――チリン、と鈴の音がすると彼女の顔がこちらに向けられて、その表情が柔らかい笑みへとゆっくりと変わっていく。
「いらっしゃい那沙さん」
 鳥が歌うような、とはよくできた表現だ。まろみのある声色で名を呼ばれて、それだけで幸福度が上がっていく気分がする。この瞬間が、ここ数日の幸せな時間、ご褒美タイムとなっていた。
 初めてこのお店に訪れて、その後に家に帰ってから、彼女への感情を自覚してからも、私は通い続けた。

 昔から可愛らしいものが好きだったし、アイドルや女優さんなども好きだ。そうしたものへの好きとは違うのか。それを改めて知るために、こうして気がつけば足を運んでいる。甘い恋愛ソングなど似合わないと思うこの感情は、まだ、私と星叶ちゃんの二人だけの秘密だ。

「今日はどうします?」
「じゃあ、珈琲と日替わりランチで」
「珈琲はブラックですよね?」
「はい」
 すっかり好みまで把握されてしまった。それほど通って顔なじみになった、ということだろう。人によっては店員さんに顔を覚えられるのは苦手、という人も居るのを彼女は察しているのか、そういう相手には至って普通の店員としてふるまっている。
 彼女のそう言った些細な心づかいのおかげだろうか、いや、料理がおいしいというのも大きいと思う。どうやらこのお店は常連さんも多く存在しているようで、偶に混雑しているタイミングもある。
 私もそうしたお客さんの一人なのかな。そんな思いが過ったとき、ツキリと胸が小さく痛むような気がした。一丁前に嫉妬か、なんて自分に呆れる。
 いつも食前にと頼んでいるから、こうばしい香りの、豆を挽いたばかりの珈琲が今回も私の元にやってくる。その際にも笑みを見せてくれるのだから、罪深い人だ。まあ、接客業では普通なのだろうが。私も、仕事をしているときは兎に角愛想笑い浮かべていたしなあ。
 だからこそ、同じ女だからこそ突きつけられる考え。自分だけが特別なわけじゃない。そう言いつけないと、勘違いでまた、人が私の元から去って行ってしまうだろう。
 ゆっくりと、少し熱めの珈琲を口に含んだ。ほろ苦い味が、己の抱えている思いと調和して、そのまま胸から飲み下ろされて幾ばくか楽になったような気分がする。

