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 掃除が終わった後の音楽室は静かだった。宇佐との約束の時間まではまだ五分ほどある。

(蒸し暑いな……)

 お盆を過ぎても九月に入っても一向に涼しくなる気配がない。由麻は音楽室の窓を開けて少しでも風が入るようにした。
 椅子に座り、暇なので化学のノートを開く。夏休みの課題を元に作成されるテストがもうすぐあるのだ。由麻は無機化学が苦手だった。無機化学は覚えるだけと言う人もいるが、由麻にとってはそれが難しい。じっくり見直しておかなければ、とノートのページを捲っていると、ガラッと扉が開いて宇佐が入ってきた。
 何だか久しぶりに見る気がする彼は、恋心で美化されている部分を除いても、やはり格好良かった。

「おはよ」

 無表情のままそう言って扉を閉めた宇佐が、ゆっくりとこちらに歩いてくる。

「おはよう。……もう昼だけど」
「勉強してたの?」

 宇佐が由麻のノートを覗き込んだ。その距離の近さにどきどきする。

「うん。課題テストが近いから……」
「由麻のクラスの化学のテストなら、出るのは工業的製法のまとめのページの穴埋め問題と、」
「ちょ……だめだよ。やめて」

 宇佐がテストの問題について言いかけるのを止める。しかし、宇佐は悪びれる様子もない。

「何で? 俺に利用されてるんだから、俺のことも使っていいんだよ。由麻は」

 続けて何か言おうとするので、慌てて反論した。

「そういうズルはしたくない。あ、宇佐さんがいつもズルをしてるって言いたいわけじゃなくて。その能力って宇佐さんのものでしょ? 宇佐さんは予測も含めて自分の力で問題を解いてるけど、私がその力を借りたら、自分の力でテストに挑んでるわけじゃなくなっちゃうよね」
「ふうん……。そっか、そう感じるんだ。由麻の勉強やテストへの感覚は、俺のとはちょっと違うのかも」
「宇佐さんは何でもすぐ分かっちゃうから?」
「うん。俺には自分で解いてるって感覚があまりない。テストに出る問題もその回答も、脳が勝手に予測してくれてるって感じ。あんまり当てすぎても怪しまれるから、わざと間違えてみたり、予測を無理やりオフにしてみたりしてる」
「オフにできるものなんだ」
「うまくできない時も多いけどね。この問題の答えを考えるなって司令しても、そこに関する思考にわざとぽっかり穴を空けてみても、スイッチを切っても止まらない機械みたいに、俺の頭は他の情報からその答えを導き出そうとする」
「…………」
「ごめんね。うまく伝えられない」

 由麻が難しい顔をしていたのか、宇佐はちょっと申し訳なそうに笑って隣の椅子に座った。ようやく距離が開き、どきどきとうるさかった心臓が元に戻る。

「だから、その理屈で俺が狡いわけじゃないって言う由麻が不思議だよ。俺にとっては他人の力を借りているような感覚だからね」

 頬杖をつき、窓の外から流れ込んでくる風で揺れるカーテンをぼんやり眺めた宇佐は、ぽつりと言った。

「ラプラスの悪魔は俺の力、か。俺にとっては呪いみたいなものだけど」

 呪いという言葉は悪いものに使う。誰もが求めてしまいそうな予測能力も、宇佐にとっては厄介なもののようだった。

「そういえば、最近はできるだけ由麻の予測はしないようにしてるんだよね」
「……何で?」
「されたいの?」
「そりゃ、恥ずかしいからやめてくれた方が有り難いけど……」
「でしょ。それに、由麻のことは外してばかりだから。当たりもしない予測を続けていても仕方ない」

 そこまで言って、宇佐はようやくこちらに視線を戻した。

「いつもは由麻の話を聞かせてもらうために来てもらってたけど、今日は俺から話したいことがあって呼んだんだ」

 何だろうと身構えていると、宇佐の口から意外な名前が出てきた。

「――吉澤茜」
「……茜?」
「あの子、注意して見ておいた方がいいよ」

 体が固まった。まさか、宇佐から茜の話が出てくるとは思わなかったのだ。以前のリコのように自殺未遂をするという話だったらどうしよう、あるいは事故に遭うとかでは……と不安を覚えながら、宇佐の次の言葉を待つ。

「前もって言っておくと、人命に関わるような未来にはならない」

 ひとまずほっとした。

「でもだからこそ由麻に与えられる情報が少ない。前は緊急度が高かったから細かいところまで伝えたけど、今回は吉澤茜のプライバシーに関わるような部分がかなり絡んでくる。俺が伝えられるのは、吉澤茜をちゃんと見ておけということだけ」
「……分かった。ありがとう」

 宇佐は優しい。前回は中等部からの友達である長瀬に関わることだったからこそ止めようとしていたはずだ。でも、今回はそこまで会話を交わしたこともないであろう茜のことまで心配してくれている。

(茜が私の友達だから、だったりして)

 律儀な宇佐のことだ。夏祭りの日にした友達になろうという約束を守ってくれているつもりなのかもしれない。友達の友達のことは気にかけてやるべきと思っているのだろう。

 宇佐からの話はそれで終わりだった。そこからしばらく由麻のバイト先の話などをし、テスト前ということもあり早めに解散した。
 昼食を食べておらずお腹が空いていたので、購買で焼きそばを買って教室で食べた。ついでにテスト勉強をした。



 由麻が下校する頃には、生徒たちはもうほとんどいなくなっていた。基本は電車通学だが、今日は天気が良かったので自転車で来ている。空になった焼きそばのパックを捨ててから駐輪場へ向かった。

 静かな校舎を出て、駐輪場へ歩くまでの道に、付属大学の文学部の講義棟がある。いつものようにその前を通り過ぎた時、ふわりと良い香りの女性が由麻の前を通り過ぎた。

 ――――……あれは、もしかして。

 由麻は思わず立ち止まり、その姿を目で追った。
 宇佐の彼女――ミス桜ヶ丘だ。近くで見るとよりビジュアルの別格さを感じられる。顔が小さい。足が細い。髪質が良い。肌が白い。姿勢が良い。服がお洒落。テレビに出てくるモデルのようで凝視してしまう。
 ヒールのある靴でコツコツと歩いていったミス桜ヶ丘の隣には、由麻の知らない大学生の男の人がいた。そして――彼は、自然な流れでミス桜ヶ丘の手を取る。
 え、と思わず声を出しそうになった。彼と手を繋いで歩いているミス桜ヶ丘は、宇佐の彼女であるはずだ。しかし、今由麻の目に映る、笑い合う男女は確かに恋人同士に違いなかった。

(……宇佐さんとあの人、別れた?)

 そう考えるのが自然であるのに、リコが言っていたことを思い出して嫌な想像をしてしまう自分を殴りたくなる。


  ――……『他の男と関係持ちまくりだし宇佐のことも別に好きじゃないのに、何でも言うこと聞いてくれる宇佐を呼び出して扱き使ってるって』


(……何か事情があるのかもしれない。私がどうこう邪推するのも失礼だ)

 必死に思考停止し、全力で自転車を漕いで家へ帰った。そのおかげか、家に入る頃には“ミス桜ヶ丘が綺麗だった”という事象しか頭に残っていなかった。


 これが由麻の、二学期の始まりだった。