霞んだ視界。
チョコレートのような甘い匂いが鼻につく。それを深く吸い込んで、彼の存在を嗅覚で感じた。
段々と眠気が去っていき、首の痛さが戻ってきた。そう言えば行きの車内で首を垂れて寝てしまって、寝違えたように痛めていたんだと思い出した。
眼鏡のレンズに映る自分の眼が気味悪かった、怯えてそれを掴み取る。
「あ、起きたんすね。」
彼—逢—が右手で煙草を摘んで言った。
白いシーツの海で気だるけに体を捻って逢の方に目をやる。
雨は止み、空には雲と共に月が浮かんでいた。切ないほど美しい月光が彼らの頬を照らしていた。
しかし、少しぼんやりとしてピントが合っていない、当然だ。
「すぐ寝ちゃうから、俺つまんなかったっすよ。」
からかうように笑う。
「ね、とーどーさん。見て、月綺麗。」
ベランダの柵に背中を預け、こちらを眩しそうに見据えて言った。
東堂は半裸の体に、近くにあったカーディガンを羽織って、逢に近づいて行った。
部屋は暗く、足元だってはっきりと見えなかった。しかし闇に慣れた瞳で、煙草の匂いを感じて、彼の息遣いを耳で拾って、前に進む。
「月が綺麗…なんだ、告白か。」
「は?どゆこと?」
まだ眠たそうな雰囲気を纏う声で、話しかける。少々不機嫌な様子であった。
「タバコ、いる?」
逢はポケットから紙箱のままの煙草を覗かせて提案するが、東堂はいい、と首を横に振った。
「逢のは甘ったるいから俺は好きじゃない。」
「ちぇ。」
東堂も柵に腕と身を預けてもたれかかり、街灯も建物も見当たらない夜景を眺めた。
あるのは星と月と彼らの影だけ。
2人の声が森に浸透するように響いて、伝わって、消えていく。
「月が綺麗ですね、っていうのは文豪サマの愛の告白なんだよ。」
「何それ、俺知らない。」
「だろうな。」
東堂もボトムスの尻ポケットから煙草とライターを取り出してカチッと火をつけた。表情はどこか虚ろで、やはり眠そうで、そして何とも嫌味なほどに美しく整っていた。
高い鼻、尖った顎、細長い瞳と長く印象の強いまつ毛、赤く染まる唇、まるできのこの柄のように白く滑らかな首。
色気の漂うそれらを逢だけに晒して、隣で煙草を咥えた。
「お兄さんすぐ寝ちゃったから、俺寂しかったなー。」
いたずらっ子のような声で、甘く微笑を浮かべながら喋る。
彼の煙草はまだ右手につままれているままであった。
「お兄さん呼びやめろよ。」
「何?照れちゃう?それとも興奮する?」
「やめろ。」
東堂も口角を少し上げて、鼻で笑って答えた。先程の昼間とは全く違う、彼の夜の顔だった。
卑下するように嗤い、遊ばせ泳がせ、静かに従わせる。
「…いつも何か考えてる顔してるっす。俺とも一緒に居てよ、けち。」
子供のように口を尖らせる。
風が2人の間を吹き抜けて、爽やかでまた新しい空気を持ってくる。東堂は天を仰いだ。雲が随分と動いている、初夏の涼しい風がよく吹いてあんなに移動させたらしい。
「考えてない。」
「そんなことない、俺が年下だから騙せると思ってんだろ。」
「違うよ。」
煙草を口から離して、左手の中指と薬指の間に挟んだ。
体を逢に向けて、もう一度違う、と言えば彼は柵と向き合っていじけるように空中を見つめていた。
「すまん、悪かったって。一緒に寝たかったんだよな。」
東堂の部屋に逢が居るのはなぜか、その答えは明快だ。彼が東堂を訪ねてきたのだ、一緒に居たい、共に過ごしたいと。
年齢の割にまだ子供なところがあった。人にすぐ吸い付くのも、引っ付け回るのも、自分を見てほしいという幼稚な要求を処理しようとした結果だった。
ベランダのテーブルの上に忘れたように置かれた灰皿に、まだ吸える長さの煙草を捻って押し付けた。
「来いって。中に入って、ベッドで寝よう。」
肩を支えるように抱いて、ベランダの戸を閉める。
「とーどーさん、早く。」
「はいはい。」
いつの間にか逢は一歩前に居て、東堂のことをくいくいと手招きする。
「寝よう、疲れた。」
「うん。」
ベッドに身を投げて、ボフッとたくさんの枕に埋もれた。煙草の煙を吐くように、ため息をゆっくりと溢した。
そんな彼に逢は擦り寄った。長めのブロンドの髪が、自由に揺れて乱れて白い肌にまとわりついた。
「煙草は。」
「まだ持ってる。」
「危ないな。」
はっと軽く笑って、その髪の毛に指を通した。根元の方は仄かな温もりが指先を包み、毛先の方は猫の耳のようにひんやりとして寂しいほどだった。
微妙に霞のかかった視界さえも遮断して静かに瞼を落とす。
手に押しつけられる彼の暖かさに、安心し、少しばかり鼓動を速め、今すぐにでも瞳を開けて、顔を見つめてやりたいくらいだったが、再び襲う眠気を拒めずそのまま2人、暗い夢へと落ちていった。
煙草が、逢の手を離れ、床に、寝た。