「ここの英文がさ……」
「ああ、ここ?」
 珈琲カップに口をつけながら、ふと声のした方に目を向ければ、二人の女の子が並んで座っていた。私服のようだが、背の高さや顔つきを見る限り高校生だろうか。耳だけをそちらに向けていると、会話の内容からして高校三年生、それも受験を控えているのだろう、というのが察せられた。
 大学受験か……もう遠い昔のように感じてしまうな。私も当時は必死に勉強していたものだ。早く家から出たくて、独りになりたくて。奨学金の中には、成績トップだと学費免除になるものがあるから、ずっと勉強を頑張っていたな。バイトと勉強の両立に、何度も挫けそうになったっけ。
「ここの問題さ」
 一人の子が問題文を口にした時に、隣の子が英文を口にして、問で単語を選ぶところで口を噤んだ。うーん、と二人して首を傾げている。
「……author」
 次に来るであろう単語を思わず口からこぼせば、女子高生の二人がこちらに勢いよく顔を向けてきた。その勢いに思わず珈琲がむせそうになりつつ、必死に唇をかんで口を噤み、目線を逸らした。
 しまった。勝手に会話に入り込んでしまった。気まずくてそのまま珈琲を口に含みながら、彼女らへの方へ視線を向けないようにする。
 けれど、二人の女子高生は分かりやすく目を輝かせていたのが、わき見でも分かる。
「お姉さん凄いですね! 選択問題だったのに、何も見ないでパッと答えて!」
 黒色ボブで少しカールがかった髪の子が、少し興奮しながら声をかけてきた。コミュニケーション能力が高い。彼女の隣の席に居た、サラサラな黒髪をポニーテールにしている子も、声を出さないながらも、目を輝かせてどこか興奮しているようだ。
「あー……えっと、単語を覚えていたからだよ」
「それでも簡単に出てくるの凄いですよ!」
 笑顔のまま、ぐ、と唇をかみしめる。英語の成績を上げる、英文を解くのには単語を覚えるのが第一だ。要は、単語を並べた文章なわけだから。学生時代は兎に角覚えまくったものだ。それがまだ浮かんでくる辺り、自分も中々だな、とこっそりと自画自賛しても許されるだろうか。
「えっと、どこかの大学の受験勉強?」
 話を無理やりにでも変えれば、二人とも首を縦に振る。どこの大学なのかと問えば、黒髪ボブの子は『花影大学』と口にして、思わず言葉が詰まった。
「花影か……」
「そうなんですよ」
「私はまだハッキリとは決まっていないんですけど」
「まあ、悩む時期だもんね」
 そんな些細な会話をしていると、お店の扉が開かれるベルの音がする。そちらに目を向ければ、黒髪で爽やかな容姿の男の子。大学生くらいだろうか、と思えば店長から「昴くんお疲れ様」と声がかけられる。
 彼も挨拶を返していたので、ここでバイトをしている子なのだろうか。サラサラな亜麻色の髪が特徴的な男の子は見たことがあったけれど、この子は見たことがない。普段は違う時間帯にシフトを入れているのかもしれない。
 失礼ながら顔を覗き見ていると、昴くんと呼ばれていた彼と目が合う。彼は数回瞬きをしてから、少し首を傾げて何か考え込んでいるようだ。同じように首を傾げれば「あ、」と声をこぼす。どうやら言葉が見つかったらしい。
「もしかしてOGの阿土さん?」
「え?」
 思わず声をこぼす。知らない男の子から自身の苗字を呼ばれて、間の抜けた声が出てしまった。
「確か教員免許も取ってて他にも……」
「あ、あー! そう、私! 阿土那沙!」
「やっぱりそうですよね」
 つらつらと恥ずかしい言葉が出てきたし、これからも続きそうだったので、慌てて肯定して名乗る。自分の想像が当たっていたことに安堵したらしい彼は、やっぱりと少しだけ目を輝かせている。似ている、横に居る子たちと目が似ている。
 そんな私達の様子を見ていた店長さんも、彼らのように、いやそれ以上に顔を輝かせていた。
「もしかして花影卒なの?」
「は、はい……」
「卒業生代表でネットに載っていますよね。成績優秀者の奨学金の話とか、就職した先が一流企業のーー……」
 前に勤めていた会社の名前まで出され、恥ずかしくて顔を手で覆って首を激しく横に振った。そう、私の卒業した花影大学のホームページには、私が卒業生代表として、学校についてとか、学校で学んだこととかを述べたものがまだ載っている。そろそろ消してほしい。
 もう辞めたけど、世間で言う一流企業に就職したから、というのもあるかもしれない。でもその会社で私が英語対応とかしたら「随分ご立派ですね」と嫌味も言われたものだ。随分な言われようだった。当時の自分は、苦笑いで流して誤魔化したけれど、今思えばもっと言い返せばよかったなとすら思う。
 店長さんは柔らかい笑みを浮かべて、私達の話を聞いていた。
「すごい偶然ね。良かったらうちの子たちの先生とかお願いしちゃおうかな」
 冗談で口にしたのだろう。笑みを浮かべながらの言葉に、心の中の星叶ちゃんが「今だ!チャンスだ!」と叫んできた。
「……ええ、良いですよ」
「え? ええ?! 本当に?!」
 自分で口にした冗談のつもりだった言葉に了承の言葉が返ってきて、店長含め隣に居た女子高生達も驚きの表情を浮かべる。
「まあ、こんな私でよければですけれど」
 下心で自分の学歴をダシにしてしまってごめんなさい。そんな思いを込めて、苦笑いを浮かべながら頬を掻く。
「ここのお店がすっかりお気に入りになっちゃって、そこで勉強を教えるのが増えても何も問題ないですし」
 下心は混ざっているけれど、言ったことは本当だ。店長は瞬きをして、少し申し訳なさそうな顔をしていたけれど、黒髪ボブの子が「お姉ちゃんお願い!」とねだっていたので、すぐに笑みに変えた。どうやら彼女が、店長の言う妹なのだろう。
「じゃあ本当にお願いしようかしら」
「良いですよ。あ、失業保険貰っている最中なので、金銭は不要です」
 ややこしくなるので、と手のひらを見せながら前もってお願いすれば、彼女はさらに笑う。
「それじゃあ食事が報酬になるかしら」
「それでお願いします」
「そういえば名乗っていなかったわね。私は水月灯彩(みなづき ひいろ)というの。年も近そうだし、気楽に灯彩と呼んで?」
 店長改め、灯彩さんが相変わらず綺麗な笑みを浮かべる。
「ありがとうございます。阿土那沙です。これからよろしくお願いします」
 ちゃんと自身の名を名乗れば、この場に居る若者たち全員からも挨拶をされ名前を教えてもらった。
 彼女たちと会話をして笑顔を見せながらも、心の中で少しだけほくそ笑む自分も居た。
 私は彼女の名を知っていて、名前も呼べるんだぞ。と他の常連の人たちに自慢が出来るようで、何だか気分がよかった。