「じゃあ休憩にしようか」
「あー! 疲れました!」
 私が休憩を促すと、暁音ちゃんが体を思いっきり伸ばしている。肩や背中を少しだけバキバキと鳴らしているから、少し休憩時間を増やそうかな。
 蛍ちゃんと一緒に二人が休んでいるのを横目に、私は椅子から立ち上がってカウンターまで生き、灯彩さんの元まで行く。
「今日も来てくれてありがとう。何か飲む?」
「甘いのが良いので、カフェラテで」
 私が笑顔でお願いすれば、彼女は笑顔で了承してくれた。背中を向けて、カップなどを準備する音が響く。甘いにおいが届いてくる中、意識がうつらうつらとしてくる。

 彼女に告白まがいの事をしてしまっても、彼女は私を拒絶することは無かった。またここにくるように、と約束をしてまで、私を許してくれた。

 待ち合わせの時間より早くお店に訪れ、緊張により心臓がバクバクとして、冷や汗も流している私を見て、彼女はいつも通り、寧ろいつもより優しい雰囲気を纏って笑顔で私を出迎えてくれた。それがどれだけ嬉しかったか、涙が出そうだったか。
 星叶ちゃんが綺麗にしてくれたメイクが崩れるから、必死に泣くのを我慢しても彼女にはお見通しだったみたいで、「来てくれて嬉しい」と言葉をもらった瞬間、涙は結局こぼれた。
「疲れてる? 大丈夫?」
「……はい、色々と考えてて」
 私の前にカフェラテを置いてから、彼女はちらりと私の様子を見て、体を真っ直ぐと私と向き合うように立つ。
「やっぱり、無責任だったかしら。かってに、約束だと言っちゃったのは」
「そんなことは絶対にないです」
 首を激しく横に振る。彼女が気に病む要素なんて一つもないのだ。全部、全部私の問題。
「私の思いを真正面から受け止めてくれて、それでも拒絶しないでくれたのが、本当に嬉しかったんです」
 カフェラテのカップを両手で包み、そのまま持ち上げる。ゆらゆらと揺れる表面の色は、どこか目の前の彼女の髪色を思い浮かばせる。甘くて、温かくて、優しい。
「今まで、周りを全く見ようとしていなかった私に、奇しくも色々な人との縁が出来て。そうしたら人それぞれの違いや思いが見えるようになってきて……」
 どうせ無駄だから、と諦めて周りをずっと見てこなかった私の前に、突然現れた天使とか。その天使の行為で外に出たら、外の人たちは思ったより敵ばかりではなくて。訪れたカフェでは、私を慕ってくれる高校生たちや、気遣ってくれる男子大学生たちや、素敵な女性が居て。
 顔を上げて、灯彩さんと顔を合わせる。皆や灯彩さんは、いつだって相手の気持ちに寄り添ってくれている。それって、きっと、自分自身にもそうしているから、そうしようと決めているから、他人相手でも出来るんだろう。
 目の前に現れた出来事に、今の自分は悲しいのか、悔しいのか、怒っているのか、辛いのか。そうした思いを掬い上げて、気持ちに寄り添っている。
 そうした、本当はちゃんとある気持ちに、私は向き合うことは無く逃げてきた。何もなかったかのように、笑ってごまかして「何でもない」「大丈夫だ」と忘れたふりや気付かないフリをしてきた。
「灯彩さんがこの前気付いてくれて、話を聞いてくれて、本当に助かりました」
 頭を下げて礼を述べる。つらい、という気持ちにすっかり蓋をしてしまった私に、そっと寄り添ってくれたからこそ、私は自分の気持ちと向き合うことが出来た。
 思えば、私は自分に対して勝手に可哀そうなことをしてきたんだな。
「だから、これからは大切なものを大切に出来るようになりたいんです」
 私の笑みを見て、彼女は少し驚いたようだけれど、ゆっくりと、頬を少し染めながら優しい笑みを返してくれた。


