その一週間後、課題テストがあった。中間テストや期末テストとは違い、課題テストは主要三科目のみなので一日で終わる。
テストが全て終わり、生徒たちが苦行から解放されたような表情でわいわいと教室から出ていく。テストの日はテストが終われば帰っていいので楽である。
(思ったよりできたかも)
英語は少し不安だが、それ以外の科目の出来に満足していると、後ろからとんとんと指で肩を叩かれた。振り返ると、茜が凄くニヤニヤしながら立っていた。
「あたし、長瀬くんと付き合うことになった!」
「……え?」
聞き間違いかと思った。長瀬はつい最近まで誰とも付き合う気がなさそうだったからだ。
「んふふ。さすがあたしじゃない?」
リコだけでなく、茜も一度フラれている。そこから挽回したというのか、と驚いた。
「……凄いね」
「由麻に一番最初に聞いてほしかったんだ~! テスト終わるまで我慢してた」
「いつから付き合ったの?」
「二日前! 押したらいけた」
茜が手でピースサインを作ってにかっと笑う。
教室のクーラーが直ってから茜が五組に行くことはなくなっていたので、必然的に長瀬との接点もなくなったものと思っていた。しかし、変わらず連絡は取り続けていたらしい。
学校中の人気者である長瀬と、小動物のような可愛さを持ち明るく親しみやすい茜はきっと他から見てもお似合いだろう。長瀬の隠れファンはショックを受けそうだが。
「おめでとう」と一言祝福すると、茜がモジモジと遠慮がちに聞いてくる。
「由麻、もし良かったら、今度由麻の家でお菓子作りしたいんだけど……いい?」
「お菓子作り?」
「折角彼女になれたしさ、お弁当とか作りたいな~って思うわけよ。でもいきなりお弁当ってちょっと重いかもじゃん……? だから、まずはお菓子からにしようかなって。クッキーとかならさらっと渡せるし」
「ああ、いいよ。うちオーブンあるし」
茜が由麻の家に来るのは中等部の頃以来だ。ホラー映画を観ようという話になって、家で一緒に観たのが最後。それ以降はほとんど外で遊んでいる。
「何なら今日この後でもいいよ。帰りに材料買ってうちに寄ろう」
「ええ!? いいの? いきなりすぎるけど……」
「お母さん帰ってくるの遅いから、キッチンしばらく空いてるよ」
由麻の母は始業の時間が遅い分夜も遅いタイプの会社に勤めている。それにまだ昼なので、時間に余裕はあるだろう。由麻は家族LINEで友達を家に呼ぶことを伝え、茜と一緒に教室を後にした。
家の近くのスーパーの製菓コーナーでデコレーションペンを買った。冷蔵庫に残っているか不安だったので、念のためバターと卵と牛乳も買って家に帰る。「おうち貸してもらうから」と言って茜が多めにお金を払ってくれた。
誰もいない家は静かだ。由麻は一人っ子で、父は単身赴任している。
「お邪魔しまぁ~す……。何か久しぶりだね」
茜が玄関で靴を脱ぎ、丁寧に並べて廊下に上がる。一緒にリビングに入り、キッチンに荷物を置いた。
「由麻のおうち、相変わらず綺麗だね!? うちはもっと床に靴下とか落ちてるよ」
「そういえば、茜の家は行ったことないね」
「汚いから呼べないよ~」
キッチンの棚から小麦粉やボウルを取り出して準備した。クッキーの型はあったかな、とごそごそ探していると、茜がふと思い付いたように言ってくる。
「ねえ、折角だし由麻も作ろうよ。宇佐くんに向けて」
「作ったって受け取ってくれないと思う」
宇佐は異性からの贈り物を一切受け取らない。バレンタインのチョコレートすら食べずに捨てていたという話もある。そんな冷淡な態度を取られるため、いつしか宇佐に告白する女生徒はいなくなった。
彼女以外の女性には一切愛想を振りまかない――それが宇佐だ。
