朝。

 玄関を出ると、雨が降っていた。ほんの申し訳程度だが、風が少しあるから濡れるかもしれない。

 ビニール傘を取りに戻り、もう一度家を出る。

 傘の膜越しに見る風景は、僕の心を表しているようだった。

 少し曇った世界を、小さな(つゆ)が流れてゆく。
 なにかを失くしたような気持ちなのは、なぜだろう。すごく大切ななにかを忘れている気がするのに、どうしても思い出せない。

 とぼとぼと歩いていると、後ろからぴちゃぴちゃと水を弾く足音が聞こえた。

「お兄ちゃん! そんなとろとろ歩いてたら、遅刻するよ!」
 妹の詩織だ。赤いランドセルを背負って、軽やかな足取りで僕を追い越していく。
 まったく、小学生は元気で呑気で羨ましい。

「子どもは元気でいいな。転ぶなよ」
「誰が子どもだ! チキン野郎!」
「チキ……」
 返ってきた言葉にぎょっとした。
「おい、詩織! そんな言葉、どこで覚えて……」
「行ってきまーす」 
 まったく、将来が末恐ろしい妹である。

 詩織の後ろ姿に眉を寄せていると、ぴた、と足が止まった。
「お兄ちゃん」
 振り向いた詩織が、僕を見る。

「ん?」
「……私、お姉ちゃんはひとりって決めてるから」
「は?」と、眉を寄せる。
「違う人は、嫌だからね、絶対」
 いや、意味がわからないのだが。
「どういう意味?」
「空を見なさい、空を」
「空……?」
 言われたとおり、空を見る。

 雲から漏れた薄い陽光が、落ちてくる雫と街並みを照らしている。

 まるで光が降り注いでいるようだった。
 綺麗だ、と思ったとき、空に輝く色彩を見つける。虹だ。綺麗なアーチ型をした虹が、空にかかっていた。

 そのときだった。
 きぃん、と頭の中に、金属音のようなものが響いた。
 頭を押さえる。

 直後、脳内に声が溢れた。
 
『用がないなら、もう帰ったらどうですか』
 可愛らしいのに、不機嫌そうにつんとした声。

『名前なんてないですよ』
 まるで、棘を潜めた薔薇のような可憐な容姿。清廉で、純粋で、気品が漂っていて、それでいて臆病な――。
 
『音に色なんてありまけん』
 ぴしゃりと言い捨てるくせに、直後それを後悔して、眉を下げる女の子の顔。

『私は、白木先輩といるといらいらします』

 大好きな、誰より大切な女の子の顔が浮かんだ。
 
 最後に浮かんだ顔は――泣いていた。
 悲しそうに、苦しそうに。僕を見て涙を流すその顔に、胸が切なく締め付けられた。
 
『――白木先輩』
「……夏恋」 

 雨空、赤い傘、ピアノ、楽譜、夏風。
 鉄骨の擦れる音。ざざん、という大きな波音。花火が爆ぜる音。車のクラクション、鴉の鳴き声、誰かの悲鳴。

 情景(じょうけい)が、音が、僕の脳を支配して、ひとつの記憶を呼び覚ました。

 気が付けば、走り出していた。
 前を歩いていた詩織を追い抜く。
「お兄ちゃん?」
 背後で驚く声が聞こえるけれど、止まってやる余裕はない。

「お兄ちゃん!」
 もう一度呼ぶ声に、
「ごめん! 先に行くぞ!」
 と、振り返らずに叫ぶ。

 直後、「行ってらっしゃい!」という、どこか嬉しそうな詩織の声が聞こえた。

 心臓が、高鳴っていた。

 なんで今まで忘れていたんだろう。なんで、この想いに気付かずにいられたのだろう。

 傘を閉じて走りながら、考えれば考えるほど、自分を殴りたくなってくる。

 流れる街並みを抜けて、大きな赤レンガ造りの校舎が見えてくる。
 ようやく学校について、靴を履き替える。
 足を止めたら暑くなってきた。額を粗雑に拭い、また走り出す。階段を駆け上がり、まっすぐ音楽室に向かった。

