2031年、夏。
 玄関の扉を開け、「行ってらっしゃい」という春子さんの言葉に背中を押されるように外へ出た。

 頬に当たるかすかな刺激に顔を上げる。雲の隙間から、朝の陽光が漏れていた。
 風が雲を流し、陰ったり晴れたりを繰り返しているが、全体的に雲が多い。朝見たテレビのお天気お姉さんが言っていたとおり、今日は雨の確率が高そうだ。

 梅雨明けはまだもう少し先らしい。傘を持ってきてよかった、と、私は手に持っていた透明なビニール傘を握り直した。
 
 この春、私は高校生になった。
「夏恋! おはよ!」
 背後から肩を叩かれて振り返ると、親友のあいがいた。

 あいの制服は、紺色のブレザーだ。赤いリボンが高校生らしくて可愛らしい。対して私は、白色のブレザーを着ている。シャツは紺色で、スカートは白と赤のチェック柄。

「相変わらず早いわね。今日も音楽室に行くの?」

 あいの問いに、うん、と頷く。
 あいは霞原中学附属の高校にそのまま進学し、私は外部受験をして白木先輩と同じ高校に入学したため、高校は別々である。
 
 だが、あいはたまに朝早い私の通学時間に合わせて家を出てきてくれる。一緒に歩けるのは駅方面と高校方面で別れる交差点までの十分ほどだが、その時間が私は大好きだったりする。
 
「最近、目はどう? 白木先輩とはもう知り合った?」
 スマホを取り出し、文字を打ってあいに見せた。
『目の方は変わりない。白木先輩とはまだ全然』
 
 見せた文字に、あいは苦い顔をして黙り込んだ。私は再び文字を打つ。 
『そんな顔しないで。私は大丈夫。元気だから』
 両手に力を入れて、ぐっと力こぶを作って見せる。あいが苦笑した。
 
『詩織ちゃんに聞いたけど、最近は未来も視てないみたい』
「そう。それならよかったけど……」

 あいはまだなにかを言いたそうにしていたが、諦めたように小さく微笑んだ。そして、私を見つめて優しい声音で言った。
「……うん。まぁ、夏恋が元気ならいいの。でも、あんまり無理しちゃダメだよ。ちゃんとご飯食べて、寝るんだからね?」

 お母さんのようなことを言うあいに、私は勢いよく抱きつく。
「わっ、ちょっとなにするのよ」
 文句を言うあいにかまわず、私は顔をぐりぐりとあいの胸に押し付けた。
「こら夏恋。私の胸は彼のものって決まってるのよ。お安くないの」と、あいがわざとらしく大人っぽい口調で言う。

 あいには今、彼氏がいる。
 相手は高校で新しく出会った編入組の男の子だそうだ。私はまだ会ったことはないけれど、あいの話を聞く限り、あいはその彼にかなり惚れ込んでいる様子だった。
 
 好きな人と一緒にいられるあいを羨ましいと思いつつ、親友が取られてしまったようで少し寂しいとも思う。 
 
 私はわざとあいから離れ、しゅんと俯いた。すると、あいが狼狽した。
「……あ、いや。でもまぁ、今日は夏恋にも許してあげなくもない……けど。夏恋は親友だから、特別」

 頬が緩んだ。

 やっぱり、あいは変わらない。出会ったときからずっと優しい。再びあいにぎゅっと抱きつきながら、私は、あいのことが大好きだな、と改めて思った。

 交差点につき、足を止める。
 あいは幼い子どもに言い聞かせるように、まっすぐ私の目を見て言った。
「ホームでは、絶対パネルより前に出ちゃダメだからね。信号も、周りを見てから……」
『分かってる』と口を動かす。あいが口を閉じた。

 私は白木先輩を救うたび、ひとつずつ体の一部の機能を失っている。

 最初は声だった。
 失う機能は、たぶん祈りの大きさに関係しているのだと思う。

 声を失ったときの願いは、白木先輩を生き返らせたときだった。そのほかで今のところ私が失っているのは、色だけだ。代償が比較的軽いのは、そこまで大きな祈りをしてないからなのだろうと思っている。最初の祈り以外では、そこまで道理に反した祈りをしていない。

