中学一年生でヘルマン・ヘッセの車輪の下を読んでいたあの人は元気だろうか。
 図書室で見かけて興味本位で開いてみたけれど、当時は面白さが分からず数ページで読むのをやめてしまった。彼は私が今読んでようやく理解できるような代物を、すました顔して十二歳で読み切る可愛げのない同級生だった。
 フランツ・カフカの変身も、森鴎外の高瀬舟も、与謝野晶子のみだれ髪も、大して興味もないのに文学の有名どころが今でも私の部屋の本棚に並んでいるのはあの人の影響だ。

 何を考えているのか分からない彼の中身が知りたくて、彼を追うように本を読んだ。いつの間にか、私たちの学校――中高大一貫校の桜ヶ丘付属でエスカレーター式に高校進学した彼とコースが離れて、一年程が経っていた。
 私と彼の関係は中学時代の最初から最後まで他人に近いただの同級生に過ぎなかった。だから、彼に恋人ができたという噂を初めて聞いたのも、彼の元友人の友人からだ。噂の内容は不確かで、髪の長い大和撫子だとか、意外と派手めなギャルだとか、彼の恋人に関する情報は聞くたびに内容が変わっていった。

 ろくに話したことがないうえ彼の興味を引ける程の中身もない自分が彼と恋愛関係になれるなどと考えたことはなかった。そのようなことを夢見たことだってなかった。
 それでもショックだったのは、自分が確実に介入できない間柄の女性が彼にできてしまったことへの寂しさ、元から遠かった彼をより遠く感じてしまうことへの切なさがあったからだ。
 彼は昔から頭がよかった。高等部に上がる際は普通科でなく特進コースに進むであろうことは予想できていた。折角同じクラスだったのに、中学の三年間一度も自分から話しかけなかったことを酷く後悔した。

 高校二年生になる頃、付属大学の図書館の椅子で彼が何やら難しげな本を読んでいるのを偶然見かけた時は余程話しかけようと思った。そのような偶然は滅多に起きないことだと分かってい たし、今度こそ後悔をしたくなくて、どう声をかけようか迷いつつも彼を見つめていた。
 しかしその時、すらりと背の高い女性が私の横を通り過ぎていった。彼は声をかけられる前に彼女の存在に気付いて顔を上げ、分厚い本を閉じて立ち上がると、並んで外へと歩き始めた。
 その二人はどう見たってお似合いで、それこそ私の入る隙なんてなく、私はさっきまで見ていたことを悟られぬよう、言い訳するみたいに俯くことしかできなかった。
 派手なギャルなんて嘘じゃないか、と、どこへぶつけていいか分からない虚しさを覚え、噂に左右されて明るい茶色に染めた自分の髪が、どうしようもなく惨めに思えた。

 忘れもしない中二の冬。「あんた、本が好きなんだ?」と、図書室で借りた本を鞄に入れて帰ろうとする私を見て、まるで私が活字を苦手としていることを知っていたみたいに意外そうにそう聞いてきた彼のことを思い出す。
 本じゃなくてあなたが好きだったと、もう言えなくなってしまった。




――――……これは、自分の言葉に縛られ続けたある男女の悲しい恋の話だ。