『しかし……しかし君、恋は罪悪ですよ。解っていますか』――夏目漱石『こころ』で、先生が言う。長瀬から返された文庫本をぱらぱらと捲っていた時、その会話文がふと目に入った。
確かに、恋愛とは厄介な感情だ。自分ならうまくコントロールできると思っていた。なのに、余計なことまで望んでしまいそうになる。相手を自分の物にしたいと思う自己中心的な気持ちは恋ではない、と自己を戒めた。
放課後の教室は静かだ。今日は夜から雨予報だからか、いつも残っている生徒たちもさっさと帰っていってしまった。いつの間にか一人になっていた由麻は、文庫本を閉じて宿題を始める。一人は良い。静かで心乱されない。
長瀬と茜が付き合い始めて一ヶ月。十月に入り、いよいよ生徒たちの制服が長袖に変化してきた。
この一ヶ月のうち、宇佐とは音楽室で二度ほど会った。二人で集まって、他愛もない話をするだけの会だ。その間、由麻はずっと気を緩めないようにしていた。宇佐を意識しすぎないよう、冷静に淡々と喋った。その機械のような態度に宇佐も違和感を覚えたらしく、「何かいつもと雰囲気違うね」などと言ってきた。
関われば関わるほど、実際のところ、宇佐はどれほど由麻の気持ちを分かっているのだろうと怖くなる。由麻のことはよく外すと言っていたから、恋心までは把握していないかもしれない。そもそも、あれだけ彼女を大事にしている宇佐なのだから、自分に恋している女子生徒と関わろうとは思わないだろう。
このまま隠し通さなければ、とノートにペンを走らせていると、これから下校するらしいどこかの学年の生徒たちが廊下を通り過ぎる。
「本当だって。見たんだよ。宇佐くん、江藤由麻ちゃんと一緒に音楽室入っていったの」
こちらの存在には気付いていない彼女たちの話題に、思わず手が止まった。
「え~見間違いじゃないの?」
「てか江藤って誰?」
「ほら、長瀬くんの彼女とよく一緒にいる子。六組の」
見られた。誰かに。
冷や汗が額を伝う。
「それも、一回だけじゃないんだって」
「音楽室で会ってるってこと?」
「浮気してるの、香夜さんだけじゃないんだ。謎だねあのカップル」
「てか香夜さんが彼女なのに浮気相手はそんなに可愛くないんだね。ブスってわけじゃないけど、印象薄くない?」
「ぱっとしないタイプだよね~」
噂が広まれば注目される。もう音楽室に行けなくなるかもしれない。
――宇佐との時間を壊さないでほしい。自分の悪口を言われたことよりも、会えなくなることを危惧する気持ちの方が大きい。
それに、自分のせいで宇佐に嫌な噂が流れるのは避けたい。
気付けば由麻は椅子から立ち上がっていた。ガラッと勢いよく教室のドアを開け、立ち話していた他クラスの生徒たちをしっかりと見据える。生徒たちは由麻を見て焦ったのか、場がしんと静まった。
「……宇佐さんとは何もないから」
「…………」
「音楽室で会ってたのは、ちょっと、約束してたことがあったからで。本当に何もしてない」
知らない生徒に話しかけるなんて、由麻にとってはとてつもなくハードルの高いことだ。でも、今止めなければ噂はどんどん悪い方向に転がる気がした。
「宇佐さんは絶対浮気なんかしない。彼女のこと大好きだから」
これだけは自信を持って言える。あれだけ香夜に尽くしている宇佐の優しさや愛情深さが間違った形で伝わるのだけは嫌だ。
生徒たちはちょっとびっくりした顔で由麻を凝視した。そして、そのうちの一人が反論するように投げかけてくる。
「や、約束って何よ。そこが変じゃん。あの人これまで女生徒誰も寄せ付けなかったんだよ。それが急にあなたと一緒にいだして……変だって他の子も言ってる」
「それは……」
「――俺が無理やり収集したんだよ」
言葉に詰まっていると、後ろから聞き慣れた声がした。振り返ると、気怠げにこちらに歩いてくる長瀬がいた。
女子生徒たちのテンションが一気に上がる。「なっ……長瀬くん!?」と驚いてその名を呼ぶ声が、気のせいかさっきよりもワントーン高い。
「別に由麻ちゃんと宇佐が二人で会ってたんじゃなくて、その後俺とか茜も合流してっから。宇佐にベンキョー教えて~って無理やり俺が呼び出しただけ」
「そ、そうだったんだー! なんだあ、でも長瀬くんなら勉強教えてもらわなくてもいつも学年トップじゃん」
「特進と比べりゃ大したことねぇよー? 宇佐の方が教えんのうまいし、テスト前とか呼び出してんの。だから、根拠ない噂で由麻ちゃん困らせないでくれるとうれしーな」
長瀬が言うとすぐ納得した女生徒たちは、うんうんと深く頷いて幸せそうな顔で廊下を立ち去っていった。人気者のイケメンと会話を交わせただけで嬉しいのだろう。
残された由麻は、長瀬を見上げる。
「茜と一緒に帰ったんじゃなかったの?」
「茜補習だって。先生に捕まってた」
「ああ……。茜、数学の成績だけはすごい悪いもんね」
加えて、数学の先生は今年からかなりしつこく指導してくれる方なので納得した。