 私が今分かる色は、赤色だけ。ほかは、白色か黒色か灰色かだけだ。
 信号の色は赤以外分からないし、色彩がないせいでちょっとした段差なども前より見えづらくなって、転ぶことも増えた。
 
 だからか、育ての親である春子さんや親友のあいは、私が外部の高校へ進学するのを反対した。

 それでも私は自分の意志を押し通した。理由はもちろん、白木先輩だ。

「……じゃあ、気を付けてね」
 また、と私も手を挙げた。あいと交差点で別れると、私は駅の方向へ歩いた。

 私が住む街から高校までは、電車で四駅ある。徒歩の時間を含めると、通学には約一時間ほどかかる。 
 長いとは思わない。勉強する時間に充てられるし、人が少ない早朝の電車は、なにより心地いい。

 がたんごとん、と電車の揺れを感じながら、私は目を閉じる。
 静かな電車の中でひとりでいると、ふと水の中にいるような心地になる。体が深く暗い場所に沈んで、どこまでも落ちていくような。
 でも、その感覚はいやではなかった。

 最寄り駅に着き下車すると、雨が降っていた。階段を昇って改札を出て、透明なビニール傘を広げる。駅から学校までは、徒歩で二十分弱だ。

 雨の匂いに浸された街。いくつかの交差点を過ぎ、長い坂を登る。
 この坂を初めて昇ったとき、帰りは楽だが夏の朝は辛いだろうな、と思った。たしか、高校見学のときだ。

 懐かしい。

 あれからもう一年が経とうとしていた。
 私は今、在校生としてこの坂を登っている。思ったとおり、夏の湿気の中のこの坂はキツいな、と思った。真昼の太陽の下よりはましだと思うが。
 
 学生の姿は、まだない。なぜなら私は、部活の生徒すらまだいない時間に登校しているからだ。

 校門を過ぎ、昇降口に入ってサンダルに履き替える。鞄を持ったまま、音楽室に向かった。

 中学のときとは違って、高校の音楽室に鍵はかかっていない。公立と私立の差なのかな、と思ったりもしたが、ただこの高校が田舎にあるから平和ボケしているだけかもしれない。実際のところはよく分からないが。 

 窓を開けて、ピアノ椅子に座り、蓋を開ける。白と黒の鍵盤は、中学のときからなにも変わらない。
 いくら色を失っても同じ景色だから、唯一落ち着くのだ。

 白紙の楽譜を床に散らして、私は指を流した。心の赴くまま、指の動くままに音を鳴らす。
 
 雨音のような、柔らかな陽の光が転がるようなピアノの音が耳に心地良い。最初はにわか雨のような、そして、すっと陽が差して青い空に虹がかかるような、そんな曲がいい。 
 テーマは雨のち晴れにしよう、なんて思った。それなら題名はなに色がいいかな、と考える。

 青、赤、オレンジ、緑……。もうほとんどの色で曲を作ってしまった。
 
(うーん……)

 内心で唸りながら、ピアノの向こうの窓を見る。いつの間にか雨は上がり、太陽が顔を出していた。

 綺麗、と思った瞬間、風が私の横をすり抜けて、床に散らしていた楽譜を舞い上がらせた。
 
 小さく、がらりと扉が開く音がして、振り向く。
 振り向いて、目を瞠った。
 
 扉の前に立っていたのは、白木先輩だった。

(……嘘)

 白木先輩は私を見て、硬直していた。驚いたのは私も同じで――瞬きすらままならない。ただじっと、白木先輩を見つめ返した。

 そうしたら、白木先輩は突然、
「――君、前に僕とどこかで会ったこと、ある?」
 と言った。私は、息を詰めた。

 直後、白木先輩は頬を染めて恥ずかしそうに「なんでもない」と言った。ナンパのようで恥ずかしくなったとかだろう。純朴な彼らしい。

 久しぶりだ。照れたときの表情も、迷子の仔犬のようなその視線の動きも。
 白木先輩の匂いがする。すべてが懐かしくて、目頭がきゅっと熱くなった。

 かと思えば、私はうっかり涙を流していた。

(嘘……もしかして、もしかして……)
 
