:

 その後二日間、茜は学校を休んだ。家まで送った後何かあったのかと心配したが、欠席理由はまさかのインフルエンザだった。母親が久しぶりに仕事を休んでくれて、病院までは行けたらしい。
 38.5度の体温計の写真が送られてきて、『これ、昨日の夜の熱! ズル休みの時に使えそうじゃない? フリー素材だから由麻も使っていいよ』なんてふざけたメッセージも付いていた。それを見てちょっと笑ってしまった。
 ある程度下がったものの、熱はまだ続いているようだ。放課後に病人でも食べやすいようなゼリーや飲み物を買って茜の家に寄ろうと思った。

「来月はいよいよ中高の文化祭だ。今日は文化祭実行委員と、このクラスでの出し物を決める。委員長、前に出てきて」

 ――そう思っていたのに、用事がある日に限って、帰りのホームルームに長引きそうな話題が持ち込まれた。
 桜ヶ丘付属高等学校では中等部と合同で毎年十一月下旬に文化祭が行われる。大学祭は別にあり、中高の文化祭とは二週間先に開催される。

(もうそんな時期か……)

 六組の委員長と副委員長が前に出て、生徒たちから出た意見を黒板に書いていく。お化け屋敷やたこ焼き屋など、他のクラスとも被りそうなアイデアもあれば、ウォータースライダーなど準備の残り期間を考えると実現可能性が低いものも上がってくる。
 ある程度候補が上がったところで、多数決で手を挙げることになった。意見はお化け屋敷と割れたが、結局、一番手を挙げる人の数が多かった射的に決定した。

「はい、じゃあ出し物は射的ですね~。景品とかについてはまた話しましょー。次、文化祭実行委員、やりたい人いますかー」

 さっきまでの騒がしさから一変、教室内が急に静まり返った。案の定、誰も手を挙げない。
 由麻にも気持ちは分かる。文化祭実行委員というのはかなりの激務だ。しかも、各クラスから一名。二名ならまだ楽しみようもあるかもしれないが、文化祭実行委員になったが最後、実行委員の仕事にばかり手を取られて折角の文化祭をクラスメイトとあまり過ごせないことになる。去年もなかなか決まらなかった。

「くじ引きにしましょうか」

 これではいつまでも決まらないと感じたらしい副委員長がスマホを取り出し、グループにくじ引きアプリで作ったくじ引きのURLを送る。

(私も一応文化部だし、部活でもやることがあるから、当たりたくないな……)

 文芸部所属では、詞でも短編小説でも何でもいいので、文化祭で展示するものを一作は出さなくてはならない。顧問からのお知らせは一週間前にあったが、作品自体はあまり進んでいなかった。
 緊張しながらくじ引きの結果を見ていると、【当たり!】という明るいオレンジ色のメッセージが画面に表示されていた。

(運、悪……)

 一クラス四十人中の、たった一つを引き当ててしまった。

「ええっと、江藤さんね。ごめんね。もし大変なこととかあれば声かけてくれたら、私も手伝いますから、言ってくださいね!」

 委員長が同情して気遣ってくる。由麻は「頑張ります……」と心配させないよう前向きな言葉を言っておいた。
 黒板に書かれた〝文化祭実行委員〟という丸い字の下に、〝江藤由麻〟と由麻の名前が書き足される。
 今年の文化祭は、忙しくなりそうだ。



 ホームルームが終わる頃には夕焼けで空がオレンジ色に染まっていた。
 飲み物とゼリー、パンを買って自転車で茜の家に向かう。茜の家は由麻の家より学校から近く、五分ほどで到着した。
 邪魔にならない場所に自転車を止め、カゴの中に入ったスーパーの袋を持って玄関に向かうと、見知った顔が先に立っていた。「あ」と互いの声が重なる。
 由麻と同じように、スーパーの袋を持って先に立っていたのは長瀬だ。学校の最寄りのスーパーの袋を見て、店被った、と思った。

「茜のお見舞い?」
「おー。由麻ちゃんも?」
「うん。もしかして食べ物買ってきた?」
「ポカリと水とパンとうどん」
「被った……」

 買った中身も被っている。食欲のないインフルエンザ患者に大量の食料を押し付けるような形になってしまうのでは、と少し気が引けた。
 長瀬は「多い分にはいいだろ」と笑ってインターホンを押した。しばらくして、インターホン越しに『はい』と茜ではない女性の声がする。

「僕たち、茜さんの学校の同級生です。お見舞いに来ました」
『ああ……はい、ちょっと待ってね』

 おそらく茜の母親だろう。ばたばたと足音が近付いてきたかと思えば、玄関のドアが開かれる。予想していたよりも派手な女性だった。明るい金髪に、濃いメイク、長い爪、大きめのピアスとネックレス。服もお洒落だ。着飾るのが好きそうだ。

「来てくれてありがとう。これはあたしから渡しておくわね。会わせてあげたいところだけど、感染症だからね……」

 茜の母は申し訳なそうに由麻たちから袋を受け取る。

「……あの、できればなんですけど、この後も、茜に熱がある間はできるだけ茜の傍にいてほしいです」

 由麻は茜の母を見据えて言った。

「中学の時、茜、球技大会の時にバスケでぶつかっちゃって。骨折したの覚えてますか?」
「ああ……そんなこともあったわね」
「茜、あの時全然そんな素振り見せなかったんです。痛くても、打ち上げ終わるまでにこにこしてました。皆帰って、私と二人になった時にようやく、めっっっちゃ痛いって騒ぎ出したんです」
「…………」