「那沙」
 ここ最近で随分と忘れかけた声。それでも、嫌な記憶として、根深く、雑草の根っこのように心に残してしまった。ゆっくりと名を呼ばれた先へ振り向けば、そこに居たのは、私を自殺の一歩手前にまで追い込んだ元彼だ。
 驚いて目を開く。何かを言おうとしても何も言えずに、微かに体が震える。彼が一歩、一歩と近づいてくるのに、逃げることもできない。
 このお店に居る皆は、私の名を相手が呼んだことで私の知り合いだと察したようだが、私の様子をすぐに察して、店内が張り詰めた空気となった。
「ごめんな? 長い間一人にさせて。寂しかったよな? 不安だったよな?」
 言葉に違和感を持つと同時に、彼の目つきに背筋が凍る。
 目は濁っており、ギラギラと光り醜く充血しているようだ。黒目はうろうろと動いており、目の焦点はどこにも結ばれず、失ったような空虚な眼差しだ。それが酷くこちらの心を不安と恐怖によって焦らせる。
「……新しい彼女さんは?」
「え? ああ別れたよ。すぐ泣くし、文句言うし。那沙の良さが余計に分かったっていうか?」
 この人は、何を言っているの?
 人を人として見ていない、扱っていないような言葉遣いに、意図せずとも目つきが鋭くなる。
 勝手に浮気しておいて、他人に暴言を吐いて、新しい恋人になった相手にも最低で自分勝手なことを言う。
「正気とは思えない言葉だね。わざわざ社内で、私の事を気持ち悪いと言って振っておきながら。本当に吐き気がする」
「は? 何その言い方。嘘は言ってなかっただろ」
 思わず椅子から立ち上がり相手と対峙する。後ろから灯彩さんが、心配そうに私の名を呼ぶ。
 どうしてここまで、私や他人を悪者に出来るわけ。
 ああ、分からないんだこの人は。大事じゃないんだ、人の心も、時間も、命も。
 大事なのは自分のプライドだけ。相手から何て言葉をかけられても、都合のいいように受け取るか、受け流すかして。結局、自分のしたいようにする人。
 私の大っ嫌いだった、親と全く同じ。吐き気がする。
 いちいち真に受けたり、今更何かを相手に期待したりしても、自分を傷つけて削られるだけ。
「私はもう貴方とは復縁しないよ」
「笑うってことは、まだチャンスはあるんだよな?」
 その言葉を聞き、驚きで目を開き口元を手で覆う。それと同時に自分にも落胆した。私はこんな時でも、笑みを浮かべて何とかしようとしている。

「あの、失礼ですが」
 落胆している私の前に、人の壁が出来る。私の前に立っていたのは、いつの間にかカウンターの向こうから出てきたらしい灯彩さんだった。
 驚きによって目と口を開いていると、そのまま口を開く。
「彼女との関係者だと思うんですけど、お店の中でこうした行為をするのは止めていただきたいのですが」
「こうした行為?」
「ええ、私のお店への迷惑行為です」
 目つきを鋭くさせ、いつもよりも凛として強気な声で灯彩さんが放つ。
 ハッキリとした迷惑行為という言葉を聞いた相手は、顔を真っ赤にしていき、元々つり上がって鋭い目をいっそう細めると、こちらに飛びかかってくる気配を見せる。
 周りの静止の言葉も間に合わず、私が灯彩さんの前に出るのにも間に合わず、私の元彼だった相手は、癇癪を起こした子供のように灯彩さんの顔を殴りつけた。
 子供が力加減などできない様に、相手の力が強かったのだろう。灯彩さんは私の方へ体を吹き飛ばされて、私ごと地面に倒れこむ。私というクッションが無かったら今頃どうなっていただろう。血の気が一気に引く。
「店長! アンタ!」
「昴くんダメ!」
 事態を見守っていた昴くんも慌ててこちらの方へ近寄ってくる。彼は今にも相手に掴みかかりそうで、思わず静止の声を上げる。
「店員がお店に来た人を殴るのは良くない!」
 私の荒げた声を聞いて、昴くんはすぐに冷静になったらしい。小さく息を飲んで、悔しそうに歯を食いしばって、利き手を逆の手で押さえこんでいた。
 そんな私の行為を見て、相手は私が自身の味方だと勘違いしたらしい。嬉しそうに、気持ちの悪い笑みを浮かべる。
 灯彩さんを抱えて、大丈夫かと問えば、彼女は想像通りの「大丈夫」という返答をする。聞き方を変えればよかった。
 悔しくて、自分の馬鹿さに嫌気がさして、唇を噛みしめる。灯彩さんは目を開いて、唇を嚙んでいる私の口元に手を添え、心配そうな顔をする。
 『辛いの?』先日、そう問いかけてきた彼女と同じ顔をしていて、言葉が過る。
 そう、そうなの。私、ずっと辛かった。今も、どうして私がっていう思いで膨れ上がって破裂しそう。私を酷く扱った家族も、いつも目の敵にされることも、酷い言葉を言われるのも。
 全部、全部嫌いだった。目に見える全てが。何もかも汚くて冷たくて、神様は私にだけ笑ってくれなくて。世界がずっと気持ち悪かった。
 世界が嫌いだ。嫌いだ。大嫌いだ。

