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(どうしたら話してくれるんだろう……)

 長瀬が教室からいなくなった後、由麻は長く考え込んでしまい、結局学校にいるうちに宿題を終わらせることができなかった。
 茜に由麻から直接聞くのは多分違う。茜は由麻の深掘りしてこないところに気楽さを感じている様子だった。茜に無理やり話させるのは、追い詰めているのと同じだ。自然に、茜から話したくなるような状態を作りたい。
 改めて、人は多面性があるのだと思った。由麻から見た茜は、若干の違和感はあれど概ねいつも通りだったのだ。長瀬から見た茜と、由麻から見た茜は随分と違う。
 思考を巡らせながら昇降口から出た時、向こうから宇佐が走ってきた。
 学校が終わってから三時間ほど経っている。何故まだ残っているのだろうと不思議に思っていると、宇佐は由麻の前で立ち止まる。

「……宇佐さん、口切れてる?」

 まるで喧嘩した後のように怪我をしているうえ、制服も乱れていたので気になった。宇佐から返ってきたのは予想外の返事だ。

「ああ……殴られちゃって」
「殴られた!?」

 ぎょっとして見上げると、宇佐が少し痛そうに笑った。

「彼女に、用事があるから今日は家まで送れないって言ったんだ」
「それで殴られたの?」
「俺が悪いからね」
「それは……」
「何も言わないで。分かってるから」

 由麻は喉まで来ていた言葉を呑み込んだ。代わりに、言いたかったこととは別の質問をする。

「何の用事があるの?」

 宇佐はいついかなる時も香夜を優先している。香夜を置いていくなど珍しいことだ。余程大事な用事なのだろう。

「悪口言われてたでしょ。由麻」
「……私?」
「由麻が嫌なこと言われるのは予測できてたから、邪魔しにいこうと思ったんだけど。やっぱり俺に未来を変えるのは無理みたい。由麻は当たり前みたいにやっちゃうから、俺でもできるかもって思っちゃった」

 馬鹿だよね、と自嘲気味に呟く宇佐。
 そんなことで香夜と揉めてまで校舎に来ようとしたのか。感情が膨れ上がる。願ってはいけないことを願ってしまいそうになる。良からぬ期待をしてしまいそうになる。違う。例え相手が長瀬でも、宇佐はこうする。“友達”だから来てくれた、ただそれだけだ。――でも。

「宇佐さん」
「うん?」
「こういうの、よくないよ」

 きっぱり言う必要があると思った。

「私は平気だから、早く香夜さんのところへ行ってほしい」
「……どうして?」

 期待してしまうから――とは言えず、香夜さんに悪いからと言おうとして、宇佐の口元に目がいって言えなくなった。

(宇佐さんはついさっき暴力を振るわれたのに、それほど怒っている人のところに今戻していいんだろうか)

 何が正しいのか分からなくなる。今日はただでさえ茜のことで頭を働かせすぎて疲れているのだ。そろそろ物事を深く考えられなくなってきた。

「ごめん、今のやっぱりなし……」

 宇佐の裾を掴んで、力ない声で撤回する。

「宇佐さんはこれから帰るの?」
「由麻が帰るなら帰るよ」
「じゃあ、私のバイト先寄ろう。私、バイト店員だからドリンク割引きされるんだ。宇佐さんに奢ってあげる」

 糖分が欲しい。ついでに、宇佐とゆっくり話す時間も。

「いいよ、そんなの」
「遠慮しないで。来てくれたお礼。あと、宇佐さんに元気出してほしいから」
「俺は元気だよ」
「殴られたら普通、悲しいものだよ」

 そう指摘して歩き出すと、宇佐はきょとんとした後、「由麻を励ましに来たのにおかしいな」と少し不貞腐れたような声を出して付いてきた。



 バイト先のコーヒーチェーン店に入ったところで、この店には頻繁に桜ヶ丘大付属の生徒がやってくることを思い出し、店内を見回した。またあらぬ噂をたてられ、宇佐が誤解されるのは嫌だ。
 キョロキョロしていると、宇佐が見透かしたように言ってくる。

