翌朝、早い時間に起きてしまった由麻は、教室でテスト勉強をしようと思い、いつもより三十分早く登校した。
 まだ誰もいないだろうと思って教室のドアを開けると、茜が流行りのハムスターのキャラクターのカバーを付けたスマホをいじっていた。こんな時間にもう来ていることに少し驚く。
 思い返せば、茜はいつも由麻より早く学校にいるように思った。

「あれ? 由麻じゃん。おはよ! 今日早いね」

 茜がスマホから顔を上げ、にこにことこちらに笑顔を向けてくる。その机の上には夏休みのワークが広げられている。提出期限は昨日だったはずだが、サボってしまって終わっていない生徒は多い。特に今回は歴史の宿題が多かったと聞く。文系の茜は大変だろう。

「……おはよう。茜っていつもこんな時間に来てるの?」

 宇佐に昨日言われたこともあり、不自然にならない程度に茜のことを聞いていきたいと思った。茜とは中等部からの仲で、大抵のことは知っているつもりだ。でも、いくら仲が良くても互いの全てを知ることなんて誰にもできない。由麻の知らない茜の秘密だってきっとある。

「うん。まだ太陽上がってないうちに学校来た方が道中涼しいじゃん」

 そんなに暑がりなら夏の制服を着ればいいのにと思った。桜ヶ丘大付属高等学校では、二学期が始まる九月から秋服を着てもいいことになっている。とはいえほとんどの生徒はまだ夏服で、由麻も半袖だ。しかし、茜は「こっちの方が可愛いから」なんて言って既に長袖の制服を着ている。彼女にとって可愛さはとても大きな意味を持つらしい。
 夏休み中に入れ替えが行われたようで、六組のクーラーは新しくなった。外が暑かったので冷房の下で風に当たっていると、茜がワークを放って由麻の方へ歩いてきた。

「昨日リコとカレー食べてたらさ、偶然長瀬くんとサッカー部っぽい人たちと会ったんだよね」

 学校帰りに寄ることができる食事処は、この辺りでは限られてくる。昼食の時間に同じ学校の生徒と同じ店で出くわすのもそう珍しいことではない。

「それで知ったんだけどさ、リコ、夏休み中にサッカー部の副部長のこと好きになったらしいよ?」
「ええ?」

 女子高校生の切り換えの早さに驚愕した。そういうものなのだろうか、といつまでも一人の人を想い続けている自分が重たい存在のように思えて恥ずかしくなる。

「長瀬くんは既に知ってたらしくて、リコに協力しててさ~。これがうまいんだよね。ご飯食べた後、いい感じにリコと副部長のこと二人きりで帰らせたの! 俺寄るところあるとか言って!」
「へえ……凄いね」
「そんで、なんとあたしは長瀬くんと二人で帰れたっていう」
「ちゃっかりしてるなぁ……」
「たまたまだからね? あたしが計算したわけじゃなくて……」
「うんうん。それで、何話したの?」
「え?」

 茜の表情が固まる。

「……忘れちゃった」

 違和感を覚えた。いつもなら最近あった出来事を事細かに話してくる話したがりの茜にしては不自然な反応だ。さっきまで楽しげだった茜の口数が急に少なくなり、「あたし、歴史のワークやらなきゃ!」と言って席に戻っていく。

(……?)

 やはり何かおかしい。昨日宇佐と話した内容もあり、少し不安を覚えた。


 :

 昼から雨が降ってきた。ムシムシジメジメと不快な空気だ。由麻はこの日もテスト勉強のために教室に残ったが、外は曇っているため暗くなるのも早く、多くの生徒は少し残って帰っていった。
 由麻も程々で切り上げ、ロッカーから折り畳み傘を取り出して昇降口へ向かう。しとしとと降り続ける雨の中、最寄りの駅まで歩いた。
 改札を抜けると、駅のホームに見知った男子生徒が立っていた。彼は長身なので目立つ。すぐに見つけられる。

