私の好きなもの。ふわふわでやわらかいもの。きらきらと輝く宝石やアクセサリー。サラサラでふとした瞬間に揺れる髪。肌触りがよくてずっと身にまとっていたい可愛い洋服。季節限定発売されるコスメ。笑顔が素敵なアイドルやモデルさんや女優さんの写真集。
 かわいいものであふれて笑顔を絶やさないこと。

「お前キモイんだよな」
「え?」
 突然の彼氏からの罵倒に目を丸くした。そんな口の悪い彼氏の横には、同じ部署の私より年下の女の子。彼女は私の彼氏の腕に自身の腕を絡めていて、眉を下げ、まるで可哀そうなものを見るような表情をしている。が、わかる。その瞳は愉快で仕方がないと笑っていることに。
「いつも笑ってんのはいいことだけどさ? 流石にずっとだと気味悪いんだわ。それしか表情ないのか? って」
「そんなこと……」
 首を横に振りながら否定しているが、いつもの癖で情けない笑みを浮かべてしまっていたのだろう。彼氏は舌打ちをして、隣の女の子の手を取って、私の横をすれ違った。
「自覚ねえのかよ」
 バタン、と閉じられた扉。女の子が最後までこちらに目を配り、勝気な笑みを最後に浮かべたのを私は見逃さなかった。
 シン、と静まり返った部屋に、ぽつんと一人だけ取り残された私。後ろから人の気配が完全に聞こえたのが分かると同時に、私の表情からゆっくりと笑顔が消えていく。
「自分が好きでやってんのよ……」
 小さく舌打ちを零して、私も空き部屋から出た。
 阿土那沙(あづち なさ)、もう少しで二十代の半ばも過ぎ去る今期の秋。彼氏にフラれました。

 四年大学を出て、必死に就活を終え、辿り着いたのは一応表では一流企業として名の知れた会社の事務職だった。
 仕事は正直言って楽だった。電話も取次くらいだし、企画を出してプレゼンをするなどの能力も特に必要なく、誰かに売り込みをするノルマも無い。与えられたものを黙々とこなすだけの、単調な仕事が大半だった。頭も体も、どちらも疲れないような仕事で、残業の強制も無ければ完全週休二日の祝日休み含み。誰もがうらやむような完璧なるホワイト会社。そこでとある男性と出会い、向こうからの告白から了承し、お付き合いが始まった。
 とても恵まれていただろう。私も、日々笑顔を絶やすことはなかった。
 だが、非日常とは突然やってくるらしい。まさかの社内でフラれた私は、小さくため息を吐いて、ゆっくりと自分のデスクに戻った。
 戻ったはいいけれど、周りからの視線がうるさい。興味、同情、嫌悪、不愉快な視線が男女問わず自分に集中している。隣のデスクの子に目を向ければ、目を逸らされた。自分は関係ない、関わるな、と遠回しに言っているのが自然と伝わる。
 そこで察したのだ。
 ああ、私がフラれたこと、一瞬でいつの間にか全員に広まってんな、と。

 そこで初めて、人間は〝感情〟を持つ生き物だと実感した。そして、時にそれは宿主を押しつぶす。

 そこからは会社内は地獄と化していた。
 私の方を見てひそひそと話す女達。気持ち悪い目で私を見る男。絶対に、尾鰭が付くように余計なものが社内に広まっているのだろう。
 何故私がこんな目に? と理性は言う。私が一方的に悪いわけではない。どちらかと言うと、彼の方が悪かった。あと彼の新しい彼女さん。社内恋愛をした彼は、また同じように私と同じ課の後輩に恋をした。女の人が謝ったところで――それも大勢の前で――フラれた事実は変わらない。大勢の前で謝っている、目を潤ませているその姿は、まさしく悲劇のヒロインだろうか。小さく笑みが隠せないゆるゆるな口元を、わざと見せているのかと思わせられた。
 この会社で居心地が悪くなるのは不貞を働いた二人のはずなのに、同僚や同じ課の人たちは私を避け始めた。話しかけてもよそよそしい。それが私用だけならまだしも、仕事中でもそうなのだから勘弁願いたかった。遊びに誘われることは、全く無くなった。それどころか、
「阿土さんフラれたっていうけど、納得しかないわ~」
「ぶりっ子だしね。ウザかったから、ちょっといい気味って思っちゃったわ」
「まあ彼氏もそれに気付いたんでしょ」
 そのような陰口も聞こえてきた。気付いた時にはもう遅かった。社内に味方はいない。毎日吐いてでも出社したけど、気を遣わせないようにと浮かべていた笑みを、周りは余計に気味悪がった。
 もう、ここには行けない。体が完全に拒否反応を示したのは、あの出来事から二ヶ月ほど経った後だった。玄関から一歩を踏み出すことが出来ず、玄関でへたり込み、身体が重くて持ち上がらない。吐き気が止まることはなかった。

