いまだ寝かしつけに「おっぱい」を必要とする真人が、わたしの胸のうえに重なるようにして眠りについていた。
 札幌も八月の半ばには猛烈な暑さに見舞われるが、本州とは違い一週間ほどで引く。晩夏のころの今となっては、窓を開けていると寒いほどの風が吹き込んでくる。釘のいらない組み立て式の家具みたいに、わたしと真人は組み合って一つになっている。
 夜は眠れない。
 出張にいく前日の夜、なかなか寝室に入ってこなかった崇さんを思い出すから。リビングに続く扉の隙間から見えた、マグカップに入れたワインを一人で飲む崇さんの丸まった背中を。崇さんは痩せ型で、特別背が高いわけでもないのに猫背が癖になっておかしな形で背中が固まってしまっていた。背中を伸ばそうと素人ながらにマッサージをしていたけれど、結局内側に肩が入ってしまったままだった。
 白木の棺桶に収まった崇さんの肩もやっぱり内側に入っていた。
 箱のなかで寝かされた状態では気付きにくいけれど、わたしはずっとこの姿勢をほぐそうとしてきたんだから、気づかないはずはなかった。最後の夜にわたしは崇さんを放っておいてしまった。ダイニングテーブルの隣に腰掛けて、一緒にマグカップでワインを飲んでみたらよかった。
 目を閉じて、あったかもしれない『あの日』のやりとりをイメージする。
 彼の肩に手を添える。彼がわたしを見る。
 わたしの好きな真っ黒な瞳にわたしは映らない。彼の目を覗き込み続けると、奥でなにかがうごめいている。
 うごめいていると思ったものは、揺れる赤ワインの水面だった。いつの間にか彼の瞳は赤黒く濁っている。彼が口を開く。その言葉を聞いてはいけない。

「美香はさ、」

 その言葉を聞いてはいけない。

「美香が俺と結婚したのは、」
 
 聞かない。わたしは急いでリビングを出て、真人の待つ寝室に行く。彼が追ってくる気配がある。彼を部屋に入れたらいけない。たったの二歩で移動できてしまう短い廊下を斜めに渡り、寝室に駆け込む。
 内開きのドアを押して閉めるときに、空気の抵抗がある。ドアを閉じる寸前、彼の赤黒い目がわたしの背後のベッドをとらえているのを見る。

「真人を見ないで!」

 叫んで、ドアを閉じた。
 ドアを隔てた廊下からは物音どころか、生き物の気配が何も感じられなかった。

 

「崇さん!!」

 飛び起きようとしたが、胸にのしかかる真人の全体重によって阻まれた。
 仰向けのまま天井に向けて手を伸ばして空をかく。真人は低く呻くと、太った青虫みたいにのっそりとした動きでわたしの胸から落ちた。
 真人が叫んでしまう。また寝かしつけなくてはならない。一人の長い夜に、お母さんに戻らなければいけない。
 ベッドマットの上で左右に転がりながら唸る真人を注視する。少しむずがったものの、癇癪を起こすことなく真人はまた眠りに戻ってくれた。
 瞬間的な緊張から開放され、思わず吐いた息の重さに、なぜかわたしは傷ついた。
 わたしがこんなことになったのは、すべては崇さんが死んだせいだ。さらに死後にKKとかいう男を遣わして、どこまでわたしを苦しめたら気が済むのだろう。KKは崇さんが死んだ場所すら知らなかったんだから――。

 そうか。

 枕元に置いているスマートフォンに手を伸ばす。
 崇さんのフェイスブックのページを開いて、それから、そう多くはない彼の投稿を遡っていく。

「やっぱり……」

 ある一つの投稿に行き着いて、わたしはKKの嘘に気付いた。