瞼の裏にあたたかな刺激を感じる。私は、感じるはずのないそれにハッとして目を開けた。

 上半身を起こして、何度も瞬きをする。ごくりと息を呑んだ。

(……嘘……嘘、嘘。え、どうして?)

 瞬きのたび、脳に情報が流れ込む。
 寝相で寄れたシーツ。開けっ放しの窓から差し込む陽光に、風に揺れるカーテン。
 ベランダに、小鳥が止まっている。ぴょんぴょんと跳ねるように歩いている。可愛らしい。

 室内に視線を戻すと、壁に制服がかけられているのが見えた。懐かしい、霞原中学の制服だ。まだ汚れもなく、真新しい。

 涙が、静かに頬をつたっていく。

「見える……」

 どうしてか分からないけど、ぜんぶ見える。と思ったとき、吐息とともに零れた音に、思わず喉を押さえた。

「声が……」
 掠れた声が出た。随分久しぶりに、喉が震えた。もうすっかり忘れていた感覚に、心臓が跳ねる。

「声が……出る。見える……ぜんぶ、分かる……!」 

(夢じゃ……ないよね)

 まだ半信半疑のまま、私はおずおずと部屋を出た。階段を下りると、足音に気付いた春子さんが振り向く。

「おはよう、夏恋ちゃん。今日も早いのね。音楽室行くの?」

 春子さんは薄茶色のハーフネックのノースリーブに上品な深緑色のロングスカートを合わせ、その上から黒のエプロンをして朝ごはんの準備をしていた。
 化粧は既に済ませてあった。

 私を見て、特段驚く様子はない。
 ごく普通に迎えられたこちらは、戸惑いを隠せないというのに。

「……あ、あの、春子さん」
「んー? あ、夏恋ちゃん、冷蔵庫からバター出してくれる?」

 テーブルには、焦げ目のついた厚切りのトーストとサラダが置かれていた。サラダには温泉卵が乗っていて、パンからは香ばしい香りが漂っている。

 目の前には、当たり前の、かけがえのない日常がある。

『あなたはお姉ちゃんが残してくれた宝物だもの』
『私が絶対守るから』

 病院で抱き締められながら言われた言葉が蘇る。
 気が付けば、涙が溢れていた。
「あ、あらあら」
 驚いた春子さんが、火を止めて駆け寄ってくる。
「どうしたの」

 そういえば私は、春子さんより先に起きたことがあっただろうか。

 いつも、わけもなく朝早く学校に行く私のために、春子さんはなにも言わずに私より早く起きて、化粧も済ませて、着替えもしてから朝ごはんの準備をしてくれていた。
 どうして気が付かなかったのだろう。
 
 いつも、こんなに愛情を向けてくれていたのに。
 それなのに私は、勝手に殻に閉じこもって、所詮他人だと遠ざけていた。
 
「うぅ……春子さん……今まで、ごめんなさい……」
「……夏恋ちゃん?」
「……大好き」

 ぎゅっと抱きつくと、春子さんの匂いがした。
「……ま。夏恋ちゃんたら、急に甘えん坊さんになっちゃって」
 そういう春子さんは、少しだけ嬉しそうだった。


 * * *


 しばらく春子さんに甘えてから、涙を拭って制服に着替えてからまたリビングに戻った。
 
「先週、緑ケ浜駅構内で起こった殺人未遂事件ですが、昨夜遅く、神奈川県警が逃走していた交際相手の男の身柄を確保したと……」
 
 つけっぱなしのテレビから、ニュース原稿を読むアナウンサーの声が聞こえてくる。アナウンサーは完璧な標準語で、事件の収束を告げていた。

「幸い、被害に遭った女性はかすり傷程度で済んだようですが、今後このような事件が起きないよう、鉄道会社は、全線ホームドアの導入を急ぐとのコメントを発表しました」
 
 この事件はたしか、白木先輩が最初に視た未来……。
 つまり今は、とカレンダーを見る。
 壁掛けのカレンダーには、二○二八年、六月とある。 
 
 やっぱり。時が三年、巻き戻っている。
 でもただ時が戻っているだけじゃない。もう一度テレビに視線を戻した。

 あのときはたしか、被害者の女性は亡くなっていたはずだ。

(……未来が、変わってる……?)