「あれ? 由麻ちゃんじゃん。ぐうぜーん」

 いつも人に囲まれている長瀬が、今日は一人だった。雨で部活が休みだったのだろう。

「こんばんは。今日は一人なんだね」
「いやー、宇佐と帰る予定だったんだけどさ、何か急に香夜(かや)さん……彼女と帰るとか言い出して。あいつ俺との約束より彼女優先するんだぜ? 嫌になっちゃうよなー。マジラブラブバカップルだわ」
「え?」
「ん?」
「……いや、何でもない」

 ミス桜ヶ丘――そういえばミスコンのパンフレットに載っていた名前は香夜だった――と宇佐は、別れたわけではないらしい。じゃああれは本当に一体何だったんだ、と昨日見た光景が何度も脳内で繰り返される。
 長瀬と並んでホームに立ち、電車を待つ。沈黙を破ったのは長瀬だ。

「見た?」

 何を、と聞くまでもない。反応できずにいる由麻を見て、長瀬はわずかに目を細めた。

「だから言ったじゃん。俺、宇佐の彼女のこと嫌いだって」

 宇佐をよく知る長瀬の言葉が、あれは“そういうこと”なのだと告げてくる。

「……何で?」

 まず出てきたのは疑問だった。人間は、自分の理解の範疇を超える他人の行動に対して理由を探したがる。そんなものないかもしれないのに。

「そういう人なんだよ」
「宇佐さんはそれでいいのかな」

 宇佐は常人を超えた予測能力を持っている。香夜に他にも相手がいることを知らないはずがない。

「それでいいから付き合ってんじゃね」

 また、長瀬と由麻の間に沈黙が走った。そうこうしているうちに電車の音が近付いてきて、由麻たちの前で停車する。開いたドアから人が出てきた後、由麻と長瀬は一緒にそこに乗り込み、無言で席に座る。車内はこの時間帯にしては空いていた。

「……分かんない。どういう感想を抱くのが正解なのか。一瞬、私の方が宇佐さんを幸せにできるかもなんて烏滸がましいこと考えそうになったけど、宇佐さんの幸せは私に推し量れるものじゃないし。私は宇佐さんの彼女のこと酷いって思ってしまったけど、宇佐さんにとってはそうじゃないのかもしれない」

 うまく言えない。感情がごちゃごちゃになって頭がパンクしそうだ。
 そんな由麻に、長瀬はふっと柔らかく笑った。

「由麻ちゃんはいつも真面目で冷静だなー」
「そんなことない。今凄く動揺してる」
「動揺してても出てくるのがその意見なんだろ。冷静だよ」

 ぽんと長瀬が由麻の頭に手を置き優しく撫でてくる。

「宇佐のことずっと好きなくせに、そんないい子ちゃんでいていーの」

 その声があまりに優しくて、涙腺が緩みそうになった。
 しかし、感傷に浸っている暇もなく、電車はすぐに由麻の家の最寄り駅に到着する。由麻は気持ちを切り替えるように立ち上がった。

「私、降りるのここだから。じゃあね」

 すると、何故か長瀬も立ち上がって付いてくる。

「……長瀬さん、もしかして私と家近い?」
「いや? ちょっと由麻ちゃんと遊んで帰ろーと思って」
「テスト前なのに?」
「範囲の勉強全部終わってるし、俺。優秀っしょ?」

 そういえば、長瀬の成績は学年でもトップクラスなのだった。




 最寄り駅から由麻の家まで徒歩五分ほど。特に何もない住宅街だが、その間には人気の少ない公園がある。ちょうど雨が上がったためそこに寄り、濡れたブランコをハンカチで拭いて座った。雨上がりは少し涼しく感じる。
 隣の長瀬は「おー、ブランコとかちょー久しぶり!」と楽しそうに漕いでいる。このまま家に帰って一人で部屋で勉強などしていたら宇佐と彼女のことがぐるぐる頭の中を駆け巡りそうだ。由麻としても、隣に明るい長瀬が居てくれることは少し有り難かった。
 しばらくして飽きたのか、長瀬がブランコを止める。

「そうそう、『こころ』の感想。俺、読書家が納得するような感想言えねぇけどいい?」
「いいよ。私もただ読んでるだけで、深い感想とか抱きながら読んでるわけじゃないから」

