その日の夜のこと。
 夜中に、真人のおむつの背中から排泄物が漏れていることに気付いたわたしは、超高速で頭を回転させながら出来るだけ被害を少なく抑えるべく奮闘していた。幼児が漏らしたときの最良の手順――こぼさないように服を脱がし、子供を洗い、寝具を剥がし、服を着せ、汚れものをつけ置き洗いし、子供を寝かしつける――を考えるとき、頭がそれでいっぱいになる。それにわたしは救われていた。
 どうせ眠れなかったのだ。
 普段から眠れないが、その日は崇さんのフェイスブックの件や、謎の着信の件など、考えることがたくさんあった。幼児のうんちのことだけ考えればよいというのは、つかの間、わたしの頭をシンプルにしてくれた。
 すべてを終えて、久々にワインでも飲もうという気持ちになった。まだ完全な断乳は出来ていないが、夜の寝かしつけくらいしか「おっぱい」の出番はなくなっていた。もうお酒を解禁してもいいだろうと、わたしはわたしに言い訳をした。ワインは、崇さんの飲みかけだったものだ。ずっと冷蔵庫に入れっぱなしだったが、もともと発酵しているものだから問題ないだろうと判断した。それで悪酔いしようが、お腹を壊そうが、どうでも良いという気分だったのもある。わたしの健康はいまや真人の世話にだけ捧げられている。それをどうでもいい、とするのはわたしの立場からしたらヤケクソと言ってよかった。

「ワインの味ってわかんないんだよね」

 どこにも居ない崇に話しかけるように、わたしはダイニングテーブルでひとり呟いた。

「これ味一緒かな、変わっちゃってるのかな」

 視線の先には、崇の写真が置かれたキャビネットがある。結婚式の時に撮った、ぎこちない笑顔の崇が写真立てのなかに居た。

「答えてくれない人に聞いても仕方ないや」

 目線を手元に落とす。ワイングラスなどというものは、崇は使わなかった。崇の流儀のとおり、わたしはマグカップにワインを注いで飲んでいた。マグカップを覗き込んだ瞬間に、頭の中身がふわりと浮かぶような感覚があった。
 そのとき、またしてもフェイスブックの更新通知があった。
 今度は迷わなかった。すかさず通知をタップすると、果たして、新たに崇の投稿があった。

『電話に出て欲しい。美香、お願い』

 彼のアイコンで、彼の名前で、彼はそんな言葉を投稿していた。
 心臓が大きく脈うつのは、アルコールの影響ではないだろう。
 すぐに着信があるだろうという予感はあった。思い込みか、第六感か。スマートフォンが音と振動で着信を伝える瞬間に、カチッ、と頭のなかで音がした。
「来る」と思った瞬間に、それは来た。

 着信画面に表示される佐野崇。亡夫の名前。
 これは佐野崇からの電話だ。あの世(なんてものがあるとしたら)からわたしに会いに来てくれている、夫からの電話に違いない。
 スマートフォンの着信で、マグカップの下三分の一ほどにたまった赤ワインの表面が揺れる。アルコールが鼻孔に突き刺さる。
 スマートフォンを持ち上げるわたしの手にはいつの間にか汗が滲んでいて、機体は手首が痺れるくらいに重く感じた。あの日々。保険会社や崇さんの勤める会社や警察や義理の実家からの連絡を受けるのに忙しかった日々を思い出す。封書だろうが電話だろうが、こちらに向けて発信されるものを受け取るたびに一々心を乱されていた日々。
 もう鳴らないと思っていた崇さんからの電話を受けるわたしは、今までの苦しみすべてを帳消しにするための最後の試練めいた気持ちで、汗で滑る指を電話のアイコンに重ねた。上にスライドする。

「もしもし? 崇さん?」

 喉はからからに渇いていた。
 ワインで焼けた喉から、酒臭い息が上がってくる。彼がこの臭いを、例えばわたしの隣でかいでいませんように。

「佐野美香さん? 佐野美香さんですか?」

「そうですけど、どなたでしょう?」

「自分、柿澤健斗(かきざわけんと)って言います。突然のご連絡申し訳ありません。あの、旦那さんの佐野崇さんからのご依頼がありましてご連絡を差し上げた次第です」

 げぇふ、とわたしは赤ワインの臭いのげっぷをした。せり上がってきて止まらなかったのだ。もちろん、通話口を手で抑えはしたが、思いのほか大きな音で鳴ったげっぷは向こうに聞こえたかもしれない。でも通話の相手が崇さんじゃないならどうでも良かった。

「あのう、お話しを続けてもよろしいでしょうか」

 柿澤と名乗る男が、ひょうひょうとした様子で会話を続けようとしてくる。げっぷを思い切り聞かせておくべきだったと思いながら、「どうぞ」と続けた。マグカップのワインを一口すする。歯の一本一本まで()()が付きそうだ。
 
「自分は崇さんのちょっとした知り合いでして、彼に美香さんと息子さんのえーと」

真人(まひと)

「真人くん! 真人くんのことを頼まれたんです。助けたいから、と」

「そうですか」

 答えながら、わたしは消沈を隠さなかった。柿澤がなぜ崇さんの番号を使っているのかということに、即座に疑問を覚えることは出来なかった。それだけわたしの落胆は大きかったのだ。
 崇さんとの最後のメッセージのやりとりも、最後の通話履歴も、スクリーンショットで残してある。佐野崇の名前が表示された「正しく最後の瞬間」が土足で蹂躙されたことへの苛立ちが、胃のあたりで膨らんできた。

「ぐぅぷ」

 今度は遠慮なしに、通話口に注ぎ込むようにしてげっぷを吐いてやった。
 真人の声が、寝室から廊下を通って、リビングにまで届いた。なにやらうなされている。真人は夜中に叫んで目を覚ますことがある。今日もそれだろうか、と開け放したリビングのドアの向こうの暗い廊下を見つめる。寝室のドアも開けてあるので、寝室でなにか動きがあればすぐに分かる。
 七月のなかばであるが、北海道ではまだ夜は冷える。細く網戸を開けておいている寝室からリビングに向けて、冷気が這ってきていた。つま先がきんと冷える。頭と胃はずっと火照っている。ばらばらだ。体がばらばら。
 
「崇さんじゃないならもう連絡してこないでください」

 通知がある。顔を話して画面を見れば、崇さんのフェイスブックの更新通知だ。

「そうは言っても、頼まれていますので。自分は断れない立場にあるんです」

 もう一度げっぷをしてやりたかったが、もう出なかった。
 通知をタップして、崇さんのフェイスブックの画面を見たら、すっかり酔いが冷めてしまった。

『KKに協力を頼んでいる』

 KKとは。柿澤のことだろうか。さっき柿澤はフルネームをなんと名乗っただろうか。

「柿澤さん、わたしと真人を助けるとおっしゃいましたね? ひとつご確認なんですが」

「はい」

「フルネームはなんとおっしゃいましたっけ。聞いたはずなんですが、覚えられなくて」

「柿澤健斗です」

 間違い無かった。
 KK――柿澤は、この世で自由に動けない崇さんの代わりに、何事かを成そうとしているのだ。それはきっとわたしと真人のためになることだろう。信じるとか信じないとかいう問題ではなかった。
 わたしはすがりたかった。崇さんの名前と崇さんのアイコンで動き続けるフェイスブックには、崇さんが宿っているという仮定に。