた。ネットを使って、メイクを学んだ。誰からも教わることは無く、何でも独学でやってきた。
 最後に姿見の前に立って、おかしな部分は無いか、ネクタイは曲がっていないか、と確認をする。相変わらず顔は無表情で、顔色も化粧では誤魔化せてはいないけれど、誰も気にしないだろう。
 時間を確かめてから、教科書の類でズシリと重みのある傷だらけのスクバを手に取って、部屋を出る。両親はまだ家に居るのか怒鳴り声が聞こえる。その騒動に隠れるように、こっそりと家を出た。
 扉を閉めてしまえば、不思議なことに家の喧騒などあまり聞こえなかった。いっそ、誰かが不審に思って、警察とか呼んでくれないだろうか。
 そんな無駄な他力本願でいるからダメなんだろう。重い足取りで学校へ向かう。

 まあ、学校に辿り着いたと言っても、そこが安置というわけでもないのだが。
 教室に向かおうと廊下を歩いている途中、足が止まる。教室の入り口でたむろって、私の居場所を奪っていく相手が居る。
 常に私に敵意に似た感情をぶつけ、私の存在を否定する。彼女はお仲間である複数人の生徒に囲まれて、甲高い声を響かせながら笑っている。
 小さく息を吸って、意を決して彼女たちの横を通り抜けることにした。
 私の足音が聞こえたのだろうか。さっきまで騒いでいた彼女たちは一斉に静まって、私の方に視線を向ける。気味悪い視線から逃れるためにも、気にしていないそぶりで足早に去ったが、背後から嫌に耳に届くあの女たちの嘲笑が、更に気分を酷く害する。
 彼女達に何もしていないにも関わらず、なぜこのように軽蔑されなければならないのだろうか。だが、私を襲う理不尽は今日も手加減をしない。
 机は相変わらず落書きされているし。周りから聞こえるのは、くすくすと馬鹿にされるような笑い声。家に負けずと、耳障りの声だ。
 気にするそぶりを見せずに、唇を少し嚙み締めながら、鞄の中に入っていた除光液で机の落書きを黙々と落としていく。そんな私の様子を見て、舌打ちや「つまんねえの」という小言が聞こえたが無視。
 ゴミを捨てようとゴミ箱に向かえば、思わず目を開く。ゴミ箱にはクラスメイトが捨てたお菓子やジュースのごみと一緒に、私の筆箱が入っていた。
 ああ、油断した。昨日の帰り道、筆箱を忘れたことに気付いて、すぐに取りに戻ればよかった。ゆっくりと取り出していたら、一層視線を感じる。振り向いてみれば、クラスの女子がこっちを見て笑っていた。
「どうかしたの? ゴミ箱なんか見つめて」

 ここにも、私の居場所など存在しない。軽蔑し、見下す声。

 わざわざこんな私に声をかける者は誰もいない。立ち尽くしていても、邪魔になるだけだし、これ以上ここに居たらショックを受けていると思われる。弱みを見せることになる。
 自身にとってはゴミではないものを取り出し振り返ると、勢いよくすれ違いざまに誰かの肩がぶつかる。思わず体がよろけてしまう。振り返ると、相手は嘲笑をしながら、私の背中を見ていた。
 筆箱を手に取って洗いに向かう。いくら自由な校風と言っても、私の容姿は周りからすると目立つ。まわりからの視線が突き刺さる。こちらを見て、こそこそと話している人物を横目で見れば、相手は大げさなほどに肩を跳ねらせて、睨まれただとか泣き言を言う。
 授業が開始して、落書きをされ破かれたノートを開いて授業を受ける。学校の教師達は、誰も彼も見て見ぬふりだ。寧ろ、いじめられる人物犠牲者を出すことでクラスが団結しているのだから、先生からすれば願ったり叶ったりだろうか。
 自分の皮肉にこそりと笑みを浮かべれば、教室内でスマホの電子音が響く。基本的に自由な校風だが、授業中は別だ。先生は生徒である私達の方へ体を向ける。犯人は誰かと問いはしないけれど、きっとそうした類の事を聞きたいのだろう。
 私は普段からスヌーズのマナーモードなので関係ないのだが、クラスメイトはざわめき、続々と声をこぼす。
「金咲じゃね?」
「うわメーワク」
「怒られろ」
「教室から出てってくださーい」
 先生の視線がこちらを向く。新人である先生が戸惑いの顔をしているのが分かる。私は小さく息を吐いてから、ポケットをいじるふりをしてから、小さく手を上げた。
「私です。電源切ったので続けてください」
「そ、そう? それじゃあ、続けるわね」
 私の行動と、先生の即断にクラスメイトは少しつまらなさそうな空気となる。
 こんなのは日常だ。毎日毎日、こんな空気の中で私は生きる。
 世論やネットでは色々な言葉であふれている。若者は未来が沢山ある、選択肢がある、世界は広いと。それでも、私たち学生が生き抜かなければならない世界、現実は、この狭い学校内か家庭で終わってしまうのだ。
 私はその狭い世界、現実では、どちらも歓迎されず弾かれている。
 私がこの世界で生きる必要性が見いだせない。


