小鳥の声と、バターのいい香りがした。
兎乃は掠れ声で唸りながら、ベッドの上でゴロゴロと猫のように寝転び回る。
「んんーっ」
窓からの眩い光に目を細め、気持ちよく伸びをした。爽やかな朝だった、気温もさほど寒くも暑くもなく深呼吸して空気を肺へいっぱいに入れ込むと心地良い。
「花ちゃん…は居ないのか。」
不自然に空いた隣のスペースを撫でて、少し寂しげに漏らす。そこには何もなく、ただ真っ白のさらさらしたシーツがシワになっているだけだった。
彼女の部屋には普段、ベッドにくまがいる。
クリーム色のボディ、大きな耳、ふわふわの丸いしっぽ、茶色く澄んだ人工物の瞳。それはぬいぐるみのくまの人形だった。
ハイビスカス色のワンピースを着て、いつも笑顔で座っている。時にベッドで、時にカーペットの上で、時に棚の上で。ちょこなんと座って、兎乃のことを観察しているのだ。
自分の家ではないのだから、くまの人形—花ちゃん—はそこに存在しないのは何ら問題はないのだが、ほんの少し恋しく感じた。
この部屋には、代わりに抱いて寝れるようなものはないので、兎乃は帰る日を待つしかなかった。仕方ないと起き上がって、掛け布団を整える。
「…いい朝。」
雨戸のない窓の外では、太陽の燦々とした光にきらきらと反射する雫や水滴、それらを乗せた木の葉や植物が気持ち良さそうに息をしていた。
兎乃がゆっくりと手を伸ばして窓の戸を開けると、水の匂いを含んだ空気が流れてくる。ひんやりと小川のように冷たく爽やかで、淡く広がるその大空は全てを包み込んでしまう優しさと暖かさに満ちていた。
自然の偉大さというのはこの事なんだと彼女は悟った。この瞳で、この肌で、この感覚で、世界を感じ取れるその幸福感を、初めて実感したかもしれない。
いつまででもこうして、深い呼吸を繰り返し自分の動きでさえもこの空に委ねてしまいたかった。
「兎乃さん。」
「え!?あ、あ、はい。」
突如名前を呼ばれびくりと肩を震わせる、今のはドアの向こうの佳芳の声だ。
「おはようございます。これから朝食の準備をします、お手をお借りできます?」
少々そっけない言い振りのように感じた。けれど兎乃はさほど疑問にも思わず応じる。
「おはようございます。わかりました。着替えたらすぐ降りますね。」
「ありがとう。よろしくお願いします。」
短い会話を交わしてから、兎乃は國近夫妻から貸し出された寝巻きを脱いで畳む。
今日は薄紫のブラウスに紺のミモレ丈スカートを合わせた。
花柄のワンピースを持ってくるかも迷った。だがしかしそんな浮かれても良くないなと感じて荷物に入れてやらなかったのだ。
昨晩のことを思い出して、少し後悔する。持ってくれば彼に、一色にその姿を見せれたのにとぼんやり思った。
あの後、熱の冷めないココアとホットジンジャーをゆっくり口にしながら、秘書時代のことや過去の事を話した。
というか自分が一方的にお喋りしてただけだったなとちょっぴり申し訳なく思いながら、ピアスを選んだ。
「花のがいいな。」
彼女の小さい耳にシルバーの花が咲く。揺れない控えめなデザインだった。
それから色々な支度を済まして、鏡の前でぎこちなく笑顔を作ってみる。
もし佳芳の機嫌が悪かったらどうしよう、そうだった時はこちらが笑って気分を戻してあげないと。
そう心の中で決めて、もう1人の自分を見つめる。
この青髪にも慣れてきた。美容室で、勢いで染めたにも関わらず案外しっくり似合っていたのが嬉しかったのを思い返して部屋を出た。
下のリビングには京司が居た。ソファで新聞紙を両手で広げていた。バサバサめくって必要な部分だけ読んでるのではなく、じっくり片端から隅々まで目を通しているらしい。
「あ、杜若さん。おはようございます。」
「おはようございます。朝から熱心ですね、流石です。」
会釈して挨拶を交わし合う。兎乃の言葉に京司はいやいやと謙遜した。
「世の情勢を知るのも勿論ですが、それだけではなくてですね。謎解き問題のヒントを探したりもしてるんですよ、例えばね」
「そこらへんにしといたら。」
佳芳の声が京司を咎める。
「おっと…女王様がお怒りだ。すみません、お話はまた今度。」
残念そうに笑いながら、前屈みの体制をよいしょと戻してまたソファにかけた。
