由麻がまだお昼を食べていないと言うと、宇佐は上の階の人気のない音楽室に由麻を連れてきてくれた。ここは昼休みは誰も寄り付かない穴場スポットらしい。
 由麻が弁当を食べている間、宇佐はその隣に座るでもなく、距離の開いた窓際に椅子を置いて本を読んでいた。
 何だか緊張した。待たせすぎるのも悪いと思ってミートボールを口の中にかきこんでいると、宇佐がこちらを見ずに「ゆっくりでいいよ」と声をかけてきた。こちらのことはお見通しらしい。その言葉に甘えてゆっくり昼ご飯を食べた後、弁当箱を閉じて改めて聞く。

「何で私を呼んだの?」

 聞きたいことは山ほどある。どうして大して面識もない自分に未来予測ができるなんていうことを打ち明けてくれたのか。そして、何故この昼休みにわざわざ遠く離れた教室にいる自分を迎えに来たのか。
 宇佐は本を置いて答えた。

「俺の人生で唯一、読み間違えた人間がいる」

 その澄んだ瞳が由麻を捕らえる。そこで由麻は、宇佐から純粋な好奇心を向けられていることを悟る。

「江藤さんだよ」

 まるで由麻のことを前から知っていたような言い方だ。驚く由麻に、宇佐は説明を付け加えた。

「中学の時、俺は江藤さんのこと、読書を好きになる人間になるとは思ってなかった」

 中学時代、宇佐と唯一会話を交わした日のことを思い出す。「あんた、本が好きなんだ?」と、図書室で由麻を見た時の宇佐は確かに意外そうな顔をしていた。あの表情にそんな意味があったとは。

「昔短編を書いたでしょ」

 一瞬何のことだか分からず首を傾げたが、すぐに授業で書いた小説のことを言われているのだと思い付いた。

「酷い物だった。普段活字なんて読まないであろう人の文章だった。でも文芸部の顧問はあんたが授業で書いたその作品を気に入ったみたいで部室に置いた。ここまでは予測通りだった。でも俺の予測では、その後のあんたは文学になんて興味を持たずに過ごすはずだった」
「…………」

 なかなか辛辣だ。自分の書いた文章を〝酷いものだった〟と言われるのはあまり良い気がしない。しかし、宇佐の言う通りあの時書いた文章は今振り返れば酷いものだ。当時の由麻は漫画しか読まない人間だったし、文章の作りなんて意識していない。宿題として出されたから無理やり絞り出して書いたに過ぎない排泄物である。文芸部の顧問はパッションを感じるなんて言って褒めてくれたが、よくあの文章から何らかの魅力を感じ取ったものだと思う。

「だからずっと気になってた。あんたは何なんだろうって」
「宇佐さんが私を?」

 そんな素振りはこれまでなかった。由麻の方が宇佐のことを目で追うことはあっても、宇佐と目が合ったことはない。にわかには信じがたくて疑いの目を向けると、宇佐はくすくすと上品に笑った。

「これは信じないんだ」
「だって今まで何も接点がなかったし……」
「焦らなくても、接点ができる未来は視えてたからね」
「昨日の図書室?」
「うん。昨日図書室にあんたが来たのは予測通りだった。あんたのことは二年間で何度か読み間違えたから、来ないかもしれないと思ってたけど」

 何だか全て見透かされているようで恥ずかしくなってきた。ひょっとしたら由麻の恋心も宇佐は把握しているかもしれない。途端に気まずくなってきて目をそらす。
 しかし、あの彼女溺愛彼氏の宇佐が、こちらの恋心を分かっていて自ら接触してくるだろうか? 先程宇佐は由麻のことを唯一予測を間違えた相手だと言った。希望的観測だが、由麻のことはいくらか外すのかもしれない。

「例えば、次に戦争が始まる時期とかも分かる?」
「いや。身近なこと、それも近い未来しか予測できない」
「近い未来って?」
「今後二、三年のことかな」
「十分だよ」

 由麻は笑った。好きな人が不思議な計算力を持つ超能力者だった。これほど面白いことがあるだろうか。

「それで、できれば江藤さんの思考回路についての情報を得たいんだけど」

 宇佐が本題に入るかのように話を切り出す。

「本に興味を持ったきっかけを教えてくれる?」

 悪いことを言い当てられた子供みたいにぎくりとした。あなたを見ていて興味を持った、あなたが好きだからあなたの好きな物を知りたかったとは言えず、

「ごめん。覚えてない」

 嘘を吐いて誤魔化した。宇佐はその嘘を見抜いているのかいないのか、面白そうに目を細める。

「やっぱり予測とズレがある。ここで答えないっていうのが俺の予測と違う」

 じぃっとしつこいくらいの視線を向けられてどきどきした。数秒珍しい生き物でも観察するように由麻を見つめていた宇佐は、諦めたように視線を下降させた。

「分かったよ。江藤さんが嫌なら、無理に聞くものじゃない。でも、良かったら今後も何度か話を聞かせてほしい。そうだな、何でもいい。例えば最近読んだ本の感想とか。頻度は江藤さんの都合に合わせるよ。二週間に一回とかでいい?」

 毎日でもいい、と勢いで答えそうになったが堪えた。

「二週間に一回で私は大丈夫。場所はこの音楽室でいい?」
「江藤さんは優しいね。俺の興味に付き合ってくれるんだ」

 正確に言うとこれは優しさではなく、下心というのだ。でもそれは教えられない。

「私も宇佐さんの不思議な力に興味あるから」

 適当な理由を付けると、宇佐がわずかに目を見開く。これも予想外の返答だったのかもしれない。
 宇佐はくすりと柔らかく笑った後、時計を見て「そろそろ昼休みが終わるね」と言って立ち上がった。宇佐の教室はここからそれなりに距離があるため、早めに向かわせた方がいいだろう。由麻も立ち上がった。

「またね。江藤さん」

 音楽室を出る直前、宇佐が言った言葉。ずっとただ見ていた人から言われたまたという言葉が、危うく涙が出そうになるくらい嬉しかった。