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 海辺でぼうっと生気のない虚ろな目で夕日を眺める香夜のミルクティーブラウンの髪は、いつも見ていたからすぐに見つけられた。

「何で……」

 香夜は俺に気付き、僅かに目を見開いた。俺の力のことを知っているくせに、ここに来るとは予想していなかったらしい。分かっていても俺が来るとは思っていなかったのだろう。それほど、自信を失っている。
 この人はどうしようもなく弱い。脆い。叩けばすぐに壊れてしまうような人だ。父さんに捨てられたあの時からずっと。

「……そう。まだわたしのこと予測するくらいにはわたしのこと頭に入ってたんだね。嬉しいな。あの子のことばっか考えてるからわたしのことなんて分からなくなってるんじゃないかなって思ってた」

 香夜はやつれていた。
 いつの間にか俺は、ここまで香夜を追い詰めていたらしい。最近、香夜のことを注意して見れていなかった。

「自覚なかった? 悠理、おかしいんだよ。夏くらいから。一緒に帰ってくれなかったり、急に同級生の女の子と遊んでその子の親に送っていってもらってたり、あんな柔らかい表情で喋る女の子の友達なんていなかったのに二人もそういう友達できてた。最近おかしいの、あの子と仲良くなったからでしょ? 捨てるんだ、悠理も、わたしのこと。クズ男。あんたもあの男と同じ血が流れてるんだね」
「……俺は、香夜のことが大切なままだよ」
「だったら変わってよ! 今まで通り、わたしのことだけ優先してよ! わたし、また捨てられるんじゃないかって思うと、怖くて怖くて……っまたあの痛みを味わうくらいなら、死んだ方がマシ!」

 叫びながら海の方へ歩いていく香夜は裸足だった。これから入水自殺するつもりだったのだろう。その声は震え、目は据わっている。
 海へ向かおうとする香夜の手首を掴む。
 ここで適当な甘い言葉を吐いて引き止めるのは簡単だ。でももう――俺はその言葉に責任を取れない。

 あの子のことを好きになってしまったから。

 最初はただの興味だった。俺の予測から外れる人間が初めてだったから、何となく、予測から外れ始めた中学の頃から約二年間、彼女のことを注意して見ていた。
 そのうち、彼女も俺を見ていることに気付いた。俺の予測では、彼女は俺に好意を抱いているようだった。しかし、彼女と俺の接点はほぼない。これも俺の予測外れだろうと思って近付いた。
 関わり始めてからも、彼女は俺の予測を超えていた。簡単に未来を変えてしまう。その姿に憧れたし、初めての予測できない人間に対する面白みも感じた。
 同時に、彼女の強さにも惹かれていった。俺のことを悪く言われるのが許せなくて、そんなキャラじゃないくせに他クラスの女生徒たちに反論していた。俺は直接見てないけれど、その予測を視た時、本当にあの子は俺のことが好きなんじゃないかと思い始めた。勘違いだったらと思うと恥ずかしくて言えなかった。
 ある日、俺に触れられた彼女が泣いた。戸惑った。同時に、やはりこの子は俺が好きなのだと気付いた。焦りもした。俺の予測では、俺はこの後もずっと香夜のことが好きだ。彼女を苦しめるくらいなら、期待に応えられないくらいなら離れようと思った。――由麻が俺を好きじゃなくなる未来が視えたなんて、嘘だ。俺が由麻の一途な思いに揺れた。離れるのが嫌だった。中途半端に彼女を許容した。俺の甘えだ。

「ずっと考えてたんだ。俺が自分への好意による行動を予測の材料に加えられないとして、由麻も香夜も俺のことが好きなはずなのに、俺は香夜のことを予測できる。でも由麻はできなかった。それがどうしてなのか」

 由麻は言った。自分のために変わろうとしてくれない人に尽くしてはいけないと。ただ純粋に俺のことを思って。

「香夜は、俺に変わってほしいって言ったよね。だけど由麻は……俺を好きになって自分を変えたんだ」

 由麻のこと、何も分からなかった。俺の中にある愛情のデータは香夜から集めたものだから。由麻から受ける恋情と、香夜から向けられる執着は別種のものだと、俺の脳が理解していなかった。だから推測にいちいち間違いが生じる。
 俺への恋心を起因として起きた由麻の変化と行動は、俺には予測できない。由麻が本を好きになったことも、だから予測できなかった。

「な……にそれ。もうそんなにあの子にご執心なわけ? 男っていっつもそうだよね。何年付き合ってても捨てる時は一瞬! 最低、最低最低最低――」

 未来が変わったのは由麻の存在のせいだ。正確に言えば、由麻の存在が影響して、俺が変わってしまったからだ。
 俺の中で由麻の存在が大きくなりすぎた。だから香夜を不安にさせた。