「ええ、ぜひまた聞かせてください。」
また軽く頭を下げて、そこを去ろうと佳芳の行ったキッチンの方に足を向けた。
「杜若さん。…会社に居たと仰っていましたが、どんな会社だったんです?」
「え?」
予想外の質問に固まりかけたが、その真剣な表情が彼女を引き止めた。
先程の笑顔からは想像も出来得ないような顔つきで、瞳には硬い光を宿してこちらを一直線に見上げている。
何が、そんなに気になるのか。
「えっと、」
「いえ、すみません!何でもないです。」
一瞬怪訝に思ったその心を晴らすように、彼の顔もぱっと明るくなる。
兎乃は自然に入った肩の力を抜いて、不可解ながらもこくこく頷いた。頭の中が混乱して、よくわからない。それほど彼のあの顔は兎乃にとって衝撃でもあったのだ。
キッチンに駆けて行って、佳芳に声を掛ける。
「ごめんなさい、遅れて。」
その場には牧も居た。まな板の前できゅうりをスライスしている。一回一回の作業に命をかけるように腕に力を入れて、唇をきゅっと噛んでいる。
必死な表情が微笑ましい。
「あ、兎乃ちゃん!おはよう!」
「おはよう。サラダ作ってるの?」
「うん!!」
幼女の様ににっと笑う。
「ありがとうございます、お手伝いに来てくれて。」
佳芳が優しく微笑む。やはり先程の違和感は気のせいだったのだろうか。
「いえ、何をすればいいですか?」
そこから3人で朝食の用意をした。
牧はサラダを盛り付け、兎乃はポタージュを温めながらかき混ぜて、佳芳は鉄製のフライパンでベーコンエッグを焼いた。
水出しコーヒーがぽたぽたと雫を落とす様がなぜか目を引く魅力があった。
波紋を広げ、波を描くその動きが美しくて見惚れてしまう。
「ドレッシングは何を使います〜?」
牧は楽しそうに声をあげて、佳芳に訊いた。低い戸棚を開け、両手で瓶に入ったドレッシングを取って離して選んでいる。
「いくつかテーブルに出して皆さんに選んでもらいましょう。玉ねぎのと、後…兎乃さん、何がいい?」
「え、私ですか。」
急に話を振られ固まる兎乃。牧の前にはたくさんの瓶が無造作に並んでいた。
「そこの、りんごのとか美味しそうですね。」
長細い瓶に入れられているその液体は、少しばかりとろみがあって、すりおろされた果肉が所々あるのが見てとれた。
「そう、これ美味しいの!ぜひかけてね。牧は?何がいい?」
「私はやっぱり胡麻ですかね〜。」
機嫌良さそうに玉ねぎ、りんご、胡麻のドレッシングをまとめてテーブルまで持って行った。
佳芳の視線がその姿を追いかける。
「可愛い子でしょ。大学の後輩だったの。」
「あ、そうだったんですね。仲がよろしいと思ってました。」
兎乃は湯気が立ち始めたポタージュの火を消してガラスの蓋を閉めた。
「うん。あ、ありがとう。そろそろ降りてきてもらおうかな。」
人数分のベーコンエッグが出来上がったようだ。佳芳がそれぞれ皿に移してフライパンの油を紙で吸い取る。
「そうですね、男性の方々呼んできます。」
「ありがとう、曜さんは外で洗濯物を干してくれてるわ。声かけてあげて。」
「はい。」
ベランダから庭に出れば、朝露の香りが鼻を掠めた。
ひんやりとした水蒸気と、斜めに刺す朝日が暖かく心地良かった。
「曜さん!」
色素の薄い髪を靡かせ、竿を見上げて昨夜使った真っ白なバスタオルをかけていた。
「おはよ〜。」
「おはようございます、そろそろ朝ご飯です。洗濯ありがとうございます。」
軽く会釈をして必要なことを伝えて、そこを去った。
そこから室内に戻り兎乃は駆け足で2階に居るであろう一色と東堂、そして逢を呼びに行った。
「東堂さん、日浦さん。朝ご飯です、起きてますかー。」
2人の部屋の前で少し声を張って呼びかけた。
しばらくの間しんとしていたが急に中からばたばたと音が聞こえた。兎乃は急かす事なく静かに待っている。
「杜若さん、すみません。少し待ってください…逢!俺のネクタイどこやった!?」
「兎乃ちゃ〜〜!おはよ〜!知らないっすよ!自分で探して!」
おかしい、右—東堂の部屋—から2人の声がいっぺんに聞こえる。一緒の部屋で寝たのか。随分と仲がいいのね、と兎乃が感心していると東堂が顔を出した。
「すみませんね。おはようございます。」
