稲荷寿司弁当を食った。
濃く深い旨味のある緑茶も購入した、幾分か高い。
人気のバームクーヘンを買った。食した。とても美味であった。
一色は羊羹も買った。箱入りの多いものと、カップに入った一食分。
箱入りは、國近夫妻への土産である。手はつけていない。
彼が食べたのはカップ一つだけだ。
しかし贅沢をした、そう思いながら車内の天井を仰いだ。
今日は晴れていて明るい為、ライトは弱かった。
気温が高いわけではないので、冷房をいれる必要もなく快適な日和である。
大きなあくびを右手でそっと隠し、目をしぱしぱ瞬きさせた。
しかし残念、彼はまだ寝るわけにはいかなかった。次の仕事の下調べをしておかなければいけないのだ。
出張が終われば、またいつもの日常に戻る。
出張後の依頼だって存在するわけである。
タブレットを見つめる瞳は、眼鏡のレンズで守られ、淡々と文を読み込んでいった。
同業者からの協力依頼である、仕事の情報は溢れるほどあるのが丁度いい。
一色は、移動時間内で依頼内容の事件をほぼ調べ上げ、脳内に刻んだ。
やがて周りの景色は少しずつ変化していき、緑と山脈がよく見えるようになった。
窓の外を眺めると現在走行している地点を確認できた、N県の手前にある県だった。田舎である。
この季節、ここでは果物がよく実るらしく、直売店が多くの人で賑わっていた。
協力を申し出てきた同業者たちにも、何か買っていってやりたい気持ちでいっぱいになったが痛みやすい果実を土産とするのは少々心配りが必要だった。
またの機会にしようと、彼はふうと一息ついて眼鏡を置く。
彼の瞼がゆっくりゆっくり下がっていって、終いにはぴったりと閉じてしまった。
彼は夢を見た。
2人の女が一色を挟んだ。
右の女は彼の首筋を撫でた。陶然したように視線を動かす。
左の女がそれを咎めるように、一色の頭を胸に抱いた。
そのまま彼は2人に嫐られていた。
優しく触れられるだけでなく、頬をぶったりもした。
髪も引っ張られ、その後に慰められるかのように口付けされる。
一色は顔を顰めるが、何も言わずただ虚空を見つめてされるがままだった。
意味のわからない夢である。
女と彼の他には何もなく、ただ真っ黒な闇が広がるばかりであった。
彼は孤独だ。
一色は夢の中でも再び、瞼をゆっくり閉じた。
それから何個か違う夢を見て、ぼやぼや意識を戻した。
高速バスの走行音がする、車内のアナウンスが聞こえた。次停まるのはサービスエリアらしい。
隣の席に座った男性の少々不機嫌そうなため息を聞いて、そろそろ起きようと目を覚ました。
先程の夢は何かの暗示だったのか。
急に場面が飛んで、違う夢に移った気がするので女に好きなようにされてからどうなったかは覚えていないし、それ以外の夢も特に記憶になかった。
一色は何年か前から、内容の濃い夢を見てはそれを忘れていく。
若い頃は、娼婦の人生を第三者として眺める物語のような夢を見た。
年上の彼女と初めて体を重ねた日の翌々日くらいの時、見た。
そこまで惚れてたわけでもないのに、そんなことしてしまった。
彼女をそうゆう道具みたいに自分が扱ってしまったように感じて、苦悩した。
恐らくその苦い背徳感から来るものである。
会社に勤めていた頃は、孤独の森を、ひたすら駆け回る夢を見た。
独りで、しかし誰かに追いかけられていた。
肺が冷たい空気でキリキリ痛むくらい、走っては荒い呼吸を繰り返した。
その時は、会社が大変に忙しくて、大きな損失も出した。
たくさんの無垢な子供達を巻き込み、真っ当な大人に迷惑をかけ、名前も知らなかった1人の少年を犠牲にした。
とにかく、大きな事が一斉に動いた時期。
夢の最後、一色は追いかけてきた奴に捕まり、殺され、そこで倒れて死んだ。
そこで目が覚めれば、夜中の3時。
内容の濃い、と言ってもいい意味ではなく、全て悪い夢だった。
毎晩ではないものの、何年も続いているので、彼の心は安定しなかった。
しかし慣れているのも事実であった。慣れるのも、いい気はしない。
昼に近づいてきた景色を窓を通して眺める。
日差しは強かったが、心地が良さそうでそろそろサービスエリアに着いてはくれないだろうかと思った。

寝ていた乗客たちが少しずつ起き出してきたのか、段々にせわしい空気になっていった。
前の座席の後ろ側…目の前を見つめて思い出す。
先程一色が拾ったハンカチの持ち主。クールな深みのある青い髪をしていた。
一色自身も染髪はしているが、茶色であり、人間離れしたそれこそ青だとか緑だとかいう頭にしたことはなかった。
そのようなファッションの楽しみ方はしないし、縁がないだろうとも思っている。
そもそも必要もなければ、今頃やったところで何にもならない。キャラでもない。
あの女性は、目を合わすことはなかったが、消え入るような小さな礼は聞こえた。
ナレーターや俳優にでもいそうな、他にはなさそうな澄んだ声だ。彼の中で印象に残っている。