「来ないよ。うちの高校の生徒は」

 精度の高い予測ができる宇佐がそう言うなら安心だ。由麻はほっとし、注文のためレジへと進んだ。

「別に俺は、他人にどう思われてもいいしね」
「宇佐さんが良くても、私は嫌だよ」

 店内は今日も混んでいて、レジ前はなかなかの行列だ。夏休み中はたまにシフトが被っていたお姉さんが忙しなくドリンクを作っている。二学期が始まってからは見ていないので、少し久しぶりに感じた。

「どうして?」
「友達だから」

 即答できた。すると、宇佐がゆるりと口角を上げる。

「やっぱり今日は俺が奢るよ」
「いいよ。宇佐さんバイトしてないでしょ」

 私の方がお金には余裕があるから、とアピールしたかったのだが、宇佐はちょっと得意げに返してきた。

「株で結構稼いでるんだよね」
「株……。凄いね。でもなんかそれ、いいのかな」

 宇佐ほどの予測能力がある者が株になんか手を出したら、無双だ。何だかいけないことを聞いてしまったような気持ちになる。

「俺の能力は俺のものなんでしょ。由麻が言ったんだよ」

 悪戯っ子のように笑う宇佐にドキドキしているうちに順番が来た。見知ったお姉さんは私を見て少しにやりとしていた。チャイラテとホットコーヒーを割り引きしてもらった後、二人用の席を取ってそこに座る。
 店内用のグラスのぎりぎりまで注がれたチャイラテを一口飲んだ後、宇佐に切り出した。

「今日、長瀬さんから茜のこと聞いた」
「知ってる。そろそろ限界だろうなとは予測してた」
「……やっぱり、宇佐さんは長瀬さんのことを心配してたんだね」
「あいつは色んな人を元気づけようとするからね。でも結局それで自分のことを追い詰めてる。自分のキャパシティを理解してない。他人の痛みを背負うのには限度があるのに」

 宇佐は手元のホットコーヒーを飲もうとして、「あち」とすぐにカップを口から離した。真っ黒なコーヒーからはまだ湯気が出ている。

「長瀬さんは凄いよ。私、茜が背負ってるものを教えてもらえてすらない」
「俺の予測では、由麻は今後も教えてもらえないよ」
「…………」
「クリスマスの直前に、吉澤茜と長瀬は別れる。精神的に不安定な女の子とずっと一緒にいるのは、正直疲れるものだから。長瀬の方も我慢できなくなる」
「茜はどうなるか聞いてもいい?」
「問題なく大人になっていくよ。抱えているものを抱えたまま。ただ、吉澤茜はそれまでよりも他人に期待しなくなる。長瀬に勝手に期待して勝手に裏切られた気分になって、その後誰とも付き合わない」

 由麻は黙ってチャイラテの液面を見下ろした。
 誰しも何かを抱え、悲しみと向き合い、大人になっていくのだろう。茜が由麻に弱音を吐かない選択をするのなら、そこに踏み込む権利は由麻にはない。
 言ってしまえば、何かに追い詰められている人間なんて世の中には沢山いる。茜もその一人というだけだ。以前のような死に関わるようなことでない限り、静観するのが正しいことのような気もした。

(伝えてもらえないなら、私にできることなんて……)

 諦めかけたその時、教室で喋った長瀬の、悲しげな顔を思い出す。

――……『由麻ちゃん、茜のこと救える?』

 長瀬は救おうとしていた。
 その事実に衝撃が走る。自分と長瀬の明確な違いを感じた。
 由麻は何だかんだ他人との間に見えない境界線を引いている。しかし、長瀬は違う。相手を受け入れるし、相手のパーソナルな部分に入ることを躊躇しない。それが長瀬の長所であり、長瀬に友達が多い理由なのだろう。
 ――他人に踏み込めないのは、自分との間に線を引くのは、由麻の長所であり、弱さでもある。