 抱いたのは、淡い期待。
 もしかしたら、なにかのきっかけで私のことを思い出してくれたのかもしれない、と。

「あの、な、泣かないで……」
 
 ……でも、違った。
 
 白木先輩の様子に特別変わりはなくて、泣き出した私にただ混乱しているだけのようだった。

(……そっか。思い出したわけじゃないんだ)

 それもそうだ。そんな都合のいいことが起こるわけがない。

 差し出されたハンカチを受け取って泣き止むと、私は黒板に立った。
『驚いただけ。君が、いきなり来たから』
 突然黒板に文字を書き出した私に、白木先輩は困惑しているようだった。
 
 もしかして君、と尋ねられたので、再びチョークで文字を書く。
『耳は聞こえる。喋れないだけ』
 続けて名前を書くと、白木先輩も名乗ってくれた。

 白木先輩とまっすぐに目が合うのは、ほぼ二年ぶりだ。
 白木先輩が高校生になってからは、私は詩織ちゃんの友だちという形で影から見守っているだけだった。
 できるだけ接点を持たないよう、白木先輩の家にも行っていなかったから、知り合いですらなかった。

 ただ、電車の中でたまに見かけることができたらそれだけで嬉しかった。
 
 それなのに……。 

 白木先輩の瞳に、私が写っている。そう思うと、心が震えた。涙が止まらない。
 二年ぶりに、私の視界に色彩が落ちた。

 この二年間、ずっと平行線だった私たちの世界。
 それは、あまりにも突然に差し込んだ光だったから、私は目が眩んで立ち尽くした。
 
 雨上がりの音楽室で、再び私と白木先輩の世界は交わったのである。

 音楽室で出会ってから、白木先輩は私を見かけると話しかけてくれるようになった。目が合うと手を振ってくれて、駆け寄ると嬉しそうに笑ってくれた。

 話ができない下級生の私が仲がいいと、白木先輩に傷がつくかもしれないと心配したけれど、当の本人はそれを気にする気配はまったくなかった。

 白木先輩はよく図書室で勉強していた。白木先輩は中学生の頃から変わらず、医者を目指しているらしかった。

 夏休みを目前に控えたとある放課後、白木先輩を図書館で見つけた。
 こそっと駆け寄り、後ろから覗く。勉強しているようだ。
 
 トントン、と肩を叩くと、白木先輩が驚いた顔をして振り返った。
「……あ、夏恋」
 私の顔を見てふっと表情を綻ばせる白木先輩に、胸の奥がじんわりとあたたかくなった。

 ずっと気になっていた文庫本を本棚から一冊抜き取り、長テーブルに参考書を広げて勉強する白木先輩の向かいに腰を下ろした。 
「……帰らなくていいの?」
 白木先輩が尋ねる。

『邪魔ですか?』と文字を打つが、見せようとしてその手を止めた。こう聞いたところで、白木先輩がはっきり邪魔だと言うわけがない。
 黙って席を立とうとすると、白木先輩がすっとスマホを取った。あ、と口を開ける。

 私が打った文字を見て、白木先輩は呆れたように微笑んだ。
「邪魔なわけないでしょ。僕なんかの勉強に付き合ってもつまらないかなと思っただけだよ」
 首をぶんぶんと横に振る。つまらないわけがない。

 すると、白木先輩は「僕も、君といられて嬉しい」と笑った。
 その笑顔に、私は胸がきゅっと締め付けられた。 

 時計の音が響く静かな図書室には、私たちしかいない。正面に座った白木先輩はこの二時間、黙々と勉強している。
 小説を読み終わってしばらく経つ。
 さすがに飽きてきた。
 白木先輩は真剣な表情で参考書を読んでいる。

 ふと、ノートが目に入った。白木先輩のノートだ。開きっぱなしのまま、私の前にある。

 そうだ、と、私はこっそりそのノートを引き寄せた。
 
 ノートの端に落書きして遊んでいると、「あ、こら」と、気付いた白木先輩に小声で怒られた。

 消そうとすると、消す前にノートを奪われてしまった。白木先輩は、私が描いた猫の絵をじっと見つめていた。
 じわっと頬に熱が集まっていく。
 
『消します』と打ってスマホを見せ、ノートを奪おうとすると、白木先輩は少し考えるように黙って、「いいよ」とノートを閉じてしまった。そのまま、ふいっとそっぽを向いてしまう。

