三、まるで神話の雄牛のように

 翌日の朝、目を覚ましても体がだるく感じられた。スマートフォンで時間を確認した所、一一時四五分だった。今が夏休みでなければ、涼太は学校に遅刻していた。
 昨夜、スズの配信が終了したのは一一時三〇分だった。彼女は恐ろしく時間に正確な人物だ。
 その配信が終わっても、涼太は眠らずに過去の兼城スズの配信アーカイブを閲覧した。涼太が最初の発見をする前から、スズは動画配信を行なっていた。できる限り、それらに目を通した。
 目的は、彼女の言動だった。もし兼城スズと金城こころが同一人物であった場合、内容の一致する発言があると思ったのだ。
 しかし試みは無駄に終わった。夜明け近くまでゲームのデバック作業のような事をしていたのだが、発言の一致は見られなかった。
 あのひまわりの絵以外には、何一つとして一緒の部分がない。或いは、涼太の思い過ごしなのかもしれない。
  涼太は眠気覚ましのために、スマートフォンから昨夜とは違うアプリを起動した。巷でSNSと呼ばれているアプリだ。彼は好きな歌手や芸能人をフォローしては、逐一彼ら、彼女らの動向をチェックしている。
 だが、中にはそれに当てはまらないアカウントもあった。それは、インターネットから噂話を集めては概要をまとめ、見やすくして自ら公開するというアカウントだった。
 涼太の中でそれは、最近のマイブームであるオカルト話を集める自動収集装置のようなものだ。勿論、収集作業は生の人間が行なっているはずだ。涼太は目に見えないその人物に、「僕の欲を満たしてくれてありがとう」と礼を言わなくてはいけない。
 毎日一〇分、多くて三〇分は、そのアカウントのまとめたものを見る。新しい情報は、端から端まで。
 新しい情報の中に、沖縄県と記されたものがあった。当然内容の気になった涼太は、それを読んだ。
『沖縄県にある、ある灯台の話。そこ行って、近くの崖を見るとその人間は幻を見るようになると言う。よくインターネットに出回る凶行に走る人間というのは、ひょっとするとこういったものの影響を受けているのかもしれない。
 見えるようになった合図は、青い色をした紐状の何かが見えた時らしい。具体的な場所や、見えるようになると言う幻については、後日記載する』
 涼太の目は一気に覚めた。確かに一ヶ月前、彼はあの灯台に行き、崖を眺めて青い紐状の何かを目撃した。だがそれは、幻が見えるようになった合図でしかない。
 触手のように動いていたモノは、ただのお知らせにすぎない。本番はまだ、訪れてはいない。
 当然の事だが、インターネット上に掲載されている情報の全てが正しい訳はない。寧ろフェイクの方が圧倒的に多いはずだ。
 しかし涼太には、ここに載っている内容を嘘と切り捨てる事ができなかった。彼は確実に、青い触手を目撃したはずだ。あれは本人にしか感じ取れない類のものだ。そんなものを簡単に他人が感知できるとは思えない。
 きっとこの情報は、実際に誰かが体験した話がそのまま持ち込まれている。これを語った人物は、涼太と同じようにアレを目にしたのだ。
 自らの感覚に異常がなかったと伝えられた一方で、涼太には疑問に思う事があった。
 それは一つしかない。彼が幻を見る下準備を整えたと言うのなら、肝心の『本番』はいつ、見えるのだろうか。
 幻の内容が何なのか、想像がつかない。幽霊的な存在が目視できるのか、巨大な生物でも見えるのか。人によって形が変わるのか、それすら明確ではない。
 情報が足りていない。
 一つ言えるのは、崖を見た後で涼太に『本番』が来たと感じさせるものは一つとしてなかった。つまり肝心の幻は、彼の感覚が確かなら未だ姿を見せていないはずなのだ。
 灯台へと向かった後の出来事。この一ヶ月の間で、何か変わった出来事はないだろうか。涼太は思考した。
 思い当たる物事はいくつかある。金城こころとの出会いもそうだし、スズとの出会いだって灯台に行った翌日の事だ。
 そうでなければ、ひょっとすると、こころの家で問題となっている謎の物音が幻の正体なのでないか。涼太はその可能性についても考えた。
 あり得る話かもしれない。けれど確証はないし、大体どうして、涼太だけに感知できるはずの存在が最初に発見されるのがこころの家なのだろう。