「夏恋ちゃん、ほら、早く食べちゃいなさい」
「あ、うん……。いただきます」

 手を合わせ、トーストにバターを塗る。ぱくっとトーストにかじりつくと、サクッといい音がした。
 あまじょっぱくて濃厚で、美味しい。

「はい、これお弁当ね」と、ランチボックスを手渡される。
「…………お弁当」

 手の中のお弁当箱をじっと見つめた。

「どうしたの? そんな見つめちゃって。夏恋ちゃんが嫌いなピーマンは入ってないわよ」 
「……うん。いつもありがとう、春子さん」

 春子さんは戸惑うように私を見たあと、「あら」と、少し恥ずかしそうに微笑んだ。改めて、綺麗な人だな、と思った。

 制服に着替え、お弁当を持って家を出る。三年ぶりに見た青空は、嘘みたいに美しい。
 色も、音も、すべてが鮮明に流れていく。学校に着き、教室に入る。まだ誰もいない。

(……席って、どこだったっけ)

 うろ覚えの席に鞄を置き、音楽室に向かった。鍵が閉まっていた。
 そうだった。中学校は戸締まりがきっちりしていたから、職員室に借りに行かなきゃならないのだった。

 一度一階に降りて鍵をもらい、渡り廊下に出る。
 ぽつ、と頬に冷たいなにかが触れた。
「……雨」
 そっと空を覗く。
 にわか雨だ。太陽は出ているのに、ぱらぱらと空色の雨が降っていた。

 音楽室に入る。
 窓を開けると、風に乗って雨粒が入り込んでくる。楽器がある音楽室に水気は厳禁。だけど、今日だけは許してくださいと心の中で呟きながら、街を眺めた。

 時が戻って、当たり前の日常が戻ってきた。
 私は、体の全部を取り戻した代わりに、白木先輩を失っている。

 また、この場所にいたら、会えるかな。

(……なんて)

 もうそんなことは望まない。
 手を合わせる。

(……どうか、白木先輩が幸せに生きていけますように。お医者さんになって、たくさんの人を救えますように)

 祈りは私の心の中だけで留めて手を解き、音楽室を後にした。


 * * *


 当たり前の日常が戻ってきた。
 過ごしてみれば、私が通っていた霞原中学校は驚くほど過ごしやすい場所だった。
 お金持ち学校だからか、みんな基本的に真面目だし、いじめも少ない。
 今さらになって、私はとことん恵まれた環境にいたのだな、と思った。
 
「帰りにカラオケ行かない?」
「うん。行く」
「中西はー?」
「俺パス。塾」
「あ、あたし行くー」

 教室を飛び交う元気なクラスメイトたちの声を、私は頬杖をついてぼんやりと聞いていた。

「夏恋は?」と、あいが尋ねてくる。
「うーん……今日はいいかな。もうすぐ、曲ができそうだから」
 
 ファイルから白黒の楽譜を出しながら、あいの申し出を断る。

「おぉ。いよいよなのね。それじゃあ、できたら聴かせてね。ええと、なんだっけ……青の音、だったっけ」
「うん。青の音。……でも、カラオケも行きたいから、あとでまた行こ」

 言いながらあいを見ると、彼女は白い歯を見せてにっと笑った。
「当たり前。明日でも行くわ」 
「じゃあ、今日中に曲終わらせる」 
「あー……それは、ゆっくりでいいよ。卒業までに作り終わして」

 あいは頭を掻きながら、曖昧に笑った。

「?」

 私は首を傾げる。

「……私には、たまに息抜き程度に付き合ってくれればいいよ。ほら、早く音楽室行きな」
「……うん?」

 あいと教室で別れ、私はひとり職員室へ向かう。先生に鍵を借りて音楽室に向かった。階段を上がり、私廊下を抜ける。

 黒光りするグランドピアノ。椅子に座り、蓋を開ける。
 軸はできた。あと少しだ。もうすぐ、完成する。
 私の青春を詰め込んだ音。白木先輩への愛を詰め込んだ曲。

 完成したら、この恋を終わりにすると決めた。

 流れる音に想いを乗せて、ぜんぶ、吐き出す。あと半年経てば、白木先輩は外部の高校に行く。私は、このままあいと同じ霞原高校に進学する。

 そうすれば、いずれこの想いも薄れてゆくだろう。
 三年間抱き続けた白木先輩への想いを手放すと考えると、喉がつかえるような感覚になるけれど。
 白木先輩だけでなく、詩織ちゃんとも完全に他人になってしまうことにも寂しさはあるけれど。

 でも、私はこの想いを手放さなくてはならない。

 今日中に終わるかどうかと思っていた音楽は、思いの外呆気なく完成した。
 明日の朝、一度ここでこの曲を弾いたら、それで音楽室に来るのは最後にしよう。

 天井を見上げると、染みのようなものが見えた。

 あの日の告白を思い返す。
『あの……僕、好きなんだけど』
 自分でも戸惑いを隠せていない、そんな顔をしていた。
 笑みが漏れた。

(懐かしいなぁ……)

 聞いたことなかったけれど、白木先輩にとって、私は初恋だったのだろうか。そうだったら、嬉しい。

 よく考えたら、未来のことなのに懐かしいというのも不思議な話だ。

 まるでこの三年間の出来事は、夢だったんじゃないかと思う。
 でも、私はたしかに恋をした。本物の、一生の宝物になる恋を。

 だからもう充分だ。この思い出があれば、私はもうひとりでも生きていける。

 そういえば、と思う。
 未来の出来事を今思い返すと、過去になるのかな、と。