 扉の前で、一度立ち止まる。ふぅ、と息を吐いた。

 目の前の扉は、少しだけ開いていた。
 先客がいるのだ。きっと、あの子だ。

 ゆっくり近付き、がらり、と扉を開ける。
 窓から吹き込んだ風が扉を開けた拍子に空間を流れ、なにかを舞い上げた。目で追う。
 色黒の紙――楽譜だ。
 
 その瞬間、影が身じろぐ。
 ピアノ椅子に、少女が座っていた。まだ真新しい制服に身を包み、艶やかな黒髪の人形めいた美しい少女。

 喉と胸がぎゅっと詰まり、瞼が熱くなる。
「――夏恋」
 その情景は驚くほどの解像度で、僕の目に飛び込んでくる。
 楽譜が落ちても、風に揺れていたカーテンが落ち着いても、動くことができない。
 
 夏恋が、いる。
 ずっと、この三年間ずっと僕を見守ってくれていた夏恋が。まっすぐ、僕を見ている。

「……白木、先輩」

 かすかな声が聞こえた。

 夏恋が、喋っている。僕の名前を呼んでいる。それだけで、涙が溢れ出しそうになる。

 嘘みたいだ。だって、彼女はずっと――。

 奥歯を噛んだ。涙を堪えて、ゆっくり彼女に歩み寄っていく。
 
 夏恋は信じられないものでも見るように、僕を見つめている。
「……あの」 

 なにから言おう。なんて、言おう。
 心臓が口から飛び出すんじゃないかというくらい、激しく鳴っている。

 言葉が出てこないまま、それでもなにかを言いたくて口を開いては閉じ、開いては閉じ、を繰り返す。

 迷っていると、夏恋が立ち上がった。僕には知らんぷりして、散らばった楽譜を拾い集めている。
 僕も、慌てて近くに落ちていた楽譜を拾った。手に取ったのは、一ページ目だった。
「青の……音……?」
 ハッとしたように彼女が顔を上げる。その顔は、みるみるうちに赤く染まっていった。

 これは、僕がつけた――。
 ばっと、楽譜を奪われた。夏恋は泣きそうな顔をして、僕から背を向けてうずくまる。その背中は、とても小さかった。
 
「……夏恋」
 そっと声をかけてみる。
「誰ですか」
 感情を押し殺すような、抑揚のない声が返ってくる。
「僕だよ、夏恋」
「……知らない」と、不機嫌そうな声が返ってきた。
 
「……僕は、知ってるよ。君のこと」
 夏恋は黙ったまま、答えない。
「ピアノが好きで、甘いものが好きで、運動が嫌いで、水族館と海が好きな女の子」

 ぴくりと、夏恋の肩が揺れた。
「それから……命懸けで、ずっとずっと僕を守ってくれてた女の子。……夏恋。僕、全部覚えてるんだよ。全部思い出したよ」

 夏恋はようやく、僕を振り返った。その目は、まるで怯えた仔猫のようだ、と思った。

 僕は夏恋に手を差し出す。

「僕に、君のことをもっと教えてほしい」
 すると、夏恋は僕の手をパッと振り払った。息が詰まった。

「……忘れるから、嫌です」
 ぴしゃりと言われた。にべもない。仔猫というより、警戒心の強い野良猫だ。

 ぐ、と奥歯を噛む。

 でも、そうさせたのは僕だ。彼女の反応は、これまでのことを考えたら当たり前のことだ。むしろ、話してくれるだけでも寛大だと思う。

「……もう、絶対忘れない」
「嘘」
「嘘じゃない」

 口調がつい、強くなってしまう。夏恋がぎゅっと唇を引き結んだ。

 夏恋は少しの間黙り込んで、そしてからゆっくり口を開いた。
「……私は、いつも置いていかれるの。もう、置いていかれるのはいや。怖い。私はもう、白木先輩のこと、なにも知りたくない」

