「このイベントが終わったら、二人っきりでお出かけしてくれない?」
「そんなのでいいの?」
「これがいいの!」
わかったいいよ、と兎乃は頷き、牧のお願いを承諾した。
人とどこかへ出かける話なんて久しぶりかもしれないと記憶を漁りながら思った。
会社の後輩と呑みに行ったのを思い出して、嫌なものが込み上げてくる心の吐き気のようなものを感じた。手を強くきゅっと握れば爪が柔らかい掌に刺さった。
「お買い物がしたい!素敵なカフェにも行きたいし、あ、そうだお揃いのお洋服とか欲しいな!」
笑ってそうだね、と答える割に正直牧の趣味の物が自分に似合うとは到底思っていなかった。
「楽しそうね?」
兎乃の背後からにゅっと顔を出す。ブランケットを肩に巻きつけた曜だった。顔はまだ赤く足元はおぼつかず金髪は乱れ、彼女全体からはワインの深い香りが漂っている。
「買い物ならあたしも…」
「ええ、曜さんはいいですよぉ…」
二人とも同じように語尾をごにょごにょ濁して、それぞれ違う所に視線を投げながら呟いた。
曜は兎乃の隣に流れるように寄ってきて、甘えた猫のように腕に頭を擦り付けた。
細い体躯がしなやかに動き、腰をうねらせる。細い髪の毛一本一本がゆったり、水の流れのように落ちて兎乃の白い腕を隠した。
兎乃は、彼女が男性を誘惑し獲物を捕らえるかのように相手の心臓を鷲掴みにするのは至極当たり前のことに思えた。
頭がある反対側の手で、すやすや寝息を立て始めたその人の前髪を耳にかけて直した。長い睫毛と婀娜っぽい赤い唇が露わになることに、何だかこの上ない優越感と快楽を一瞬、感じた。紛らわすように首を振った。
「寝ちゃった。少し静かに話そう。」
「…うん。」
言った通りに牧は小声で返事をした。兎乃は笑顔で
「出かけるの楽しそう、いつにする?」
と話を戻した。
脳裏にはまだ、隣の彼女を先生と読んだ一色が居座っていた。

それから少ししても曜は兎乃の腕にくっ付いて居たし、兎乃自身も何だかうとうとし始めて眠ってしまった。
とても気持ちのいい、甘い夢を見た気がする。梅の花が視界いっぱいに咲き乱れていて香りが鼻腔を抜けて身震いした。なんて心地がいいんだろう、この上なく愉快だった。このまま堕ちて死んでしまうのではないだろうかとふと思った。強い香りに噎せていくことを自覚しないまま首を絞められても平気で居れるくらい、血液のようにねっとりゆるりと時間が過ぎていった。
彼女も恍惚として頬を赤に染め上げた。息が湿った唇から漏れていく。
兎乃が目を覚ますと目の前の牧もまた、静かに呼吸しながら夢の中に旅行に出ていた。
周りがしんとしている。鳥や風や空気の動きや、生き物の気配が、人の息遣いが、その全ての音がしない。まさか聴覚を奪われたのかとさえ思った。
しかし音がしないそれもそのはず、振り返れば椅子に腰掛けた一色もテーブルに頭を垂れて寝ているようだった。
東堂は手にトランプを数枚持ったまま目を閉じていた。その中にジョーカーを見つけて、二人でババ抜きなんて楽しくないのに、と溜息を吐いた。逢は東堂の向かいの椅子の上で十歳の子供みたいに丸くなって肩かけを乗せられるようにかけていた。その寝顔は無邪気なものだった。
京司はゆり椅子に座って顎を天井に向けるようにしてすやすや言っている。
足元に厚い本も寝るように落ちている。表紙には白濁した瞳を持つ猫が描かれていた。
兎乃は曜に貸した方の腕を摩りながらそれを拾い上げてみる。目の前のローテーブルに佳芳がうつ伏せていた。テーブルに手をついて彼女の顔を覗こうとしたがまるで見えなかった。
奇怪な状況である。全ての人間が寝ている。有無も言わず、ただひたすらに睡魔に襲われ犯され食われている。おかしい様子である割に兎乃がその違和をしっかりと捉えたのは、とても遅かった。気づいたようにはっとして、一色を起こそうと立ち上がる。彼なら助けてくれる。
だって彼は探偵一色亮紀、こんな少し変だからって動転したり驚いたりなんてしないわ大丈夫そうよ。
「一色さん!あの、すみません、起きてください!」
彼の肩をがたがた揺らす。手も無意識のうちに凍えるように震える感触がしたが、一色の肩ごと揺れているのでよく考えられなかった。
その時脳が痺れた、舌が渇いた、涙が出た。
手のひらがべったり滴るほどに血塗られていた。
嗚呼、何でどうして。兎乃は伝う涙でそれを見て捉えるのを拒絶する。目の周り全体が雲や霞や雨なんかで覆われたように見えなくなった。私死ぬみたいですお母さん、訳もわからずそんな風に朦朧と遺言しようとしたが、彼の手ががそれを止めた。
一色だった。
起きた一色が倒れかけた兎乃の肩をしっかり抱いていた。彼の頬もまた、赤く汚れている。
これが酒での興奮や、密着からくる上気ではないことは壊れそうな兎乃にも確かに理解できていた。
二人はそのまま赤という一色に染みついたまま、呆然としていることしかできなかった。