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 高校生割り引きがあり、少し安く一時間コースを取ることができた。ジュースとポテトとからあげを頼んだ由麻たちは、そこからずっと歌い続けた。歌い続けたと言っても、歌っているのはほぼ茜だ。由麻は流行りの楽曲を知らないので、茜が歌う歌を聞いて学んだ。
 ワンドリンク制だったが、由麻にはさっき宇佐にもらったお茶があるので、頼んだオレンジジュースは茜に譲った。宇佐はリンゴジュースを飲みながら、無表情で茜の歌を聞いている。

『由麻と宇佐くんも次歌いなよ! あと四十分しかないよ! 早く予約して!』

 間奏中、マイクを通して茜が急かしてくる。歌はそこまで得意でないのだが、仕方なく中学の合唱会で歌った、知っている曲を予約した。宇佐にも促すと、「何が聴きたい?」と聞いてくるので、昔母の車で流れていた曲の名前を伝える。古いので知らないかと思いきや、宇佐は「ああ」と納得したように曲名を検索した。

(宇佐さんは知らないことの方が少ないんだろうな)

 ちょっと感心しているうちに茜が歌い終わる。九十点。なかなかの高得点なのではと思って褒めたが、茜は「いや、これは採点甘いやつだから!」と謙遜していた。
 その後、由麻と宇佐も一曲ずつ歌った。由麻も宇佐も歌うより聞く方が楽しいタイプなので、残りの時間は茜に譲った。

(宇佐さん、歌うまかったな……)

 勉強もできて歌も上手。彼に弱点はないのだろうかと思った。

 時間になると呼び出しの電話がかかってきた。コップをテーブルの上に纏めてから個室を出た。
 咄嗟に遊びに誘ってしまったが、今日の本題はそこではない。宇佐も付き合わせてしまっていることだし、早めに切り出さなければという焦りが生まれる。
 カラオケの料金を払って外に出ると、母から『駐車場で待ってるよ~』と連絡が来た。茜と、もう一人同じ学校の生徒が一緒にいることは伝えてある。母は二人も家まで送ると言ってくれていた。

 駐車場に向かいながらいつ本題を切り出そうと悩んでいるうちに、ぴたりと茜が歩を止めた。振り返ると、茜は俯いている。

「…………帰りたくない……」

 茜は立ち止まったまま動かない。

「楽しかった。このままずっと由麻と遊んでたい」

 その瞳から、ぽろぽろと涙が溢れていた。びっくりして駆け寄る。

「どうして帰りたくないの?」
「あたしのママ、夜も働いてて。帰ってくるの朝なんだ。朝も店で寝てて帰ってこないことあるの」
「一人が嫌ってこと?」
「一人じゃない。一人だったらもっといい。うちには、兄がいる」

 茜に四つ上の兄がいるというのは聞いたことがある。とっくに大学進学などで家を離れているものと思っていたが、まだ同居しているらしい。
 茜が泣きながら打ち明けてきた。

「お兄ちゃん、発達障がいなの。物は投げるし、多分自分の衝動を抑えるのが苦手ですぐ暴力振るってくる。体だけ大きくて力もあたしより強いから抵抗できない。ママの前では何でか大人しくて、ママも分かってくれない。ママは昔からお兄ちゃんに付きっきりだったから、そのせいであたしがヤキモチやいて気を引こうとしてそんなこと言うんだって思ってる。あたしは大丈夫、あたしは健康だから平気って思ってて話聞いてくれない。だからあたし、朝はできるだけ早く家を出て、夜は自習室で時間潰してできるだけ遅く帰る」

 ――茜がずっと長袖を着ているのは、リストカットの痕を隠したいからだけでなく、兄からの暴力の痕を隠したいからというのもあったのかもしれない。

「お兄ちゃんのことはママが定期的に精神科に通わせてるけど、薬飲んでくれないし、あたしが飲んでって言ったら指図するなって怒ってくる。でも飲ませなきゃいけないから嫌でも話さなきゃいけなくて、そのたび暴言浴びせられて暴力振るわれて……あたし、たまにお兄ちゃんがいなくなればいいのにって思うんだ。そんなこと考える自分が嫌になる。お兄ちゃんが悪いわけじゃないの分かってる。お兄ちゃんの特性だってこと分かってる。でもあたし、お兄ちゃんさえいなければ、もっと家にいやすいのかもって……っ最低だよね、最低だよね。最低だよね。あたし自分のこと大嫌い」

 こんなに泣いている茜を見るのは初めてだ。由麻は咄嗟に茜を抱きしめた。

「話してくれてありがとう。怖かったよね」
「結局、言っちゃった。相談したってどうしようもないこと話して由麻を困らせたくなかったのに」
「困ってないよ。教えてくれて嬉しいよ」
「嘘だよ。あたしの負の部分ぶつけたら、相手は嫌な気持ちになる。だからあたしはいつも能天気で明るくいなきゃだめなの。長瀬くんだって最近、あたしが家の愚痴言い出すとちょっと疲れたみたいな顔する。長瀬くんのこと優しいから利用してる。長瀬くんのこと好きだった気持ちは本当のはずなのに、長瀬くんを思いやれてない。あたしだけが寄りかかってる。都合の良い感情のはけ口にして、我が儘言って付き合ってもらって同情してもらって――あたしは、自分の弱い部分でしか他人の気を引けないようなあたしが大っ嫌い」