「こちらこそ大声出しちゃってすみません。おはようございます。よく眠れました?」
東堂の黒髪はまだセットされておらず、前髪が下がったままだった。昨夜とは全く違う姿にギャップを覚え、逢はどんな風なんだろうと気になり始めた。
「眠れ…まあそうですね。寝心地は良かったですけど。」
なんだ、寝不足なのかならば起こしてしまって申し訳ないななどと思いながら、もう一度朝ご飯ができましたよと伝える。
準備が済んだら降りてくるだろう。
兎乃はくるりと体の向きを変えて、次は一色の部屋のドアをノックする。
「一色さん、おはようございます。朝ご飯、できましたよ。」
こちらはすぐに返答があった。
「兎乃さん、おはようございます。」
かちゃりと目の前でドアが開き、兎乃は一歩下がった。
「朝食ご用意してくれたんですね、ありがとう。」
いつの間にか彼は兎乃のことを下の名前で呼んでいた。
白地に青のストライプシャツ、ボトムスは紺のスボンだった。髪は横に流れていた。
ジャケットもネクタイも締めていない。着替え途中のその出立ちにほのかに頬を染めて、答えた。
「いえいえ。準備してましたよね、すみません。」
「大丈夫ですよ、こちらこそのろのろと遅くて申し訳ない。」
と謝ると、一色は兎乃の顔に目を凝らす。ぐい、と近づいてそれ、と口を開いた。
「可愛らしいですね、似合ってます。」
彼の観察眼が捉えたのは兎乃の耳に光る花のピアスだった。
「あ、ありがとうございます…」
照れ臭く思いながら兎乃は耳に髪をかける。俯いてそれ以上言葉も出ない。
「もう少しで支度終わります。待ってていただけますか?」
「ええ、勿論です。」
こくりと頷いて閉まった戸を背に、一色を待つ。
紺のズボン、自分も紺のスカートを履いていた。
何だか似ているなとぼんやり思いながら、彼はどんなネクタイを締めてくるのだろうと考えた。
紺なら青や緑が似合うんだろうか、薄めの柄物でも綺麗なのかもしれない。
「お待たせしました。行きましょうか、朝食は何だろうな。」
「あっはい。あ…え、ええ。」」
気付き、答え、戸惑い、照れた。
一色は砂色のカジュアルなネクタイを緩く締め、アイボリーホワイトのカーディガンをふわっと羽織っていた。髪は下ろしている。何故。先程は横に流れていたのに。
しかしその姿が、あまりにもスタイリッシュで、よく似合っていたものだから兎乃は惑わされてしまった。
柔らかい茶髪が、眉と目にかかっているからかこんなに長身で安心してしまうような体格の良さなのに儚げな印象が持たれた。
「…さんも、」
「はい?」
兎乃のか細い声が聞こえず、一色は片耳を傾けて訊き返す。
「一色さんも似合ってます。素敵です。」
視線をすっと外して言う。こんな風に人を褒めるのはいつぶりだろうか。他人の嫌な所ばかり見え、少しだって相手を格好いいだとか美しいだとか最近は全くもって感じていなかったのに、彼は、彼の姿は、敏感なほどに思う。
綺麗だ、美しい、と。
兎乃がそう言うと彼は花が咲くように微笑んでありがとう、と礼を言った。満更でもないらしい。
「貴女にそう言ってもらえて、良かった。」
2人は言葉を交わしながら階段を降りてリビングのドアを開ける。
「お、お二人とも…仲直りしましょうよぉ!」
突然牧の声が響く。
テーブルには兎乃のかき混ぜていたポタージュが木の皿に注がれ、牧の作ったサラダがこんもりボウルに盛られている。
香ばしく焼けたベーコンエッグが人数分わけられ、他にもたくさんのフルーツや飲み物などが並んでいた。
そこの椅子に京司と佳芳が座っているが、2人は目を合わせず、きゅっと口を閉ざしたままであった。
「牧ちゃん…どうしたんです?」
牧に尋ねた。彼女は今にも涙を溢しそうな顔で、あのね、と答え話し始めた。
「2人が昨日の夜からなんか仲悪いみたいなの…空気が重くって。どうしたらいいかな!?」
どうするもこうするも、私にはわからない。兎乃はうーんと唸って不機嫌な2人に声をかけた。
「どうされたんです?」
そう言っても佳芳は静かにええ、と答えるだけで、京司は黙ったままだった。
一色も首を傾げて、物言いたげな顔をしたがしかし何も口にせず昨晩、夕飯の時座った場所の椅子に腰掛けた。
「兎乃さん。」