 夏恋のかすかに震えた声に、どうしようもないほどの切なさが胸を締め付けて、涙が溢れた。

 置いていかないで。
 彼女がずっと、飲み込み続けてきたであろう言葉。ずっと、ずっと……。

「夏恋……」
「もう……誰、って言われるのはいや。はじめましてなんていや。好きだって言われるのも怖い。もう……もう」

 なにも聞きたくない、と夏恋は両手で耳を塞いだ。

 どうすればいいだろう。
 彼女に信頼してもらうには、彼女を安心させるには……。

 いくら考えても、言葉は見つからない。

 これまで絶望を何度も視てきた彼女には、もう、どんな言葉だって届かないかもしれない。

 それでも、夏恋がずっと僕を諦めないでいてくれたように、僕も諦めたくない。ずっと、追いかけたい。今度こそ、僕が。

「……この前の事件の未来は、視えなかったんだ」
 夏恋が顔を上げる。
「今日、虹を見てすべてを思い出したんだ。この三年間、僕がどんな未来を歩んできたのか」 

 でも、今は今だ。僕が今朝視たのは、未来じゃなくて、過去だ。
 記憶はべつとして、今のところ、僕は未来なんてものを視たことは一度もない。

「ずっと苦しい思いをさせた。今さら、夏恋は僕のことなんて見たくもないかもしれない。ようやく普通の暮らしを取り戻せて、べつの、新しい恋をしようと――」

 言い終わる前に、夏恋が抱きついてきた。受け止めながら、強くその体を抱きしめた。

(こんなに小さな体で、夏恋はずっと僕を……)
 
「そんなわけない……私は、私は白木先輩以外なにもいらない!!」

 嬉しくて、切なくて、どうしようもないほどの愛おしさが全身を駆け巡る。夏恋の体温を確かめるように、夏恋の肩に顔を埋める。
「……ずっと、悲しい思いをさせてごめん。僕を守ってくれてありがとう」
 
 夏恋は僕の胸に顔を押し付けて、ぐりぐりと首を振った。

「私……ずっと言いたかったことがある」
「ん?」
「白木先輩を見てると、いらいらする」
「……う、ご、ごめん」
「でも、違った……いらいらじゃなかった。私、ずっとどきどきしてた。私……知らない感情だったから怖くて、白木先輩にはもう近付きたくないって思った。好きになるのが怖かった……私には、なにもないから。私が好きな人は、みんないなくなっちゃうから。だから……逃げたかったの」

「……うん」
「……白木先輩が、音楽室に来なくなって……すごく、寂しくて」

 夏恋を抱きとめたまま、うん、と頷く。
 
「……好き」
 呟くように言った。夏恋の震える声が、僕の胸にすっと沈みこんでいく。
「今さらだけど、私、白木先輩のことが好き。大好き」
 抱き締める手に力が篭もる。愛おし過ぎて、どうにかなりそうだった。
「……僕も、好きだよ。大好き」

 夏恋が顔を上げた。
「もう、忘れられるのはいや」
「……うん」
「私より先に死ぬのもダメ」
「うん」
「……もう、私を置いていかないで」

 怯えるように僕にすがりついてくる夏恋を、しっかりと抱き締め返す。

「約束する。もう絶対、置いていかない。どこにも」
「……それから、もうひとつ」
「うん?」
 
 夏恋は頬を染めて、もじもじとし始めた。僕は首を傾げて見守る。
「私と、その……つ、付き合っ……」
 ぎょっとした。言われる前に、思わず手で夏恋の口を塞いだ。
「むっ……!?」

