二人で家に向かっているというのに、私達の間に会話などなかった。向こうから話しかけられることも無かったし、私自身がまだ後ろにいる彼女のことを異質のように思っているのかもしれない。いつだって一人で歩いていたから、誰かと歩く時に何をすればいいのか分からないのが、本音かもしれないけれど。
 予備校から暫し歩いていれば自宅にたどり着いた。玄関の方へ向けて足を進め、私一人分の足音だけが聞こえる。私が玄関に近づけば、動くものを自動で認識するセンサーがパッと灯る。仄かに明かりが灯ってくれたおかげで、周囲は真っ暗ではなくなった。周りに誰も居ないのを確認してから、鍵を差し込んで回す。カチャリ、と鍵が開かれる音がしたが、少し家の中で響いたかもしれない。まるで泥棒みたいだ、なんて苦笑い。
 猫のようにするりと滑り込むようにして家の中に入り、家の中から鍵を閉めなおすのも、靴を脱ぐのも、音をできるだけ立てない様に動作をこなしていけば、パッと階段の電気がついた。
 慌てて顔を上げれば、そこに立っていたのはお母さんだった。パジャマに着替えてはいるけれど、目元は全く眠そうではない。私が帰ってくるのを待っていてくれたのかもしれない。
 その証拠に母は私を見て、にこりと笑みを浮かべた。
「おかえりなさい。夜遅くまで頑張って偉いわね」
 こちらの方へ寄ってきて、思わず視線が泳ぐ。私自身にやましい考えがあるわけではない。ただ、私の隣には客人にしては時間を考えていない人物がいる。それも、自称天使見習いで見目はギャルといった存在だ。
 そう、彼女が居たから、私はこそこそと泥棒のように家の中に入ったのだ。いかにも叱られるのが嫌な子供のような動きだったが、母は深く追求することは無く、ただどういうことかと、私の隣に目をやる。心臓がバクバクとうるさい。何と言い訳をしよう、ただその考えで頭がいっぱいになる。やましい考えはないと言ったが、こんなに緊張している時点で矛盾にも程がある。
「どうかしたの?」
 母は首を傾げた。その言葉に意を突かれて間抜けな声が出て、母にまた首を傾げられたが慌てて首を横に振る。
「何でもないよ。えっと、ただいま」
「そう? もしかして疲れているんじゃない?」
 その通りかもしれない。母に星叶が見えていないのだと安堵こそしたが、それはつまり、私はこの世のモノじゃない存在を連れてきてしまったと、確信もしてしまったから。
 少しだけ苦笑いを浮かべながら、大丈夫だと答えたけれど、まだ心は落ち着いてはくれない。
「えっと、そうだ。これ模試の結果」
 本当は明日にでも渡そうと思っていたが、話題を逸らす意味も込めてここで渡してしまおう。風に思いっきり飛ばされたくせに、一枚一枚に目立ったシワは全然ない紙の束。母も突然のことに驚きながらも笑みで受け取り、渡された用紙に目を配る。
「まあ! A判定じゃない!」
「うん。だから早く見せようと思って」
 薄く笑みを浮かべながら、肩からおろしているスクバを担ぎなおす。何とか少しの不自然さは誤魔化せたようだ。母は結果を見て、本当に嬉しそうにしていて「お父さんにも言わなきゃ!」と少しわくわくしているようだ。
「それじゃごはん温めておくから、お風呂に入ってきたら?」
「うん、ありがとう」
 礼を述べてから、まずは荷物を置いて着替えを取りに行くために、駆け足気味で自室のある二階を目指す。
「A判定なんてすごいじゃん」
 ずっと黙っていた星叶が口を開いてきた。彼女の言葉に、「あぁ」と小さくこぼれるような返事をした。
「だって、優等生だもん」
 声のトーンが下がったのが己でも分かる。すごい、とか褒められても、そうだろうなとしか思えなくて。そう言われるように、思われるように私は優等生をしているのだから。彼女は「ふーん」と対して興味なさげに返事をしたのだが。
 じゃあ聞くなよ。と心の中で愚痴りつつ、部屋についてから鞄と羽織っていたコートを放るように置いて、棚から着替えやタオルを取り出した。
「風呂に入ってくるから」
「行ってら。ゆっくりしてきなよ」
