布団の中だけが安全地帯だった。それは子供のころも、大人になってからもそう。
あの人達はいつも互いに言葉の暴力を向け合っている。片方がパニック状態に陥り、泣きじゃくりながら声にもならない声で叫んでいる。それがさらに相手を不快にさせたのか、殴りかかる。そんな喧騒を聞きたくなくて、私はいつだって布団の中で身を震わせていた。
少しだけ薄い空気の中、ゆっくりと呼吸をする。そうすると自分が生きているのだと実感した。それと同時に、まだ生きているのかと絶望もするから、眠ることで己の心をごまかしていた。
そうだったのだが。
――シャッ、と何かを勢い良く引っ張る音が聞こえると、布団の中だというのに光が入り込んできた気がする。閉じていた瞼に力を込めて、更に閉じようと、何とか光から逃れようとしても許してもらえない。
「起きな」
そう言って、私の防壁である布団が勢いよく剥ぎ取られてしまった。体を丸め、小さくなりながらうなり声をこぼし、抵抗の意を示すも全く効果は無かった。
「起きろって言ってんの!」
「ヒッ!」
冷たいものが首筋に当てられて、情けない声と共に目が勢いよく覚めた。慌ててヒヤリとした首筋に手を添えて起き上がると、相手はいたずらが成功した子供のような笑みを浮かべていた。
「よし、起きた」
「……おはよう、星叶ちゃん」
自称天使見習いの彼女は、朝日を浴びてさらに煌めいて見えた。どうやら、首筋に当てられたのは、冷え切っている彼女の手だったらしい。
「見様見真似で作ってみたんだよねえ」
そう言って、彼女はテーブルの上にお粥の様なものを置いた。ぼう、と眺めてから、本当に作ったのかと問えば頷かれた。彼女の姿が見えない他人からしたら、ポルターガイスト状態だったのだろうか。なんて、脳内が想像する。
けれど、こうした喉に通りやすく胃に優しい朝食は、大変ありがたかった。最近は固形の物を食べると吐き出してしまうから。
「いただきます」
手を合わせて、少し熱そうなお粥を、息を吹きかけて少し冷ましてから一口含んだ。お米の、甘くて優しい素朴な味と、薄らと感じる塩味が、なんだか心にしみた。それに何より、温かいものを食べている、という安心感も大きい。
「……美味しい」
「それはよかった」
ゆっくりと、体に無理をさせないように、今までだったらありえないスピードでお粥を食べていく。
何も、前からこんなだったわけじゃない。寧ろ料理は好きだったし、食べるのも好きだった。美容に良いと言われるものを必死に選んで、ネットでレシピを探して、作って食べる。完全なる自己満足だったとしても、自分の為だと思ったら、何だか楽しかった。
それと比べて、今の私は何だろう。
ずっとしていたスキンケアなんて、どれだけ放置した? 最後に台所に立ったのは? 好きな服を着たのは? メイクをしたのは?
目頭が熱くなってきて、ボロボロと涙が出てきた。目と鼻は連動しているのか、鼻水も出てきてしまう。鼻をすすって涙を流しながらご飯を食べていると、星叶ちゃんが私の髪を一束手に取った。
「食べたらお風呂に入れてあげようか」
「何それ。私のこと赤ちゃんとでも?」
「今のアンタはそんなもんでしょ」
確かにそうか。ご飯を用意してもらって食べて、寝て、泣いて。同じ仕事をしている気分。
「久しぶりに可愛くしてあげよう」
彼女はそう言うと私のメイクボックスを取り出した。その中に入っている化粧品を一つ一つ手に取って眺めて、満足すると仕舞って、を繰り返している。
私の食事が終わると、彼女に腕を引っ張られて立ち上がらせられた。
「それじゃあお風呂に行こう」
「本気だったんだ」
「当然。お湯も沸かしてんだから」
そのまま背中を押されて、脱衣所まで連れていかれた。そこで彼女は気が付いたらしい。
「あ、着替え……服を選んでくる」
「え、ちょっと」
「好きなの選んでいい?」
少し目を輝かせながら言う。もう怒るのも、注意をするのも、拒否をするのも、何もかもが今更過ぎるので諦めた。小さく笑みを浮かべて許可を出した。何だか妹でも出来たみたいだ。
お風呂では、星叶ちゃんの言う通り、彼女が面倒を見てきた。頭を洗ってくれて、それがとても心地よく、そういえば私はこのシャンプーが好きだったのだと思い出した。湯船にも入浴剤が入っていて、浸れば、大好きなにおいに包まれて肌もすべすべとしてきて、好きなものをまた思い出して涙が出た。