 その口を塞いだ瞬間、なにするんだ、という顔を向けられる。
「ま、待って待って。さすがにそれは僕が言いたい」

 夏恋は眉を寄せ、目を細めた。文句が言いたいらしい。

 手を離すと、「はぁ?」だの「そういうところがめんどくさい」だのと言われる気がしたので、彼女の小さな口を手で覆ったまま、僕は口を開く。

「結婚してほしい」
 僕の声は、静かな音楽室にまるでトライアングルの音のようにりんと響いた。 

 夏恋は呆然と、目をぱちくりさせている。沈黙が落ちて、急に恥ずかしくなってきた。

「……い、いや、あの、もちろん今すぐってわけじゃないけど。というか僕らまだ結婚できる歳じゃないし……でも、その……僕は、夏恋と付き合うなら、最初からそのつもりで」

 我ながらおろおろしてしまう。ダメだ。どうやったって夏恋の前じゃ格好がつかない。

「……最初って、いつから」
「え?」
「何回目の、告白のとき?」
「…………一番、最初だけど」
 夏恋が目を瞠る。

「……なんで?」
「え、な、なんで?」
 思わず聞き返す。

「だって、あのとき私たち、べつにそこまで仲良かったわけでもないし……」
「……じゃあ、聞くけど。夏恋はなんで、工事現場で僕を助けてくれたの? その後も、自分の体を犠牲にしてまで、どうして? そのときだって、僕とはそんなに深い仲じゃなかったでしょ」
「……それは」
 夏恋の目が泳いだ。その顔に、僕は表情を綻ばせる。

「好きだから、でしょ」
「……いちいちムカつくんですけど」

 そうだった。夏恋はこういう子だったな、と苦笑する。

「僕は、これから一生かけて夏恋を幸せにする。今まで泣かせたぶん、苦しめたぶん、何十倍、何百倍にして、幸せを返すから」
「なんで私がそんな償いに付き合わなきゃいけないんですか」
 
 相変わらず、ばっさり斬ってくれる。

 久々に彼女の憎まれ口を聞いた気がする。しかし、それさえ嬉しいと思ってしまうとは、これはかなり重症かもしれない。
 
「白木先輩は少しも変わりませんね。頭いいくせに口喧嘩はめっきり弱いんだから」

 張り合いがない、とでも言うように夏恋はつんとしている。
 悔しいには悔しいが、言い返す言葉が見つからないのだ。こういうことを言うときの夏恋の顔は、あまりにも可愛らしいから。

「夏恋」
 名前を呼ぶと、つんとしていた横顔がこちらに向いた。身をかがめ、盗むように唇にキスをする。

 夏恋の黒々とした大きな瞳が、さらに大きく瞠られた。

「……僕の勝ちかな」
 ちょっと勝ち誇ったように言うと、夏恋はゆでだこのような顔をして、きっと僕を睨んだ。

「……え、あ、えと……ごめん」

 親の仇でも見るかのような気迫に、思わず謝る。夏恋はぷいっとそっぽを向いて、楽譜を片付け始めた。
 
 さすがにキスはまずかっただろうか。というか、僕たちは今どういう状況だ?
 夏恋の言葉を遮ってプロポーズして……あれ。
 さあっと血の気が引いた。
 
(……僕、もしかしなくてもプロポーズ断られてない?)

「あ、ああああの、夏恋ちゃん」
 思わずちゃん付けで夏恋に駆け寄る。
「なに」

 夏恋は返事こそしたものの、めちゃくちゃ不機嫌そうだ。
「あの、さっきの返事……」
 ぴた、と手が止まった。
 僕は夏恋を見つめて、ごくりと唾を呑む。

「……浮気したら殺します」
「しません」
 間髪入れずに答える。
「詩織ちゃんのことを泣かせても殺します」
「はい」
 一瞬、夏恋は唇を引き結んだ。

 そして、少し弱い声で、
「……私のことを忘れたら」
「忘れない。もう絶対、死んでも忘れない」 
 夏恋の手を取り、真正面から誓う。すると、夏恋はようやく僕を見て、微笑んだ。
「それならまぁ……結婚してあげなくもないです」