 いつも明るくて気遣い上手で人を笑顔にすることができる茜が、自分のことを嫌いと言った。人は見かけによらない。茜は大きな自己嫌悪を背負って生きているのだ。今もずっと。

「――二人で考えよう」

 茜の背中を擦りながら言う。

「一人で背負わないで。そう簡単に解決できることじゃないかもしれないけど、私にだって話を聞くことはできる。茜が負の部分をぶつけてきても私は何も思わない。隠される方が苦しいよ。茜は一人じゃない」
「う……っうう……っ」
「……一応、俺もいるよ。ろくに喋ったことないし、頼りにならないかもだけど」

 それまで黙って聞いていた宇佐が口を開いた。茜は泣きながら顔を上げて宇佐を見ると、「ありがとお~~~全然関わりないのに気使わせてごめんなさい~~~あたし最悪~~~」と大きな声で言ってもっと泣き始めた。
 人通りの少ない夜の道路に茜の泣き声が響く。子供のように泣き続ける茜を、通りすがりの大人たちがちらちら見てくる。その視線から庇うように、由麻は茜を抱きしめ続けた。



 その時、視線を感じた。振り向くと由麻の母親が気まずそうにそこに立っている。母は、品のある小綺麗な服装とばっちりメイクのままだ。いつも家に帰るとすぐメイクを落としているため、仕事帰りにそのまま寄ってくれたことが窺える。

「ごめんなさい……。聞くつもりなかったんだけど、あまりに遅いし連絡返ってこないから心配で」

 母は遠慮がちに言い、手招きして駐車場へと歩き始める。祖母からもらったであろう大きな丸いピアスが母の耳元で揺れた。

「とりあえず、ここで長話もあれだし、車に入ろっか。他の二人も家まで送るわ」

 由麻と茜もそれに続いた。茜はまだ啜り泣いており、必死に自分を泣き止ませるように何度も目を擦っている。

「ちょっと由麻、茜ちゃん以外のもう一人って男の子だったの? 男の子のお友達なんて初めてじゃない?」

 茜と並んで歩く由麻に、母がこそこそと小声で言ってくる。やや後方を歩いている宇佐に聞かれてしまうのではないかと焦り、口の前で人差し指を立ててしーっと黙るようアピールした。これまで男っ気のなかった由麻に男友達ができたのが面白いのか、母は車に着くまでニヤニヤしていた。
 由麻は助手席に、茜と宇佐は後部座席に乗り込む。茜はようやく少し泣き止んでいた。母は茜と宇佐から住所を聞いてカーナビに入力した。

「茜ちゃん、さっきの話だけど」
「――は、はい」

 車のエンジンをかけながら、母が茜に話を切り出す。茜の声音が一気に緊張したのが分かった。
 触れにくい部分であるはずなのに、あっさりと話題にしてきた母にぎょっとする。母の、いや、大人の強さを感じる。

「一度、お兄さんとの会話を録音してみたらどう? 今はスマホの録音アプリもあるでしょう」
「……でも、家族を録音するなんて」
「茜ちゃんに実害が出ている以上、お母さんやお医者さんの協力が必要よ。お兄さんの状態を専門家に伝えるためにも、分かりやすいものが必要だわ」

 母は車を運転し、由麻の家とは逆方向に走る。まず茜の家へ向かっているようだ。

「家庭内の問題を、家庭内で解決できることって少ないのよ。頼れるところに頼るのが大事。特に、専門家にね」

 車が赤信号で止まる。茜は黙って母の話を聞いていた。

「うちのおじいちゃんもアルコール中毒で一時期大変だったのよ~。癌で五年前に死んだんだけどね。ねえ、由麻?」

 母が笑いながらちらりと由麻に目配せする。由麻は昔祖父に散々暴言を吐かれたことや、辛そうにしていた祖母のことを思い出して嫌な気持ちになった。

「ああ……あの飲んだくれじじい……」
「あはは、ほら、由麻はおじいちゃんのこと嫌いだったの。茜ちゃんもこれくらい嫌悪感抱いててもいいのよ。もちろん本人じゃなくて病気が悪いのはそうなんだけど、周囲も大変だからねえ。吐き出せる時は吐き出しちゃいなさい」
「……ありがとうございます……」

 茜は小さな声でお礼を言う。バックミラー越しに様子を見ると、また俯き、声を押し殺して泣いているようだった。

 しばらくして茜の家に着いた。茜の家はどの部屋も電気がついておらず、暗く寂しそうに見える。
 車を道の端に寄せて止めた母は、最後に茜にこう言った。

「じゃあね、茜ちゃん。お兄さんの暴力がエスカレートしたらすぐ警察に電話するのよ」
「警察……でも、家庭内の問題なのに大袈裟じゃないでしょうか」
「大袈裟じゃないわ。茜ちゃんは被害を受けてるの。ちゃんと助けを求める資格がある」

 茜は黙り込み、しばらくした後ゆっくりと頷く。そして、「送ってくれてありがとうございました」と呟いて車を出ていった。
 窓を開けて、家に向かう茜の後ろ姿に向かって言う。

「私たち、茜の味方だから」
「……うん」
「怖い時は、私の家に泊まってもいいから」

 茜がこちらを振り返り、深々とお辞儀をした。

「由麻、ありがとう。宇佐くんも、由麻のお母さんも、ありがとう」

 完璧に救うことは難しいかもしれない。でも、茜が一人じゃないことだけでも伝えられた。それだけでも、今日茜に会いに行ってよかったと思った。