長年片思いしていた宇佐と会話を交わせたことで、その晩はなかなか寝付けず、何度も図書室での情景を脳内再生した。
 からかうみたいな笑い方が好きだ。『江藤さん』と呼んできた声が好きだ。中学の頃より少し大人びた表情が好きだ。
 きっと宇佐と話せるのもあれが最後だろう。大切な思い出としてしまっておこうと思った。



 翌日、二時間目の数Ⅱの授業では小テストがあった。抜き打ちだった。
 由麻は宇佐の発言をただの冗談だと思っていたが、冗談とはいえ好きな人の発した言葉なので大切に覚えていた。教科書五十六頁の大門一の(2)と(3)は何だろうと昨日復習したばかりである。
 テスト用紙を表に向けて驚いた。

(本当に出た……)

 微分と積分の問題。昨夜やった五十六頁の内容だ。
 宇佐のいる特進と由麻のいる一般コースの六組では授業進度も違う。六組が今微分積分を習っていることは知らないはずであるのに、当てずっぽうにしてはよく当たっている。
 おかげで由麻はすらすらと問題が解けた。時間が余ったため、数Ⅱ担当の教員を眺めてみる。この学校に長年いるそこそこ年を重ねたベテラン教員だ。

(宇佐さんがあの先生と仲が良いとか? いくら他クラスの生徒とはいえテストの内容を教えるのはアウトな気がするけど……)

 もやもやした気持ちを抱えながら、その日の午前中の授業が終わった。


「ゆーまっ! 五組行こ~」


 茜が楽しそうに由麻に声をかけてくる。今日はこの時をずっと楽しみにしていたのだろう。茜は本当に長瀬を気に入っているらしい。由麻は苦笑いして茜に付いていった。
 五組の長瀬グループの女の子たちは教室に入ってきた茜と由麻の姿を見て一瞬表情を曇らせたが、すぐに外交スマイルを浮かべて「茜じゃーん」と近寄ってくる。キャッキャと戯れる彼女たちを見て怖いなと思った。上辺だけの女子同士の関係ほど恐ろしいものはない。


「お、今日は由麻ちゃんも来たんだ」


 長瀬が意外そうに見つめてくるので、「まあ……」と低い声で返した。テンションの低さが伝わったのか、ケラケラと笑われた。
 きっと長瀬グループの女子たちには根暗な女だと思われているだろう。茜は明るく陽気なキャラだが由麻はそのようなタイプではないし、このグループと一緒に並ぶと浮いている。茜に言われなければ絶対に来ていない場所だ。
 憂鬱だが、ひとまず昼ご飯を食べなければならない。どこに座ればいいのか分からずきょろきょろしていると、後ろの方にいる五組の生徒たちが「クーラー止まったくね?」と騒いでいるのが聞こえた。思わずそちらに視線を向ける。


「えー。なんか微妙にあったかい空気出てんだけど」
「暑い暑い。マジやめて」
「設定温度下げたら?」
「25℃だって。寒いくらいじゃね?」
「午前中もたまに止まってたよねー」
「六組の次は五組かよー。早くクーラー買い替えてくんねーかな」
「生徒会に言ってみる?」


 驚いて立ち尽くしてしまった。思い出すのは、昨日の宇佐の言葉だ。

 ――――『ラプラスの悪魔って知ってる?』

 変な笑いが漏れた。近くにいた長瀬グループの女子が気味悪がるような目を向けてきたため、慌てて真顔に戻す。
 そして、長瀬に一歩近付いて聞いた。


「……長瀬さん」
「んー?」
「宇佐さんと会わせてくれない?」


 流行りのアプリゲームをしていた長瀬が由麻の方に目を向けてくる。


「あー、宇佐そういうの苦手だからやめた方がいいぜ。彼女以外の女の子から呼び出されるの嫌らしい」
「いや、そういうことじゃなくて……。聞きたいことがあって」
「何? 俺から聞いとく」


 言葉に詰まった。おそらく長瀬は宇佐との仲を取り持ってほしいというようなお願いを他の女子からも何度もされてきたのだろう。あしらい方が慣れている人のそれだ。
 これ以上しつこくしても鬱陶しがられるだけだと思い口を閉ざしたその時、がらっと教室のドアが開く音がした。
 振り返れば、そこに立っていたのは――宇佐だ。


「江藤さんいる?」


 しかも、呼んだのは由麻の名前。夢かと思って目をぱちぱちさせてしまった。
 宇佐は由麻の姿をすぐに視界に捕らえると、ゆるく口角を上げて手招きしてくる。状況が呑み込めないまま早足で宇佐の元へ向かった。
 一緒に五組へ行こうと誘ってくれた茜の存在が気がかりだったので振り向くと、茜はちょっと驚いたような顔をしながら大袈裟なジェスチャーで『行ってこい!』と伝えてくる。由麻はこくりと頷き、宇佐と一緒に教室を出た。


「何で私が五組にいるって……」
「未来は最初から全部決まってるし、俺にはそれが視えるから」
「…………」


 やはりそうなのだ。宇佐は中学の頃から神童と呼ばれていた。とにかく頭が良かった。持ち前の計算力で、スーパーコンピューターのように、この世にある材料から全ての事象を予測することができるのかもしれない。


「……すごいね」


 思わずぽつりとありきたりな感想が漏れた。
 すると、宇佐が意外そうな目を向けてくる。


「江藤さん、簡単に俺のこと信じるんだね。普通、思春期の病で頭がイカれてるんだって思うよ」
「だって実際に二度も当たってるし。昔読んだ小説みたいでわくわくする」


 中学の頃ドラマ化もしていた、未来人が地球にやってきて予言を残し、それが全て的中する小説の展開に似ている。地球が滅びるという予言もあったためそれを覆そうとするのだが、結局失敗に終わって世界の終わりが来るというストーリーだ。暗い内容だが引き込まれた。
 そして今実際に、未来人ではないが未来予知ができる人物と会っている。気持ちが昂らないわけがなかった。


「確かに、小説だと面白いよね」
「……宇佐さんも小説が好きだよね。全部予測できるのに、面白いもの?」


 物語を楽しむうえで、“展開が読めない”というのは重要な要素だと思う。驚きがあったり新しい人物が現れたりするから楽しめるのであって、全て分かったうえで読むのは既に読んだ小説をもう一度読むのと同じようなものではないだろうか。
 気になって問いかけると、隣の宇佐は淡々と答えた。


「物語の世界は好きなんだ。予測ができないから。例えば少年誌の連載漫画とか、先の展開の予想や考察を多くの人がしてるでしょ。俺にはそれが全くできないし、視えない」
「……何で?」


 ネットにあがっている漫画の展開考察が当たっていることはたまにある。物語には現実と違って分かりやすい伏線がはられていたり、お決まりの展開があったりする。
 だから由麻にとっては現実で先の未来を予知するよりも物語の先を読むことの方が簡単なように思えるが、宇佐にとっては違うらしい。


「現実世界でこれだけ予測ができる代償かもね」


 宇佐が自嘲した。
 宇佐が昔から小説ばかり読んでいるのは、先が見えるこの世界の中で唯一未知を感じられる救いだったからなのかもしれない。