お風呂から上がると、用意されていた服に着替える。彼女の選んだ服は、好んで着ていた服達だった。気を遣ったのか、あの子と私の好みが同じなのかは分からないが、幸せに包まれていくような気がした。
顔にも化粧水と乳液が塗られ、軽くマッサージをしてくる。パックまでもしてくるので、とんでもない贅沢ぶりだ。
「髪もいじるよ」
私がパックをした状態のまま、彼女は手にしたドライヤーとアイロンを見せてくる。
「至れり尽くせりだなあ」
「今日は上客の気分で居てもらおうと思ってね」
ドライヤーのスイッチが押されたのだろう。熱風が頭に吹きかかる。
「アンタの持ってた道具を見たら分かる。自分を大切にしていたんだなって」
優しい手つきで、マッサージを兼ねながら私の髪の毛を丁寧に乾かしていく。
「まあ、結局キモイって言われたけれど」
「言いたい奴には言わせとけばいいよ。価値観の違い」
「大人っぽいね。高校生でしょう?」
元彼にも見習ってほしい程大人びた思考と言葉の数々に笑みを浮かべていると、彼女が少し驚いたような表情をする。
「よく分かったね。天使だって言ってたのに」
「え? だって君の着ている制服、色は違うけれど母校と似ているから」
まあ、ブレザー制服はどこも似ているようなものかもしれないが。母校は、地元では一番自由な校風だ。かわいい制服はあるけれど校則は厳しくなく、単位制で偏差値も問題なし。高校というよりは大学のようなイメージも強い。今ではもう懐かしい話だけど。
ポツポツと話していけば「へえ」と彼女は声をこぼす。
「そうなんだ」
「もしかして忘れてる? それとも知らないか本当の偶然?」
「事故で死んで、記憶も吹っ飛んだ」
「成程ね。まあ頭うったりすると記憶障害になったりはすることもあるしね。フィクションだとよくある話だ」
ドライヤーの風が止んで、今度は温めていたアイロンの出番だ。一束の髪をつまんで、それをくるくると巻き付け、少し引っ張って、外す。綺麗な緩いパーマが一束出来上がった。
「星叶ちゃんは、記憶を取り戻したいとは思わないの?」
「別にいいかな、知識があれば案外何とかなる。それより、今のアンタは自分を優先しな」
記憶がなくても問題ない、という言葉に嘘はない。会いたい人だとか、愛を伝えたい人だとか居なかったのだろうか。それも忘れちゃっているから、どうでもいいという考えになってしまったのだろうか。
彼女の考えに少し言葉を詰まらせたが、分かった、と頷いた。
髪も綺麗に巻かれて、ヘアアレンジもメイクもこなされた。こんなに身を綺麗にしたのは久しぶりな気がした。いや、本当に久しぶりだったな。
「ねえ、爪も塗っていい?」
「良いけど……」
促されて両手を出す。彼女は鼻歌を奏でながら、爪の表面を細かいやすりでつるつるに整えてから、ベースコートを手に取って、私の爪に塗っていく。彼女の手がよく見えた。綺麗な手をしているのか、と思ったが、ささくれが出来ていて、爪が思ったより小さくて、よく見ると噛み跡がある。けど、この話は深く追求しない方が良いだろう、と口を噤んだ。
「でも、どうしてこんなに綺麗にしてくれるの?」
マニキュア独特のシンナーのにおいが鼻に着く。
「自分の好きなものに包まれると、自分が大切にされている気がしない?」
「……確かに」
私はずっと、そうやって生きてきた。可愛いものが大好きだから、可愛いものに囲まれる生活で、嫌なことも全部吹き飛ばすようにして。
「それで、この後出かけよ」
「どこに?」
「ハロワ」
ぐ、と眉間に深く濃い皺が刻まれたのが自分でも分かる。けど、私の顔を見て、彼女は笑う。
「別に働かせようとは思ってないよ。ただ、生きるためには金がいるでしょ?」
「……失業保険か」
元職場では五年程勤めている。途中で病気や事故などで休養していたことも無く、ちゃんとその年数を働いて払うお金は払ってきた。だから、保険金をもらえる資格はある。
高校生である彼女がこんなに詳しいことに驚きだが、彼女は全く気にしていないそぶりだ。しかも、成人女性の失業の付き添いである。普通は逆の立場な気がするが、気にするだけ負けだろう。言う通り、記憶は無くても知識があれば何とかなるのかもしれない。
「その通り。終わったら好きな物買って自分を褒めることを忘れずに」
出来た、と最後に一言呟いて離された彼女の冷たい手。彼女に整えてもらった爪は、きらきらと煌めいていた。