 顔を背けたまま、白木先輩がぽそっと言った。
「……可愛い。この犬」
 猫を描いたつもりだったのだが。

 顔を上げると、白木先輩の耳が赤い。
 ふっと息が漏れた。
「……あ、今、笑ったでしょ」
 白木先輩がムッとした顔をする。そんな白木先輩に、私は『犬じゃなくて猫』と打って見せた。

「えっ!? 嘘? ご、ごめん」 
 私はテーブルに頬杖をついたまま、慌てふためく白木先輩をしばらく見つめていた。
 
 白木先輩は、どんなときでもまっすぐで翳っているところがなくて、太陽に向かって咲く向日葵のようだ。
 一緒にいると、心が洗われていく感じがする。

「……そろそろ帰ろうか」
 ぱたんと参考書を閉じながら、白木先輩が言った。私も立ち上がり、文庫を元の棚へしまう。
 
 一緒に図書室を出て、階段を降りる。白木先輩は私の少し前を降りている。その背中をぼんやりと眺めながら降りていると、一段踏み外してしまった。咄嗟に手すりを掴むが、バランスを崩した体が前のめりに傾く。

 どくん、と心臓が跳ねた。

(落ち……)
 
 思わず目を瞑ると、私の体はふわっと、あたたかいなにかに抱きとめられた。
「……大丈夫?」
 おずおずと顔を上げると、白木先輩が心配そうに私を見下ろしていた。

 少し身じろぎすればキスできてしまいそうなほどの距離に、思わずパッと離れる。
 階段であることを忘れていた。また体がぐらつく私を、白木先輩が抱き寄せた。
「…………危ないよ」

 白木先輩は静かにそう言って体を離すと、私に手を差し出した。私はその手をじっと見下ろす。

「危ないから」と白木先輩はもう一度言って、私の手を取った。触れ合った手のひらはあたたかくて、優しかった。

 一緒に帰ったあの日に連絡先を交換した白木先輩との交流は、平和に続いている。

 夏休み、私と白木先輩はほぼ一緒に過ごした。
 夏休み中、白木先輩は未来を視ることはほとんどなくて、(過去の出来事は数度視ていたようだが)穏やかな日々が続いていた。

 八月もお盆を過ぎ、長い夏休みも終わりが見えてきたある日、私は家で、焼き上がったアップルパイを皿に移し替えていた。
 
 今日は詩織ちゃんと庭でお茶会をする約束なのだ。
 香ばしいバターの香りが食欲をそそる。あとは紅茶を入れる準備だけして、詩織ちゃんが来るのを待とう。
 
 薬缶に水を入れて火にかけたとき、春子さんが二階から言った。
「夏恋ちゃん。詩織ちゃん来たみたいよ」
 同時に呼び鈴が鳴る。

 ぱたぱたとスリッパの底を鳴らして、玄関に向かう。扉を開けると、黄色いワンピースを着た詩織ちゃんがぺこりと頭を下げた。
「こんにちは、夏恋ちゃん」 
 にこりと微笑んで、中に案内する。
 
 詩織ちゃんはおじゃまします、と丁寧に言って、私に紙袋を差し出した。
 首を傾げると、詩織ちゃんが言った。
「クッキーです。私、お菓子作りはできないから、買ったものだけど」
 ありがとう、と微笑んでありがたく受け取る。
 
 一度リビングに案内して、紅茶を淹れる。
 アップルパイを切り分け、お茶会の準備ができると庭のテラスに移った。
 
「お兄ちゃん、今日は家で勉強してるよ。変わったところはなかったから、たぶん大丈夫」と、紅茶を飲みながら詩織ちゃんが言う。
 詩織ちゃんは、私と白木先輩の能力について知る数少ない協力者だ。
 