「分かんないよ? 花火大会の日とか、仲良さそうに喋ってたじゃん。あたし、由麻と宇佐くんのことけっこーいい感じだと思ったんだけど」
それは共通の目的があったからだとは言えず口籠る。
「あたしだって、長瀬くんと付き合うの無理だって思ってたよ? でもできた。恋愛にまさかは存在しないよ」
「茜は可愛いし、長瀬さんはフリーだった。私と宇佐さんの場合とは違う」
「由麻だって可愛いよ!」
砂糖のグラム数を計測していた茜が食い気味に反論してくる。その勢いに由麻は少し笑った。
(そう言ってくれるのは嬉しいけど)
宇佐は付属大学内で一番可愛いと言えるミスコン優勝者の香夜と付き合っている。目が肥えているに違いない。あれと比べれば、由麻はじゃがいものようなものだろう。
「作る分には損ないじゃん。もし受け取ってもらえなかったとしてもあたしが食べるからさ~一緒に作ろ?」
「……分かったよ。ちょっとだけ作る」
これは引き下がらないな、と思った由麻は、諦めたように了承した。茜はぱぁっと花のような笑顔を浮かべ、鼻歌を歌いながら楽しげに卵を割る。見守っているだけのつもりだった由麻も、もう一つ計測器を取り出した。
「ていうか、やっぱり由麻は良い意味で変わってるね。あたし、由麻のそういうところ好きだよ」
「急にどうしたの」
「普通はさ、学校中の人気者と付き合い始めた~なんて言ったら根掘り葉掘り聞いてくるものだよ。どういう流れで~とか、いつからそんな感じに~とか、告白の言葉は何~とか。でも、由麻はそういうの全然聞いてこない。だから楽なんだ。あたしの話したいことだけ受け止めてくれる。あたし、女子の友達少ないじゃん。上辺だけ仲良い子なら沢山いるけど、中等部からずっと一緒にいるのは由麻だけ。由麻といるの居心地良いんだ」
それは由麻も同じだった。由麻は積極的に話すのが得意ではない。どちらかと言えばコミュニケーションにおいては聞き手に回るのが好きだ。だからこそ、お喋りな茜といるのは居心地が良い。茜も同じように思ってくれていることが嬉しかった。
そこでふと、由麻は手を洗う茜の袖が気になった。
「茜、袖邪魔じゃない? 捲った方が……」
袖口が水に濡れそうだったので捲ろうとすると、茜が勢いよく手を引っ込める。その過剰なまでの反応に、一瞬きょとんとしてしまった。
「あ、ああ、ごめん。そうだね。ありがとう」
明らかに茜の様子がおかしい。違和感を覚えつつも、触れてはいけない隠し事でもあるのだろうかと思い、何も言わなかった。
:
オーブンにクッキーを突っ込んでからは暇になったので、一緒にサブスクリプションの動画サービスで月9ドラマを観ていた。茜は主演の俳優のファンらしく、キャーキャー騒いでいた。
そうこうしているうちにクッキーが焼き上がった。ラップで包んで容器に保存してから、またドラマの続きを観た。茜は夕方頃、外が暗くなる前に帰ることになった。
「じゃあね、由麻。明日お互いクッキー渡そうね」
玄関先で笑顔で言う茜に、由麻も言いたいことを言った。
「あのさ、茜。もし何かあったら頼ってね」
「え?」
「話したくないことならそれでいい。話したくなったら話してくれたらいい」
「…………」
「ごめん、うまく言えない。でももし、私に聞いてほしいことができた時は、いつもみたいに話してね」
茜は一瞬無表情になった後、ゆっくりと口を開き、また閉じた。そして、その口元に弧を描く。
「うん。ありがとう」
その笑顔は、何だか切なげだった。
:
「ねぇ、聞いた? 長瀬くん彼女できたんだって」
「え!? マジ? 嘘でしょ? 相手誰?」
「六組の吉澤茜《よしざわあかね》さん」
「え、誰!?」
「絶対いつも一緒にいるクラスメイトの誰かだと思ってた」
