女子高生二人に勉強を教えるようになって、数日が経過した。
 若者の吸水力とは本当に素晴らしい。彼女達が特別、というのもあるかもしれないけれど。疑問を説明していくたびに、ちゃんと自分で考えて、理解しようとする。その姿勢がとても好ましいと思えた。
 分からないものを分からないと自覚し、誰かに伝えることは、存外怖いものだ。社会人になってから、その考えが深く染み込んだ。
「でも那沙さんって教えるの本当にうまいですよね」
「うん。なんで先生にならなかったんですか?」
「向いてないと思ったの」
 彼女達の教材をパラパラとめくりながら、ぽつりとつぶやく。
 英語が特に得意分野だったから、他国語の言語も勉強しながら教員免許をとったものだ。この時代、資格は多いに越したことは無いし。使わなかったけど。
「教えるの上手なのに?」
「それだけじゃあ、先生になれないからね」
 実習生時代も、あまり良い思い出は無かったな、と遠い目。
 お局様と言われるような人はどこにでもいる様で、まだ学生だった私にとって、その存在はひどく恐ろしいものだった。
 何かとぐちぐちと文句を言われたり、そのお局を中心に出来上がったグループには「生徒に色目を使っている」とか陰口を言われた。そんな余裕などあるわけないだろうに。
 けれど、若い女子大生が来るだけで、数少ないが男子の中にはセクハラまがいなことをしてくる奴が居たのも事実。そしてそんな男子を見て、私に嫌悪を向ける女子生徒も居た。
 学校の先生とは、勉強を教えるのが上手いだけでは終わらない。生徒たちのメンタルも、機嫌も気にしないといけない。同職の先生たちとの上下関係にも挟まれないといけない。

 自分はあまり人に好かれない人間なのだろうと、その時、しっかり理解した。

 だからこそ、学校の先生という道は完璧に切り捨てた。
「私だったら予備校、というか塾の先生として居てほしいな」
「ね、このまま家庭教師とか」
 生徒二人がニコニコと笑みを浮かべながら言う。そんな会話を聞いて少し目を開いてから、ゆっくりと笑みを浮かべる。
「二人は優しいね」
 私の素直な言葉に、二人は首を傾げてから、そんなことは無いと返してくれるのだけれど。

「二人共、そろそろ夜遅いわよ」
 灯彩さんが声をかけると、全員で店内の時計に目を向ける。時刻はもう夜の九時を回っていた。
 大人の私としては、まだ遅い時間とは言い切れない気分だが、学生である彼女たちは違う。彼女たちは明日も朝早くから学校に行くのだから。
「あ、本当だ! 蛍ちゃん、今日もありがとう!」
「ううん、こちらこそ。灯彩さんごちそうさまでした」
 蛍ちゃんが財布から、今日の分のジュースとケーキ代を出す。
 どうやら彼女は両親にここの事を説明しているらしく、両親も快く了承して、お小遣いを渡しているようだ。きちんと、貰ったお小遣いを計算して「今日はケーキ無し」とか決めているのを見ると、学生らしくて微笑ましい。
 そんな彼女の環境を羨ましいと思ったのは、正直ある。でも、彼女自身をいまさら羨んでも仕方がない。
 私は私、彼女は彼女、人の数だけ家庭の数があるのだから。
 それに、彼女は自身が恵まれている家庭だと自覚している。その感覚を他人に押し付けたりはしない。彼女も、色々な家庭があると、高校生ながらもう理解しているのだ。それだけで十分立派だ。
「あ、まって蛍ちゃん。一人じゃ危ないわ」
「じゃあ俺送っていきます」
「あら、昴くんいいの?」
「はい」
 ちょうどバイト終わりの昴くんが手を上げれば、灯彩さんも安堵する。これから切り上げるから、少し待っていてほしいと蛍ちゃんに声をかければ、彼女は礼を述べながら頭を下げる。
 店じまいの空気の中、そろそろ自分も帰ろうと思えば、灯彩さんに声をかけられた。
「那沙ちゃん、少しだけ話、良い?」
 表情は変わらず優しいので、解雇の話ではないだろう。
 彼女を何か怒らせたような雰囲気でもないので、かまわないと首を縦に振る。そもそも、雇い主の誘いに、淡い思いを抱いている相手の誘いに、断れるわけもないのだ。

