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 二週間に一度、音楽室で会って話す約束。思い返せば宇佐と由麻の始まりはここだった。
 カーテンが揺れ、冷たい風が入り込む。最後に宇佐とここへ来た日に比べると寒さが増しているように思った。
 二人で椅子を出して窓際に並んで座った。宇佐が話し始める。

「香夜と出会ったのは俺が中学、香夜が高校生の時。香夜は当時、俺の父さんの恋人だった」

 以前、宇佐はひとり親家庭だと言っていた。残っているのは母親だ。何となく先の話が予想できてしまった。宇佐の両親が離婚した原因はこれだろう。

「俺の父さんはクソみたいな奴でね。香夜は最初、父さんに相手がいることを知らなかった。過去に結婚経験はあるけど未婚だって聞いてたらしい。香夜は父さんが既婚であることを途中から知ったけど、その時にはもう恋心を抑えられないところまで来てたらしい。香夜は、不倫をやめなかった。俺は父さんが不倫を始める未来も視えてたし、その後の破滅も視えてたけど、分かってて何もできなかった。俺が何とかして止めようとしても別の形で同じ未来に繋がった」

 恋心を抑えられないという気持ちには覚えがあった。不倫は絶対にしてはいけないことだが、既婚者であることを知らないところから始まった恋では、感情のコントロールも難しかったのだろう。まして、当時の香夜は由麻と同じ高校生。自分のしていることの罪の重さもよく分かっていなかったのかもしれない。

「その後裁判沙汰になって、香夜の両親にもこの話が伝わって、香夜は家族に酷い扱いを受けるようになった。香夜は俺が見ても分かるくらい精神を病んでいった。漠然と――俺が責任を取らなきゃって思った」
「責任……」
「父さんは母さんと別れたけど、その後香夜とくっつくなんてことはなかったんだよ。そもそも香夜は未成年だし、香夜のご家族からの猛反対も受けるだろうしね。香夜は捨てられて、その後、父さんくらいの年齢の男の人とばかり遊ぶようになった。同級生とも遊ぶようになった。心の傷を他人で埋めないと立っていられない人なんだ」

 リコから聞いた、香夜は援助交際しているという噂を思い出す。香夜は、宇佐の父と同年代の相手を求め、宇佐の父親の代わりとなれる存在を探し続けているのかもしれない。

「俺は父さんが香夜へしたことへの責任を取るために、ずっと香夜の傍にいた。一緒にいるうちに、いつも強がっている香夜の弱い部分を見て、口では強がってても本当は尋常じゃないくらい深く傷付いていることを知った。男遊びも同じ学校の何人かに目撃されて香夜の評判は悪くなるばかりで、香夜は孤立していった。香夜を一人にできないと思って付き合った。香夜も俺が父さんと似てるからか、俺に依存的になっていった。付き合ってるって言っても、元はこんな歪んだ関係だよ。それでもいつか俺が香夜のことを救いたいと思ってた。でも――」

 宇佐の顔が歪む。

「思ったんだ。未来は俺の力じゃ変えられない」
「…………」
「そもそも、不倫してる香夜だって止められなかったんだ。未来が分かっていたのに。香夜の男遊びだって何度も止めようとした。でも未来は変わらなかった。こんな力、何の役にも立たない」

 宇佐は、〝ラプラスの悪魔〟が嫌いなのだ。既に観た映画をもう一度観るように進んでいく現実をただ眺めていることしかできない。結末がバッドエンドでも、観ていることしかできない。どうせ先を変えられないのなら先が視えたって仕方がない――由麻がこの力を持っても、そう感じてしまうかもしれない。

「どうして私に教えてくれたの」
「……変わりたいと思ったから。由麻や、由麻が関わって変わっていた吉澤茜みたいに」
「私は何も変わってないよ」
「でも、変わろうとしていたでしょ。それが俺にとっては凄いことなんだよ。俺は自分を変えることも他人を変えることも、途中で諦めてしまったから」

 ずっと俯いて話していた宇佐が、隣に座っている由麻の方に顔を向ける。

「文芸部の展示見た」

 ぎくりとした。文化祭までまだ数日あるのに、もう飾られていたのか。
 あれは宇佐のことを想いながら考えた歌だ。恥ずかしくて目を逸らそうとすると、ぎゅっと手を握られる。