小声で彼女を呼ぶ。
「私たち静かにしてた方がいいんでしょうか…?」
「そうかもしれませんね。お二人のことはわからない、後で話を訊きましょう。」
一色の言葉にはい、と頷いてその隣にちょこなんと座った。
彼が兎乃さんは何を作ってくださったんですか、と尋ねてくるので、照れ臭そうに笑いながら
「特に何も…ポタージュをかき混ぜていただけです。全部佳芳さんと牧ちゃんが作ってくれました。」
と返した。
「そうですか。ありがとうございます、夜は私も何か手伝わせてもらおうかな。」
「一色さんお料理されるんですか?」
最近家でもフライパンを振るい、包丁を握ることがなくなってきていたので料理の腕が落ちていそうなのを心配しながら訊いてみる。
「簡単なものですよ、趣味程度の味です。」
一体どんなものを作るんだろう。イタリアン?パスタだったら何が好きなのだろう。それともフレンチ?洋食か中華か?もしかしたらインド料理も得意なのかもしれない。
というか何が好きなのだろう。兎乃は思考を回らす。意外に居酒屋に足を運んだり、飲みに行ったりするのかもしれない。
想像してみる。仕事終わりでスーツを着崩し、仕事仲間と杯を交わし合う一色。店内の油と煙と香ばしい匂いに包まれ、ほろ酔い気分で顔を火照らせて1人家に帰るのだろう。
家で休日は少し手の込んだ料理をたくさんに作って嬉しそうにぺろりと平らげてしまうのかもしれない。細身だがよく食べそうだ。
「おー!いい匂い〜!!」
兎乃の思考に穴を開けて破っていくように、逢の声が飛んできた。
東堂と2人で降りてきたらしい。
「わ、ウノちゃん一色サンと隣!ずるい!俺も隣がいいっす〜〜!!」
いーれてっ、と跳ねてこちらにやってくる。年上とは思えない、色んな意味で。
逢は兎乃の左隣に座り、東堂はその向かいに腰を下ろした。佳芳は逢の隣に居た。
京司はその対角の位置にそっぽを向いて座っていた。相当なことがあったらしい、事情を知らなくても2人の間に漂うその酸素が、空気が、物語っている。
牧は困り顔で佳芳に対面して腰をかけ、きょろきょろと視線を泳がしている。
せっかくの気持ちの良い朝だと言うのに、と少し残念に思っていたら曜が扉を開けて入ってきた。
「私どこ?」
兎乃は自分の向かいの椅子を手で指して、
「ここでよければ。」
「りょーかい。ありがと〜。」
口調は軽かったが、小さなことにも礼を言ってくれたことが嬉しかった。
「か、佳芳さん、いただきますしましょ!」
牧がにこやかに佳芳や他の座っているものに対して声をかけた。
「そうですね。」
一色が代わって微笑み答えた。
「では。」
東堂が声を上げる。
皆で一斉に口を開き、揃えていただきます、と両手を合わせた。
食事し出せば、佳芳と京司の間に流れた少々気まずい雰囲気も段々に晴れていった。
「…佳芳それ取ってくれ。」
「…はい。」
京司が指で示してもないのに佳芳は玉ねぎのドレッシングを掴んで差し出す。反対の場所に居るので渡しにくそうであった。
「とーどーさん!それ取って〜!」
おちゃらけて逢も佳芳を真似た。
その顔は悪戯っ子のような笑顔を向けて、心底楽しそうに言う。
「あーはいはい。」
東堂は仕方なく、という様に近くにあった胡椒を手に取って渡そうとしたが逢はすかさず首を横に振る。
どうやら違うらしい、東堂は首を捻って自分が使っていたりんごのドレッシングを傾けて見せる。
「違う!!」
犬のようにキャンキャン不満そうに声をあげる。
「そ!れ!オレンジ!!」
頬をぷっくり膨らませてずしっと指さした。フルーツの乗った貝殻の皿がその先にはあった。
「わかんねえよ!」
と、言いながらも強引に皿を逢の前に押し出す。
なんだかんだ仲が良いんだなと兎乃は微笑ましく感じた。
「一色さん、何か欲しいものありますか?」
「私、ですか。うん、ではそこの塩の瓶を取ってくださいます?」
「はい。」
こくんと頷いて逢の前辺りにぽつんと置かれたその小瓶を一色に手渡した。
「ありがとう。兎乃さんも何か食べたいものがあったら言ってくださいね。」
「はい、ありがとうございます。」
外では小鳥がさえずって、緑の葉が靡いていた。
食欲をそそるバターの香りが舞い、皆が言葉を交わして笑い合う明るい朝食の時間だった。