あの人達はいつも互いに言葉の暴力を向け合っている。片方がパニック状態に陥り、泣きじゃくりながら声にもならない声で叫んでいる。それがさらに相手を不快にさせたのか、殴りかかる。そんな喧騒を聞きたくなくて、私はいつだって布団の中で身を震わせていた。
少しだけ薄い空気の中、ゆっくりと呼吸をする。そうすると自分が生きているのだと実感した。それと同時に、まだ生きているのかと絶望もするから、眠ることで己の心をごまかしていた。
そうだったのだが。
――シャッ、と何かを勢い良く引っ張る音が聞こえると、布団の中だというのに光が入り込んできた気がする。閉じていた瞼に力を込めて、更に閉じようと、何とか光から逃れようとしても許してもらえない。
「起きな」
そう言って、私の防壁である布団が勢いよく剥ぎ取られてしまった。体を丸め、小さくなりながらうなり声をこぼし、抵抗の意を示すも全く効果は無かった。
「起きろって言ってんの!」
「ヒッ!」
冷たいものが首筋に当てられて、情けない声と共に目が勢いよく覚めた。慌ててヒヤリとした首筋に手を添えて起き上がると、相手はいたずらが成功した子供のような笑みを浮かべていた。
「よし、起きた」
「……おはよう、星叶ちゃん」
自称天使見習いの彼女は、朝日を浴びてさらに煌めいて見えた。どうやら、首筋に当てられたのは、冷え切っている彼女の手だったらしい。
「見様見真似で作ってみたんだよねえ」
そう言って、彼女はテーブルの上にお粥の様なものを置いた。ぼう、と眺めてから、本当に作ったのかと問えば頷かれた。彼女の姿が見えない他人からしたら、ポルターガイスト状態だったのだろうか。なんて、脳内が想像する。
けれど、こうした喉に通りやすく胃に優しい朝食は、大変ありがたかった。最近は固形の物を食べると吐き出してしまうから。
「いただきます」
手を合わせて、少し熱そうなお粥を、息を吹きかけて少し冷ましてから一口含んだ。お米の、甘くて優しい素朴な味と、薄らと感じる塩味が、なんだか心にしみた。それに何より、温かいものを食べている、という安心感も大きい。
「……美味しい」
「それはよかった」
ゆっくりと、体に無理をさせないように、今までだったらありえないスピードでお粥を食べていく。
何も、前からこんなだったわけじゃない。寧ろ料理は好きだったし、食べるのも好きだった。美容に良いと言われるものを必死に選んで、ネットでレシピを探して、作って食べる。完全なる自己満足だったとしても、自分の為だと思ったら、何だか楽しかった。
それと比べて、今の私は何だろう。
ずっとしていたスキンケアなんて、どれだけ放置した? 最後に台所に立ったのは? 好きな服を着たのは? メイクをしたのは?
目頭が熱くなってきて、ボロボロと涙が出てきた。目と鼻は連動しているのか、鼻水も出てきてしまう。鼻をすすって涙を流しながらご飯を食べていると、星叶ちゃんが私の髪を一束手に取った。
「食べたらお風呂に入れてあげようか」
「何それ。私のこと赤ちゃんとでも?」
「今のアンタはそんなもんでしょ」
確かにそうか。ご飯を用意してもらって食べて、寝て、泣いて。同じ仕事をしている気分。
「久しぶりに可愛くしてあげよう」
彼女はそう言うと私のメイクボックスを取り出した。その中に入っている化粧品を一つ一つ手に取って眺めて、満足すると仕舞って、を繰り返している。
私の食事が終わると、彼女に腕を引っ張られて立ち上がらせられた。
「それじゃあお風呂に行こう」
「本気だったんだ」
「当然。お湯も沸かしてんだから」
そのまま背中を押されて、脱衣所まで連れていかれた。そこで彼女は気が付いたらしい。
「あ、着替え……服を選んでくる」
「え、ちょっと」
「好きなの選んでいい?」
少し目を輝かせながら言う。もう怒るのも、注意をするのも、拒否をするのも、何もかもが今更過ぎるので諦めた。小さく笑みを浮かべて許可を出した。何だか妹でも出来たみたいだ。
お風呂では、星叶ちゃんの言う通り、彼女が面倒を見てきた。頭を洗ってくれて、それがとても心地よく、そういえば私はこのシャンプーが好きだったのだと思い出した。湯船にも入浴剤が入っていて、浸れば、大好きなにおいに包まれて肌もすべすべとしてきて、好きなものをまた思い出して涙が出た。
