「蛍、もう少しだけ、頑張れる?」
 いつも通りになりつつある朝。たった数日間しか彼女と共に過ごしていないのに、星叶に身支度を整えてもらうのが当たり前となってしまった今日この頃。私の髪を一つにまとめながら、彼女はポツリと呟いた。
 問いかけの内容に一瞬疑問を持ったが、すぐに脳は理解する。
 星叶は、もう少しで私の前から去ってしまうのだと。
 昨夜の出来事が頭を過る。相変わらず私は怯えて震えて、情けない姿を友人にも見せてしまった。けれど、新しい友人はそんな私でも良いのだと、私を認めてくれた。私の存在を許さない相手と、私の存在を許してくれる相手。己の心にとどめておきたいのは、後者に決まっている。だから、私の心には、あの子を筆頭に優しい人達が居てくれる。その安心感と言ったら。
 鏡には映らない彼女の表情を私が確かめる術は、振り返ることしかない。けれど、今、彼女の顔を見たら、私の意思が揺らぎそうな気がして見ることが出来なかった。
 結び終えたポニーテールの毛先を少し持ち上げるようにして触れてから、ゆっくりと笑みを浮かべた。
「頑張れるよ。私、星叶ほどではないけれど、まあまあ綺麗にポニーテール出来るようになったの」
 この髪型は私が気合を入れるための意思表示。だから、それが自分でも結べるようになった自分は、きっと大丈夫なはずだ。
 自分に言い聞かせるように、頑張って笑みを浮かべると、気を抜けば涙がこぼれてしまいそうだ。そんな私の不安を拭うように、後ろから私の肩に星叶がゆっくりと腕を回してきて、私の顔に彼女の整った顔を寄せてきた。
「そうだね。アンタは頑張れる」
 私を救ってくれた彼女からの一言が、どれだけ私の救いになっているのか彼女は知っているのだろうか。彼女に相変わらず体温はないけれど、そっと彼女の腕に触れれば、何故か温かいものに触れた様な、母体の中に居るような安心できる心地がした。

「最近のアンタ調子に乗ってない?」
 意志を固めた当日に、こんな声をかけられるだなんて、私はとことん運が悪い。逆に、運が良いになるのかは、これからの私の対応によるのかもしれないが。
 昼休み。廊下に出たタイミングで、私の前に壁を作っているのは私をいじめている主犯格。彼女を筆頭に、二人が彼女の親衛隊のように立っていて、相変わらずだなと思った。
 きっと、昨夜の出来事がご立腹なのだろう。そして私一人では何もできないと思っているから、こうして学校で声をかけて憂さ晴らしをしようとしている。考えが明け透けだ。
 なんて返事をするのが正解なのか分からずに、思わず首を傾げてしまえば、私の対応に腹が立ったらしい。主犯が怒りで顔を歪めると、私のポニーテールを力強く引っ張ってきた。元々頭部の上の方でまとめているのに、更に引っ張られるから、髪の毛につられて皮膚が引っ張られて苦痛の声がこぼれる。毛根が頭皮から離れまいと必死になるからこその激痛が走った。
「こんなさあ? 髪をまとめて何? 男子に色目でも使ってんの?」
「無理無理! 男子もコイツをキモがってるから!」
「ああ、そりゃあそっか!」
 下品で甲高い笑い声が耳と脳に劈いて響く。
この髪型になることによって、誰かが味方になる訳ないのは百も承知だ。その為に私はこの髪型を選んでいるわけでも、結んでいるわけでもない。ただ自分の為だけに、己の気持ちを高めるためにこうしているのだ。
 髪を引っ張られる痛みによって表情が歪む。その表情のまま、ちらりと相手に目を向ければ、タイミング悪くばっちりと目が合った。相手からすれば睨んでいる様にも見えたのだろうか。大きく鋭い舌打ちをしてから、掴んでいる手に力を込めて再度引っ張り、彼女の顔を近づけてきた。
「お前、本当に目障り。さっさと辞めるか死ぬかすればいいのに、真面目に学校通っちゃってさ。まあ、おかげで暇はつぶせたけど」
「……一つだけ、聞いても良い?」
「は? 何?」
