暖かい春の風が吹き抜ける。
 私たちは、高校三年生になった。

 校舎の近くの桜並木では桃色の花びらが散っている。

「あ~あ。由麻とクラス離れちゃったなあ」
「仕方ないよ。クラス数多いし、一緒になる方が難しいでしょ」

 むしろ、これまで一緒だったことが奇跡だ。
 コミュニケーション能力が高い茜は新しいクラスでもやっていけるだろうが、私は知っている人がほぼいないクラスでこれから頑張っていかなければならない。

「あたし学校から家離れちゃったから遅刻しかけたぁ」

 茜は、この春休みにマンションの一室を借りたらしい。秋からずっとアルバイトでお金を貯めていたらしく、そのお金を使って狭い部屋で細々と暮らしている。好きだったネイルもやらなくなってしまったようなので、茜の今度の誕生日にはネイルポリッシュをプレゼントしようと思っているところだ。

「サッカー部、始業式まで練習やってるんだね」

 茜が窓の外を眺めながら言う。グラウンドでは、吉春たちサッカー部員が忙しなくボールを追いかけて走り回っていた。グラウンドの周辺には吉春のファンらしき女生徒たちが群がっているのが見える。

(相変わらずモテモテだな)

 あれから、吉春とは疎遠になった。〝友達になる〟と言っても、本当の意味でそうなるのが難しいことくらい分かっている。気持ちに応えられないのに仲良くしていたい、なんて私の方にしかメリットがない提案だ。だから寂しいと思う資格はない。
 それに、吉春のことだから、こうも思っているだろう。――悠理と付き合っている私が、変に吉春と絡んでいたら嫌な噂をされると。
 去年の秋、私は吉春と文化祭を回った直後に悠理と付き合い出したので、色々言ってくる生徒がいた。二股してたんじゃないかとすら噂された。吉春はそれを聞いて、露骨に私を避け始めた。きっと、私や悠理のことを考えてくれてのことだ。

 そう思っていた時、ちょうど試合休憩に入ったらしい吉春とたまたま目が合った。私と茜に気付いたのか、彼は窓際まで走ってくる。

「クラス分け見た?」

 吉春の問いに、隣の茜が頷く。

「うん! 長瀬くん、あたしと同じクラスだったよね」
「そ。また話そーな。茜も、……別クラスだけど、由麻ちゃんも」

 吉春の視線が私にも向けられる。
 元カノと、元好きだった人。きっと話しかけにくいだろうに、笑顔でそう言ってくれるところが吉春だと思った。

「うん。また皆でコンビニ行こう」

 私がそう言うと、吉春は「コンビニかよ」と笑って部活に戻っていく。
 都合の良い考えなのは分かっているけれど、いつか全てが吹っ切れた時、また皆で遊べたらいいと心から思う。

「由麻、今日は宇佐くんと帰るの?」
「うん。後で待ち合わせしてる」
「そっか~。あたしが引っ越したの由麻の家の方面だから、一緒に帰ろうと思ったんだけどな~」
「え、そうなんだ。今度遊びに行きたい」
「寂しいからぜひ来てほしい~。何なら明日でもいいよ!」

 茜がにこにこと楽しげに誘ってくる。
 クラスが変わっても、茜との関係は変わりなさそうだ。

 特進クラスは始業式の日も変わらず授業があるらしい。新しい教室で本を読んで待つことにした。


 誰も居ない教室の中に春風が吹き込み、カーテンが揺れる。暖かさを感じながら読んでいるのは、ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』だ。私が悠理のことを気になり始めた頃、悠理が読んでいた本。中学生の時は文が難しくて数ページで読むのをやめてしまったけれど、本に慣れた今なら読める。

 没頭していると、ふと、ページが人影で暗くなった。見上げると悠理が立っている。いつの間にか、特進クラスの授業が終わる時間になっていたらしい。

「……お疲れ様」
「『車輪の下』?」
「うん。悠理も読んでたでしょ。中学の時。私あの時初めて、この人難しそうな本すました顔で読んでるなって気になり始めたんだ」

 本を閉じ、鞄に仕舞って立ち上がる。
 二人で昇降口へ向かいながら、ふと今朝の進路アンケートのことを思い出した。もうすぐ内部進学の申請期間だ。

「悠理って外部進学?」
「由麻が内部進学だから、内部進学にしようかなって思ってるよ」
「そんな適当に決めちゃだめだよ。悠理は頭いいんだから、色んな選択肢があるでしょ」

 余程成績や素行が悪くない限り、桜ヶ丘付属高等学校の生徒は、エスカレーター式で桜ヶ丘大学に進学することができる。でも、特に特進クラスの生徒たちは例年、よりハイレベルな大学に外部進学する者も少なくない。

「寂しくないの? 俺がいなくなっても」
「寂しいけど、悠理の将来だからね。悠理には自分で納得のいく選択をして、幸せになってほしい」
「由麻はもう少し我が儘になった方がいいよ」
「うーん。でも、私にとっての愛はこれだから」

 そう言うと、悠理はちょっとぽかんとした後、ふっと柔らかく笑った。私の大好きな笑い方だ。

「そういうところ、好きだよ。由麻」

 もう誰もいないのをいいことに、手を繋いで歩き出す。
 昇降口を出ると、新しい春の訪れを歓迎するように小鳥が囀っていた。




 ――〝ラプラスの悪魔〟。量子力学で、因果律に基づいて未来の決定性を伝えるために仮想された、超越的存在。
 ラプラスの悪魔がいたとして、予測し得るのは〝既に確定した未来〟ではなく、〝起こり得るかもしれない未来の可能性〟である。