兎乃は掠れ声で唸りながら、ベッドの上でゴロゴロと猫のように寝転び回る。
「んんーっ」
窓からの眩い光に目を細め、気持ちよく伸びをした。爽やかな朝だった、気温もさほど寒くも暑くもなく深呼吸して空気を肺へいっぱいに入れ込むと心地良い。
「花ちゃん…は居ないのか。」
不自然に空いた隣のスペースを撫でて、少し寂しげに漏らす。そこには何もなく、ただ真っ白のさらさらしたシーツがシワになっているだけだった。
彼女の部屋には普段、ベッドにくまがいる。
クリーム色のボディ、大きな耳、ふわふわの丸いしっぽ、茶色く澄んだ人工物の瞳。それはぬいぐるみのくまの人形だった。
ハイビスカス色のワンピースを着て、いつも笑顔で座っている。時にベッドで、時にカーペットの上で、時に棚の上で。ちょこなんと座って、兎乃のことを観察しているのだ。
自分の家ではないのだから、くまの人形—花ちゃん—はそこに存在しないのは何ら問題はないのだが、ほんの少し恋しく感じた。
この部屋には、代わりに抱いて寝れるようなものはないので、兎乃は帰る日を待つしかなかった。仕方ないと起き上がって、掛け布団を整える。
「…いい朝。」
雨戸のない窓の外では、太陽の燦々とした光にきらきらと反射する雫や水滴、それらを乗せた木の葉や植物が気持ち良さそうに息をしていた。
兎乃がゆっくりと手を伸ばして窓の戸を開けると、水の匂いを含んだ空気が流れてくる。ひんやりと小川のように冷たく爽やかで、淡く広がるその大空は全てを包み込んでしまう優しさと暖かさに満ちていた。
自然の偉大さというのはこの事なんだと彼女は悟った。この瞳で、この肌で、この感覚で、世界を感じ取れるその幸福感を、初めて実感したかもしれない。
いつまででもこうして、深い呼吸を繰り返し自分の動きでさえもこの空に委ねてしまいたかった。
「兎乃さん。」
「え!?あ、あ、はい。」
突如名前を呼ばれびくりと肩を震わせる、今のはドアの向こうの佳芳の声だ。
「おはようございます。これから朝食の準備をします、お手をお借りできます?」
少々そっけない言い振りのように感じた。けれど兎乃はさほど疑問にも思わず応じる。
「おはようございます。わかりました。着替えたらすぐ降りますね。」
「ありがとう。よろしくお願いします。」
短い会話を交わしてから、兎乃は國近夫妻から貸し出された寝巻きを脱いで畳む。
今日は薄紫のブラウスに紺のミモレ丈スカートを合わせた。
花柄のワンピースを持ってくるかも迷った。だがしかしそんな浮かれても良くないなと感じて荷物に入れてやらなかったのだ。
昨晩のことを思い出して、少し後悔する。持ってくれば彼に、一色にその姿を見せれたのにとぼんやり思った。
あの後、熱の冷めないココアとホットジンジャーをゆっくり口にしながら、秘書時代のことや過去の事を話した。
というか自分が一方的にお喋りしてただけだったなとちょっぴり申し訳なく思いながら、ピアスを選んだ。
「花のがいいな。」
彼女の小さい耳にシルバーの花が咲く。揺れない控えめなデザインだった。
それから色々な支度を済まして、鏡の前でぎこちなく笑顔を作ってみる。
もし佳芳の機嫌が悪かったらどうしよう、そうだった時はこちらが笑って気分を戻してあげないと。
そう心の中で決めて、もう1人の自分を見つめる。
この青髪にも慣れてきた。美容室で、勢いで染めたにも関わらず案外しっくり似合っていたのが嬉しかったのを思い返して部屋を出た。
下のリビングには京司が居た。ソファで新聞紙を両手で広げていた。バサバサめくって必要な部分だけ読んでるのではなく、じっくり片端から隅々まで目を通しているらしい。
「あ、杜若さん。おはようございます。」
「おはようございます。朝から熱心ですね、流石です。」
会釈して挨拶を交わし合う。兎乃の言葉に京司はいやいやと謙遜した。
「世の情勢を知るのも勿論ですが、それだけではなくてですね。謎解き問題のヒントを探したりもしてるんですよ、例えばね」
「そこらへんにしといたら。」
佳芳の声が京司を咎める。
「おっと…女王様がお怒りだ。すみません、お話はまた今度。」
残念そうに笑いながら、前屈みの体制をよいしょと戻してまたソファにかけた。