「どうして、私だったの」
 真面目で、勉強を頑張っていて、頭の良い人はこの学校には沢山いる。それでも、私を選んで、私にこだわりいじめ続けた理由が気になったのだ。
 一瞬の沈黙の後、――バシャア、と音がすると同時に頭が冷える。冷たい、と感覚が言う。濡れている、と脳が理解した。どうやら頭の上から冷たい液体をかけられたのだろう。ぽたぽたと前髪を伝って、床に水たまりを作り上げていく。滴っている液体が無臭であり透明であることから、水をどうやら被せてきたようだ。
 ついにここまで来たか、と思うと同時に、水をかけてきた辺り、相手は冷静なのだと分かって、同じ人間だとは思えない恐怖感を感じた。水だったら、いくらでも誤魔化しは効くし、乾けばシミだってならない。証拠が消える。相変わらずの手段だ。
「そんなのさあ、良い子ぶってるのがムカついたからだけど?」
『あいつらは無理やりくだらない理由をこじつけて、お前をいじめて私欲を満たしたいだけ。いじめている奴が、完全に悪いの!』
 ああ、成程ね。星叶の言葉通りで笑えちゃう。本当にくだらなくてしょうもない。良い子ぶっているからムカつくなんて、馬鹿らしい。そして、こんな奴らを気にして、良い子で居続けた自分も、本当にくだらなくてバカみたい。
 こうして私を貶して満足している貴方達が良い子になれる日は、一生やって来ないだろうね。
 濡れて重くなった前髪が邪魔で、グイっと押し付けるようにして掻き上げる。
「満足した?」
 私の言葉と態度に、目の前の三人がカッと顔に血を上らせて真っ赤にさせる。すると、私の髪を掴んでいる相手が、手を大きく振りかぶった。そんな彼女を見て、後ろの二人は一瞬で何をするのか察したようだ。流石にそれはまずい、と思ったのだろう。慌てて声をかけようとした瞬間と、相手の平手が私の頬に叩きつけられたのは同時だった。
 バシィンッ! と大きく乾いた音が響き、頬に経験したことの無い衝撃が走った。ぐらりと視界が揺れて、平衡感覚が一瞬だけおかしくなる。
 シン、と喧騒を遠巻きに見ていた人も黙り、一帯が静まり返る。打たれた頬が、じんじんと火照りにひりつくように脳内で響く。
 その瞬間、ピロンッと電子音が響いた。
「ゲーット」
 そう言ってスマホから顔をのぞかせたのは、暁音さんだった。驚いて目を開けば、彼女は私を見てニッと口角を上げた。その笑顔ですぐに察した。暁音さんはこうした笑みを浮かべない。私の知っている人物で浮かべるのは、星叶だけ。暁音さんの姿の後ろに、星叶が立っているように思えた。もしかして、天使見習いは容姿を変えて人目に映ることも可能なのだろうか。
 それは置いておいて、彼女の言葉とスマホを見て、私をいじめていた三人は何が起きたのかすぐに察したらしい。一瞬で私の髪から手を離し、私は地面に落とされた。まだ廊下に水たまりがあるので、顔だけではなく制服まで濡れてしまった。
「アンタ昨日の……ていうか、まさか今の。いや、そもそも他校のアンタが何でここに!」
「この学校、というか彼女に用があったから呼びに来たんだ。そうしたら、ちょうどいい証拠が暴れていたからさ」
 にやにや、と意地の悪い笑みを浮かべている。その体はあくまで暁音さんなんだから、あまり悪そうな顔とかあまりしないでほしい。
 ゆっくりと立ち上がって、制服を軽くたたいて、汚れを払い落とす。濡れているのはどうにもならないので放置。
 視線を感じて顔を上げれば、その場にいた全員がこちらに顔を向けていた。顔面蒼白、という言葉がぴったりだ。私の頬はまだヒリヒリと痺れるように痛いけれど、にこりと笑みを浮かべた。
「自由にしてくれてありがとね」
 その言葉と同時に、ピンポンパンポンと少しだけ気の抜けるような学校のチャイムが鳴る。これは連絡事項や、誰かを呼び出すときのチャイムだ。
『呼び出しをします。火燈蛍さん――……』
