幼馴染の源二(げんじ)は、わたしの部屋に来るといつもキスをする。唇を離したあと、わたしを抱き締める。頭と背中に回る腕はいつも穏やかで、苦しさを全く感じさせない。
 下からドタバタと音がして弟が帰宅すると、源二は帰る支度を始める。「また明日ね」と笑う源二に手を振り、暫くしてから部屋の窓を開けて外を見る。
 源二の後ろ姿が見える。こっちを見た源二にまた手を振る。橙色の空の下を歩く源二の大きな体を見ていると、ついさっきまで自分があの体に抱き寄せられていたのかと不思議な気持ちになる。
 「姉ちゃん。アイツ毎日来るけど暇なの?」
 トイレに行こうと1階へ降りれば、洗面所から出てきた(かえで)と出くわした。濡れた手をブラブラさせ、困り眉でわたしを見上げている弟のTシャツには泥がついている。
 「アイツ会うたびに俺の頭撫でてくる。子ども扱いしてきてうざい」
 「楓をかわいがってるんだよ。それに源二は暇だから来てるんじゃないの。勉強を教えてくれてるんだから」
 よく見れば楓のこめかみ辺りにも泥がついていた。顔を洗ってくるように、今着ている服は脱いで洗濯機の上に置いておくように伝え、洗面所へ送り出す。
 トイレで手を洗うとき、鏡に映る自分を見る。自然と最初に唇に目がいくようになったのは、源二にキスをされてからだ。 「姉ちゃーん!クモいる!!けっこうデカいやつ!!早く来て!!」
 弟の叫びに慌ててトイレを出た。物置きから殺虫剤を取り出して、洗面所へ向かう。顔や服に泥がつく遊びをしているのに、弟は虫が大の苦手だ。特に足が多い虫を毛嫌いする。
 無事にクモを退治したあと、楓とダイニングテーブルで西瓜を切って食べた。2つ目を食べるときに外で食べたいと言うので、車庫に行きスイカを食べた。
 明日は体育でドッチボールをするらしい。同じクラスにいる好きな子にかっこいい姿を見せたい。だからいっぱい活躍して絶対に勝つ。
 顔いっぱいに笑顔を浮かべる楓の頭を撫でる。サラサラの髪が指と指の間に入り込んでくすぐったい。わたしと楓の髪質はそっくりだとお母さんはよく口にする。

 文化祭の実行員になったと話したとき、源二が「かわいそう」と言ったのを覚えている。絶対大変だろそんなの。なんでそんな委員になったの。
 わたしが休んでいた日に委員を決めたから仕方ないの。源二はわたしの言葉を聞いて、ますます憐憫な顔になった。かわいそう。いじめだろそんなの。
 そこまで言われるほどのことなのか。文化祭実行委員になったことをクラスメイトから告げられたとき、もし嫌だったら断っていいよと言われたことも源二に話そうとすると、薄い手のひらが頭の上にのった。
 「何かあったら言って。俺は(いと)の味方だよ」
 ありがとうと言いながらも、源二の言ったことはわたしの中に入り込まず、わたしの形を縁取るようにふわふわと浮いていた。 
 
 どうして断らなかったの?
 わたしと同じ文化祭実行委員の男子にそう訊かれたのは、第一会議室へ向かう途中、階段を下りていたときだ。
 「梅野(うめの)さんは押し付けられたんだよ。みんな嫌だから」
 随分とはっきりものを言う人だと思った。委員決めをする場にいた彼がそう言うのなら、わたしは本当に文化祭実行委員の枠に強引に押し込まれたのかもしれない。
 そんなこと君だってわかってたでしょ?と言わんばかりに「断ればよかったのに」と彼は言う。
 押し付けられたというのが確かなことだとしても、それをわたしは任せられたんだとも思える。だから責任を持ってやり遂げる。
 わたしが口を開く前に彼はさっさと階段を下りてしまう。「梅野さんが遠慮するのもわかるけど」と言いながら。
 「気詰まりでしょ。馴染むの大変そうだよね」
 嫌味なのか、それとも励ましなのかわからない。愛想笑いも苦笑いもできずにいるわたしを置いて、彼は残りの段数を減らしていった。