「お兄ちゃんに告白しないの?」
 詩織ちゃんはテーブルに頬杖をつき、私を見た。
『しない』と打ったスマホを見せる。
 詩織ちゃんは、小さく唸るような声を漏らして、ティーカップに口をつけた。
 私はそんな詩織ちゃんに曖昧に微笑んだ。

 気を取り直してアップルパイにフォークを入れる。サクッとした感触がフォークから手に伝わった。口に入れると、ごろころとした林檎が柔らかくなり過ぎずに存在感を発揮していた。
 美味しい。なかなか上手くできた気がする。

 詩織ちゃんを見ると、幸せそうな顔でアップルパイを口に運んでいる。よかった。口にあったようだ。

「夏恋ちゃん。これ、一切れ貰っていきたい」 
 もちろん、と頷くと、詩織ちゃんが顔を寄せてきた。
「お兄ちゃんに食べさせる」と、からかうような顔で言うものだから、思わずむせた。
「わっ、ごめん! 紅茶飲んで!」
 ごほごほと咳をして、赤くなった顔を誤魔化した。

 まったく、と詩織ちゃんをちょっと睨む。
「ごめんごめん。ほら、このクッキーも美味しいよ」
 と、私の唇にイチゴジャムが乗ったクッキーを押し付けた。

 反射的にぱくりと咥えた。その瞬間、ぱしゃりと写真を撮られた。
 びっくりして目を丸くしていると、ピロリン、とまた音がした。嫌な予感がする。
 詩織ちゃんが持っていたのは私のスマホだった。ぺろりといたずらっ子のように舌を出している。
「いい写真が撮れたから、お兄ちゃんに送信しておいたよ」
「!?」
 慌てて詩織ちゃんからスマホを奪おうとするけれど、パッと手をかざされ逃げられる。

「もう遅いよー、送っちゃったもん! あ、既読がついた」
 顔が沸騰しそうなほど熱くなった。お願いだからなにも言わずに消して、と願うが、
「こんなことで祈りの力は使っちゃダメだよ」
 むぐぐ、と唇を噛んで詩織ちゃんを見る。
 
「あーこれはお兄ちゃん、速攻保存して待ち受けにしたな」
「!!?」
 ポカポカと詩織ちゃんの胸を叩いて文句をぶつけていると、スマホが振動した。

 白木先輩からだ。
『誰といるの?』と、来た。
 詩織ちゃんと知り合いであることは白木先輩は知らない。
 とりあえず質問には答えずに、『今の写真は消してください』と送る。
『やだ』と返ってきた。
 ぐ、と奥歯を噛む。
『友だちと家でお茶会してます』と送ると、すぐに返信が来た。
『友だちって、男?』

 もしや、と淡い期待を抱く。
(……嫉妬、してくれてるのかな……)
 少し嬉しくなった。

 パッとスマホが手の中から消えた。
 あ、と思う。詩織ちゃんがまた私のスマホを奪っていじっていた。
 ピロリン、と音が鳴る。
 
 慌てて取り返すと、メッセージは既に送られた後だった。
『気になりますか?』
 慌ててメッセージを取り消すけれど、既読がついた後だ。たぶんもう見られてしまっただろう。
 もう、返事は来なかった。
 
 怒ったふりをしてぷい、とそっぽを向くと、詩織ちゃんは白木先輩によく似た表情で、しゅんとした。
「……ごめん、夏恋ちゃん。怒った?」
 私は、この顔には弱い。
 ゆるく首を横に振り、微笑む。怒ってなんていない。
『どの道、私は白木先輩とはどうにもなれないから』 と文字を打って見せる。
 すると、詩織ちゃんはやはり唇を引き結んで、泣きそうな顔をした。


 * * *

 
 その日の夜、お風呂から上がり、タオルで髪を乾かしながら部屋に戻ると、ベッドの上にあったスマホが光っていた。
 見ると、白木先輩から返信が来ていた。メッセージを開く。
『君が誰といても、僕になにかを言う資格なんてないけど』
 凪いでいた水面に、小石が一粒落ちたような感覚が広がった。
『少し、寂しいと思う』
 タオルがばさりと足元に落ちた。
 その文字に、気が付けば私は、会いたい、と打ち込んでいた。