 声の主は、どうやら校長先生だ。私と例の三人の名が呼ばれ、ゆっくりと顔を上げる。三人は、校長先生に名を呼ばれ互いに肩を寄せ合い、体を震わせ始めた。
『至急校長室に来てください』
 目の前三人の顔色が、いっそうひどいものとなった。

 校長室へ先陣を切って入ったのは私だった。いじめっ子たちは変わらずに体を寄せ合って、私と星叶の数歩後ろをついてきていた。ノックをしてから、許可を得て扉を開き部屋に入る。室内に思ったより人数が居たことに驚いた。
 そこに居たのは担任の先生と、校長に教頭先生、そして私の両親。両親は私の姿を見ると来客側のソファから立ち上がって、私の元に駆け寄ってくる。
「蛍!」
「二人共、どうして」
「蛍の友達が、教えてくれて。それよりどうしてこんなに濡れているの」
 お母さんが涙ながらに応えてくれる。そしてそのままハンカチで私の頭や制服を、必死に拭ってくれる。髪の毛も制服もしっとり湿ってしてしまって、これ以上は無意味だろうと、宥めるように母の肩に手を添えた。
 母が私の後ろを見て、ぺこりと頭を下げた。振り向けば、そこに居たのは暁音さんの姿に変わっている星叶だ。いつの間に母へ声をかけたのか、と疑問を持ったがそれはまた後で当人に聞けばいいだろう。
 室内はかなり殺伐とした雰囲気だ。母は泣いていると言ったが、星叶を見た後に、その更に後ろに居るいじめっ子たちの方を睨みつけている。
怒り、失望、恐怖。多くの感情が入り混じって、何とも心地悪い。
「火燈さん。こちらは本当の事ですか?」
 校長先生に呼ばれて、そちらに歩み寄ると、テーブルの上にあるのは多くの写真だ。数枚を手に取って眺めてみると、どうやら私がいじめられている一部始終を押さえたようだ。被写体である私の数歩後ろから撮ったものばかりで、即座に撮った人物が分かる。いつだって、私の数歩後ろでスマホをいじって佇んでいた星叶だ。その証拠と言わんばかりに、彼女に下駄箱で取られた、暴言が敷き詰められた紙も置いてある。
 天使というよりも、探偵の方が向いているんじゃないだろうか。
 後ろから恐怖心が伝わってくる。私の名をか細く呼んでいる声もある。それは助けを求めているようにも思えた。
 だけれど、今の私にはもう響かない。写真をテーブルの上に落として、小さく呼吸をして大人たちの方を真っすぐと見る。
「そうです」
 私の返答に、後ろの三人は息を飲み、お母さんはさらに涙をこぼして、お父さんは怒りがこみ上がる表情をする。
 校長先生は額に手を添えて、それはもう深い息を吐いた。
「先生。どうして言わなかったんです?」
「それは……」
「先生は悪くありません」
 校長先生に担任の先生が名指しで言われたので、思わず声を張る。真っすぐな声が出たことにより、先生たちが驚いたような表情をする。
「ご存じかもしれませんが、内容は陰湿で、先生の目につかないものや誤魔化しのきくものばかり。気付かないのも無理はないです」
「けど、相談くらいは」
「先生に相談したら、どうなるか分かりませんから」
 小さく口角を上げ、後ろに目を少し向ける。三人は完全に意気消沈していた。
「だから、私さえ耐えればいい。いつかは終わると信じていました。けれどそんなことは無かった。私はそんなに強くなかった、自殺しようとすら思った」
「っ!」
 自身の子供が、学校の生徒が、自殺まで考えていたのだと知り、大人たちは全員が顔を青くした。
「その時、友達が助けてくれたんです。暁音さんとは別の人ですが」
「そう。その子にも、お礼を言わないとね」
「伝えておくね」
 姿は化けているが本人は居る。礼を言われた彼女は、少しだけ優しい表情をしていた。けれどすぐに真剣な目つきに変えると、一歩踏み出して私の横に並ぶ。
「先程も彼女は被害に遭っていました」
 そう言って、彼女のスマホで録画していたものを再生した。周囲のざわめき、いじめっ子たちの非道な言葉。それらが響き渡ると、部屋が一気に凍り付く。凍り付いた部屋の中で第一声を発したのはお母さんだった。