 謎の足音ではないとするならば、こころかスズのどちらかになるだろう。彼女達との出会い以外で、この一ヶ月何も変わった事はない。順当に考えるのなら、あの二人のどちらか以外にないはずなのだ。
 しかし、赤の他人をいきなり幻覚の類だと決めつけるのはあまりに早計だ。涼太としては、幻が見えるまでにはいくらか時間をおいての事になるというのが一番納得できる仮説だった。
 ならば、今はまだ幻は自分の前には現れておらず、こころもスズも実在する人物と見た方が懸命だ。涼太はそう思う事にした。
 それはそれとして、一つ気になる事があった。こころとスズが同一人物なのではと言う可能性だ。
 涼太は夏休みで大量に確保された時間を使い、昨夜に引き続き兼城スズの配信アーカイブを閲覧し続けた。動画は倍速にはしない。等速にして、発言の全てを聞き逃すまいと集中した。
 作業自体は、あまり時間がかからなかった。
 何しろスズが活動を開始したのは、一ヶ月前の七月一日。丁度、涼太が灯台へ向かったあの日なのだ。彼の中の嫌な予感は、少しずつ膨れ上がっていった。
 その日の夕方、涼太はずっと部屋にこもっていた。作業を終了させた後、頭の中をクリアにさせるために、ベランダに出た。
 クーラーの効いた部屋の中からは聞こえてこなかった、蝉達の鳴き声が容赦なく耳に突き刺さった。涼太の住んでいるアパートの目の前にはたくさんの木が植えてあるため、そこに立ち寄った蝉の数は非常に多い。すっかり傾き橙色に変わる陽の光を、綺麗だと感じる余裕も与えてはくれない。
 どこまでも続いているように感じられる住宅街の屋根を彼は眺めた。視線は動かなかったが、脳内は全力で稼働させていた。今にも機械から出るモーター音に似たものが聞き取れそうなほどだ。
 情報を整理すると、兼城スズは配信の中で少しではあるが自分の身の上話をした。時には、今の生活についても話した。基本的には配信で行うゲームの話がメインなので、得られた情報というのは掌サイズのメモ帳、一ページに収まる程度の数だった。涼太はスズの話した内容で気になる箇所を全てメモしていた。
 それによると、スズは大学生であり、配信は授業の合間を縫って行なっている。母親と二人暮らしであり、彼女の母は恐ろしく時間に正確である。配信を始める条件として母が提示した条件は、決めた時間内に確実に終わる事だった。
 これだけでもこころとの共通点は存在している。他にも挙げられる部分があるにはあるのだが、多くの人間に当てはまるような事柄だったためあまり参考にはならなかった。
 オレンジに染まる町を眺めつつ情報を整理していた涼太は、ふとある話を思い出した。
 牡牛座の神話だ。神であるゼウスは、地上に気になっている女性がいた。彼女を自らの伴侶にするべく、ゼウスは雄牛に姿を変え、その女性に近づいた。背中に彼女を乗せて連れ去り、目論見通り女性と結婚を果たすというものだ。
 己の目的のために姿を変容させ、出現する。この神話はどこか今の涼太の状況に似通った部分があった。
 まるで神話の雄牛のように姿を化かし、こちらに近づいてきた存在というのは、こころかもしれない。もしかするとスズなのかもしれない。そして二人は、同一人物かもしれない。
 涼太は自分の頭をガシガシと掻いた。考えるほど、混乱してくる。状況は複雑であり、打破するためには慎重になる必要があった。
「だめだ、寝よ」
 それがその日、涼太の口にした言葉だった。ベッドに潜り込み、そのまま深く夢の世界に沈んでいった。


 二週間ほどが経って、事態は急速に動いた。そして呆気なく、この件に関して終了の告知がされた。
 涼太は二週間ほど、あちこちを回って一連の出来事の解決に向け行動していた。まず最初に動いたのは、こころとスズの同一人物説からだった。
 答えは、あっけないものだった。結論から言って彼女らは同じ人間ではない。
 涼太が初配信と銘打つ一番古い配信のアーカイブまでを全て確認しても、結局同一人物であるという証拠も、そうでないと言える証拠も出てこなかった。仕方なく彼はその日の配信をいつものように眺め、必要に応じてコメントを投げかけていたのだが、ゲーム配信の中でスズがこころではないという決定的な発言を耳にしたのだ。