 夏休み最終日、白木先輩が私の家に来た。
「あら、いらっしゃい白木くん」
 春子さんが白木先輩を出迎える声が聞こえ、私は急いで下に降りた。

 うちは、階段の正面に玄関がある。降りると、私服姿の白木先輩と目が合った。
 白木先輩は質のいい紺色のワイシャツにサマーセーターを合わせ、下は細身の白のパンツ姿だった。上背があるからシンプルなこういう格好が彼には一番よく似合う。

「あらあら、夏恋ちゃんたら見惚れちゃって」 
 春子さんのからかうような声に、ハッとした。
 ムッとした顔で春子さんを見るが、春子さんは素知らぬ顔で部屋の奥へ入っていった。

 麦わらのカンカン帽を被り、低めのミュールを履く。
 白木先輩を見ると、すっと手を差し出された。手を取ろうか迷っていると、
「……君、危なっかしいから」と、白木先輩は言い訳をするように私を見た。おずおずとその手を取ると、白木先輩は嬉しそうに表情をゆるめた。
「行こうか」
 頷き、家を出る。

 今日は白木先輩とデートだ。少し遠出をして、江ノ島の海まで行く予定なのである。

 電車を乗り継いで現地に到着すると、青々とした空と海が待っていた。手を繋いで海辺を歩く。
 陽射しは暑いが、足首を撫でる海水は少しひんやりしている。気持ちいい。
 子どものようにはしゃいでいると、白木先輩は笑って私を見ていた。

 ひとしきり海で弾けると、お腹が減ってきた。近くのハンバーガーショップに入って、一旦休憩する。

 白木先輩は受験生だ。どんなときでも、バッグの中にノートを入れている。私は白木先輩のバッグから勝手にノートを取り出すと、テーブルに広げた。
 すると、白木先輩がぎょっとした顔で私を見た。
「……え、勉強するの? せっかくこんなところまで来たのに」
『落ちたら大変だから』と打って見せ、白木先輩の前にノートを差し出す。
「……でも、今は」
『今日は遅くまで遊んでくるって言ったから、時間はいっぱいある』
 それでも渋る白木先輩に打った文字を見せると、渋々、
「じゃあ、ちょっとだけ」
 と、ノートを受け取った。

 勉強する白木先輩を見つめながら、ぼんやりと考えごとをする。
(進路か……)
 想像もできない、と思う。

 整った横顔を見つめながら、私はいつまでこの人の隣にいられるだろうか、と考えた。
 
 白木先輩と同じ大学に行きたいと思ってはいるが、そうなると医学部だ。もし、このまま白木先輩のそばにいて仮に赤色を失ったとしたら、医者にはなれない。医者は、血の色が見えなかったら務まらない仕事だからだ。
 それに、そばにいたところで、私は――。
 
「夏恋?」 
 ふと名前を呼ばれ、ハッとして顔を上げる。
『なに?』と口パクで言うと、白木先輩は私をじっと見つめて、
「……泣きそうな顔してる。どうかしたの?」
 息を呑み、なんでもないかおをして首を横に振る。すると、白木先輩はなぜか悲しげな顔をした。
「……なんでもないって顔じゃないよ」
 息が詰まる。
「……夏恋」
 いつから、この人に名前で呼ばれていただろう、と考える。

 最近は私の方も、敬語が少し抜けてきた。
 私も、名前で呼んでも許されるだろうか。せめてこの人がまた私を忘れるまでは……。
『響介くん』と、口を動かしてみる。
 慣れていないからか、白木先輩は「ん?」と首を傾げた。
 唇を引き結んだ。

『花火がしたい』と打ったスマホを見せる。
「花火……? あぁ、うん。いいけど」
 戸惑うように白木先輩はもう一度私を見た。
「……さっき、花火って言ったの?」
 私は笑って、『ひみつ』と唇を動かした。白木先輩は、やっぱり眉を八の字にして私の口元を見つめていた。

 その後、商店街を観光して花火を買うと、もう一度海へ向かった。すっかり陽は落ち、どこまでも続く水平線は深い色に染まっている。この瞳に色があった頃より、夜は暗い。

 波の音が大きく、少し怖いくらいに感じる。
 かさりと袋が擦れる音がして隣を見ると、白木先輩が花火を取り出していた。
 火をつけると、しゅわしゅわとシャワーのような光が細い棒の先から弾け飛んだ。
 漆黒の世界に、光が舞う。
 綺麗だ。
 
