<2>
彼女は男に捨てられた。
10日前、最愛の男に捨てられた。
そんな今、彼女——杜若兎乃かきつばたうのは気分に乗らない事があった。
謎解きゲーム。
サークルの活動だった。
趣味ではある、だが行けるはずもない。
兎乃は通常より、体調も気分も優れてはなかった。
時とは早いもので、こうなってもう一週間が経とうとしている。
その間会社にも買い物にも行ってない。
出会って4年、付き合って1年になろうとしていた人だった。
黒縁の眼鏡をかけていて、人当たりもよく容姿も美しい見るからにいい男という奴だった。
結婚だって考えた。
彼は自分が年上であることや兎乃がまだ若いことを気にして、焦らなくていい今は共に時を過ごせるだけで幸せだ、と急かさないでいてくれた。
しかし今思えば入籍とかいう厄介ごとにならないために、優しさを偽っていて、最初から騙すつもりだったのでは…いえそうだと確信している。
彼は会社の金を奪っていった。
兎乃が社長の秘書であることを利用して、金庫からや大量の札束や金目の物、貴重な顧客の情報などを手に入れ、霧もやの如く何処かに消えた。
多分一番の目的はある大企業顧客のデータだったのだろう。
最低の奴だ。
人間としても、男性としても。
別れて3日はどうにか頑張った。
会社にも行った。
家に帰ってから泣き喚いて、仕事で使った実用書をばたばたばたと足元に落とした。
叫びながらクッションやブランケットを放った。
それは手応えも何もなくて、ただふわふわもくもくしてるだけで更に苛立って奥歯を噛んだ。
他にも散々壊して、散らかした。
窓ガラスや鏡を割りたくなったが、冷たい理性がそれを止めた。
段々に片付けないと、と興奮していた心は落ち着いてきたが、その気力はない。
彼女の中は空っぽだ。
次の日起きるとまだ6時だった。
いつも起きていた時間に体が慣れてしまっていて、疲れていたはずなのに寝坊はしなかった。
とても不愉快だ。
自分の体は会社の生活に奪われている。
この時間に起床すると決めたのも会社の為。
兎乃自身の意思で、起きてるのではない。
あの会社のシステムに動かされ、働いて、生かされていただけ。
ただ静かに荒れた部屋を元に戻していった。
その時、兎乃にはなんの感情もなく、あるのは体の重い疲れだけだった。
…愛していたのに。
その日は無断欠勤して、スマホやパソコンから会社の電話番号と他の会社員の番号や連絡先を削除した。
眉間に皺を寄せながら、退職願を書いた。
結婚するまであそこにいるとばかり思っていたのに。
寿退社するんだと、勝手に期待していたのに。
まさかこんな風に終わるとは考えてなかった。
明日、これを持って会社に行って、帰りに買い物をしてこうと計画を立てて、その日はソファで寝落ちした。
また6時に起きて、不機嫌になりながらピシッとスーツを着る。
退職願を社長に渡したら、責められた。
彼らの中では兎乃は裏切り者なのだ。
仕方ない。
誰も自身のせいとは思いたくはないが、人を責め立てるのはそれよりもずっと簡単なことだ。
当然だ。
事実、兎乃はあの男の味方になっていた。
社員からの叱責の視線が心を突き刺して初めて、涙が出そうになる。
ここにはもう私の居場所はないんだと、邪魔者だったんだと知った。
世話をしていた後輩の女の子も、兎乃を嘲笑してちらちら見てきた。
恋人が浮気症だからって、愚痴に呑んで付き合ったのは兎乃だ。
かつて従順な犬として仕えた部長に声をかけても、目線を合わせずお疲れ、と言われただけだった。
いらない残業をした後よりもひどく、寂しい扱い。
同じ仲間として、この街で役立つ社の一員として努力し高め合ってきたと思っていたのは自分だけだったのだろうか。
みんなで飲み会に行って、何もなくても笑い転げて翌朝エナジードリンクを分け合ったあの時は何だったのだろうか。
全てが泡沫の夢だったように思えてくる。
兎乃が馬鹿真面目なのか。
嘘なのだろうか。
みんな嘘を吐いていたのか。
全員狂言劇を演じて?