どれだけ生徒数が多くても、恋愛関係の噂というのはすぐに出回るらしい。他クラスの知らない女生徒たちが廊下で噂しているのを耳にしながら、彼女たちを通り過ぎた。
朝からこの噂話を何回聞いたか分からない。それほどまでに長瀬という人間は生徒たちの注目の的なのだろう。
「ショック~」
「私が告白した時はサラッと流してきたのに」
「てかその吉澤さんって可愛いの?」
「何が良かったんだろうね」
「長瀬くん、あんだけ色んな人からの告白断ってたのに」
多少の嫉妬心も混ざっているであろう女子同士の会話をあまり聞きたくなくて、早足で教室に入る。提出が遅れていた課題を出し終えた茜と合流し、約束通り中庭へ向かった。
今日は天気が良いので、他クラスの長瀬グループの人たちも集まってそこで昼食を取っているらしい。勿論、宇佐も来る。
どきどきしながらクッキーの袋が入った弁当袋をぎゅっと握った。
昼に中庭に長居できるほど、最近は涼しくなってきている。かと思えば急に暑くなることもあるので、予測できない日々が続いているが。
「長瀬くん、やっほー!」
「お、茜、久しぶり。クッキー待ってた」
長瀬の茜の呼び方が“茜ちゃん”から“茜”に変化している。以前よりもいくらか距離感の近い二人を少し離れた位置から見守っていると、隣にいる五組の女子たちがチッと舌打ちをして小声で何か言い合うのが聞こえた。
「何アイツ。ウチらから吉春奪っといてもう彼女ヅラ?」
「実際彼女だしねー。ムカつく~」
「まぁまぁ、二人はもっと良い男見つけたらいいじゃん」
「ちょっとリコ、最近サッカー部の先輩と良い感じだからってヨユーかましてんじゃないよ」
「てかウチらリコの話聞いてなくね? 最近ぶっちゃけどうなん?」
話題が茜への敵意からリコの最近の恋愛事情に移ったことにほっとしつつも、由麻が話したことのない男子生徒たちと喋っている宇佐を横目に確認する。すると、宇佐の視線がゆっくりとこちらに向けられた。目が合ってしまったのが恥ずかしく逸らそうとする前に、宇佐がこちらを呼ぶ。
「由麻」
他の女子たちと話していたリコがちょっと驚いたような顔をするのが分かった。宇佐が下の名前呼びする生徒はそういないからだろう。
「こっち来なよ」
宇佐が座っているベンチの隣が空いている。由麻は無言でそちらに近付いた。
(私がこのメンバーの中で居づらいの、察してくれたのかな……)
茜は長瀬にべったりだ。カップルの間に入っていく勇気はない。かと言ってリコたちのようなギャルっぽい女生徒たちと同じテンションで仲良くできるとは思えず、どこに身を置いていいか分からずに突っ立っていた。宇佐はそんな由麻を見つけて気遣ってくれたのかもしれない。
「ありがとう」
由麻がお礼を言って宇佐の隣に座ると、さっきまで宇佐と喋っていた男子生徒たちがニヤニヤしながら離れていく。何か誤解されているような、と心配になった。
由麻は急いでお弁当箱を開き、できるだけ早く食べて退散しようとウインナーを口にかきこむ。そこでふと、宇佐が何も食べていないのに気付いた。その手には相変わらず文庫本がある。
「……宇佐さんって食事するの?」
思えば、全く接点がなくただ眺めているだけだった頃も、宇佐は中庭で本を読んでいた。グループ内の他の生徒が食事をしている横でだ。
宇佐がふっと笑う。
「何その質問? 食べるよ。人間だからね」
「そっか。良かった」
「昼はおにぎり一個とかで満足だから、すぐ食べ終わるんだ」
「ええ……? 大丈夫?」
「代わりに朝はちゃんとバランスの取れた食事してる」
宇佐の意外な一面を知れてキュンとした。
「もし良かったら、私のお弁当の具、何か食べる?」
由麻のお弁当は、由麻の母親が朝の時間を使って作ってくれたものだ。