「ええ、ぜひまた聞かせてください。」
また軽く頭を下げて、そこを去ろうと佳芳の行ったキッチンの方に足を向けた。
「杜若さん。…会社に居たと仰っていましたが、どんな会社だったんです?」
「え?」
予想外の質問に固まりかけたが、その真剣な表情が彼女を引き止めた。
先程の笑顔からは想像も出来得ないような顔つきで、瞳には硬い光を宿してこちらを一直線に見上げている。
何が、そんなに気になるのか。
「えっと、」
「いえ、すみません!何でもないです。」
一瞬怪訝に思ったその心を晴らすように、彼の顔もぱっと明るくなる。
兎乃は自然に入った肩の力を抜いて、不可解ながらもこくこく頷いた。頭の中が混乱して、よくわからない。それほど彼のあの顔は兎乃にとって衝撃でもあったのだ。
キッチンに駆けて行って、佳芳に声を掛ける。
「ごめんなさい、遅れて。」
その場には牧も居た。まな板の前できゅうりをスライスしている。一回一回の作業に命をかけるように腕に力を入れて、唇をきゅっと噛んでいる。
必死な表情が微笑ましい。
「あ、兎乃ちゃん!おはよう!」
「おはよう。サラダ作ってるの?」
「うん!!」
幼女の様ににっと笑う。
「ありがとうございます、お手伝いに来てくれて。」
佳芳が優しく微笑む。やはり先程の違和感は気のせいだったのだろうか。
「いえ、何をすればいいですか?」
そこから3人で朝食の用意をした。
牧はサラダを盛り付け、兎乃はポタージュを温めながらかき混ぜて、佳芳は鉄製のフライパンでベーコンエッグを焼いた。
水出しコーヒーがぽたぽたと雫を落とす様がなぜか目を引く魅力があった。
波紋を広げ、波を描くその動きが美しくて見惚れてしまう。
「ドレッシングは何を使います〜?」
牧は楽しそうに声をあげて、佳芳に訊いた。低い戸棚を開け、両手で瓶に入ったドレッシングを取って離して選んでいる。
「いくつかテーブルに出して皆さんに選んでもらいましょう。玉ねぎのと、後…兎乃さん、何がいい?」
「え、私ですか。」
急に話を振られ固まる兎乃。牧の前にはたくさんの瓶が無造作に並んでいた。
「そこの、りんごのとか美味しそうですね。」
長細い瓶に入れられているその液体は、少しばかりとろみがあって、すりおろされた果肉が所々あるのが見てとれた。
「そう、これ美味しいの!ぜひかけてね。牧は?何がいい?」
「私はやっぱり胡麻ですかね〜。」
機嫌良さそうに玉ねぎ、りんご、胡麻のドレッシングをまとめてテーブルまで持って行った。
佳芳の視線がその姿を追いかける。
「可愛い子でしょ。大学の後輩だったの。」
「あ、そうだったんですね。仲がよろしいと思ってました。」
兎乃は湯気が立ち始めたポタージュの火を消してガラスの蓋を閉めた。
「うん。あ、ありがとう。そろそろ降りてきてもらおうかな。」
人数分のベーコンエッグが出来上がったようだ。佳芳がそれぞれ皿に移してフライパンの油を紙で吸い取る。
「そうですね、男性の方々呼んできます。」
「ありがとう、曜さんは外で洗濯物を干してくれてるわ。声かけてあげて。」
「はい。」
ベランダから庭に出れば、朝露の香りが鼻を掠めた。
ひんやりとした水蒸気と、斜めに刺す朝日が暖かく心地良かった。
「曜さん!」
色素の薄い髪を靡かせ、竿を見上げて昨夜使った真っ白なバスタオルをかけていた。
「おはよ〜。」
「おはようございます、そろそろ朝ご飯です。洗濯ありがとうございます。」
軽く会釈をして必要なことを伝えて、そこを去った。
そこから室内に戻り兎乃は駆け足で2階に居るであろう一色と東堂、そして逢を呼びに行った。
「東堂さん、日浦さん。朝ご飯です、起きてますかー。」
2人の部屋の前で少し声を張って呼びかけた。
しばらくの間しんとしていたが急に中からばたばたと音が聞こえた。兎乃は急かす事なく静かに待っている。
「杜若さん、すみません。少し待ってください…逢!俺のネクタイどこやった!?」
「兎乃ちゃ〜〜!おはよ〜!知らないっすよ!自分で探して!」
おかしい、右—東堂の部屋—から2人の声がいっぺんに聞こえる。一緒の部屋で寝たのか。随分と仲がいいのね、と兎乃が感心していると東堂が顔を出した。
「すみませんね。おはようございます。」
