受験は高二の夏が頑張り時だと言う。しかし、江藤由麻《えとうゆま》は中だるみを感じていた。内部生のため、エスカレーター式で付属大学に上がることができる見込みが高いからだ。
 六月下旬、じりじりと茹だるような暑さが続く。一学年で十クラスある、人数の多い桜ヶ丘大付属高等学校。そのうち由麻のクラスの教室のクーラーだけが効きが悪いと生徒の間で有名だった。

「あつぅい。マジ最悪ぅ」

 由麻のクラスメイトの吉澤茜《よしざわあかね》が机に突っ伏して生暖かい室内の温度に文句を言う。
 昼休み、由麻はいつも中等部から仲の良い茜と二人で机を合わせてお弁当を食べる。が、最近はそうもいかなくなってきていた。猛暑が続き、先生も対応するとは言っているが、クーラーはなかなか新しくならない。もはや窓を開けた方が涼しいのか、窓際の生徒が窓を開けているのが見えた。

「ほんとにまだ六月? 異常気象だよ、異常気象」

 赤色の下敷きでぱたぱたと自分に風を送りながら、茜が大きな溜め息をつく。

「食堂の方が涼しいよ、食堂行こうよ」

 茜に誘われるまま、由麻はお弁当袋を持って教室を出た。

「あそこにいるの長瀬くんじゃない!?」

 しばらく歩いていると、茜が渡り廊下の途中で中庭を見下ろし興奮気味な様子で鼻息荒く言った。茜はころころ表情が変わるため、見ていて飽きない。

 中庭に視線を移す。茜が密かに推している長瀬吉春《ながせよしはる》という有名な同級生が、男女混合グループの中心で友達と笑い合っていた。長瀬は確かに美形なうえ、女子から人気のサッカー部だ。文武両道で性格も優しいという。
 長瀬と同じグループにいる女子たちも、お互い仲良さそうに見えて実は長瀬先輩を巡って争っているらしい。
 恋愛に疎い優茉でも傍から見ていて彼がモテるのは理解できるし、イケメン好きの茜が彼の追っかけをするのも分かる。

「相変わらずかっこいいね」
「もう、めっちゃ棒読み。由麻ってば興味ないでしょ。由麻が興味あるのは宇佐くんだもんね~。宇佐くんいるかな~」

 茜がからかうように少し身を乗り出して中庭を確認する。先週の日曜日に髪を染めたらしい茜の、肩まで長いピンクベージュの髪が揺れた。

 ――宇佐悠理《うさゆうり》。
 この距離からでは見えにくいが、左右の耳に合計で四つピアスをしている同級生だ。中学の頃から長瀬と仲が良く、よく一緒にいる。

「あ、ベンチで本読んでる。あはは、友達といるのに本読むんだ」

 茜はケラケラと笑い、飽きたようにまた渡り廊下を歩き始めた。

「宇佐くんがミス桜ヶ丘と付き合ってなきゃ、由麻もアプローチできたのにね~残念」

 茜は由麻が中学時代から宇佐を好きなことを知っている。だから、宇佐が大学生と付き合い始めたと聞いた時から、由麻に新しい恋を勧めてくる。しかし、由麻はまだ宇佐のことが好きだ。
 付属大学のミスコンのパンフレットにでかでかと載っていた芸能人顔負けの美人。小顔で、よく手入れされているであろうさらさらの長い黒髪で、ナチュラルメイクの華奢な女性。当然のようにミスコン一位に輝き、大学祭の舞台の上でにこやかにお祝いの品をもらっていた人――それが、宇佐の彼女であるにも拘らず。

「そういえばミス桜ヶ丘、悪い噂よく流れてるよ。聞きたい?」
「いいよ。所詮噂でしょ?」
「言うと思った」

 茜は由麻の返答にけらけらと笑うばかりで、それ以上何も言わなかった。



  :

 食堂のテーブルで由麻はお弁当を、茜はハンバーグ定食を食べた。混んでいたので食べるだけ食べてさっさと出たが、五時間目が始まるまではまだ時間がある。
 茜は英語の単語帳を開きながら廊下を歩いていく。由麻は、茜が転けないかハラハラしながら付いていった。

「ねえ、またあの暑い教室に帰んなきゃいけないと思うとダルくない? 休憩室寄って暇潰す?」

 自動販売機やテーブルが沢山並んでいる休憩室は、気の強い三年生が屯していて入りづらい雰囲気がある。この前由麻が飲み物を買いたくて一人で入った時は睨みつけられたので、できればあまり入室したくない場所だ。

「あそこは三年生のシマみたいになってるから廊下でいいよ。廊下なら教室よりちょっと涼しいし」
「シマて!」

 由麻がヤクザのような言い方をしたのがおかしかったのか、茜はぎゃははと可愛い顔に似合わず下品な笑い方をした。


 教室の前の廊下で次の授業の英単語小テストのための暗記をしていると、向こうから派手な集団が歩いてきているのが見えた。――長瀬グループのうちの数人だ。

 由麻たちが〝長瀬グループ〟と勝手に呼んでいる集団は、長瀬を中心に仲良くしている色んなクラスの生徒の合同グループである。普通は同じクラスの者の間だけで仲よくしそうなものだが、長瀬という男の人気っぷりは他クラスの人間まで惹きつけ集めるるらしい。
 そのうち由麻たち六組の隣の教室、五組のメンバーは長瀬含めて三人。長瀬と、実は長瀬のことが好きで裏でキャットファイトしているらしい派手な女子二人だ。女子二人は今日も長瀬の両隣で高い声を出してはしゃいでいる。

 長瀬を見かけると、いないのは分かっていてもその近くを何となく目で探してしまう。宇佐は特進コースで教室が一階にあるため、二階にまでは来ないと分かっているのに。
 見すぎたのか、ばちりとこちらに歩いてくる長瀬と目が合った。慌てて茜が単語帳に視線を落とす。

 普通の相手ならそれで終わりのはずだった。――しかし、長瀬という人間は、いわゆる〝陽キャラ〟の代表格である。

「お前ら何で廊下でベンキョーしてんの?」

 わずかに目が合っただけの女子に声をかけるなんてことも、この男にはできてしまう。

「え、長瀬くん!?」

 そこでようやく長瀬たちの存在に気付いた茜が単語帳から顔を上げる。

「何その反応。ウケる」

 茜が過剰に驚いたのが面白かったのか、長瀬は白い歯を見せて笑った。そして、由麻たちのいる廊下の前の教室に目をやり、合点がいったように言う。

「ああ、六組クーラー効かないってマジなんだ?」
「そ、そうなんですー。ほんと困っちゃって」
「同級生なのに敬語使うなって」

 日頃からかっこいいと思っている長瀬に話しかけられてそわそわしている様子の茜の返答に長瀬はツッコミを入れ、「名前は?」と続けて聞いた。

「茜だよ」
「茜ちゃんね~。そっちは?」

 完全に油断していたところ話をふられ、由麻は少し驚いた。ちょっと廊下ですれ違っただけの相手に名前まで聞ける長瀬の陽キャラっぷりにだ。

「……江藤」
「ちげーって。下の名前」
「由麻、です」
「おっけぃ、二人とも覚えた。クーラー直るまで五組来ていーよ。一年で熱中症出たらしいし、廊下にずっといるの危ないっしょ」

 長瀬に促されるまま、由麻たちは五組の教室に入ることになった。長瀬の隣にいる女子二人が「よしはるやさし~い」と甘ったるい声を出す。