「……ありがとう。庇ってくれて」
「いーえ。由麻ちゃんはマジで、宇佐のこととなると強かだよなー」
「強か……」
「由麻ちゃんってあんま他の生徒と喋る子じゃねぇじゃん? なのに、宇佐を悪く言われた途端に飛び出してきたから」
「……そこから見てたんだ……」
「見てたっつか、聞こえてた。教室隣だし。俺」
何だか恥ずかしくて、はぁと溜め息をついた。
六組の教室に戻ろうとすると、何故か長瀬も付いてくる。茜が戻ってくるまで暇なのだろう。椅子を引いて宿題を再開する由麻の前の席に長瀬が座った。
「あんな悪口気にすんなよ?」
「ぱっとしないって言われたこと? 別にそこは気にしてないよ。実際、ぱっとしないし」
「由麻ちゃんかわいーのに」
「そんなこと言うの長瀬さんだけだよ……」
「や、俺お世辞言わねぇよ? 由麻ちゃんはなー、笑った顔がいっちゃん可愛いの」
「長瀬さんの前で笑ったことあったっけ。私」
「うわ、ひで」
くっくっとおかしそうに笑う長瀬を放って問題を解く。しかし、すぐに長瀬の長い指が由麻の回答を指さした。
「ここ間違ってる」
「嘘……」
「その前の段階での計算ミスだな」
言われて見れば、確かに前の段で数字を間違えていた。消しゴムで一行消して書き直した。
しばらくそんな時間が続き、三十分ほど経った頃、頬杖をついた長瀬がぽつりと言う。
「てかやっぱ由麻ちゃんっておもしれーね。俺と二人なのに何も聞かねぇんだもん」
「何を聞いてほしいの?」
「分かってるっしょ。俺が茜のこと好きじゃないの」
いきなりその話か。シャーペンを置いて長瀬を見た。
「でも、男女って、別にお互いのことを好きじゃなくても付き合ったりするものでしょう」
「由麻ちゃん大人。意外と恋愛経験豊富?」
「長瀬さんのために購入した恋愛コラムに、付き合ってから好きになることもあるって書いてあった」
「コラムかよ」
長瀬が噴き出す。由麻は至って真剣なのでその反応には少しむっとした。
長瀬はしばらく笑った後、すっと真剣な表情になる。
「由麻ちゃん、茜のこと救える?」
“救う”。突然出てきた大袈裟な言葉に黙り込むと、長瀬が続けた。
「茜、夏休み明けからずっと自傷行為してる」
「自傷行為……?」
「手首。リスカ。それを隠すためにずっと長袖着てんだよ。最初に気付いたのは俺だった」
ぐらりと視界が揺れた。ずっと傍にいたのに、学校にいる間一番長い時間を茜を共にしているのは由麻だというのに、気付いたのは長瀬が先だったのだ。
「というか、正確に言うとその前からヤバかった。夏休み中だな。俺への連絡がちょっとおかしくなった。死にたいとかそういうメッセージが増えた」
「…………」
「夏休み中は俺が毎晩電話して色々聞いてたんだけど。夏休み明けてから一回直接話した時はもう限界みたいな状態で、俺の前でずっと泣くし、怖い痛い辛いって言うし、自分の腕噛み始めたから、付き合うしかねぇなって思った」
「茜が付き合いたいって言ったの?」
「俺、辛そうな奴の傍にはいるって言ったじゃん。茜が俺のこと好きなのは前に告白されて分かってたし、俺の存在があの子の救いになればいいって思った」
――これか。宇佐が言っていたのは。
宇佐に警告されていたにも拘らず、由麻は何にも気付けなかった。茜に少し挙動不審な時があるのは分かっていたが、茜が何か話してくれるまで待とうとしていた。
「何で私には……何も」
情けなさで一杯だ。
「由麻ちゃんが大事だからじゃね? どうでもいい奴には話せるけど、大切な人には話せないことってあるじゃん」
「長瀬さんは、どうして今更教えてくれたの。これまで黙ってたのに」
「俺だけじゃ無理だって思ったから」
教えてくれなかった長瀬に理不尽な怒りをぶつけてしまいそうになる。軽々しく言わなかった長瀬の方が正しいのに。
「ほんとは誰にも話すつもりなかった。茜の問題だし。俺を信用して話してくれたことだから。……でも、最近、俺だけじゃ抱えきれねぇと思い始めた」
「…………」
「道連れにした。ごめん」
長瀬の、いつもとは違う下手な笑い方を見て、ハッとした。長瀬の方が苦しくなってきているのだ。辛そうな人の傍にいるというのは並大抵のことではない。流行り病のように、その陰鬱とした気持ちが感染ってしまうことだってあるだろう。
由麻は思わず、手を伸ばして長瀬の頭を撫でた。
「頼ってくれてありがとう」
自惚れていた。宇佐は由麻の友達である茜のためを思って忠告したのではない。長瀬を心配して由麻に忠告したのだ。長瀬はどこまでも、宇佐の大切な友達なのだ。
「私と一緒に背負おう。弱音吐きたくなったら、私に吐いていいよ」
「……でも、そしたら今度は由麻ちゃんが苦しくなるっしょ」
「私のこと、人間っぽくないって言ったのは長瀬さんでしょう。多分、私人間より耐性あるよ」
あの雨の日のブランコの上で言われたことを掘り返すと、長瀬はようやく笑った。さっきの下手な笑顔とは違う、本物の笑顔だった。