 以前も配信でしていたゲームを、スズはその日も楽しんでいた。そしてゲームの中で操作しているキャラクターが車に乗る場面があったのだ。
『私免許持ってないから、事故を起こしたらごめんね』
 茶化すような口調でスズがそう言った。この瞬間に、涼太の疑問は一つ消えた。
 こころは車の免許を持っている。いつもJAXAで会う際には、青い軽自動車が駐車場に停まっていたのだ。涼太はそれが彼女の車である事を知っていた。
 当然、スズが何かしらの理由で嘘を言っている可能性もあったのだが、続く発言も殆ど全てがこころとは大きく乖離した内容のものだった。免許の事もそうだが、こころがそこまで嘘をつかなくてもいいのではないかというものが多くあった。二人は別人なのだと捉えるのが自然だった。
 二つ目の疑問が、こころの家に時折聞こえたあの物音の事だが、これもある日こころから電話で解決したのだと伝えられた。
 足音の正体はあまりに単純なもので、家に住み着いた野良猫の立てる音だった。彼女曰く、風通しを良くするために開けていた窓から時々入り込んでいたらしい。外に回って窓の下を確認すると、エアコンの室外機があった。そこから一階の居間に侵入しているのを目にしたとの事だ。
 恐ろしいほどの呆気なさで、涼太はスマートフォンを握りしめたまましばらくそこから動けなくなった。
 最後の幻の件だが、これに関しては涼太のただの勘違いであるという事実が判明しただけだった。
 沖縄には何ヶ所も灯台がある。今となっては使われていない所も多いが、そういう場所も含めると一〇箇所は優に超えている。
 ある日、いつものようにオカルト本を読んでいると、涼太があの日行ったのとは別の場所、B市の話が載っていた。内容は同じだ。見たらそれ以降、幻を目にするという言い伝えがある。場所が違うだけで、全く同じものだった。
 本では、スマートフォンで見た以上に詳しく、具体的な事が書かれていた。昔からの言い伝えで、灯台近くに住み着いている魔物の仕業だと言うのだ。
 念のために涼太は、自分の訪れたあのA市の灯台についても調べてみた。しかしA市の灯台には、これと言って言い伝えや伝承があるわけでもないというのがわかった。したがって、涼太の持っていた情報は嘘という結論になった。
 厳密に言えば内容そのものは一致しているのだが、致命的とも呼べる場所の相違が発生していたのだ。
 こころとスズの二人について疑問を抱いてから二週間、全てが判明するのにそこから一週間。一ヶ月と満たない期間に、涼太の身の回りに存在していた疑問は払拭されていた。
 この三件の解決を、涼太は素直には喜べなかった。
 青い触手状の何かを、涼太は目にしたはずだ。それは幻が見える合図だという。
 例のSNSでの書き込みは信用ならないが、触手のようなものに関しては実際に目撃している。あの感覚的なものは、涼太と同じように目撃した人間にしか言い表せないはずだ。
 青い触手を視認したならば、どこかで幻を見る。この情報に偽りはないはずだ。
 或いは気のせいだったのだろうか。涼太はA市の灯台に行った日の事をできるだけ克明に思い出そうと何度も試みたが、何せ二ヶ月近く前の出来事だ。詳しく思い出せるわけはない。
 あの日見たものは、当時の涼太の体調や、陽の光が上手い事当たったりなどして目撃できた偶然の産物なのかもしれない。もはや彼は深く考えるのを諦め、そのように結論づけた。
 何もかもが偶然で、自分の勘違いのせいでここまでややこしくなったのだ。これからは気をつけなくてはならない。
 よく晴れた日の午後。九月に入って学校が再開されるその時期に、涼太は自転車のペダルを漕ぎまっすぐこころの家へと向かった。
 授業が終わってすぐなので、彼は制服に身を包んでいる。リュックサックを背負っているせいで肩は痛くなってくるし、背中も汗をかいてくる。だが彼はペースを落とさずに進んだ。
 あの件以降、こころとはスケジュールを調整して会うようになっていた。今では知り合いではなく友人の一人だ。こころもきっとそう思ってくれているに違いない。だからこうして家に招いている。
 自身に起こったこの出来事を改めて確認してみると、不思議と涼太は口角を上げたのだった。