それは違った、兎乃が生ぬるい幸せに肩まで浸かっていただけであった。
何も感じない、大丈夫だと信じ込んでいたのに、実際はそんなことなかった。
姿見の前に立つとアイラインが歪んでいて、まつ毛は濡れている。
自分が思っていたほど、兎乃は強くなかった。
会社を出て、真っ黒の髪をほどいてネクタイを外す。
一度も染めたことのない、長い黒髪。
社会人だから、と真面目にしていた自分は何だったのだろう。
食べられるものだけ買っていこう、とスーパーに寄った。
それが10日の間あったことだ。
10日も経てば悲しみや自己嫌悪は落ち着いてきた。
普段から、自分を愛しているような人間ではないが、嫌気も収まってきた。
が、相対にとくとく湧き上がってきた気持ちがあった。
復讐心や、嫉妬。その赤黒いべっどりとした血糊のような感情が、彼女の心を深く染めようとしていた。
自分がこう家に居る間も、彼はネオン灯る街で女たちとシャンパンなんか開けて鮮やかな夜を過ごしているかもしれない。
なんて憎たらしいんだ。
兎乃はここまで地を這うまでに失望したというのに、ここまで堕ちたのに、あの男はそんなのお構いなしだ。
これからもたくさんの人を引っ掛けて、金儲けしていくんだろう。
止めなければ、制裁を与えなければ、という兎乃の正義感が彼女自身を動かした。
外に出よう。
あいつに復讐をしたい。
彼女は男に捨てられた。
10日前、最愛の男に捨てられた。
そんな今、彼女——杜若兎乃かきつばたうのは気分に乗らない事があった。
謎解きゲーム。
サークルの活動だった。
趣味ではある、だが行けるはずもない。
兎乃は通常より、体調も気分も優れてはなかった。
時とは早いもので、こうなってもう一週間が経とうとしている。
その間会社にも買い物にも行ってない。
出会って4年、付き合って1年になろうとしていた人だった。
黒縁の眼鏡をかけていて、人当たりもよく容姿も美しい見るからにいい男という奴だった。
結婚だって考えた。
彼は自分が年上であることや兎乃がまだ若いことを気にして、焦らなくていい今は共に時を過ごせるだけで幸せだ、と急かさないでいてくれた。
しかし今思えば入籍とかいう厄介ごとにならないために、優しさを偽っていて、最初から騙すつもりだったのでは…いえそうだと確信している。
彼は会社の金を奪っていった。
兎乃が社長の秘書であることを利用して、金庫からや大量の札束や金目の物、貴重な顧客の情報などを手に入れ、霧もやの如く何処かに消えた。
多分一番の目的はある大企業顧客のデータだったのだろう。
最低の奴だ。
人間としても、男性としても。
別れて3日はどうにか頑張った。
会社にも行った。
家に帰ってから泣き喚いて、仕事で使った実用書をばたばたばたと足元に落とした。
叫びながらクッションやブランケットを放った。
それは手応えも何もなくて、ただふわふわもくもくしてるだけで更に苛立って奥歯を噛んだ。
他にも散々壊して、散らかした。
窓ガラスや鏡を割りたくなったが、冷たい理性がそれを止めた。
段々に片付けないと、と興奮していた心は落ち着いてきたが、その気力はない。
彼女の中は空っぽだ。
次の日起きるとまだ6時だった。
いつも起きていた時間に体が慣れてしまっていて、疲れていたはずなのに寝坊はしなかった。
とても不愉快だ。
自分の体は会社の生活に奪われている。
この時間に起床すると決めたのも会社の為。
兎乃自身の意思で、起きてるのではない。
あの会社のシステムに動かされ、働いて、生かされていただけ。
ただ静かに荒れた部屋を元に戻していった。
その時、兎乃にはなんの感情もなく、あるのは体の重い疲れだけだった。
…愛していたのに。
その日は無断欠勤して、スマホやパソコンから会社の電話番号と他の会社員の番号や連絡先を削除した。
眉間に皺を寄せながら、退職願を書いた。
結婚するまであそこにいるとばかり思っていたのに。
寿退社するんだと、勝手に期待していたのに。
まさかこんな風に終わるとは考えてなかった。
明日、これを持って会社に行って、帰りに買い物をしてこうと計画を立てて、その日はソファで寝落ちした。
また6時に起きて、不機嫌になりながらピシッとスーツを着る。
退職願を社長に渡したら、責められた。
彼らの中では兎乃は裏切り者なのだ。
仕方ない。
誰も自身のせいとは思いたくはないが、人を責め立てるのはそれよりもずっと簡単なことだ。
当然だ。
事実、兎乃はあの男の味方になっていた。
社員からの叱責の視線が心を突き刺して初めて、涙が出そうになる。
ここにはもう私の居場所はないんだと、邪魔者だったんだと知った。
世話をしていた後輩の女の子も、兎乃を嘲笑してちらちら見てきた。
恋人が浮気症だからって、愚痴に呑んで付き合ったのは兎乃だ。
かつて従順な犬として仕えた部長に声をかけても、目線を合わせずお疲れ、と言われただけだった。
いらない残業をした後よりもひどく、寂しい扱い。
同じ仲間として、この街で役立つ社の一員として努力し高め合ってきたと思っていたのは自分だけだったのだろうか。
みんなで飲み会に行って、何もなくても笑い転げて翌朝エナジードリンクを分け合ったあの時は何だったのだろうか。
全てが泡沫の夢だったように思えてくる。
兎乃が馬鹿真面目なのか。
嘘なのだろうか。
みんな嘘を吐いていたのか。
全員狂言劇を演じて?
それは違った、兎乃が生ぬるい幸せに肩まで浸かっていただけであった。
何も感じない、大丈夫だと信じ込んでいたのに、実際はそんなことなかった。
姿見の前に立つとアイラインが歪んでいて、まつ毛は濡れている。
自分が思っていたほど、兎乃は強くなかった。
会社を出て、真っ黒の髪をほどいてネクタイを外す。
一度も染めたことのない、長い黒髪。
社会人だから、と真面目にしていた自分は何だったのだろう。
食べられるものだけ買っていこう、とスーパーに寄った。
それが10日の間あったことだ。
10日も経てば悲しみや自己嫌悪は落ち着いてきた。
普段から、自分を愛しているような人間ではないが、嫌気も収まってきた。
が、相対にとくとく湧き上がってきた気持ちがあった。
復讐心や、嫉妬。その赤黒いべっどりとした血糊のような感情が、彼女の心を深く染めようとしていた。
自分がこう家に居る間も、彼はネオン灯る街で女たちとシャンパンなんか開けて鮮やかな夜を過ごしているかもしれない。
なんて憎たらしいんだ。
兎乃はここまで地を這うまでに失望したというのに、ここまで堕ちたのに、あの男はそんなのお構いなしだ。
これからもたくさんの人を引っ掛けて、金儲けしていくんだろう。
止めなければ、制裁を与えなければ、という兎乃の正義感が彼女自身を動かした。
外に出よう。
あいつに復讐をしたい。