「急に呼び止めてごめんね?」
「いえ、大丈夫ですよ」
 初めて食事をした時と同じ席に腰かけている。サービスだから、と彼女から渡されたのはいつもの珈琲ではなくて、温かそうなココアだった。
 白い湯気と共に、熱した牛乳の柔らかいにおいが届く。いただきます、と声をこぼしてから一口含んだ。思った通りに温かくて、じんわりと胸が満たされるような、優しい味。
 ゆるり、と笑みがこぼれたところで、灯彩さんは話を切り出してくる。
「突然呼び止めてごめんね? ……那沙ちゃん、もしかして何か辛いことでもあるのかな? って」

 灯彩さんの言葉を聞き、目を開き小さく息を飲んだ。

 どうして、と呟くと彼女は慌てるように、手を少しだけせわしなく動かしている。別に私が怒っているわけではないのは分かっているようだが「突然聞かれたら驚くわよね!」と必死に弁解していた。

「いつも笑っているけれど、どこか辛そうにしている。そんな気がして」
 彼女の方へ向けていた顔をゆっくりと、自身が両手で包んでいるミルクたっぷりのココアを眺めるように、少しだけ首を垂れる。
「どう、だろう。自分でも、よく分からなくて」
 問いかけたのは彼女だが、私の返答にも驚いたようだ。
 ミルクが少しだけ渦巻くココアを眺めながら、ぽつり、ぽつりと言葉を紡ぐ。
「じつは、このカフェに来る数日前に、元恋人にひどい振られ方をしたんです」
「え! そんなに酷かったの?!」
 今では恋愛感情なんて微塵も抱えていないけれど、振られた時はひどく傷ついたのだから、多少話を盛っても許されるだろう。ていうか、実際に振られた理由も言葉も酷いものだった。嘘は言っていない。
 彼に言われたことを口にしてみる。『お前キモイんだよな』とか『気持ち悪い』……似たような言葉ばかり述べられていたことに気が付いた。
 他にも別れる前に言われた、暴言とも括られる単語を口にしていけば、彼女は自分の事のように「ひどいわ!」と怒ってくれる。人と共感できる、本当に心優しい人だし、一種の才能だろう。
「だから、出会った時から少し辛そうだったのね」
「そうかも、しれないです。もう未練もないですけど」
 本当は自殺未遂をしていたのだが、それは流石に言えない。
 彼女は私の返答に、首を傾げた。
 聡い。未練が無いのなら、何故今でも辛そうな顔をしているのか。そう疑問を持ったのだろう。
 今でも辛そうに見えるのは、違う理由なんだと思います。
 そうした言葉を、なかなか口に出せない。
 否定されるのが怖い。拒絶されるのが怖い。
 目頭がじわりと熱くなる。視界がおぼろげになってきたけれど、もう少しの我慢だ。ここから出れば、私と星叶ちゃんだけ。帰り道で涙を流しても良いし、ひとりの部屋で思い切り泣くでもいい。それまでどうにか持ち堪えて。
 スカートを握りしめるように、拳をほんのすこしだけ強く握った。テーブル下の事だから、流石の彼女でも気づかない。
「……恋って、良くも悪くも人を変えるものだから。これから先、那沙ちゃんが幸せになれるように祈っているわ」
 返事をしようとしたけれど、声が出なかった。今声を出したら、きっと涙がこぼれてしまう。
 もしかしたら、彼女は私が新しい恋をしているのだと気付いたのかもしれない。
 片思いの、淡くも辛いそんな期間だと。
 その相手が自分だとはさすがに思わないだろうが。こうして話をするということは、そういうことなのだ。
 幸いなことに、彼女は私の異変には気づいていないようだった。
「私、那沙さんに謝らなきゃいけないことがあるんです」
 突然の私の告白に、彼女は突然どうしたのだろうと言いたげに首を傾げる。
「私、今はもう新しい恋をしているんです。でもきっと、告白も、たぶん一生しないと思います」
 迸ってしまった言葉はもう取り返しがつかない。彼女の動作が、スローモーションになって私の目に映る。
 相談に乗ってくれたのに申し訳ないと、謝りながら私は頭を下げた。
 言わなくてもよかったことを言ってしまった自覚はあったけれど、これだけは謝っておかなければいけないような気がしたのだ。
 おそるおそる顔を見れば、彼女は首を傾げながら私の方を見ている。
「きっとこんなことを聞くのは野暮だと思う。けれど、ひとつだけ聞いてもいいかしら。どうして、伝えないの?」
 もう気が変わっていて早い人だな、とか、思うことはあったかもしれないのに、彼女はそんなことは口にしようともしない。彼女はやっぱり優しい。こんなときでも、私の恋を心配してくれているのだろう。
 けれど、その優しさを、これまでの恩を、私は今、仇で返そうとしている。