ふと一色は、ああもうこの女性とは再会などしないのだろうなと、当然のことを思った。
彼女だけではない、車内にいる全ての乗客はもう一生一色と会って対面し会話することなどないのだ。
あったとしても気づかないだろう。探偵業を営んでいるとはいえ、彼だって人間である。興味のないことや、仕事でないことをちまちま記憶しているほど万能でも暇でもない。
するとなんだかものすごく切なくなった。
なぜ、こんな過度に感傷的な思考になってしまったのだろう。自分でも理解しかねなかった。
先刻の夢が、そこまでに彼に影響を及ぼしていたか。いや、あれは彼が夢に影響を与えた、と言い換えた方が正しいであろう。
後ろの席で、水筒取って、と恐らくだが隣の者に声をかけるのを聞いた。
若い男同士だった。2人で旅行とは仲がいいものだ。
この2人に会うこともなければ、話を聞くこともない。
通路を挟んで、隣の2席では一色と同じく仕事か何かで出張っていると思われるサラリーマンが、スマホに首を垂れていた。
この人たちの仕事が何か、一言訊けばわかることなのにそれを一生知ることはないのだ。
一色は人生を誰よりも損しているような気がした。今知れることを、気にかけたりも自分から訊いたりもしていないのである。
無論、そんなことを全ての日本国民がしているわけではないが、しかしなんとも言えない虚無感が彼を襲った。
やがてくだらないことを考えるのはやめて、一時停車するのを待った。
窓側の席には名前も知ることのない他人が座っているため、景色を長々と鑑賞するには抵抗があった。
その為、先程と同じように前の座席の背中を見ていた。
本当に綺麗な声だったな。

それからアナウンスが入り、サービスエリアで一時停車した為一色や他の乗客の大半はそこで一旦降りた。
トイレを済まし、土産を一通り物色して(けれど事務所には金がないのでいい物は買えない)車内に戻ろうと回れ右した。
すると、上下真っ黒い服を着た金髪のウルフヘアの青年が何やら誰かを言い詰めていた。
一色は後、知ることとなるが青年が身に纏っていたのは地雷系やピープスといった類の服装である。
「俺さ、ふつーに歩いてただけなんすけど。あんたがぶつかってきたんすよね、落したしさスマホの液晶割れちゃったじゃん。」
どーしてくれんすか、と相手の女性に問い詰める。
なんだ、難癖つけているだけかと思って一色は歩みを止めなかったが、青年はまだ発言を続けていた。
「やべーこれ。メンヘラ彼氏みたいな画面になっちまったじゃん、俺違うのになー…
ねえ、おばさん、ほんとどうしてくれんすか。これからきちきちしたとこに行くんすよお。はずくて人前に出せないじゃん。」
「あ、や…すみません。でも、その、壊れたわけではないですよね。使えるんですよね。」
青年に対して、きちきちした場所に出向くならそれに合わせた格好をするべきだとつっこみたくはなったが、気にしない気にしないと唱えてバスの中に帰った。
女性の方も、大人しそうに見えてしっかりと反論している。黙って謝ってはいられなかったのか。
何が事実なのかどうかは置いといて、こういう時は何も否定せず謝罪していれば、相手は文句を捨てて去るものだ。
それを女性はしなかった。大丈夫だろうか。
それから、発車まで観察していればスーツ姿の長身の男性が割って入り、その場を収めていた。
青年を宥め、双方の話を聴き、女性への謝罪を促し、素早く問題を解決して青年と共に同じバスに戻っていった。
会話が聞こえていなくとも、それは雰囲気から安易に想像で補えることができた。
同じ乗客だったなら、青年の心も落ち着かせることができるだろう。それならよかった。万々歳だ。
脳内で一色は、スーツの男に対して盛大な拍手を送っていた。誇るべき功績である。一色なら絶対しない。
その3人の話し合いを傍観していた為、お茶だけ口に入れ、他の菓子などは食べる暇がなく再出発となった。
それからの旅路は、行き先での予定や待ち合わせ場所の確認をしたり、実用書で勉強したり、音楽を聴いたりと寝ずにそわそわしていた。
度々、青い髪の女を思い出すことがあった。何故こんなに気にかかるのか、自分でも検討がつかなかったが多分あの声のせいだろうと思い込ませる。
やがて色々していれば。目的地に着着と向かっていて、その一つ前で降りる準備を始めた。
身の回りを片付け、忘れ物のないよう、確認した。運転手が終点ターミナルの名称を口にするのでゆっくりと立ち上がる。
ここが3日の間一色の仕事場となる地区だ。
気づくと、前の席の女が立っていた。
狭い通路をよちよち進み、下車して辺りを見回した。
自然の多そうな良い場所だった。空気が美味い。
國近夫妻との待ち合わせ場所に向かう前に、またあの女が頭を過った。何処に行くのだろう。
また会いたいとなぜだろうか思ってしまう、不思議な自分がいた。