 緩む頬を抑えられなかった。
「夏恋ー!!」
 (たかぶ)る気持ちのまま、もう一度夏恋をぎゅっと抱き締める。

「苦しい……」
「わ、ごめん」
「嘘」
「嘘……?」

 慌てて離れる僕を見てくすりと笑った彼女は、雨上がりのみずみずしい光に照らされて、まるで女神のように輝いていた。

「……あの、夏恋」
「なに」
「この曲って、僕への曲だよね?」

 夏恋が心底嫌そうな顔をした。

「違いますけど」
「えぇっ!! でも、この曲名……」
「たまたまです。曲名なんて付けたことないから、どこかで聞いたな、って名前を充てただけです」

 それはさすがに落胆を隠し切れない。

「……だって」

 話は終わったかと思えば、夏恋はまだ口を開いた。

「だって、この曲を作り終えたら、恋は止める気でいたから」

 こくり、と喉が鳴る。心底、間に合ってよかったと思った。

 夏恋がちらりと僕を見上げた。
「いいんですか、恋、終わらせて」
「だっ……ダメ!!」

 強く言うと、夏恋はくすっと笑った。
「それなら、この曲はただの音の羅列です。なんの意味もない。いっそ、捨てましょう」と、夏恋はあろうことか、楽譜をまとめて、びり、と破いた。

「えっ!? えぇっ!? なにしてんの!!」
「いいんですよ、こんなの」
「こんなのって……せっかく作ったのに!!」
「いいんです。私は、白木先輩が……響介くんがいれば、なにもいらない」
 なんて、くしゃっと笑うから。