 実行委員の初めての顔合わせは、第一会議室で行われた。学年、クラスごとに席が決められていて、1年生のわたしは廊下側の前から2列目だった。
 3年生の委員長と副委員長が壇上にいる。ホワイトボードの上の時計を見ると、16時を示している。
 この学校の文化祭が他校と合同して催されていることは有名な話だ。元々この学校は女子校で、歩道橋を挟んだ向こうにある男子校と協同して文化祭を作り上げていた。
 共学になったあともその形は変わらなかったようで、わたしの世代になっても合同祭は行われている。
 配られたプリントを後ろに回すとき、違う制服を着ている人たちが見えた。ブレザーが指定のうちの高校に対して、その男子校は白いシャツ姿の人ばかりだった。
 簡単な自己紹介と今後のスケジュールの説明。それだけで今日は解散となった。 

 家に帰ると、庭先で楓と源二がサッカーボールを蹴り合っていた。おかえり!と楓は足元のボールを無視してわたしに駆け寄ってくる。
 「源二来てたんだ」
 楓の頭を撫でるわたしに源二は歩み寄って、今日いつもより遅いなと腕時計を見る。
 「委員会があったの。ほら、文化祭の」
 「大変だな。今日は勉強やめとく?」
 わたしと源二が話していると、楓は1人ボールを蹴り始める。その華奢な後ろ姿を見ながら「今日はいいや」と頷いた。そっかと呟く源二から寂しさが仄見える。
 鞄を持った源二は帰る前にわたしに訊ねた。
 「学校楽しい?」
 源二はたびたびわたしにそれを訊く。学校へ行き始めた子に訊ねる親のように。
 「普通だよ」
 わたしの答えはいつもと変わらない。

 2度目の委員会は夏休みが始まる2週間前に開かれた。
 今日は委員を総務、企画、情報宣伝という3つのグループに分けることが主な目的のようで、どのように決めるのかと皆が思う中、委員長がテーブルの下から取り出した箱を見て勘付いた。クジで決めるらしい。
 1つのグループに同じ学年の人が固まらないよう、学年ごとにクジを引いては戻すやり方で担当決めが始まった。別のどのグループになってもいいと思っていたけれど、いざクジを引く番となると緊張した。折り畳まれた紙を開くと、【2】という数字が見えた。
 「梅野、お前何になった?」
 クラスが同じ委員の男子がわたしの手元を覗く。
 「企画」と教えると「うわっ。企画って大変らしいぞ。頑張れ」と彼は投げやりな言葉でわたしを見放した。
 企画担当に同じ学年の人がいるとはいえ、知り合いはいない。知らない顔だけが並んでいる。
 男子校の人ももちろんそこには交ざっていて、ズボンから出た白いシャツや、白いシャツの下に着ている派手な色のTシャツが物珍しい。
 「夏休みに主に動くことになるから、みんなのスケジュール確認していこう」
 まとめ役に一役買って出たのは、蛍光イエローのTシャツを着ている2年生の男子だった。配布された紙を裏返し、そこに手書きでカレンダーを書いていく。
 みんなの予定を聞くときに、その人の名前も訊ね、よろしくねと挨拶を交わす。初対面と人とでも気兼ねなく接することができるなんてすごい人だ。
 「1年の梅野絃です。部活に入っていないので夏休みは特に予定はありません」
 「絃?珍しい名前だね」
 「よく言われます」
 けれど、その人は相手の名前と予定を聞くことで実はけっこういっぱいいっぱいなのかもしれない。
 さっきから自分の名前を言うことを忘れている。一体この人の名前は何なのだろう。
 「翔吾(しょうご)。俺ってどこ行けばいい?」
 ふらりとやって来た人が、“この人”を後ろから呼んだ。文字を書く手を止めて振り返ったのは“翔吾”と呼ばれた“この人”だけだ。
 肩で息をして立っている人は翔吾さんに「バーカ。おっせーよ。お前は俺と同じ企画担当」ときつく言われると、「えー」と息衝いて椅子に腰を据えた。
 「さくら、お前も夏休み暇だよな?」
 「あー、うん。暇」
 “さくら”は、綺麗な顔をした男子生徒。走ってきたのか、こめかみに汗が滲んでいて頬が赤らんでいる。それでも綺麗と思えるくらい端正な顔立ちをしていて、同じグループにいる女子はわたしを含めて彼を見ていたと思う。
 “さくら”という春の名前が相応しい男の人。それが第一印象。
 彼はわたしと目が合うと、すぐに視線を足元に落とした。 

