「海に行きたくなってきた」
「海に行ってどうする」
「……死ぬ、とか」
「死んでどうするの」
 どうするんだろう。彼女はぼうとした顔のまま、聞き返してきたオレの顔を見つめていた。

 その日は秋を迎えた夜だった。夏の最後の悪足掻きの様な、湿度のある夜だった。
 制服はかすかに汗でしっとりとしていて、隣に居た彼女も襟を仰いで、熱さを逃がしていた。
 夜に灯る街頭、町中の人々の声や、車やバイクのエンジン音。記憶にこびりついた記憶。
 時計は夜の九時を越しており、近所である彼女の家へ送りに行く最中だった。
 本当は彼女の家に帰したくない。
 やましい気持ちがあるから、ではない。完全に否定することが出来ないのが恥ずかしいけれど。

 彼女の家庭は崩壊している、と言っても過言ではないだろう。
 それでも、彼女は真面目に家に帰って、翌日は真面目に学校に通う。オレは彼女が弱音を吐いたのを聞いたことがない。だから、彼女の呟きになにか意味があるのだろうと信じたかった。
 彼女が本気かどうか、本人でさえ判別つかぬ発案に、オレは茶々も入れずに真正面から言葉を返す。まさかそう返答が来るとは想像も出来なかったのだろう。彼女は緩く首を傾げた。
「死んだら、それまでなんじゃない?」
「そうとも限らないじゃん」
 怒りではない。呆れが滲む口調である。彼女は、言われてみればと改めてこっちを見る。少しだけ考えこんでから、答えが見つかったのか、そうして思いつきを声に出した。

「猫になりたい」

 風が吹けば消えてしまいそうな彼女の声が聞こえた。笑顔も見せていた気がする。

 けど、大きな音が俺達の間を引き裂いた。最初は何かの動物の叫び声かと錯覚したが、それはブレーキ音だったのだと少ししてから気付いた。ずいぶん長い間、タイヤが地面を滑り、鳴っている気がした。

 ーードン! という鈍く重い音が響いたかと思えば、彼女の姿はもうそこには無かった。

 一瞬だけ、しん、と静まり返ったその空間に、俺の呼吸だけが嫌に響いているような気がした。心臓が一つの生き物のように暴れまわって、喉から飛び出しそうになる。
 ゆっくりと視野を動かした瞬間、膝から力が抜けて、へたり込んでしまう。周囲はどんどんとざわめく、中にはオレに向かって声をかけてくれる人も居たようだ。
 呆然と地面に手を付けていると、べったりと赤い手形がついた。それを拭う思考も無くて、体もぐしゃぐしゃに赤で濡れている。生ぬるい液体がついたままの、その手を見た。
 赤い、あかい、あかいあかい!
 俺の手を、顔を汚すのは、視界いっぱいに広がるのは、紛れもない、血だ。彼女の、血だ。
 人々に覆われてもみくちゃになる彼女の目が、濁ってしまった目が赤く染まって、そのまま血の涙を流して俺を見ている。
 噎せ返るくらいに濃厚な、錆びた鉄の匂い。彼女の姿とは思えないものをみて、酷い吐き気が込み上げる。
 オレの目の前で、彼女は自ら命を絶った。
 人が死ぬのを見るのも、大切な人が死ぬのも初めてだった。怖かった。ひたすらに怖かった。
 全てが頭から離れなかった。彼女の声も、彼女がオレに掛けてくれた言葉も、笑顔も、彼女の最後の笑顔も。彼女が死ぬ瞬間も。

 オレにアンタを背負わせて、絶対に許さない。


 夢から押し出されるように息を吸って、目が覚めた。
 意識と肉体が上手く繋がっていないようで、体が思い通りに動かない。見上げた天井が、ぼんやりと見え始めた。だんだんと、五感が覚醒し始めたようで、記憶の中の鉄臭いにおいではなく、馴染みのある自室のにおいを吸い込んだ。
 あの日から、嫌でも見続ける悪夢。おかげで毎日が寝不足。いっそ寝なければいいのかと踏ん張ったこともあったが、簡単に睡魔に負けて倒れるようにして寝た。その結果として悪夢も見た。
 部屋のテーブルの上に置かれているのは、あの日から変わらないものばかり。学校のノート、それと相談窓口の案内、担任からの手紙。
 対応としては妥当。受け持っているクラスの子が、ショックな場面を目にして、それも親密な子が死んでしまったことで、学校に通わない。関係のない他人に出来ることは限られているだろうし、それでも見捨てるわけにもいかないから、こうして気配っているつもりでいる。
 こんなところへ電話したって、言われることは想像することも容易い。
 どうせ『その人の分まで生きよう』とか『ずっと悲しんでいるとその子も報われないよ』とか『貴方は自分を大切に』とか。テンプレートなことを言われるんだろう。その返答をされたら、オレはきっと「うるさい」とキレて乱暴に通話を終わらせてしまうのだろう。それだったら、電話をしない方が互いの為だ。
 他にも置いてあるのは、一本のネクタイだ。あの人が、二本持っているからと、入学前にくれてそのまま愛用していたものだ。まさか遺品になるとは思いもよらなかった。
 ベッドの上から、手繰り寄せるようにしてネクタイを手に取る。暫し眺めてから、ネクタイをぐるぐると首に巻き付けた。二周は少し厳しいか、と思いながら両端を思いっきり引っ張った。