「私の好きな人は、本当に素敵な人です。穏やかで、いつも笑顔で家族を大切にしてて、可愛らしい人です。料理も上手で、いつも私を気に掛けてくれて、こうして話も聞いてくれた。優しい人だから、困ってしまうでしょう?」

 案の定、彼女は返事をしなかった。それはそうだろう、いきなりこんなことを言われたら誰だって面食らう。おまけに彼女は、人一倍優しくて聡い人だ。私が誰を好いているのか、はっきり分かってしまっただろう。
 ああ、どうして言ってしまったのか。勝手な自分が憎たらしい。消えてしまいたい。
「本当に、すみませんでした」
 頭を下げて、すっかり冷めてしまったココアを飲み干す。立ち上がりながらお代を支払おうと、財布を探す。もうここに来ることは叶わないかもしれないから、もっとゆっくりと味わえばよかったのに。
 彼女への恋を自覚してからは、失恋の痛手を避けることの他に、彼女を困らせたくないという思いが、心に蓋をしていた。それを今開けてしまったのは、どうしてだろう。
 きっと、一瞬で構わないから、私のことで頭がいっぱいになってくれれば良い。そんな汚い感情が、開けてはならない蓋を動かしたのだ。

「那沙ちゃん」

 名前を呼ばれて、大げさなほどに肩を跳ねらせる。ゆっくり顔を上げると、彼女は少しだけ寂しそうな笑みを浮かべている。その表情に、ただ驚くことしかできなかった。
 嫌悪の表情を向けられると、すっかり思っていたから。もう二度と来なくていい、と出禁をくらうだろうとしか思っていなかったから。
「ねえ、那沙ちゃんって約束は怖い?」
「……ああ、そう、かもしれません」
 思わず自虐的な笑みを浮かべる。
 今まで、散々約束をして、散々約束を破られた。人間とは裏切る生き物だ、そう認識してしまうほど、約束をするのは苦手だった。相手に期待をしないようになった。
「そう。私も、ちょっと怖いわ。悲しいけれど、守れなかった約束もあるの」
 守れなかった約束など、人には多くあるだろうに、彼女の顔はひどく悲しいものだった。
「でもね、それならまた次の約束をすればいいわ。明日も『生きたい』と思えるように。『守る』約束じゃなくて『守りたい約束』をすればいいと思うの」
 彼女は私の心を読んでいるのだろうか。いや、読まないで、今の私の顔を見ただけでわかるのかもしれない。自傷気味な告白をした私の顔は、今にも死んでしまいそうだっただろうから。
 彼女はゆっくりと小指を立てた手を差し出してくる。
「私、もっと那沙ちゃんとお話ししたいの。だから、これからも来てくれるかしら」
 ああ、ズルい人だ。と思った。私が嫌だと言えるわけない言葉で、私を救い上げて。私を決して否定しない。
 差し出された小指に、震えていた私の手が近づいて、ゆっくりと小指を立てれば、彼女はゆっくりと指を絡めてきて、柔らかくて温かい笑みを見せた。