 彼女は放ったコートを健気にハンガーに通して、シワにならない様にと干していた。まるでお母さんじゃん、なんて遠い目をしつつ見守って、ドアノブに手を触れる。その瞬間に思い出したように「そうだ」と声がこぼれて振り返る。
「お母さんには見えないんだね」
「そりゃそうだ。幽霊みたいなものだもん」
 成程、そういうものなのか。小さく納得してから部屋を出た。
「……天使じゃないのかよ」
 私の小さなツッコミは誰に聞かれることも無かった。

 お風呂はいつだって出来るだけ早く済ませたい。髪や体を洗うときは一応丁寧には行っているが、湯船に浸かっている時間は一瞬なのがほとんどだ。シャワーだけの時だって多い。
 けれど、今日はどうしてかゆるりと湯船に浸かっていた。水分がまだ多く含まれている髪の毛で頭が重いが、肩までお湯に沈むように体を伸ばせば、安堵のような息がこぼれた。湯はさらりとして熱かった。強張っていた身体のこりがほぐれてきて、揉みしだかれたように、背中の筋肉が緩んでいつもよりのびのびと広がった。
 身体も心も披露していた様だ。いつの間にか出来ていた何か所かのすり傷にお湯がしみて、ちょっと痛い。
 それでも、温かいお湯に浸かっていれば、誰かの優しさに包まれているような気分がして、心地よい。これからは、ゆっくりとお湯に浸かる時間を取ろうか。

 いつもよりずっと長い時間お風呂場に滞在して、温まった体のまま脱衣所から出る。すぐそばにあるダイニングのテーブルに『ご飯は部屋に置いておきました』という置手紙があったので、素直に部屋に戻る。
 扉を開けば醤油を甘く焦がしたような香ばしいにおいが、私を包み込むようにして出迎えた。生姜焼きだろうか、と目を配ると、星叶がベッドに腰かけて何かを読んでいるのが見えた。何を読んでいるのだろう、と疑問を持ちながら一歩一歩と近寄れば、それはすぐに分かった。それは、学校で使っている私の勉強ノートだ。
「っ! 何してんの!?」
 息を飲んだのは一瞬で、すぐに少し声を荒げながら彼女に飛び掛かろうとすれば、彼女はひらりと躱し、私がベッドにダイブすることとなった。慌てて顔を上げて睨みつけても、彼女は全く怯まない。
「見るなとは言われてないし」
「普通は勝手に見ない」
「アンタ、いじめられてんだ」
 星叶が私に見せてきたのはノートのとある一ページ。油性ペンで真っ黒に塗りつぶされて、修正ペンで数々の暴言が書かれている。消したくても消すことなど出来ない暴言の数々。
 話を逸らされたことよりも、見せつけられた現実に唇をぐっと噛み締めて、こぶしを力強く握る。唇は歯が、手の平は爪が食い込んで、それぞれがじんじんと痛んでくる。
「そうよ、それが何」
 平然を装おうとしたけれど、噛み締めていた唇は震えてしまい、それにつられるように声も震えた。
 私へのいじめが始まったのはいつだったか。今の私は高校三年生で、たしか高校二年生になって暫く経った後からだ。クラス替えのない学校だから、学年が上がってもいじめは変わらずに続いていた。
「友達は?」
「居たらこんなことになる訳ない」
 クラスの全員は敵。味方など存在しない。友達だと勝手に思っていた相手も敵に回った。
 私はクラスで完全に孤立している。
「ふぅん? うわ、暴言のボキャブラリー無さすぎ。ゴミとかバカとか死ねしかない」
「口にしないでよ!」
 何でわざわざ言うわけ? 意味が分からない。アンタもそう思っているって遠回しないじめ? もしそうなら天使じゃなくて悪魔である。即座に家から出て行ってもらいたい。
「誰かに言わないの?」
「うるさいなあ! アンタには関係ないでしょ!」
 私は精神的に弱いくせにプライドが高い。
 だから、弱味は他人に絶対に見せたくないし、弱っているのを見られたくない。プライドが高いのと並列して、相手を疑っている、という悲しい感情もあるのだが。
 弱音を吐いているのを見られたくない。弱い奴だとは思われたくないから。
「関係あるよ」
 まっすぐな声で言われて、思わず呆ける。
「言ったじゃん。アンタを助けるために来たって。そしてアンタは私の手を取ったでしょ」
 そう言って差し出された手のひらを見て、彼女と手を交互に見てから、何かが胸から口に向かってこみあげてくるような感覚がする。だんだんと己の表情が歪んでいくのが分かった。
