KK――いや、崇さんと、真人との新しい生活は幸福そのものだった。
週末の公園ももう怖くない。わたしたちは幸せで完璧な家族の姿を見せつけるように、毎週末公園に向かう。
真人が夢中になって蟻の巣を覗き込み、一匹一匹を指先で潰して等間隔に並べている。
「蟻のお尻は甘いんだよ」
KK――崇さんが蟻のお尻を前歯で噛んで見せた。
「ちょっと、虫、苦手なんじゃなかった? 苦手だよね」
「そうだっけ」
「そうだよ、パパ」
「そうだったかもしれない」
面倒そうに言って、彼は口をゆすぎに行った。
「パパ! スマホ、水に落とさないでよ!」
入籍してすぐのころ、スマートフォンをトイレに落として故障させた彼の、新しい機種代を出したのはわたしだ。
名前を呼ぶ必要がないのはとても助かるな、と、パパ呼びをするたびに思う。ああ家族とは美しいな。家族が揃うのは素晴らしいな。
パパ、と彼に呼びかけるたびに、エゾシカの姿がおぼろげによぎる。
あの雄のエゾシカは、一頭で居たけれど、番が居るのだろうか。あんなに美しく雄々しいのだから居ないはずはないけれど、奇跡の具現化なのだとしたら、難しいのかもしれなかった。
崇さんはわたしたちのマンションに戻ってきた。KKの姿を借りてではあるけれど。
彼はそれまでの仕事をやめて、新しい仕事を始めたいと言った。
わたしには手を付けないままの保険金もあるし、崇さんの名義でのマンションのローンも、死亡にともない無くなっている。
あの世から帰ってきたばかりだし、彼も体を休めたいのだろうと思う。
これで崇さんも「美香が俺と結婚したのは、お金目当てじゃないよね?」なんて二度と言わないだろう。そりゃあ確かに崇さんの収入と、それがもたらしてくれる安定は結婚するにあたっておおいに魅力的だったけれど、それでもちゃんと愛があったし。愛が前提だし。そんなことも分からないなんて死ぬ前の崇さんはアホだ。
二十四時間、毎日、彼と真人と一緒に居られるのも、仕事人間だった彼が生きていたころには考えられないことだった。見た目は変わっても、彼は彼。崇さん。わたしは崇さんの魂に惹かれているのだから、なんの問題もなかった。
彼が崇さんの魂を持っている限りは。
幸せだった。クローゼットの奥の、彼のキャリーバッグを開けるまでは。
「なに、これ」
などと呟いてみたものの、どこか予感はあった。だって彼は昨日もゴキブリを殺した。崇さんは虫が大の苦手だったのに。
先週風邪をひいたときに病院で薬をもらった際も、飲み忘れたり、まとめて飲んで帳尻合わせをしたりした。崇さんだったら、アラームをかけて几帳面に薬を飲むはずなのに。
壊れた、と言って買い替えたはずのスマホがなぜか彼の私物のスーツケースの底から出てきた。
どうか壊れていますように。そう祈りながら充電コードをつなぐ。
あっさりと充電中をつげるライトが点く。電源を入れる。電話帳を開く。
結婚後に買い替えたスマホの中身は見せてもらっていたが、こちらは見たことがなかった。
震える手で、電話帳を開く。スクロール、スクロール。随分と登録された友人が多い。そのほとんどが知らない人だ。
でも、ある名前が表示された瞬間、わたしの指は止まった。
日本に五家族しかいないらしい珍しい名字の女性は、彼の会社の総務部の事務員と同姓同名だった。崇さんの死にあたって、彼女と何度かやりとりがあったので覚えている。
電話でしかやり取りしたことがないけれど、気さくで話しやすい人だった。声の印象から、おそらく同年代だろうと思っていた。それはKK、いや、柿澤健斗とも同年代ということだ。
そして崇さんの死に際し、生命保険会社は崇さんの勤めていた会社にも審査のために聞き取りに言っていた。高額の保険金の噂が、社内に流れていてもおかしくなかった。