 企画担当が大変というのは本当だったようだ。文化祭実行委員として自分のクラスの出し物の指揮を取る役割はもちろんのこと、企画担当は文化祭の企画運営、当日の司会進行なども任されている。
 準備から本番までの過程だけではなく、当日も忙しなく動かなければならない。話を聞いているだけでしんどかった。
 表に立つことが苦手ではなく、普段から賑々しい人が向いていそうな役回り。はたしてわたしに務まるのだろうか。
 誰がどの企画を受け持つのかといった細かなことは今後決めていくことになったものの、全員のスケジュールを確認した結果、みんなが揃う日は数日しかなかったようで、来れる人が来るという大まかな予定が組まれた。
 部活も補習もないわたしは、今年の夏休みは毎日のように学校に行くことになるかもしれない。

 照りつける日差しは夕方になっても汗を滲ませた。学校から駅に向かう間に浮かんだ汗が胸の間を伝う。駅のホームに立つと、微かな風が髪の生え際を柔らかく撫でた。
 梅野さん?と声が聞こえ、振り向いた先に先程まで顔を合わせていた翔吾さんとさくらさんがいた。軽く頭を下げたわたしに「お疲れー」と手を振りながら翔吾さんは歩み寄る。
 外で見る翔吾さんの髪は真っ黒ではなく、焦げ茶色に近い。隣に立った彼からはベリーの香りがして、「会うのさっきぶり」と話す声はどこかモゴモゴしていた。 アメを舐めている。翔吾さんの口元を見たら、奥にいるさくらさんも目に入った。
 彼の髪は屋外でも黒い色だった。翔吾さんより背が高く、色が白い。
 「そっちの学校もテスト終わったばっかなんだよね?俺らのとこも先週やっと終わって、今日結果返ってきたんだけど、もうさあ散々な結果で。明日もテスト返却されるから、もしかしたら夏休み補習あるかもなんだよ」
 自ら話題を出して、まくしたてる翔吾さんに「そうなんですね」と相槌を打つ。さくらさんは聞いていないのか、聞こえてはいるけれど無視しているのかズボンのポケットに手を入れたまま、うんともすんとも言わない。
 わたしは彼をしげしげと見つめてしまう。
 鼻先が尖った高い鼻とシャープな顎。前髪の間から覗く長い睫毛。まさしく少女漫画で描かれる美男子の容姿。
 