「辛いから、消えたいとか散りたいとか思ったんじゃないの?」
「……そんなこと、アンタに言われなくても分かってる」
「それじゃあ、」
「うるさいって言ってるじゃん!」
 己の感情や考えの制御が出来ず、彼女に向かって啖呵を切って、足を踏み下ろした。まるで癇癪を起こした赤ん坊のようだ。それが自分でも馬鹿みたいに思えて、涙が勝手に出てくる。
「どれだけ頑張っても、認められるどころか、挙句こうして馬鹿にされて。それがどれだけ辛いかなんて、私が一番分かってる!」
 ボロボロと大粒の涙がこぼれ出た。己の感情も涙も、自分勝手に出てくる。
 小さい頃から勉強が得意だった。地元で一番の進学校に行った。親が、皆が喜んでくれると思ったから。大学だって、地元唯一の国立で偏差値の高いところを目指すことにした。そうしたら、親も先生も喜んでくれたから、だからもっと勉強しようと思った。
 そうしたら、常に学年上位の私が気に食わなかったらしい。最初はクラスの一部が、私を目の敵にした。敵はウイルスのように伝染した。
 毎日が気持ち悪くても、惨めでも、きっと誰かが助けてくれる。ただ、漠然とそう願っていた。だけど、己で救いを求めなければ、誰も気づいてくれないし救いも来ない。助けの求め方も分からない。どうすればいいのか分からない。
「だから、もうこれ以上頑張ったって意味ないじゃない……」
 しゃくりあげながらこぼした言葉を、星叶は静かに聞いていた。
 同い年くらいなのに、赤ん坊を眺める親の様な、包み込むような顔をして私を見ている。そんな顔を見て、横隔膜が痙攣していたのが落ち着いていくような気分だ。
「蛍の努力は、私を含めた天使全員が認めてるよ」
「……え?」
 彼女の真っすぐな声を聞いて、思わず間の抜けた声がこぼれた。
「そうでなきゃ、わざわざ私とか、天使が救いに来ないから」
「でも」
 慰めてくれる彼女の言葉にも素直になれないでいると、星叶はゆっくりと私の手を掬いとる。手は冷たいはずなのに、彼女の真っすぐな目と声と言葉のおかげか、彼女自身のぬくもりのようなものが伝わってくるようだった。
「だから、考えていこう。まずは私たち二人で、そうして皆で。無くしちゃった大切なもの、一緒に取り戻してさ、最後は絶対に幸せになってやろう」
 優しい声色なのに、なんて力強い言葉なんだろう。先ほどとは違う意味がこもった涙がこみ上げそうになって、胸元がじくじくと熱くて仕方がない。
 そんな私の様子を見て、彼女は温かい笑みで見守りながらも、真っ直ぐとした目で私を射抜いて言葉を続ける。
「それじゃあ、アンタの居場所づくりが課題かな?」
「居場所?」
「そう、人間は心休まる相手や場所が必要な生き物だからね」
 繋いでいる手を上下にゆるく振ったり、ちょっと手遊びしながら彼女は言う。彼女の提案に、頭の上にはハテナマークが沢山浮かんでいる事だろう。
 彼女に繋がれたてのまま、人差し指で自室の床を示した。
「家は?」
「うーん、悪くないんだけど、今のアンタには少し早いかな」
 なんだそれ。
繋いでいた手をゆっくりと丁寧にほどいて、顎に指を添えながら彼女は少し困ったようで、それでいてちょっとだけいじわるな表情を浮かべた。
 普通は家こそ一番の居場所なものだろう。と言い返したいのに、言い返せない自分が居た。脳裏に過るのは優しい表情を浮かべる両親だけれど、それと同時に胸が嫌にざわめいた。
「よし。方針が決まったことだし、今日はご飯を食べて、さっさと寝る!」
「え、まって勉強」
「一日休むだけで自信無くなっちゃうんですかあ?」
 さっきまでの優しそうな彼女はどこへ行ったのか。ニヤニヤと意地の悪い顔をしながら首を傾げつつ、目をのぞき込んでくる。彼女の言葉に、カチンときて「そんなことない」とムキになって言い返した。そんな私を見て、彼女はニッと強気な笑みを浮かべる。
「そういうこと。ほら、さっさと食べな」
「もともと誰のせいよ……」
 小さく愚痴をこぼしながら、箸を手に取って、いただきますと食事の挨拶。お肉に箸を伸ばして、そのまま口に含む。
 お母さんのご飯は、冷めていてもおいしかった。