 『アンタは王子にも姫にもなれる。堂々と生きてやんなさい!』

 でも、年下のあの子と決めた。堂々と生きてやるって。
 灯彩さんに一言述べて、彼女の手を握ってから立ち上がらせ、私が座っていた椅子に座らせる。彼女が私を見上げる中、笑みを浮かべてから、そっと離れる。
 灯彩さんを置いて自身の元に来たことで、相手の笑みはもっと歓喜に満ちたものとなる。
「ほら、一緒に行こう」
 気持ち悪い笑みを浮かべる相手を一瞥して、私は小さく息を吐く。
 そして、腰を回転させた。右手の手のひらを、男の頬めがけて振り抜いている。空中で何かが炸裂したような音が響く。したたかに頬を打たれたのだと、すぐにはわからなかったのか、男がそのまま転がる。
「なめんじゃないわよ」
「な、な……! お前、こんなことして」
「ああ、私は良いのよ。このお店で働いているわけじゃないし。それに、痴話げんかみたいなものでしょう?」
 あっけらかんと話せば、相手は信じられないと言いたげな表情をして、叩かれた左頬を手のひらで覆っている。
 瞳を薄らと細め、かすかな冷笑に似た、奇妙な笑みが私の唇の端に浮かぶ。
「お前、こんなことをして良いと思ってんのか」

「それはこっちのセリフですね」
 突然の第三者の声。声のした方へ目を向ければ、こちらにスマホを向けている蛍ちゃんが居た。
 スマホを私達、特に男の方へ見せしめる様に掲げる。
「貴方と那沙さんって元々職場恋愛だったんですよね? 貴方は今もそこで勤めているって前提で大丈夫です?」
「それがどうした」
「ああ、よかった! 私の父、そこで部長という立場で働いているんですよ!」
 へ? と間の抜けた声がこぼれた。
 蛍ちゃんからそんな話は一度も聞いていなかった。いや、私が辞めた会社だから、彼女もわざわざ話題に出すのを止めたんだろう。
 彼女はスマホをいじって、私達にスマホの画面を見せる。そこには、先程の一部始終である、灯彩さんが殴られている場面が見事に動画に撮られていた。
 相手の顔色がどんどんと青くなっていき、血の気など感じないほど真っ白になっていく。
「どういうことか、分かりますよね?」
 高校生だとは思えない程の冷徹な顔つきなった蛍ちゃんを見て、相手はか細い悲鳴を上げる。
 そして、まるで助けを乞うようにして私の方を見る。座り込んで完全に力の抜けた相手に向かって、私は立ったまま満面の笑みを浮かべた。
「逃げるなら今のうちじゃない?」
 私の言葉を皮切りに、彼は最後に謝りながら店を飛び出していった。