お風呂から上がると、用意されていた服に着替える。彼女の選んだ服は、好んで着ていた服達だった。気を遣ったのか、あの子と私の好みが同じなのかは分からないが、幸せに包まれていくような気がした。
顔にも化粧水と乳液が塗られ、軽くマッサージをしてくる。パックまでもしてくるので、とんでもない贅沢ぶりだ。
「髪もいじるよ」
私がパックをした状態のまま、彼女は手にしたドライヤーとアイロンを見せてくる。
「至れり尽くせりだなあ」
「今日は上客の気分で居てもらおうと思ってね」
ドライヤーのスイッチが押されたのだろう。熱風が頭に吹きかかる。
「アンタの持ってた道具を見たら分かる。自分を大切にしていたんだなって」
優しい手つきで、マッサージを兼ねながら私の髪の毛を丁寧に乾かしていく。
「まあ、結局キモイって言われたけれど」
「言いたい奴には言わせとけばいいよ。価値観の違い」
「大人っぽいね。高校生でしょう?」
元彼にも見習ってほしい程大人びた思考と言葉の数々に笑みを浮かべていると、彼女が少し驚いたような表情をする。
「よく分かったね。天使だって言ってたのに」
「え? だって君の着ている制服、色は違うけれど母校と似ているから」
まあ、ブレザー制服はどこも似ているようなものかもしれないが。母校は、地元では一番自由な校風だ。かわいい制服はあるけれど校則は厳しくなく、単位制で偏差値も問題なし。高校というよりは大学のようなイメージも強い。今ではもう懐かしい話だけど。
ポツポツと話していけば「へえ」と彼女は声をこぼす。
「そうなんだ」
「もしかして忘れてる? それとも知らないか本当の偶然?」
「事故で死んで、記憶も吹っ飛んだ」
「成程ね。まあ頭うったりすると記憶障害になったりはすることもあるしね。フィクションだとよくある話だ」
ドライヤーの風が止んで、今度は温めていたアイロンの出番だ。一束の髪をつまんで、それをくるくると巻き付け、少し引っ張って、外す。綺麗な緩いパーマが一束出来上がった。
「星叶ちゃんは、記憶を取り戻したいとは思わないの?」
「別にいいかな、知識があれば案外何とかなる。それより、今のアンタは自分を優先しな」
記憶がなくても問題ない、という言葉に嘘はない。会いたい人だとか、愛を伝えたい人だとか居なかったのだろうか。それも忘れちゃっているから、どうでもいいという考えになってしまったのだろうか。
彼女の考えに少し言葉を詰まらせたが、分かった、と頷いた。
髪も綺麗に巻かれて、ヘアアレンジもメイクもこなされた。こんなに身を綺麗にしたのは久しぶりな気がした。いや、本当に久しぶりだったな。
「ねえ、爪も塗っていい?」
「良いけど……」
促されて両手を出す。彼女は鼻歌を奏でながら、爪の表面を細かいやすりでつるつるに整えてから、ベースコートを手に取って、私の爪に塗っていく。彼女の手がよく見えた。綺麗な手をしているのか、と思ったが、ささくれが出来ていて、爪が思ったより小さくて、よく見ると噛み跡がある。けど、この話は深く追求しない方が良いだろう、と口を噤んだ。
「でも、どうしてこんなに綺麗にしてくれるの?」
マニキュア独特のシンナーのにおいが鼻に着く。
「自分の好きなものに包まれると、自分が大切にされている気がしない?」
「……確かに」
私はずっと、そうやって生きてきた。可愛いものが大好きだから、可愛いものに囲まれる生活で、嫌なことも全部吹き飛ばすようにして。
「それで、この後出かけよ」
「どこに?」
「ハロワ」
ぐ、と眉間に深く濃い皺が刻まれたのが自分でも分かる。けど、私の顔を見て、彼女は笑う。
「別に働かせようとは思ってないよ。ただ、生きるためには金がいるでしょ?」
「……失業保険か」
元職場では五年程勤めている。途中で病気や事故などで休養していたことも無く、ちゃんとその年数を働いて払うお金は払ってきた。だから、保険金をもらえる資格はある。
高校生である彼女がこんなに詳しいことに驚きだが、彼女は全く気にしていないそぶりだ。しかも、成人女性の失業の付き添いである。普通は逆の立場な気がするが、気にするだけ負けだろう。言う通り、記憶は無くても知識があれば何とかなるのかもしれない。
「その通り。終わったら好きな物買って自分を褒めることを忘れずに」
出来た、と最後に一言呟いて離された彼女の冷たい手。彼女に整えてもらった爪は、きらきらと煌めいていた。