柿澤健斗は、実にうまくやったというわけだった。
週末の公園ももう怖くない。わたしたちは幸せで完璧な家族の姿を見せつけるように、毎週末公園に向かう。
真人が夢中になって蟻の巣を覗き込み、一匹一匹を指先で潰して等間隔に並べている。
「蟻のお尻は甘いんだよ」
KK――崇さんが蟻のお尻を前歯で噛んで見せた。
「ちょっと、虫、苦手なんじゃなかった? 苦手だよね」
「そうだっけ」
「そうだよ、パパ」
「そうだったかもしれない」
面倒そうに言って、彼は口をゆすぎに行った。
「パパ! スマホ、水に落とさないでよ!」
入籍してすぐのころ、スマートフォンをトイレに落として故障させた彼の、新しい機種代を出したのはわたしだ。
名前を呼ぶ必要がないのはとても助かるな、と、パパ呼びをするたびに思う。ああ家族とは美しいな。家族が揃うのは素晴らしいな。
パパ、と彼に呼びかけるたびに、エゾシカの姿がおぼろげによぎる。
あの雄のエゾシカは、一頭で居たけれど、番が居るのだろうか。あんなに美しく雄々しいのだから居ないはずはないけれど、奇跡の具現化なのだとしたら、難しいのかもしれなかった。
崇さんはわたしたちのマンションに戻ってきた。KKの姿を借りてではあるけれど。
彼はそれまでの仕事をやめて、新しい仕事を始めたいと言った。
わたしには手を付けないままの保険金もあるし、崇さんの名義でのマンションのローンも、死亡にともない無くなっている。
あの世から帰ってきたばかりだし、彼も体を休めたいのだろうと思う。
これで崇さんも「美香が俺と結婚したのは、お金目当てじゃないよね?」なんて二度と言わないだろう。そりゃあ確かに崇さんの収入と、それがもたらしてくれる安定は結婚するにあたっておおいに魅力的だったけれど、それでもちゃんと愛があったし。愛が前提だし。そんなことも分からないなんて死ぬ前の崇さんはアホだ。
二十四時間、毎日、彼と真人と一緒に居られるのも、仕事人間だった彼が生きていたころには考えられないことだった。見た目は変わっても、彼は彼。崇さん。わたしは崇さんの魂に惹かれているのだから、なんの問題もなかった。
彼が崇さんの魂を持っている限りは。
幸せだった。クローゼットの奥の、彼のキャリーバッグを開けるまでは。
「なに、これ」
などと呟いてみたものの、どこか予感はあった。だって彼は昨日もゴキブリを殺した。崇さんは虫が大の苦手だったのに。
先週風邪をひいたときに病院で薬をもらった際も、飲み忘れたり、まとめて飲んで帳尻合わせをしたりした。崇さんだったら、アラームをかけて几帳面に薬を飲むはずなのに。
壊れた、と言って買い替えたはずのスマホがなぜか彼の私物のスーツケースの底から出てきた。
どうか壊れていますように。そう祈りながら充電コードをつなぐ。
あっさりと充電中をつげるライトが点く。電源を入れる。電話帳を開く。
結婚後に買い替えたスマホの中身は見せてもらっていたが、こちらは見たことがなかった。
震える手で、電話帳を開く。スクロール、スクロール。随分と登録された友人が多い。そのほとんどが知らない人だ。
でも、ある名前が表示された瞬間、わたしの指は止まった。
日本に五家族しかいないらしい珍しい名字の女性は、彼の会社の総務部の事務員と同姓同名だった。崇さんの死にあたって、彼女と何度かやりとりがあったので覚えている。
電話でしかやり取りしたことがないけれど、気さくで話しやすい人だった。声の印象から、おそらく同年代だろうと思っていた。それはKK、いや、柿澤健斗とも同年代ということだ。
そして崇さんの死に際し、生命保険会社は崇さんの勤めていた会社にも審査のために聞き取りに言っていた。高額の保険金の噂が、社内に流れていてもおかしくなかった。
柿澤健斗は、実にうまくやったというわけだった。