 白木先輩が私に花火を手渡してくれた。袋からもう一本取り、私の花火にくっつける。少しの間くっつけているとやがて火がつき、白木先輩の方の花火も輝き出した。

 花火をくるくると空に掲げる。白い光が残像のように私の目に、脳に焼き付いていく。
 
 ――忘れない、と強く思った。
 たとえ白木先輩がいつか私を忘れても、私は、この光景を忘れない。
 いつか目が見えなくなっても、脳に焼き付けたこの映像と記憶は消えない。
 そう確信を持って言えることだけが、唯一の救いだった。
 
 火が消える。
 もう終わってしまった、と少し寂しく思っていると、
「もう終わりか。花火はあっという間でちょっと寂しいな」と、白木先輩が言った。心が通じ合ったようで、嬉しくなった。
「最後に、線香花火やったら帰ろうか」
 白木先輩の言葉に、うん、と頷く。

 弾けるような花火と違って、線香花火は火がついているときから少し物悲しい。音のせいだろうか。
 砂浜の上にしゃがみこんで、白木先輩と並び合ってただ静かに小さな火球を見つめる。
 彼が持っていた方の火が消えて、少しだけ辺りの闇が増した。

 静かに自分の線香花火を見下ろしていると、ふと、視線を感じた。
「……夏恋、あのさ」
 顔を上げ、白木先輩を見る。白木先輩はどこか落ち着かない様子で、口ごもった。
 私は静かに白木先輩を見上げて、続く言葉を待った。待っているうちに、なんとなく彼が言おうとしていることがわかってしまった。
「夏恋、僕……」

 世界中の音が、一瞬にして止んだような気がした。
 唇に柔らかく、あたたかい感触が広がる。私の口は、言葉を紡げない。でも、どうしてもこの口で想いを伝えたかった。

 唇を離し、彼の顔を見上げると、白木先輩はきょとんとしていた。
 光が流れた。
 砂の中に吸い込まれるように、線香花火のぬくもりが闇の中にすうっと消えていく。

 帰りの電車の中で、私は白木先輩の手を握ったり離したりしながら、このままどこかに消えてしまえたらいいのに、と思った。
 もう未来なんて視なくていいから、誰かの悲劇なんて止めなくていいから、このままふたりで――なんて、どこに行ったところで、運命から逃れることなんてできやしないのに。
 
 苦笑したとき、白木先輩が私の手に力を込めた。
「夏恋、あの……」
 顔を上げる。白木先輩はほんのりと頬を染めて、気まずそうに、どこか据わりが悪そうに口をぱくぱくさせている。
 
『なに?』と口を動かすと、白木先輩は「また、ふたりで来ようね、海」と言った。
 また、という言葉は、甘美な響きを持って私の胸を打つ。

 瞼が熱くなった。
 私は辛うじて微笑み、『や、く、そ、く』とその手を握り直した。
 我ながら、馬鹿だな、と思った。

 夏休みが明け、新学期が始まった。
 秋雨前線の影響か、最近はまた雨の日が多くなっている。
 それなのに気温だけは高いから困る。

 放課後になると、私はひとり帰る準備をして昇降口にいた。
 今日は詩織ちゃんと会う予定なのだ。
 
 傘立てから自分の傘を抜き取ろうとすると、ふと三年生の傘立てが目に入った。赤い傘がある。中学生のとき白木先輩にあげたものだ。

 彼は、記憶を失くしてからも、ずっとこの傘を使ってくれていた。
 そっと赤い傘に手を伸ばす。ちょっと錆びかけている。新しい傘をプレゼントしようかな、と、私は赤い傘をそっと傘立てに戻し、昇降口を出た。
 
 青春の喧騒がさざめく校庭を横目に、校門へ向かう。
 部活に精を出すクラスメイトたちは新人戦だのなんだのと、雨であっても部活に勤しんでいるようだ。 

 と、そのとき、スマホが振動した。
 立ち止まり、画面を開くとメッセージが届いていた。白木先輩からだ。
『夏恋。音楽室見て』とある。なんだろう、と校舎を振り返った。