「……私、悲しかったんだ」

 ぽつりと呟いた。

「茜に何も教えてもらえないことにショックを受けてた。中学からずっと一緒にいるのに何も言ってもらえなかったならもう無理じゃんって」

 ぐいっとチャイラテを一気に飲み干す。口の中に濃厚な甘みが残った。

「凄いよね、長瀬さんは。きっと踏み込んだんだ。拒絶されるのを恐れずに」

 初めて会話してからたった数ヶ月の、他クラスの女の子の深い部分に入り込んだ長瀬のことを、心から尊敬する。

「宇佐さん、私キャラ変する」
「キャラ変?」
「長瀬さんみたいになる」
「由麻が長瀬みたいになるのは無理だと思うけど」
「ひどい……」
「由麻には由麻の良さがあるってことだよ」

 宇佐はそう言って、コーヒーカップを片手にちらりと腕時計に視線を落とした。

「あと十五分くらいゆっくりしたらこの店出ようか。吉澤茜の塾が終わる時間だ」

茜は確か、木曜日は塾の自習室に籠もっていると言っていた。いくらラプラスの悪魔があるとはいえそこまで分かるとは、と少し驚く。

「暗いから俺も一緒に行くよ」
「……付き合ってくれるの?」
「うん。ちょうど未来が変わり始めた。由麻が改変した未来を見てみたい」

 宇佐は頬杖をつき、ちょっとだけ悲しげに笑った。

「やっぱり由麻は、俺には眩しいな」



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 最近は日が落ちるのが早くなっており、外はもう真っ暗だ。車通りの多い道路沿いにある学習塾はまだ光を放っている。
 いきなり会いに行くのもはばかられるので、茜には『会いたいから行くね』とだけ連絡しておいた。いつも返信が早いのになかなか既読が付かない。
 夜は肌寒いので手と手を合わせて擦っていると、宇佐が自動販売機で買った温かいお茶を渡してきた。

「それで手、あっためて」
「……うん。ありがとう」

 どうしよう、と思う。こんな時だというのに宇佐への恋心が加速する。

(前はもっと穏やかな気持ちでいられたのに)

 ただ遠くから見ているだけの時期は、宇佐のことを見られるだけで幸せで、その宇佐が幸せになればいいと穏やかに願っていた。なのに今は、感情が昂ぶることばかりだ。荒波に当たっているかのように落ち着いていられない。
 その時、茜へのメッセージに既読が付いた。しゅぽっと独特の受信音がする。

『え! 今外にいるってこと? すぐ降りる!』

 いつも通り、ビックリマークの多い明るい返事だ。その様子にほっとしながら、階段の下で茜を待った。
 数秒後、だんだんと階段を下りてくる音が聞こえた。もうマフラーをしている茜が由麻に向かってくる。そして、由麻の隣にいる宇佐を見て驚いた顔をした。

「何で由麻と宇佐くんがここに……」

 戸惑いを隠せない様子の茜に、まず何を言っていいか分からない。

「えっと……遊びに行かない?」

 出てきたのはそんな、本題から逃げるような情けない言葉だった。やはり、いきなり踏み込むのは由麻には無理だった。

「今から?」
「うん。今から」
「補導されちゃうよ」
「補導されてから帰ればいいよ」
「由麻、いつからそんな不良に!?」

 茜はまだ少しびっくりしているようだが、由麻の発言を聞いてケラケラ笑う。
 由麻は宇佐を振り返って聞いた。調べるよりも宇佐に聞く方が早いと思ったから。

「宇佐さん、これから遊べる場所ってある?」
「近くのカラオケが高校生は午後十時までだね」
「じゃあそこに行こう」

 そのカラオケならここから徒歩圏内だ。すると、茜が目をキラキラさせた。

「あたし、こんな時間から遊んだことないかも。わくわくする」

 由麻もこんな時間から遊びに行くのは初めてだ。母親には前もって連絡してある。『帰りは迎えに行くから』と返事があった。