「この卵焼きと野菜炒め、甘めが好きだったらおすすめだよ」
由麻は母親の味付けが好きだった。まだ口を付けていない具材を控えめに薦めると、宇佐が「いいの?」と聞いてくる。
「うん」
「じゃあ、ちょっとだけ」
宇佐が由麻のお弁当から卵焼きを取り、もぐもぐと食べる。その横顔を可愛く思った。
「うま。ひじき入れてるんだ」
「そうなの。私、お母さんのアレンジ卵焼き好きなんだよね」
「俺、甘さもこれくらいが好きかも」
「野菜炒めも食べる?」
「いいよ。由麻の分がなくなるでしょ」
「あ、そっか……」
昼は少なくていいと言っている相手に色々と押し付けるのも迷惑かと思い、由麻は大人しく自分のお弁当を食べ続けた。
その間、宇佐は本を読み始めるだろうと予想していたのに、一向に本は開かず由麻をじぃっと見つめてくるので居心地が悪くなる。
「……どうしたの?」
「由麻を観察してた」
ひょっとすると、宇佐にとって由麻は動物園にいる珍しい生き物と同格なのだろうか。これまで全て予測できていた宇佐の予測とは異なる行動を取る、珍しい生き物。想い人にそのように捉えられていたとしたら少しショックだ。
クッキーも、こんなに周りに人がいたら渡せない。そもそも彼女持ちの宇佐にクッキーを渡そうなんてことが間違っている。由麻は自身の考えを改め、クッキーは自分で食べようと思った。
そのうち、昼休み終了まであと八分ほどになった。次の授業の準備も含めると、そろそろ教室に戻った方がいいだろう。
「私、そろそろ戻るね」
茜は遠くでまだ長瀬とイチャイチャしているので、声はかけずに先に戻ろうと立ち上がる。弁当袋を持つ由麻を、宇佐は何故かきょとんとした表情で見上げてきた。そして、去ろうとする由麻に付いてくる。
宇佐のいる特進クラスの教室は中庭からはやや遠い。宇佐も早めに戻りたいと思ったのだろう。上履きに履き替えて廊下に出た由麻は、宇佐とは方向が違うので「じゃあね」とだけ言って反対方向に歩いた。少し歩いたところで、急に後ろから腕を引っ張られる。びっくりして振り返ると、そこには何故か追いかけてきたらしい宇佐がいた。
「クッキーは?」
「……え?」
「あれ? 違った? また外したか。由麻のこととなるとすぐ外しちゃうな」
恥ずかしくなって、私のことは予測しないって言ったのに、と文句を言いたくなった。けれど、バレてしまっているならもう仕方がない。逡巡したが、おずおずと弁当袋の中からラッピングしたクッキーを渡す。
「……ハズレじゃないよ」
由麻からクッキーを受け取った宇佐は、ずっと由麻の腕を握っていたことに気付いたのか、はっとして手を離してくれた。
「一向に渡してこないから、変だなって思って」
「予測では、もっと早く渡してた?」
宇佐がこくりと頷く。
困らせるだけだと思ったから、もう渡すつもりなどなかったのに、結局渡してしまった。由麻をわずかな後悔が襲う。
「それ、いらなかったら捨ててもいいよ。茜を手伝ったついでに作ったようなものだから」
言い訳のように言うと、宇佐が「捨てるわけないじゃん」と笑った。
「友達からの贈り物なんだから食べるよ」
――友達。自分で言い出したことなのに、ずきりと胸が痛む。ハサミで心臓の血管を切られたみたいに胸が痛かった。
無理やり笑顔を作り、「ありがとう」と返した。そして、ゆっくりと踵を返し、自分の教室へ向かう。
味は何度も確認した。沢山作ったのに残り数個になってしまうくらい確認した。宇佐に変な物を食べさせたくなくて、美味しいと思ってもらいたくて。
(これ以上望むな)
今のままで十分だ。ずっと好きだった宇佐と少しでも会話を交わせるようになった。それだけで十分すぎるくらい幸せなのだから。