「由麻、俺――」

 何か言いかけた宇佐が、突然黙り込んだ。おそるおそるその顔を見上げる。何か予想外のことが起こったかのように、宇佐の顔が強張り、酷く青ざめている。
 何か異常事態が起こったのだとすぐに分かった。

「……何で……未来が変わった……?」

 ぼそぼそと動揺した様子で呟く宇佐の手が僅かに震えている。

「何も予定外の行動はなかった、なのに、」

 宇佐が由麻を視界に捉え、ハッとしたような顔をした。

「そうか……由麻の存在。由麻の存在が香夜を……」

 納得したように呟いた宇佐は、次の瞬間がくりと項垂れた。その表情はあまりに疲れきったもので、どうしたのかと心配しながら次の言葉を待つ。

「――香夜が死ぬ」
「え……?」
「自殺だよ。もう時間がない。場所は、父さんと最後にデートした海。今から電車に乗ってもギリギリ間に合うかどうか――クソ、何でもっと早く予測できなかったんだ」

 宇佐の手が冷たい。
 咄嗟に聞いた。

「どこの海?」

 宇佐がぽつりぽつりと海岸の名前を零す。聞いたことのある海岸だが、場所はかなり遠い。県内ですらない。
 由麻は、勢いよく立ち上がって宇佐の手を引いた。

「行こう、宇佐さん!」

 音楽室の椅子を倒したまま、ドアを開けて外へ出る。

「駄目だよ、もう間に合わない」
「間に合うかもしれないでしょ」
「〝ラプラスの悪魔〟が間に合わないって言ってるんだ」
「〝ラプラスの悪魔〟は否定されてる!」

 後ろ向きな宇佐に向かって大きな声で言った。

「バタフライ・エフェクトを信じようよ。アフリカで一匹の蝶々が羽ばたいたことが原因で、数カ月後テキサス州で竜巻が起こるかもしれない。未来は私たちの僅かな行動や変化にかかってる」

 廊下を走り抜け、ローファーにも履き替えず、上履きのままで校門を出る。文化祭準備をしていた生徒たちが稀有なものを見る目で宇佐と由麻を見てきた。そんな視線などお構いなしに走り続けた。
 最寄りの駅から電車に駆け込む。ギリギリ間に合った。由麻たちの勢いに、周りの乗客がちょっと驚いたような顔をしている。『駆け込み乗車はご遠慮ください』というアナウンスが響いた。
 息を整え、椅子に座った。この街の中心部にある駅で新幹線に乗り換えるのがベストだろう。

「間に合わない可能性の方が高いのに、何でここまで」
「ここで行動しなかったら、宇佐さんはもっと後悔することになる。それだけは嫌だよ」

 きっぱりと言い切ると宇佐は黙った。
 駅で乗り換え、快速新幹線に乗り込んでからは、緊張の時間が続いた。隣の宇佐も余程焦っているのか、ずっと黙り込んでいる。
 人の生死に関わる未来を変えようとしたのはリコの時も同じだが、あの時はここまで切羽詰まってはいなかった。ほとんど関わりのない相手でも、知っているというだけでその死は恐ろしいものだ。ずっと傍にいた宇佐ならもっと恐ろしいだろうと思った。



 新幹線は、夕方に海岸近くの駅に到着した。

「由麻、ありがとう」

 宇佐はもう、音楽室に居た時のような青ざめた表情ではない。覚悟を決めたような顔で立ち上がって由麻を見下ろしてくる。由麻は小さく頷き、宇佐を見送った。
 改札を抜け、走り去っていく宇佐の頼もしい背中に向けて手を振る。

(……さよなら)

 心の中で別れを告げた。
 由麻の好きな人は、由麻を置いて、大好きな恋人の元へ向かった。
 満足だった。最後まで好きな人のことを考えて行動できた。悔いはない。それでも、涙は溢れる。

「結局最後まで、好きってちゃんと言えなかったなあ……」

 悲しいのは、後悔しているからだ。
 言わずとも伝わっているのだから同じである。それは分かっているけれど、一度、たった一度だけでも、自分の口から言ってみたかった。

 帰りの新幹線の切符を買い、駅弁も買った。次の新幹線を待ちながら、駅の向こうに広がる海を見て、文芸部の課題で出した歌を小さな声で詠んだ。


 想い寄せ 君の読む本 ページを捲る
 叶わぬ恋と 知っている
 窓の外 揺れるカーテン ひりつく気持ち
 一つ願うは 君の幸せ


 たとえ私の隣にいなくても。あなたの幸せを願っている。