 学業が終わる寸前に、私は自身の机や荷物を再確認する。学校に留まる時間が終了した瞬間に、この世界から飛びだすために。
 スクールバックの中に、明日の授業の予習や、今日の授業の復習で使う教科書やノートなどをしまい込む。
 終業のチャイムが鳴ると同時に、私は席から立ち上がり、まずは引き出しの中を確認する。何も入っていない、大丈夫だ。続いて鞄を肩に背負って、鍵付きのロッカーを確認する。何も不備はない。本日使わない道具は、全てここに入れておく。一度鍵をし忘れ、体操着にカッターの切り傷が刻まれていた時があった。二度と、あんなへまはしないと心に決めている。
 早足で学校を去る。当時の私は、犯人と立ち向かう勇気も、何より気力も、全てが無かった。だから全ては己が我慢すればいいのだと、自分に言い聞かせていたのだ。

「星叶さん」
 玄関でローファーに履き替えた時、玄関で声をかけられた。私をそう呼ぶ人物は限られていた。姉弟そろって幼馴染な水月家の末っ子である、水月晶斗。今年入学したばかりな、二歳年下の男子。
 彼は薄く笑みを浮かべて、私に向かって手を振っていた。周りの視線など気にせず、彼はこちらへ寄ってくる。
「今日も帰りに寄ってく?」
「そうさせてもらおうかな」
「うん、わかった」
 にこり、と笑みを浮かべた彼は顔がほころんでいて、私でも彼が喜んでくれているのだと察する。彼と並んで学校を後にしようとすれば、彼は私の手に包帯が巻かれているに気が付いた。
「星叶さん、それ」
「目ざといね。コップを片付ける時に手を切ってさ」
「……今度からは、箒とかで片づけてよ」
「そうだね」
 きっと、彼らには色々と気付かれている。
 私は一度も家庭事情を話したことも、学校での愚痴も話したことは無い。まあ、家の門限は緩くて夕飯は各自で済ますとか、テスト面倒いなとか、そうしたことは口にしていたけれど。表立って、大げさに心配されるようなことは、口に出したことは無い。
 それなのに、彼ら姉弟はいつだって聡い。長女である灯彩さんも、同い年である暁音も、年下である晶斗も。全員が私を心配してくれているのは分かっている。勘づいているのも分かっている。

 それでも、私は彼らにも弱みを見せることは無い。

 学校からしばらく歩けば、彼の家であり、お姉さんが経営しているカフェに辿り着く。
 灯彩さんもいつも通り笑顔で迎えてくれて、続いて弟と同じことを心配して、同じように怒る。
 馴染みのある席に座って、一緒に勉強していれば、予備校帰りの暁音も帰ってきて、三人で一緒に夕飯を食べる。その後も一緒に話したり、二階の彼らの住居で一緒に遊ぶこともあれば、勉強もする。その日は、確かゲームをしていた。
 暫く水月家に滞在していれば、私のスマホが通知を知らせる。メッセージの送り主は母だった。
 『いつ帰ってくるつもり?』という短いメッセージが表示されている。文面だけで、不満がこぼれ出ている。また、父と言い合いでもしたのだろうか。それで、私で憂さ晴らしでもしたいのだろうか。
「そろそろ帰るよ」
「じゃあ送ってく」
 晶斗が立ち上がって、暁音が「またね」と笑顔で手を振ってきた。私は包帯が巻かれている手で振り返す。
 この空間だけは、私が生きるのを許してくれる場所だった。それでも、最近、母親からの監視が厳しい。毎日気を抜くことは許されない。私は、どこでもいつでも、気を張って生き続ける。