 お店のバックヤードに、灯彩さんと共に入って、彼女の腫れ始めた頬に、氷水を入れた氷嚢を頬に当てる。彼女は冷たそうに眼を一瞬閉じて、肩を跳ねらす。
「……本当にごめんなさい」
「いいのよ、私の立場での責任だから」
 それでも、彼女を含め皆には迷惑をかけた。あの人も、この後に逆恨みをしてこないと良いのだが。
 だが、蛍ちゃんのお父さんが、元職場のお偉いさんだったとは想像もしていなかった。もし彼女が居なかったら、警察沙汰になって色々と大変だっただろうし、お店の評判にも関わっていただろう。
 因みに、彼女は即座にお父さんに動画を付属したメッセージを送ったらしく、現在はお父さんと電話で相談しているようだ。今時の高校生は本当にたくましい。
「でも那沙ちゃんとてもかっこよかったわ」
「え?」
「私達を守ってくれてありがとう」
 彼女の頬に添えている氷嚢を持つ私の手に、彼女の温かい手が重なる。冷たい私の手と温かい彼女の手が交わって、そこがじんわりと溶けていってしまいそう。
 彼女が手を離すと同時に、私も氷嚢を持つ手を離し、ジェル状の冷却シートを丁寧に貼る。
 頬の手当ては最初にしておいたけれど、口の中も切れてしまったかもしれないから、医者に行ってくださいね。と救急箱を整理しながら口にすると、彼女は小さく笑みをこぼす。それは段々と声に出てきて、くすくすと笑い声が聞こえてきた。
「ど、どうしたんですか」
「ふふ、何だか那沙ちゃんの本心が見えた様な気がするの」
「本心?」
 思わず首を傾げる。
「うん。那沙ちゃんって思ったより口が悪いんだなあとか、それでも正義感は強いんだなあとか」
 思ったより口が悪い、という言葉を聞いて体がカッと熱くなったような気分がする。その熱は顔まで登っていき、今や顔面真っ赤な茹で蛸状態だろう。
 恥ずかしくなって顔を両手で覆うと、少しおちゃめな彼女の一面も出てきたらしい。隙間から私の顔をのぞき込んで来ようとする。勘弁して。
「うう、かわいい自分だけを見てほしかったです」
「どうして?」
「だって、灯彩さんは、わ、私の大切な人だから。大事にしたいから」
 口が悪くて、汚い言葉で彼女を傷つけてしまうのは勘弁したい。彼女の前では可愛い女の子で居たい。女の子は誰だってそうじゃない? 好きな人の前では、一等可愛らしい女の子で居たいと願うのは。
「ふふ、うふふ! 那沙ちゃん可愛い!」
「そんな笑わなくても……」
 可愛くいたいと言った傍から可愛いとは言われたが、意味合いが違う。少しだけすねたような表情をしていたら、彼女はゆるりと笑みを浮かべた。
「どんな那沙ちゃんでも可愛いわ。少し気持ちが弱いところも可愛いし、正義感が強いところも可愛いわ」
「急に何を……」
 彼女はゆっくりと私のほうに顔を傾けると、私の頰に手をあてがってきた。温かい手が、少しくすぐったいような優しさで撫でつけ、思わずその手に頬を摺り寄せてしまう。そんな私を見て彼女は再度笑う。
 けれど、その笑みは今まで見たことのないようなもの、妖艶と言わんばかりなものだった。
 少しとろけさせたような瞳が、私を見つめてくる。その目から見離せないでいると、彼女の綺麗な顔が近づいてくる。かと思えば、小さなリップ音が響くと同時に、唇に柔らかいものが添えられる。やさしくて穏やかで、凪いだ水面のように穏やかで、優しかった。
 それが、私達の口づけだと気付いたのは、一瞬の後だった。
「ちょっと血の味がしちゃったらごめんなさいね」
「え? あ、え?」
「そろそろお店の方の様子も見てくるわね」
 私が言葉を発する時間もくれず、彼女は私の頭を最後に一撫でしてから、部屋から出て行ってしまった。
 扉が閉まった音を聞いたと同時に、快い熱が、体中を一気に満たした。
 私にとってあまりに都合の良い、夢のような言葉を貰って、信じがたい気持ちと嘘でもいいから信じたい気持ちが混ざり合って、バターのようにどろどろと溶け合う。それはけっして不快な感覚ではなくて、くすぐったい、けれどとても楽しくてあたたかい感覚だった。
「随分と可愛らしいもので」
 口元を手で覆って顔を真っ赤にしていれば、いつの間にか私の前に星叶ちゃんが少しだけ呆れながらそこに立っていた。
 彼女の言葉にさらに顔に熱が集まっていく気がする。そんな私を見て、彼女は笑う。
「よかったね?」
「いや、でも、本心は違うかもだし」
「混乱しすぎでしょ。なに? アンタは初めて本気で好きになった人まで疑うの?」
 可愛らしく温かい笑みを浮かべる灯彩さんが、脳裏に浮かぶ。そんな彼女が、本当に私の思いに応えてくれたのだろうか。それが信じられないほどの幸福で、現実味がないのだ。
 唇に指を添える。先ほどの柔らかさと、自身の指の柔らかさの違いが分かって、やっぱりさっきの行為は現実なのだと思い知る。
「けど、本当に頑張ったねアンタ」
 唇に指を添えながら星叶ちゃんの顔を見上げる。
 彼女は、優しく穏やかな表情で私を見ている。
 今までも優しい笑みは向けられたけれど、ここまで穏やかな物は初めて見た。
 それだけで察してしまう自分が居る。彼女が、もう、私の前から居なくなるのだと。
「そんなこと。全部、星叶ちゃん達のおかげだよ」
「でも、今日の事は自分の思いでやった行動でしょ?」
「ま、まあね……」
 今更ながら、後が怖くなってきちゃったな。なんて思っていると、星叶ちゃんがけらけらと笑う。
「まあまあ安心して。アフターサービスもしといてあげるから」
「あ、そうですか」
「だから、これからは少しでも自分を大切に出来るといいね」
 少しだけ雑に頭を撫でる彼女の手は、相変わらず冷たい。でも、その冷たさが少しだけ心地よくて、ほんのりと口角を上げる。
「うん、頑張りたい。大切な人達の横に並べるような、かわいい人になる」
「最後まで意志が曲がらないで安心した」
 彼女が私の頭から手を離すと、最後に笑みを浮かべてから半歩後ろに下がった。
「私が大人まで生きていたら、アンタみたいな、可愛い人になりたかったな」
「……なっていたよ、絶対に」
 きっと私以上に。
 扉の向こうから私の名を呼ぶ声がする、振り返って返事をした。そしてまた星叶ちゃんのいる方へ顔を向けると、そこにはもう彼女の姿は無かった。
 少しの驚きと共に、小さく笑みがこぼれた。
「お疲れ様、かわいい天使ちゃん」