「こちらこそ大声出しちゃってすみません。おはようございます。よく眠れました?」
東堂の黒髪はまだセットされておらず、前髪が下がったままだった。昨夜とは全く違う姿にギャップを覚え、逢はどんな風なんだろうと気になり始めた。
「眠れ…まあそうですね。寝心地は良かったですけど。」
なんだ、寝不足なのかならば起こしてしまって申し訳ないななどと思いながら、もう一度朝ご飯ができましたよと伝える。
準備が済んだら降りてくるだろう。
兎乃はくるりと体の向きを変えて、次は一色の部屋のドアをノックする。
「一色さん、おはようございます。朝ご飯、できましたよ。」
こちらはすぐに返答があった。
「兎乃さん、おはようございます。」
かちゃりと目の前でドアが開き、兎乃は一歩下がった。
「朝食ご用意してくれたんですね、ありがとう。」
いつの間にか彼は兎乃のことを下の名前で呼んでいた。
白地に青のストライプシャツ、ボトムスは紺のスボンだった。髪は横に流れていた。
ジャケットもネクタイも締めていない。着替え途中のその出立ちにほのかに頬を染めて、答えた。
「いえいえ。準備してましたよね、すみません。」
「大丈夫ですよ、こちらこそのろのろと遅くて申し訳ない。」
と謝ると、一色は兎乃の顔に目を凝らす。ぐい、と近づいてそれ、と口を開いた。
「可愛らしいですね、似合ってます。」
彼の観察眼が捉えたのは兎乃の耳に光る花のピアスだった。
「あ、ありがとうございます…」
照れ臭く思いながら兎乃は耳に髪をかける。俯いてそれ以上言葉も出ない。
「もう少しで支度終わります。待ってていただけますか?」
「ええ、勿論です。」
こくりと頷いて閉まった戸を背に、一色を待つ。
紺のズボン、自分も紺のスカートを履いていた。
何だか似ているなとぼんやり思いながら、彼はどんなネクタイを締めてくるのだろうと考えた。
紺なら青や緑が似合うんだろうか、薄めの柄物でも綺麗なのかもしれない。
「お待たせしました。行きましょうか、朝食は何だろうな。」
「あっはい。あ…え、ええ。」」
気付き、答え、戸惑い、照れた。
一色は砂色のカジュアルなネクタイを緩く締め、アイボリーホワイトのカーディガンをふわっと羽織っていた。髪は下ろしている。何故。先程は横に流れていたのに。
しかしその姿が、あまりにもスタイリッシュで、よく似合っていたものだから兎乃は惑わされてしまった。
柔らかい茶髪が、眉と目にかかっているからかこんなに長身で安心してしまうような体格の良さなのに儚げな印象が持たれた。
「…さんも、」
「はい?」
兎乃のか細い声が聞こえず、一色は片耳を傾けて訊き返す。
「一色さんも似合ってます。素敵です。」
視線をすっと外して言う。こんな風に人を褒めるのはいつぶりだろうか。他人の嫌な所ばかり見え、少しだって相手を格好いいだとか美しいだとか最近は全くもって感じていなかったのに、彼は、彼の姿は、敏感なほどに思う。
綺麗だ、美しい、と。
兎乃がそう言うと彼は花が咲くように微笑んでありがとう、と礼を言った。満更でもないらしい。
「貴女にそう言ってもらえて、良かった。」
2人は言葉を交わしながら階段を降りてリビングのドアを開ける。
「お、お二人とも…仲直りしましょうよぉ!」
突然牧の声が響く。
テーブルには兎乃のかき混ぜていたポタージュが木の皿に注がれ、牧の作ったサラダがこんもりボウルに盛られている。
香ばしく焼けたベーコンエッグが人数分わけられ、他にもたくさんのフルーツや飲み物などが並んでいた。
そこの椅子に京司と佳芳が座っているが、2人は目を合わせず、きゅっと口を閉ざしたままであった。
「牧ちゃん…どうしたんです?」
牧に尋ねた。彼女は今にも涙を溢しそうな顔で、あのね、と答え話し始めた。
「2人が昨日の夜からなんか仲悪いみたいなの…空気が重くって。どうしたらいいかな!?」
どうするもこうするも、私にはわからない。兎乃はうーんと唸って不機嫌な2人に声をかけた。
「どうされたんです?」
そう言っても佳芳は静かにええ、と答えるだけで、京司は黙ったままだった。
一色も首を傾げて、物言いたげな顔をしたがしかし何も口にせず昨晩、夕飯の時座った場所の椅子に腰掛けた。
「兎乃さん。」
小声で彼女を呼ぶ。
