寝ぼけているのだろうかと思い口を半開きにしたまま何も返せずにいると、宇佐はふっとおかしそうに笑った。
「間抜け面」
柔らかい声だ。からかわれたというのに全然嫌な気がしない。
宇佐が立ち上がり、由麻をじっと見つめてくる。
「江藤由麻?」
ひゅっと息を吸い込むほど驚いた。何故宇佐が自分のフルネームを知っているのだろう。好きな人から呼ばれる名前は何だか愛しいものに思える。
「最近長瀬があんたの話してるよ」
理由はそれかと納得した。記憶力の良い宇佐は、友達が少し出した者の名前なんて簡単に覚えてしまうのだろう。
「ラプラスの悪魔、知ってるよ」
由麻は自分のことを基本的には冷静な人間だと思っているが、今回ばかりは酷く心が揺れていた。会話を続けようと必死だった。
「未来の全てを予測して、正確に知ることができる、全知の存在だよね?」
“未来は最初から全て決まっているのか”という物理学分野の議論の中で生み出された概念だ。科学的に否定されているものだが、以前読んだ長編小説でそれを題材にしたSFがあったため知っている。
宇佐はちょっと面白そうに目を細めた後、由麻に言った。
「俺がそのラプラスの悪魔だって言ったら信じる?」
「え……?」
「例えばあんたのクラスの明日の数学の小テスト。出るのは教科書五十六頁の大門一の(2)と(3)の数字を少し差し替えた問題」
「…………」
「それと……あとは、そうだな。あんたに関係することだったら……明日、五組のクーラーも調子悪くなる、とかか」
ぽつりぽつりと謎の予言を口にした宇佐は、持っていた本を閉じて棚に戻した。こうして近くに立たれるとその背の高さを実感する。
「じゃーね。江藤さん」
意味深な言葉だけ残して図書室を去っていった宇佐の背中を、由麻はただ見つめていることしかできなかった。