「海に行きたくなってきた」
「海に行ってどうする」
 唐突な私の言葉に、隣に居た彼は驚いたようだが、すぐに呆れたような言葉を返す。
「……死ぬ、とか」
「死んでどうするの」
 どうするんだろう。私はぼうとした顔のまま、聞き返してきた彼の顔を見つめていた。
「死んだら、それまでなんじゃない?」
「そうとも限らないじゃん」
 怒りではない。呆れが滲む口調である。言われてみれば、と改めて彼を見る。確かに、輪廻転生とか言ったりするからな。
 それでも、私は死んで生まれ変わったとしても、また人間になるのは嫌だな。また、こうした苦痛を毎日味わうのは、もう今世だけで十分だ。少しだけ考えこんでから、答えが見つかり、思いつきを声に出した。
「猫になりたい」
 その声は彼に届いていただろうか。分からない。それでも、答えが出た様な気がする。

 そっか、そっか。私は、さっさとこの世界から去ってしまいたかったのだ。

 信号がもう少しで赤から青に変わる。隣の彼はまじめだから、ちゃんと信号が変わってから、左右を念のために確認し渡るのだろう。
 いつもより早く、足を一歩早く踏み出した。後ろに居た赤の他人であろう人が、声を荒げていた気がする。危ないだったか、止まれだったかは覚えていない。
 ただ、案外、人間も捨てたもんじゃなかったんだなあって、最後の最後に思っただけ。

 ――ドッ! と大きな衝撃が私を襲い、世界が大幅に揺れた。

 生まれて一度も味わったことのない大きな痛みを感じてすぐ、そこからは何が起こったのか、自分でもはっきりと分からない。ただ、体が無様に地面に転がったのが、自分でも分かったのが阿保みたいで面白かった。
 脳が現実逃避でもしているのか、痛みが分からない。視界もぼやけてきて、鼓膜も破れたのか周りの音も良く聞こえない。口から何かがこぼれ出ていたのは分かって、それが一番不快だった。
 ぼやける視界の中、必死に声を荒げている人物が居たのは分かる。きっと、晶斗だったのだろう。
 彼には、後ろに居た関係のない人達には、酷いものを見せてしまって、本当に申し訳ないことをしたと思う。
 それでも何故だろう、私の心はこんなにも軽くなっていた。

 本当はね、いつだって思っていたの。
 何で私の家庭は、皆の家みたいな安心できる場所なんかじゃなくて、あんなに荒れているのかなあって。何で私は学校の皆と、友達になったり楽しく毎日を過ごせなかったのかなあって。
 ううん、そんなの今更なんだよね。でも、私がもう少しでも誰かを庇えるほど力があったり、優しい言葉をかけることが出来たら、逃げ出さずに家の手伝いをしていたら、お母さんだけでも味方だったかもしれない。
 学校でも、話すときに笑顔を見せていたら、嫌なものを嫌だと言えていたら、先生に相談できていたら、もしかしたら友達は出来ていたはずなんだって。
 自分を中心に、どんどんと流れていく赤い液体。いうことを聞かない体。噎せ返るくらいに濃厚な、錆びた鉄の匂い。
 ああ、私はここで終わりなんだと、漸く終えることが出来るのだと喜ぶ自分が居た。
 もう、何もわからない。どんどんと暗闇が私を引きずり込んでいく。
 私はこの世界で生きるのに向いていなかった。ただそれだけだった。おしまい。
 プツン。そこで、私は完全に意識を閉ざした。


「おめでとう! 君は天使候補生に選ばれました!」
 はずだったのだ。
 パーン! と小さな破裂音が聞こえたかと思えば、こちらに向かって降ってくる色とりどりな紙テープと紙吹雪。
 呆然と見上げている私の上に紙テープと紙きれがハラハラと何枚か降りかかった。
 すべてを失ったはずの私の前に、天使が立っていたのだ。