 僕はもう、それ以上なにも言えなくなってしまうのだった。

 早朝。

 雨上がりの空を、僕は軽い足取りで駆けていく。向かう先は、もちろんあの音楽室――ではなく、駅だ。

 夏恋と想いをたしかに通わせてから、三年。

 僕たちはまた離ればなれになった。僕は私立霞原高校へは進学せず、過去(未来ともいう)に行った高校へ無事進学した。

 今日はその高校の卒業式なのだ。

 駅前に着くと、見知った制服の少女が立っていた。長い黒髪は朝露のようにつややかで、朝陽にきらきら輝いている。

 ぱちり、と音がしそうなほど長い睫毛は憂いげに伏せられ、黒曜石のような瞳はスマホに落ちていた。

 まだ僕には気付いていない。
「夏恋」

 少女の名前を呼ぶと、パッと顔を上げる。お人形のような、女神のような少女。

 彼女は僕の好きな人。大切な人。一生離れたくない人。

 夏恋は、前の未来とは違って、霞原高校にそのまま進学した。今は音大を目指して、毎日ピアノの練習に明け暮れている。

 てっきり、同じ高校に通えるものと思っていた僕は、本音を言えば少し寂しかったけれど……。

 でも、夏恋が自分の進みたい道を見つけてくれたことは、素直に嬉しかった。

「響介くん!」

 夏恋がパタパタと足音を立てて駆けてくる。それだけで僕はもうすっかり満たされて、笑顔になってしまう。

 夏恋は駆けてきた勢いのまま、僕に抱きついた。

「わっ!」

 驚きながら抱きとめる。夏恋の体重が僕にのしかかる。それがすごく嬉しくて、くすぐったい。

 夏恋は抱きついたまま、僕を見上げた。

「卒業、おめでとう」
「……うん。ありがとう」
「春から医大生ですね、響介くん」
「ですねぇ。これからもっと勉強頑張らなくちゃなぁ……」

 医師を目指して、僕は医大に行く。自分で選んだ道だけど、毎日勉強漬けなものだから夏恋との時間もあまりとれなかったりして、少し憂鬱だったりもする。

「夏恋。僕さ、来月から一人暮らしするんだけど、遊びに来てくれる?」

 思い切って尋ねてみると、彼女からは案の定過ぎる答えが返ってきた。

「えー。行ってもどうせ勉強ばっかで相手にしてくれないから行かない」
「えっ!! そ、そんなことは」

 ……あるかもしれない。

「私は今の高校でできた新しい友だちと遊びに行くので忙しいし」
「……新しい友だち? ねぇ、それまさか、男いないよね?」

 夏恋は自慢じゃないが、めちゃくちゃ綺麗だ。だから僕はその……悪い虫がつきやしないかと気が気じゃないのだ。

「男の子もいるよ、そりゃ共学だもん」
「なっ……!! それ、行くの!?」

 なんてことか。それは由々しき問題である。

「……べつに、ただの友だち付き合いだよ?」

 夏恋は少しうんざりしたような視線を向けてくる。束縛が強いと嫌われると誰かから聞いたけど……でも、でも、好きな人のまわりはどうしたって気になるのだから仕方ない。

「それは……夏恋はそうかもしれないけど、相手は夏恋に気があるかもしれないじゃん……」
「響介くん、本当めんどくさい……」

 夏恋の声のトーンが下がった。これは本気で面倒がっている声だ。
「う……だって……いやなんだから仕方ないだろ。夏恋は僕のなのに」
「いちいちそんなの気にしてたら気が持たないよ」

 それは、分かっているけれど。

「ねぇ夏恋。好きだよ」

 唐突な告白に、夏恋がぼっと赤くなった。

「は……はぁ?」
 ささっと僕から離れ、照れたことを誤魔化すように手櫛で髪を直し始める。
 もう、可愛くてたまらない。

「あ……朝からなに言ってるの、もう」と、至極不機嫌そうに言う夏恋の顔は、まだ真っ赤だ。
「あれ? 照れた?」
「う、うるさい! 照れてない!」
「あ、夏恋。ちょっとこっち向いて」
「なに? どうせまたからかう気で……」

 いやいや、こちらに顔を向けた夏恋の唇を、さっと盗む。すると、キスされたと気付いた夏恋の顔がみるみる茹で上がっていく。

「……おぉ、さらに顔が赤く……」
 可愛い。すごく可愛い。と、思った瞬間。

「ぐふっ!?」

 思い切りお腹を殴られた。

「朝からなにすんの! バカ!」
「いや、なにって行ってきますのキス……」
「うるさいうるさい! さっさと行け、バーカ!」
「バ……」

 まったく、夏恋の口の悪さはいまだに治らないのだから。

 と、思っていると、ホームからメロディが流れてきた。そろそろ電車が来る頃だ。

 ふぅ、と気持ちを落ち着けるように息を吐いた夏恋が、静かな声で僕に言う。

「……じゃあ、私行くから」
「うん。気を付けてね。放課後またここで」
「うん」

 早朝、まだ人気のない駅前。僕たちは手を振って別れる。
 僕は駅の中へ、夏恋は街の中へ。

 あれから未来を視る力も、祈りの力も失ってしまった僕たちだけど。

 ふと、僕は足を止めて振り返る。まだ叫べば届きそうな場所に、夏恋がいた。

 その背中に、そっと問いかける。

 ねぇ、夏恋。

 もし君が未来を視ることができて、もし僕が祈りの力を持っていたら、僕たちはなにか違ったのだろうか。

 立場が逆だったら、僕たちはどうなっていただろう。僕は、君を助け続けることができただろうか。置いていかないで、という思いを呑み込んで、君に手を出し続けられただろうか。

 小さく苦笑した。

 いくら考えたって、そんなものは分かりっこない。

 僕たちが今こうして一緒にいられているのは、きっと夏恋が夏恋で、僕が僕だったからだ。それ以外のなにものでもない。

 心の中で、僕は誓う。

 この先どんな悲しみや苦しみが夏恋を襲ったとしても、必ず、僕がそばにいて守り続けるから、と。