 茜の母が、はっとしたように黙り込む。

「茜は空気読むし、気遣い上手です。その分自分のことは二の次だし、身近な人に助けてってなかなか言ってくれない。傷付いてる人が傷付いてる顔してることは稀なんです。平気そうに見えて平気じゃない時だってある。茜のこと、簡単に大丈夫だって思わないでほしいです」

 由麻は最後まで言い切ってから深々と頭を下げる。

「よろしくお願いします」

 隣で、長瀬も頭を下げていた。

「俺からも、よろしくお願いします」

 しばらくして、茜の母が「顔を上げて頂戴」と言った。由麻と長瀬が顔を上げる。すると、茜の母は少し悲しげに微笑んでいた。

「ありがとう。茜のことを大切に思ってくれて。甘えみたいなことを言うけど、あたしはとっくに自分のキャパシティを超えるくらい働いていたみたい。忙しくて茜のちょっとしたサインに気付かなかった。今思えばあれはもしかしてって思うことあるの。なのに余裕がなくて……」

 茜の母はそこまで言って顔を覆い、ずずっと鼻水を啜る。泣くのを堪えているようだった。

「お友達に、こんなに心配させちゃうなんて、親失格ね」

 由麻も長瀬も何も言わず、涙を必死に呑み込む茜の母を見守っていた。

 結局茜には会えず、茜の母と話すだけで帰ることになった。長瀬の隣を歩きながら、ちらりと長瀬の横顔を見る。茜の家を離れてから、長瀬はずっと無言だ。いつもお喋りな長瀬がここまで静かなのは珍しい。
 かと思えば、「っあ~~~」と言いながら頭を掻き始めた。何だこいつ、と様子を観察していると、長瀬が勢いよくこちらを向いた。

「由麻ちゃん、やっぱかっけーね。俺大人相手にあんな風に言えねぇもん」
「茜のお母さんだからだよ。授業参観とかで話したことあるんだ」
「話したことあっても、こういう内容は物怖じしちゃうだろ。……俺、ちょっと情けねぇかも。俺よりずっと男前だな、由麻ちゃんは」

 長瀬はきまりが悪いらしく、少し俯く。由麻はそんな長瀬を励ました。

「長瀬くんもありがとう」
「何が。俺、何もできてねぇよ」
「茜の傍にいてくれたから」
「…………」

 駅の手前で、長瀬が急に立ち止まる。

「由麻ちゃん、あのさ」

 真剣な表情でじっと見つめてくる長瀬の目が、いつもと違う色を孕んでいてどきりとした。

「……いや、やっぱ何でもねぇ。今言うことじゃなかったわ」

 長瀬は言いかけた言葉を途中で止めて歩き始めた。由麻は怪訝に思いながらその後に続いて改札を抜ける。由麻たちの乗る電車が来るまであと五分ほどある。

「文化祭もうすぐだよな。六組はもう話進んでんの?」
「今日のホームルームで出し物は決まったよ。文化祭実行委員も……」

 由麻が嫌なことを思い出してどんよりしていると、それに気付いた長瀬が何故か楽しそうに食いついてくる。

「もしかして、由麻ちゃん、実行委員に選ばれたりした?」
「そうだよ。ちょっとめんどくさい……」
「俺も! 実行委員」
「ええ? 長瀬くんも?」
「だってやりたがる人いねぇんだもん。じゃあ俺がやるかって思って。由麻ちゃんいるならちょっと楽しみになってきたわ」

 長瀬は急に上機嫌になってニコニコしている。その表情はいつもと違って少し子供っぽくて、このギャップにやられる女子は後を絶たないだろうと思った。
 しかも、実行委員になったのも由麻のようにくじ引きで決められたというわけではないらしい。他にやる人がいないから率先してやるという献身っぷりと良心。長瀬が人気な理由がここにも隠されている気がした。


 :

 その夜、由麻は文芸部の課題に取り掛かった。実行委員になったこともあり、今後は今よりも忙しくなってくるだろう。やるべきことは早めにやった方がいい。
 しかし、久しぶりに文章を書くということもあり、なかなか内容が思い浮かばない。そもそも書くより読む方が好きなのだ。感想文であれば書けるのだが、顧問から来ている課題についてのメッセージを読み返す。

『課題内容を下記から選んで作成してください。
創作小説(お題自由、短編可)・エッセイ・短歌・自由形式の詞』

 由麻は部屋の椅子の背もたれに背を預けた。古い椅子なのでぎしりと嫌な音がする。

(短歌か……)

 シャーペンを持ち直し、ペン先を紙の上でゆらゆらと揺らした。
 その瞬間、頭に浮かんだのは、バックミラー越しに見た宇佐と、宇佐の彼女である香夜が抱き合っている姿だ。胸がきりきりと刻まれるような痛みがする。

「失恋の歌なら、書けたりして」

 自嘲気味に呟いた。
 そして、ペンを走らせる。紙の上に書き殴り、文字数調整や言葉選びをしているうちに、日付が変わっていた。