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 次の日の昼休みの昼食後、茜は六組の教室へ行ったが、由麻は一人で過ごすと伝えて図書室へ向かった。教室から距離が離れていることもあり、テスト期間に自習室として使われる以外はあまり人がいない図書室だ。
 適当に本を一冊引き出して静かな図書室の椅子に座り、開いた。
 社交的な茜は他クラスでも馴染めるだろう。しかし、由麻は広く浅い人間関係をそこまで好まない。それに、長瀬と喋っている時の長瀬グループの女子からの視線も気になる。あの女の嫉妬を感じられる目は苦手だった。

 第一章を読み終えた頃、昼休みが終わりそうな時刻になった。由麻は本を戻して図書室を後にする。
 階段をおり、教室へ向かっている時、廊下を歩いている長瀬と目が合った。珍しく一人だ。
 この向こうはお手洗いである。いつも人に囲まれている長瀬もお手洗いは一人で行くらしい。
 目が合ってしまったのが気まずい。そらしたら感じが悪いし、とはいえニコッと手を振るような間柄でもないし……と由麻が反応に困っていると、長瀬の方から声をかけてきた。


「『こころ』は?」


 そういえば、今度文庫本を貸すと言っていた気がする。でもあれは社交辞令のようなもので、まさか長瀬とまた話すことになるとは思っていなかったので持ってきていないし、準備もしていない。


「あー……。忘れた」
「マジ?」
「早めにほしかった?」


 ごめん、と由麻が呟くと、長瀬は少し姿勢を低くし、じっと由麻を覗き込んできた。


「由麻ちゃんってさ」
「……何?」
「俺にキョーミねぇよな」


 発言の意図が分からず、思わず眉を寄せてしまった。それを不快に思わせたものと感じたのか、長瀬が姿勢を戻して付け加える。


「や、そういう淡白な感じ、珍しいからさ」


 それは、長瀬が普段一緒にいる女生徒たちが女の子らしい子たちだからだろう。美男美女や流行や噂話に敏感で、感受性が高くて少しのことでも喜怒哀楽を表現できて、〝淡白〟とは程遠い人たち。きっと長瀬にはそのような子たちが合っている。華やかな趣味もなく反応が薄い自分と喋っていても面白くないだろう。
 もうすぐ昼休みが終わる。それに長瀬もお手洗いに行きたいだろうと思い、ハハ、と乾いた愛想笑いだけして通り過ぎようとした――が。


「由麻ちゃんって、何で宇佐のこと好きになったの?」


 長瀬は会話を終わらせる気がないらしい。


「……もうあんまり時間ないし、今度でいい?」


 左手に付けている腕時計を指差して言うと、長瀬は「おー。確かに。わり、じゃあまた今度ね」と軽く手を振ってお手洗いへ向かっていった。




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「いやーやっぱ長瀬くんかっこいいわ! 本気で狙っちゃおっかなぁ、あたし!」


 放課後、茜が意気揚々とそんなことを言ってきた。今日も昼休み長瀬と喋っていたらしく、いよいよ本気で好きになってきたという。


「弟が二人いて、お母さんが仕事で忙しい時はお弁当作ってあげてるらしくてね?  いやー、あんなキリッとした顔立ちで不器用で元気な男子! って感じなのにお料理もできるなんてギャップじゃない? あたしそういう男子超好き」
「まぁ、狙ってもいいんじゃない? 長瀬グループの女子に嫌われそうだけど」
「そんなん関係ないって! この世は弱肉強食よ!」


 拳を上げる茜に由麻はぷっと噴き出す。
 こういう明るく前向きで好戦的なところが由麻にはないところで、由麻が茜を好きな理由だった。


「あーっ! 今笑ったでしょ!」


 ぷりぷりと怒る茜は可愛らしく、友達の贔屓目かもしれないが、見た目で言うなら長瀬グループの女子と比べても遜色ないのではないか。
 そのうち昼食も長瀬と一緒に食べると言い出し、由麻は一人になってしまうかもしれない。それは少し寂しいな、と思っていると、まるで由麻の心を読んだかのようにタイミングよく茜が言った。


「っていうか! 明日は由麻も来てもらうからね?」
「えー……」
「何で長瀬くんのこと避けてんの? 優しい人だよ?」
「長瀬さんは別にいいけど、隣の女子たちが怖くない?」
「あ、大丈夫! あの子たちとも今日仲よくなったよ。表面上は、だけどね」


 ニヤリと笑う茜。恐ろしい子だ……と由麻は思った。



 茜はこの後すぐ塾があるそうで、図書室に本を返しに行く由麻とは別行動になった。
 提出し忘れていた課題を職員室に持っていった後、窓の外の夕暮れに染まる空を眺めながら廊下を歩く。桜ヶ丘大付属高等学校は野球とサッカーの強豪校で、今日も遅くまで部活をする人たちがグラウンドにいた。
 本気で頑張っている運動部とは違い、由麻は緩い文芸部所属である。中等部の頃は部活に所属していなかったが、高等部に上がる頃にはすっかり文章を読むのが好きになっていたのと、中学時代一度だけ授業で書いた短編を掲載してもらった縁があって入部した。
 活動内容は年に一度の文化祭に向けて自分でショートストーリーを書くというもので、それ以外は何をしてもいい。何も書かなくてもいいし、部員同士で企画して文章を印刷して図書室に置いてもいい。由麻は部内に友達がいないので特に何もしていない部類の部員だ。これまでした活動はと言えば、去年の文化祭で文章を印刷して出した程度である。本来、書くより読む方が好きだ。
 そんなことを思いながら、図書室に辿り着いた。放課後の図書室は基本的に誰もいない静かな空間だ。テスト前は自習する人でごった返すが、この時期は閑散としている。自動返却機で本を返して戻ろうとした由麻は、ふと灯りのついていない奥の方から風を感じた。
 見に行くと、掃除の時間でもないのに珍しく窓が大きく開いている。カーテンが大きく揺れた。
 そしてその下で――宇佐悠理が壁に背を預けて座ったまま眠っていた。

(…………)

 驚いて何も言えなかった。何故床に座り込んで寝ているんだろう、と恐る恐る近付くと、宇佐の手元に分厚い本があった。なるほど、本を読んでいる途中で眠くなってしまったのだろう。
 由麻はきょろきょろとクーラーのスイッチを探した。この図書室は冷房が効きすぎていて、寝るには少し寒すぎる気がしたからだ。設定温度を上げてから、宇佐の近くの椅子に座ってその寝顔を見つめた。

(寝てても綺麗な顔)

 こんなに近くで宇佐を見るのは久しぶりだ。見つめ続けるなんてまるで変態のようだが、少しだけだから許してほしい。
 次に風が吹き込んできた時、由麻は立ち上がった。その時、宇佐がぱちりと目を開く。びっくりして大袈裟なくらい肩が揺れた。
 数秒、見つめ合う時間ができた後、その形の良い唇がゆっくりと開かれる。


「――ラプラスの悪魔って知ってる?」


 高等部に入って初めて聞いた宇佐の言葉が、これだった。