 この時間帯の電車はひどく込み合っていて、座ることができない。乗車してからも自然と3人同じ場所に立ち、線路の上を走る乗り物に揺られていた。
 翔吾さんは文化祭実行委員の中でも企画担当が特にやりたかったと話す。一番目立てる立場だから、青春を感じられる時間が多そうだからと、あけすけに語る。笑うと目尻に皺ができ、頬には笑窪が生まれる。
 「梅野さんはどうして実行委員に?」
 いつか訊かれそうだと思っていたことを質問されて、少し迷ったけれど嘘をついても仕方ないと思い、はっきりと答えた。
 「学校に行ったら決まってたんです。わたしが欠席してる日がちょうど委員を決める日で」
 「え?それはあれ?前々から梅野さんが文化祭の委員やりたいって言ってたとかではなく?」
 「一言も言ってないです。次の日学校に行ったら決まってたので、わたしがこの委員になったのに自発的な理由はなく」
 「あらー、そう。でもそこで断らなかったの偉いと思う。自分がいないときに勝手に決められたとか俺だったらふざけんなってキレてる」
 怒ったところで仕方がない。なったものはしょうがない。その決め方に納得しているわけではないけれど、抗ったところで無意味だから受け入れる。
 わたしはそう思うけれど、大抵の人はやっぱり噛み付くのだろうか。
 「じゃあ、また夏休みに。さくらはまた明日」
 さくらさんも、ふざけるなと怒るのだろうか。
 翔吾さんが一番最初に電車を降りた。さくらさんが空いた席に座ったから、わたしはさくらさんの隣に腰を下ろした。隣同士とはいえ、数センチの空隙があった。
 さくらさんが翔吾さんのようにたくさん話す人でないことは、委員会のときから知っている。でも、同じ委員会、同じ担当であるわたしとさくらさんは他人ではない。何か話した方が自然だ。
 「あと何駅ですか?」
 当たり障りのないことを話しかけると、さくらさんは一瞬びくりとしたあと「3駅です」と答える。
 「梅野さんは?」
 「5駅です。あの、」
 「はい?」
 「さくらって素敵な名前ですね」
 さくらさんは顔の向きを変えない。わたしはさくらさんがいる右側に顔を向けている。だからわかった。わたしの言葉にさくらさんが口を結び、困った顔をしたのが。
 「違うんですそれ」とさくらさんがやんわりと否定する。
 「さくらってただのあだ名なので」
 「あだ名ですか?」
 「名前に“さくら”があるだけで」
 さくらさんは膝の上に置いている鞄から生徒手帳とペンを取り出した。白いページをひらくとサラサラと何かを綴り、わたしと自分の間辺りでそれを見せる。右上がりの癖のある字が4つ縦に並んでいた。
 「浅倉桜雅」
 さくらさんが口にした音をわたしも繰り返しなぞる。
 「あさくらおうが」
 さくらさんは「桜」という文字を丸で囲む。
 「浅倉の“さくら”と、桜雅の“おう”。読み方は違うけど、名前の中にさくらが2つある」
 「あ、ホントだ。だから、さくらって呼ばれてるんですね」
 「本名言うと、さくらじゃないのかってよく言われる」 「さくらって呼ばれるの嫌なんですか?」
 「……嫌とかではないけど、慣れたし」
 そう言って生徒手帳とペンを鞄の外ポケットに突っ込んだ。わたしの方を見ない目は、向かいの窓に移される。
 「わたしは何て呼んだらいいですか?」
 夕日が射し、首の裏が熱い。さくらさんは襟足を掻きながら「別に何でも。お好きな呼び方で」と素っ気なく呟き、腕を組んで顔を俯かせる。
 「じゃあ、さくらって響きがいいので、さくら先輩で」
 「……先輩?」
 「わたし1年で、さくらさんは翔吾さんと同じ2年生ですよね?先輩ですから」
 さくら先輩。声に出さず、体の内側で呼んでみるとしっくりきた。
 さくら先輩が降りるまであと1駅になったとき、「梅野さんの下の名前は?」と初めて向こうから話しかけられた。
 「梅野絃です。わたしも呼び方は何でも大丈夫です」
 さくら先輩がこっちを見ている。睫毛の奥にある瞳が澄んでいて、その目に映されている自分まで綺麗になったかのような錯覚を覚えてしまう。
 「梅野さんで」
 わたしが後輩であろうと、さくら先輩は呼び方を崩さない。
 わかりましたと頷くと同時にさくら先輩は立ち上がり、開いたドアに向かう前に「またね」と小さな声であいさつをした。