「私たち静かにしてた方がいいんでしょうか…?」
「そうかもしれませんね。お二人のことはわからない、後で話を訊きましょう。」
一色の言葉にはい、と頷いてその隣にちょこなんと座った。
彼が兎乃さんは何を作ってくださったんですか、と尋ねてくるので、照れ臭そうに笑いながら
「特に何も…ポタージュをかき混ぜていただけです。全部佳芳さんと牧ちゃんが作ってくれました。」
と返した。
「そうですか。ありがとうございます、夜は私も何か手伝わせてもらおうかな。」
「一色さんお料理されるんですか?」
最近家でもフライパンを振るい、包丁を握ることがなくなってきていたので料理の腕が落ちていそうなのを心配しながら訊いてみる。
「簡単なものですよ、趣味程度の味です。」
一体どんなものを作るんだろう。イタリアン?パスタだったら何が好きなのだろう。それともフレンチ?洋食か中華か?もしかしたらインド料理も得意なのかもしれない。
というか何が好きなのだろう。兎乃は思考を回らす。意外に居酒屋に足を運んだり、飲みに行ったりするのかもしれない。
想像してみる。仕事終わりでスーツを着崩し、仕事仲間と杯を交わし合う一色。店内の油と煙と香ばしい匂いに包まれ、ほろ酔い気分で顔を火照らせて1人家に帰るのだろう。
家で休日は少し手の込んだ料理をたくさんに作って嬉しそうにぺろりと平らげてしまうのかもしれない。細身だがよく食べそうだ。
「おー!いい匂い〜!!」
兎乃の思考に穴を開けて破っていくように、逢の声が飛んできた。
東堂と2人で降りてきたらしい。
「わ、ウノちゃん一色サンと隣!ずるい!俺も隣がいいっす〜〜!!」
いーれてっ、と跳ねてこちらにやってくる。年上とは思えない、色んな意味で。
逢は兎乃の左隣に座り、東堂はその向かいに腰を下ろした。佳芳は逢の隣に居た。
京司はその対角の位置にそっぽを向いて座っていた。相当なことがあったらしい、事情を知らなくても2人の間に漂うその酸素が、空気が、物語っている。
牧は困り顔で佳芳に対面して腰をかけ、きょろきょろと視線を泳がしている。
せっかくの気持ちの良い朝だと言うのに、と少し残念に思っていたら曜が扉を開けて入ってきた。
「私どこ?」
兎乃は自分の向かいの椅子を手で指して、
「ここでよければ。」
「りょーかい。ありがと〜。」
口調は軽かったが、小さなことにも礼を言ってくれたことが嬉しかった。
「か、佳芳さん、いただきますしましょ!」
牧がにこやかに佳芳や他の座っているものに対して声をかけた。
「そうですね。」
一色が代わって微笑み答えた。
「では。」
東堂が声を上げる。
皆で一斉に口を開き、揃えていただきます、と両手を合わせた。
食事し出せば、佳芳と京司の間に流れた少々気まずい雰囲気も段々に晴れていった。
「…佳芳それ取ってくれ。」
「…はい。」
京司が指で示してもないのに佳芳は玉ねぎのドレッシングを掴んで差し出す。反対の場所に居るので渡しにくそうであった。
「とーどーさん!それ取って〜!」
おちゃらけて逢も佳芳を真似た。
その顔は悪戯っ子のような笑顔を向けて、心底楽しそうに言う。
「あーはいはい。」
東堂は仕方なく、という様に近くにあった胡椒を手に取って渡そうとしたが逢はすかさず首を横に振る。
どうやら違うらしい、東堂は首を捻って自分が使っていたりんごのドレッシングを傾けて見せる。
「違う!!」
犬のようにキャンキャン不満そうに声をあげる。
「そ!れ!オレンジ!!」
頬をぷっくり膨らませてずしっと指さした。フルーツの乗った貝殻の皿がその先にはあった。
「わかんねえよ!」
と、言いながらも強引に皿を逢の前に押し出す。
なんだかんだ仲が良いんだなと兎乃は微笑ましく感じた。
「一色さん、何か欲しいものありますか?」
「私、ですか。うん、ではそこの塩の瓶を取ってくださいます?」
「はい。」
こくんと頷いて逢の前辺りにぽつんと置かれたその小瓶を一色に手渡した。
「ありがとう。兎乃さんも何か食べたいものがあったら言ってくださいね。」
「はい、ありがとうございます。」
外では小鳥がさえずって、緑の葉が靡いていた。
食欲をそそるバターの香りが舞い、皆が言葉を交わして笑い合う明るい朝食の時間だった。