 音楽室の窓が開いている。そこに、白木先輩がいた。

 大きく手を振ると、白木先輩が笑ったような気がした。
『また明日ね』と、続けてメッセージが届いた。
 幸せな気分で、学校を後にした。

 交差点に差し掛かり、足を止める。信号は赤だった。
 スマホを見ると、またメッセージが届いていた。詩織ちゃんからだ。
『お兄ちゃんが、思い出したかもしれない』とある。
(思い出した? なにを――もしかして、私を?)
 
 否応なしに期待が高まる。そんなことがあるのだろうか。今まで一度も私のことを思い出さなかったのに。

『どういうこと?』と、打ったときだった。雨の音に混じって、白木先輩の声が聞こえた気がした。

 信号から、色が消える。青だ。
 気のせいか、と思いながら足を一歩踏み出す。
 そのとき、
「夏恋っ! 止まれ!」
 また、声がした。空耳じゃない。
「夏恋っ!!」
 足を止め、振り返る。スローモーションのように灰色の世界が流れた。

 その瞬間、耳をつんざくようなブレーキ音が響き、私の体に強い衝撃が走った。

 雨が全身を濡らしていく。息がしづらい。体が重い。痛む頭を押さえながら体を起こすと、ドサッとなにかが私の体の上から転がる音がした。

 ごくりと息を呑んだ。
 人が倒れている。横顔が見えた。白木先輩だった。額から血を流し、ぴくりとも動かない。
 
「――っ!」
 
 思わず叫んだ。叫んだけれど、もちろん声は出ない。しかし、そんなことにかまってはいられない。手が生あたたかい。見ると、赤黒い液体がべっとりとついていた。

(嘘、嘘、嘘……!!)

 目の前には、悪夢が広がっている。
 視界の限りが、唯一分かる色で埋め尽くされている。白木先輩の体から、とめどなく溢れていく。

(……いやだ……いやだいやだいやだっ!!)
 
 止まって、どうか――と考えてハッとする。祈らなくては。手遅れになる前に。
 でも、と、手が震えた。
 もし、祈ったら。私は今度こそ――。

(……そんなこと、どうだっていい)

 迷っている暇はない。
 どちらにしろ、白木先輩は未来を視てここに来たはずだ。明日になればまた、私を忘れているのだから。
 明日、私とすれ違ったところで振り返ってくれることは有り得ないのだから。

 私は両手を握り合わせた。
 目を閉じ、視界を閉ざす。すうっと息を吸った。

(――神様。どうかお願いします。どうか、白木先輩の命を救ってください)
 
 代わりに、その代わりに私の目をあげるから――。

 雨が空中でぴたりと止まる。雫の中には私と動かない白木先輩がいた。
 よく分からない涙が頬をつたっていく。

 胸が引きちぎられるように痛むのは、仕方ない。

 (……愛は、痛み。そうだよね、響介くん――)
 
 両親を失ったときと同じ喪失感が私を襲う。でも、仕方ない。
 だって私は、こういう愛し方しか知らない。

「…………」 

『さよなら、響介くん』と口を動かして、その唇にキスをする。

 瞼が重い。
 心の中で、白木先輩に呟く。
(ごめんね。たぶん私、もう君を助けることはできない) 

 目が完全に見えなくなったら、私はもう、外に出る勇気はない。
 ごめんね、でも、たとえこの世界が滅んだとしても、ずっと大好きだから、と、心の中で呟いて。

 私は意識を手放した。


* * *


 視界が暗い。
 瞬きをしているはずなのに、暗い。真っ暗だ。

 なぜだろう、と考えて、ハッとした。
 昨日、私は祈ったのだった。昨日私は、白木先輩の命を救った代わりに、すべての視界を失ったのだ。

 目が見えないと、こんなにも世界は変わるのか。ここがどこかすら認識できない。ここは、どこだろう。怖い。私は、またひとり――。

 目をぎゅっと瞑った瞬間、どこかから声がした気がした。