 由麻は真の意味で読書が好きなわけではない。ただ、宇佐が読んでいたから。これを読んで宇佐は何を思うだろうなんてことを想像しながら読むのが好きなだけだ。作品に対して失礼なような気もするが、楽しみ方は人それぞれということにしておこう。

「多分あれ、あの時代に実際に生きてないと深い意味はよく分かんねぇんだろうなって思った。でもすげぇ作品なのは伝わってきたよ。夏目漱石って天才だな」

 長瀬から出てきたのは何だか呑気な感想で、由麻は少し笑ってしまった。

「まぁ、難しいよね」
「あと、由麻ちゃんはあの登場人物の誰にも共感できねぇだろうなって思った」
「……私?」
「多分、あの人たちは自分のことを嫌いになって死んだんだろ。人間なら誰しも抱えるような自己矛盾を抱いて苦しんだ。でも、そんな経験由麻ちゃんにはなさそーだなって。由麻ちゃん、人間っぽくねぇもん」

 『こころ』では二人の自殺者が出る。表向きは一人の女性を取り合う三角関係のいざこざで心を病んだように見えるストーリーだが、そこまでの過程や登場人物たちの過去を踏まえると、もっと別の要因も色濃く絡んでいることが分かる。あれほど“人”を鮮明に描いた作品もなかなかないだろう。
 由麻を心のないロボットのように言ってきた長瀬は、またブランコを漕ぎ始めた。

「登場人物たちのこと実際いた人間みたいに感じられるんだからすげーよな。夏目漱石ってやっぱ天才だわ」

 とにかく夏目漱石の天才さは伝わったらしい。何度も彼を褒めた長瀬は、ふと公園の向こう側にあるコンビニを見つけて言った。

「由麻ちゃん、アイス買いに行かね? 俺が買うから半分こしよ」
「アイスか……。いいかもね」

 長瀬に続き、由麻も立ち上がった。久しぶりに甘い物が食べたい気分だ。


 コンビニでチョコレート味のパピコを買った由麻と長瀬は、イートインスペースの椅子に向かい合って座った。長瀬はパピコを吸いながら、片手でスマホを操作して誰かにメッセージを返している。

「長瀬さんのこういうところ凄いよね。人気者なのも頷ける」
「こーいうのって?」
「元気ない人がいたら必要以上に構うところ」

 長瀬はスマホを置いて由麻の方に向き直った。

「おー。俺、弟二人いるんだけど、あいつら見てて思うのが、元気ない奴って意外と元気ないアピールをしねーんだよな。プライドとか、心配かけたくないとか迷惑かけたくないとか、理由は人それぞれだけど。だから俺、そういう奴の傍にはいてあげるようにしてんだ」
「ふーん? 優しいね」
「だってそれしかできねぇもん。他人の事情に踏み込むのも他人の問題を解決すんのも、簡単にできることじゃねぇからさ。俺は俺にできる範囲のことをやってる」

 長瀬は、意地悪なところもあるが、根は良い人なのだろう。

「長瀬さんってイケメンだ」
「俺に惚れちゃった?」

 からかうように聞かれたのですぐに否定した。

「いや、それはちょっと」
「即答かよ。ほんと一途だなー、由麻ちゃん。まぁ宇佐の系統が好きなら俺は刺さんないか」
「そうだね、異性としては。でも、長瀬さんとは友達になってみたいなと思う」
「友達?」
「圧倒的陽キャの長瀬さんと友達になりたいなんて身の程知らずかもだけどね」
「何だよそれ。俺のこと何だと思ってんの、由麻ちゃん」

 長瀬はぷっと噴き出し、小指を立てて差し出してくる。

「いーよ。なろ。友達」

 それは指切りげんまんのポーズだった。由麻も小指を出し、控えめにその指に指を絡める。

「つーかもう友達っしょ。友達じゃねーとこんなに絡まねぇよ、俺」
「……そっか。ありがとう」

 由麻も笑った。長瀬のおかげで少し、心が軽くなった気がする。


 夜になる前に長瀬とは解散した。親が夕飯を作ってくれているので、それまでには帰らねばならなかったのだ。
 長瀬は由麻を家まで送った後、元気に手を振って駅へ帰っていく。その背中のことを少し頼もしく感じた。