 私は一か月程たまっていた年休を使ってから、そのまま会社を辞めた。
 失恋した。それだけか、と言う人もいるだろう。それですべてを捨てるのかと。大学の履歴も、一流企業についているという名誉も、給料も。もったいないと言う人だっているのはわかっている。
 けれど、私の心はもう限界だった。食べ物ものどを通らない。通ったとしても全て吐き戻してしまうから、必死にゼリー飲料や栄養補給用のジュースで何とか死なないように細い命を保たせているだけ。
 『笑顔は女の子ができる最高のメイク』と言ったのは誰だ。大女優じゃないか。うそつき、と小さく呟いた。私は笑顔ですべてを失ったのに。
 仕事を辞めた後の手続きは何とかこなしたけれど、その後は電池が切れたように何も手が付かなかった。好きなものが嫌になっていくのが嫌で、日々布団にくるまる毎日。
 すべてがもう嫌になってしまった。
 消えてしまいたい。死んでしまいたい。そんな思いで押しつぶされそうになった。布団から顔を少しのぞかせて見えたのは、汚い部屋と最後にいつ使ったのか分からない身だしなみを整えるメイクボックス。
 カーテンの隙間から覗いた太陽の光が、キラリと刃に反射した。ゆっくりとベッドから体を這いだして、剃刀を手に取り、左手首に刃を添える。
 失恋ごときとか、親不孝者とか、もっとしんどい人はいるだとか、まだ二十代だから未来はあるだとか、勝手に価値観を押し付けられませんように。まあ、そんな言葉をかけられたとしても、今の私の心にとどまることは無いだろう。
 刃をゆっくりと押し付けようとした。その時――……

「その剃刀では無理があるなあ」

 どこからか突然第三者の声がした。手首と剃刀しか視界と思考に無かったが、慌てて顔を上げて、声の主を探そうと周りを見渡す。もしかして、ついに幻聴まで来てしまったのだろうか。それだと、かなりの末期症状だ。
 慌てている私をまるでからかうかのように、小さな笑い声が聞こえた。混乱していると、私の手からゆっくりと剃刀がすり抜かれていくのが分かった。ちょっとした痛みも無くて、刃が肌を切ってもいないことも分かった。
「まあ確かに? 一番身近で人気な手段の一つなんだけどね」
 急いで声の主のいる方へ顔を向ける。そこには一人の少女が、自室のテーブルに置いてあるメイクボックスを見ながら、しゃがみこんでいた。片腕を膝に置いて頬杖をし、もう片方の手で刃にカバーを被せている剃刀をくるくると回す。
 綺麗に手入れされている金髪とピンクのグラデーションのロングヘア。かすかに巻かれているのが可愛らしい。目はぱっちり二重でちょっとツリ目気味だが、彼女は気にせずにばっちりとアイメイクをしていた。可愛く見られるために、必死にたれ目メイクをしていた私とは大違い。バサバサのまつげがうらやましい。スッと通っている鼻筋も含めて、整っている顔立ちだなと言うのが第一印象。けれど服装は私の母校の制服と似ているものを纏っているので、学生なのではないかという疑問が浮かぶ。
「手首を切って死ぬのって確かに最初に浮かぶと思うけど、難易度は中々高いんだよね。死ぬ確率は五%くらいらしいし? でもアンタの切り方じゃあ五%にも入らなかったかな」
 腕を組んで、うんうんと頷いている、多分女子高生。呆気に取られている私を放置して、彼女は頬杖をしたままこちらに顔を向けた。
「本気でやるなら手首を切り落とすくらいで行かなきゃ」
「え、それは……!」
「痛そうでしょ? 怖いと思った?」
 彼女はゆっくりと立ち上がって、再度剃刀をくるくると回し、もう片方の手をブレザーのポケットに突っ込んで私を見下ろす。
 すべてを見透かすような真っ直ぐで鋭い目と、見降ろされていることによる圧。彼女の提案した方法による痛みの想像によって、恐怖心がゆっくりと湧き上がってくるようだった。
 顔から血の気でも引いたのだろう。そんな私の顔を見て、目の前の彼女はニッと強気な笑みを浮かべて「よろしい」と言い放てば、手にしていた剃刀を後ろ向きで放り投げた。何と器用なことか、彼女の放った剃刀はゴミ箱の中にスコンッと音を立てて入ってしまった。

「私の名前は金咲星叶。アンタを助けに来た、天使見習いだ」

 精々意地でも生き延びてみるんだな。
 そう言い放った途端、ふわりと羽根が舞い降りてきたような気がした。その羽根に目を追って、再度彼女を見れば、金咲星叶と名乗った少女は、変わらず強気な表情を浮かべていたのだった。