「それは無理だろ……」
 突然の第三者の声に、動きが止まる。呆れるような声色で述べられ、声のした方へ首を捻れば、そこには一人の女子高生が立っていた。
 その姿に、ずっと伏せ気味だった瞼が上がり目を開く。
 そんなオレの行為に目前の相手には関係なく、変わらずに呆れたような顔で、淡々と言葉を述べていく。
「自分で絞められるわけなくない? 脳に酸素が行かないと確かに死ぬけど、その前に自分の腕に力が入らなくなって無理だよ」
 一つの事実を述べる為だけに話している彼女を、首にネクタイをかけたままオレは見つめていた。
 じっと眺めているオレを見て、彼女は眉間に皺を寄せる。
「なに? 変に冷静すぎて怖いんですけど」
「ああ、そう見えるのか」
 首筋をこすりながらネクタイを外す。擦れた個所が少々ヒリヒリとする。
「オレは怒っているんだよ」
 ベッドから足を降ろして、自分より背の低い相手を睨みつけるように見下ろす。
 大抵の女子はこれだけで怖がり、体が強張って、目を泳がす。けれど、相手は変わらず平然としていた。
「怒りで、逆に顔がこうなるのさ」
「成程ね。私はアンタに怒らせる行為をしたわけだ。不法侵入? 事実を言ったこと?」
 小さく舌打ちをこぼしてから、分かりやすく目つきを細めた。
「ああそうだ。アンタのせいだよ。全部、全部な」
 自然と拳に力が籠っていたようだ。握りしめていたネクタイを、相手に見せつける。
「このネクタイに覚えはないか」
「……あるね。今の私と同じ柄のネクタイだ」
 その言葉と共に、ネクタイを相手に向かって投げつけた。
 彼女はそれを難なく受け止めた。驚くそぶりも見せず、表情も変わらず冷静な彼女を見て、怒りは沸々と湧き上がっていく。
「残される者の気持ちなんて考えたことも無いから、分からないから、そんなこと出来るんだろ……?」
「は? それはアンタが今から」
「黙れ!」
 声を荒げ、思いっきり床を踏みしめた。大きく響いた音は、下の階に居る人達にも聞こえ煩く不快に思ったかもしれない。だが、相手にそんなことを気に掛けてやることもできない。
「アンタはオレがこの手を使った気持ちや、寝起きの度の気持ちや、それらをすべて理解できると、分かろうと思っているのか?」
 バタバタ、と階段を走って上ってくる音がする。
「アンタはオレの気持ちなど絶対に分からない! この先ずっと!」
 目前の相手の肩を掴んで、そのまま力を込めて思いっきり押す。彼女は驚きによってか目を開き、こちらを見ている。その、何が何だか分からない、と言いたげな目がたまらなく腹立たしい。視界がにじむ。
「さっさと消えろ!」
 俺の叫び声と同時に、扉の向こうから俺の名を呼ばれた。
「晶斗! どうしたの?」
「何かあったの?!」
 身内である二人の姉の声がした。声を聞いて、彼女は舌打ちをしてから、最後まで俺の方を目で追いながらすれ違い、部屋の扉をすり抜けていった。
 非現実的な現象に声を上げそうになったが、寸のところで踏みとどまった。
 さっき、己は彼女に触れられたのに。
 思わず自身の手のひらを見てから、ぎゅ、と拳を握る。服越しだったのに、ハッキリと分かる程、相手の体は冷たかった。まるで、冷凍庫から取り出したばかりの保冷材のようで。
 先ほどよりボリュームは下がった声掛けに、ゆっくりと言葉を返す。
「……ごめん、なんでもない」
「本当に?」
「ああ。無駄なお節介をされただけ」