「アンタ達……!」
「ひっ、私達は」
 怒りによって顔つきが歪み、まるで射抜き殺さんと言わんばかりの表情に、彼女たちはそろって怯えた声を出す事しか出来なかった。想像できなかったんだろうか。こうした己の行為に、いつか憎悪を向けられるかもしれないということを。誰かに恨まれるかもしれない、ということを。
「これは立派な傷害罪だけど、どうする? まあ、それ以前に人権侵害とか器物破損とか諸々あるけど」
 星叶が口元にスマホをあてながら、少し意地の悪そうな笑みをこっそりと浮かべている。やっぱり天使見習いが浮かべる表情ではない。
 少しだけ彼女にじとりとした目を向けてから、校長室のテーブル、丁寧に言えば写真などの上へ手のひらを力強く叩きつけた。皆が私を見ている。小さく息を吸って、息を吐く。
「大事、目立つこと、噂になること、今後の私生活で不利になることは望みません。ですが、彼女達には己が罪を犯したことを自覚し、償ってほしいと願います」
 いじめがあったことが報道される、悪いレッテルを張られた学校名が表に出る、今後その学校の卒業生だと知られる、いじめられている場面がネットに上がる、被害者特定される。そうしたセカンドレイプの様な行為を私は絶対に望まない。
 私の言葉を聞いた大人たちは少しの安堵と共に立ち上がった。
「勿論です。貴方は何も悪くないのだから。学校が全力で対応します」
 親の前で宣言までしたのだ。学校はこれから徹底した動きをするのだろう。後は、大人たちを信じるしかない。
 校長たちは私の後ろへ鋭い目を向けた。ヒッとか細い声が聞こえた。
「皆さんの親御さんにも連絡しました。よく話し合いましょう」
 後ろからの絶望の様なすすり泣きが聞こえた。
 担任の先生が私の前にやってきて、頭を九十度に下げてきて、驚いて目を丸くする。
「本当に、本当にすまなかった」
「……大丈夫、というのは嘘になるので言えないんですけど。でも、ありがとうございます。これからも、よろしくお願いします」
 私の言葉を聞いて、先生は驚いたように目を開いて、再度頭を下げた。大人が一回り、二回りも年下の子供へ頭を下げるなんて、プライドがあればできないだろう。今度は、担任の先生を頼ってみようかと思えた。
 ついでに、両親と話をしたいと話せば、今日はもう帰っても大丈夫だと先生たちに言われたので、お礼を述べてから急いで教室へ駆け出した。
 クラスに飛び込めば、クラスの全員が各自の席に腰かけていた。音のしたこちらの方へ顔を向けて、分かりやすく顔を青くさせていた。沈黙の中、気にしないとばかりに自席に向かい、帰り支度を始めれば全員も察したらしい。
 クラスの多く、大半は女子たちが立ち上がって私の元へやってきた。
「ごめんね火燈さん!」
「全然気づけなくて」
 謝ってきた二人の顔を見て、思わず吹き出しそうになった。私をバイ菌扱いしていた人たちが、気付けなくて? おかしな話だ。とても面白い。
「ああ、良いよ」
 私の言葉を聞いて、皆がホッと安堵の息をこぼす。
「じゃあ、」
「まあ」
 笑え、相手が怯えるように、凍るように。
「わざわざ神経逆なでしてまで、謝ったという事実が欲しいだけなの、全然気にしてないから大丈夫だよ」
 ピシリ、と空気が凍ったのが分かる。鞄の中に物を詰め込んで、スクールバックを肩にかけて、「ああ、そうだ」と言葉を続ける。
「ここがデッドライン。この後先生から説明も来ると思うけど、ネットに今回の事とか上げたり? 関係のない第三者だと勝手に思い込んで、面白がって学校や人物が特定されるようなことをしたり? そうした馬鹿なことをしたら、今度こそ私は警察に駆け込むからね」
 首元で手を横にスライドさせてみれば、こちらをチラチラと伺っていた人達を含め、クラス全員が動きを止めた。その様子を見てから、今度こそ私は教室を後にした。