「俺は父さんじゃないよ。香夜」

 これまで香夜が好きだったから怖くて伝えられなかった本音を、きっぱりと伝える。
 俺だけじゃない。香夜と関わる他の男たちの誰も、父さんにはなれない。香夜にとってのたった一人は父さんなんだから。

「わたしのことずっと好きだよって言ったくせに!!」
「ごめん」
「あれも嘘だったんだ」
「嘘じゃない。あの時は本当にそう思ってた」
「未来が視える悠理の言葉だから信じたのに!!」

 俺のことを好きになった由麻のことを好きになった。未来を、自分をも変えようとする力を持つ由麻に惹かれた。
 変わらないものも、変えられない未来もないことを、俺はあの子に教えてもらった。

「ごめん。でも、香夜が俺に言った〝好き〟って言葉も嘘だったでしょ」
「嘘じゃないもん!!」
「香夜は父さんが好きなんだよ」
「あんな男好きじゃない!! わたしはあんなクソ男いつまでも好きで居続けるような馬鹿女じゃない!! 男なんて他に一杯いる!! わたしは可愛いし、選べる立場なんだよ!? それなのに、いつまでも自分を捨てた男に恋してるわけないじゃんっ……!」
「そうやって自分に言い聞かせてるんでしょ。ずっと」
「うわああああああ! うるさい! うるさいうるさいうるさい!!」

 香夜が物凄い力で腕を振って俺を押し返そうとする。決して離さないようにその手を力強く掴んだ。

「何で離してくれないの! わたしのこともう好きじゃないなら、死んだっていいでしょ!」
「ここで死んでいいの。香夜」
「死んでもいいよ! わたしに価値なんかないもん! どうせ皆、価値のないわたしのことなんか捨てる!! わたしはクズ! 不倫に荷担したクズ、選ばれなかったクズ、生きてる価値ない!!」

 ――これが香夜の本音だろう。いつも必死に強がって、気高く見せている香夜。でもそれはそうしていないと立っていられないからだ。父さんに捨てられてから、両親にも散々不倫のことを罵られて、香夜の自信は地の底まで落ちている。

「本当にいいの」
「いいって言ってんじゃん!」
「今は価値がないって思っててもいい。でも、俺から見た香夜にはいいところ一杯あるよ」
「……っそんなの……ないよ……」
「変わろう。香夜。まだ遅くないよ。俺の人生も香夜の人生もまだ長い」
「……っ、う、ううっ……」

 泣きじゃくる香夜の力が弱くなっていく。いつもこうだ。ヒステリーを起こした後、力尽きて落ち着いていく。香夜の精神状態は、三年かけてゆっくりと悪化していっている。
 綺麗にメイクした顔は涙でぐしゃぐしゃに崩れている。俺が掴む腕も、最近もっと細くなったように思う。食べてもすぐ吐いている。

「長いのが苦しいんだよ……ずっと心をハサミで切り刻まれてるみたい。早く死にたいってずっと思ってる。悠理までいなくなったら、わたしもう立ってられないよ」
「立てるようになればいい。これから」
「そんな簡単に言わないで」
「少なくとも、俺はもう香夜の隣にはいられない」
「嫌だ」
「香夜は自分が思っているほど弱い人じゃないし、駄目な人間でもない。もし自分で弱いと思うなら、これから変わればいい。過ちを犯したことを悔いてるなら、反省して立ち直ればいい」

 香夜が水の上に崩れ落ちた。ズボンをびしょびしょに濡らしながら、大きな声で泣いている。
――俺の頭に、ようやく、一人で立ち上がる香夜の姿が視えた。
 蹲って泣いている目の前の香夜とは百八十度違う、俺の手から離れて歩き出す香夜の姿が。

 未来が変わった。三年前、どんなに願っても変えることのできなかった未来が。

 結局、香夜が変われなかったのは、俺が傍にいたからなのかもしれない。〝香夜には俺がいないとだめだ〟なんて自惚れだった。俺の存在が香夜を駄目にしていた。父さんに似ていて、都合よく父さんの代わりをやってくれる俺という存在が、香夜を依存させて離さなかったのだ。

(俺にもできたのか)

 諦めなくてよかった。未来を諦めようとしていたのは俺自身だ。三年前からずっと諦めて、よく知った展開をなぞるように現実を過ごしていた。

 勇気をくれたのは由麻だった。
 早くあの子に、お礼が言いたい。



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