スマホの画面を暗くすると、私は息を吐きながら目頭(めがしら)を押さえた。
 ふと、窓の向こうを見る。外はもう真っ暗だった。時計を見れば、日付が変わってから随分と経っていた。
 そろそろお風呂に入らなくちゃ、と起き上がる。
 
 帰ってきてから、ネット検索で記憶障害について調べてみたものの、これといった収穫(しゅうかく)はなかった。
 当たり前だ。未来を視る代わりに失う記憶を取り戻す方法など、世界中探したってあるわけがない。

 窓を開けると、冷たい風が部屋に舞い込んだ。冬を控えた海辺の街の夜は、静まり返っている。

 窓枠に手を置いて、しばらく街を眺めた。
 私に、どうしろというのだろう。
 ぼんやりと思う。
 白木先輩は、私のことをひとつも覚えていないのに。私だけ、こんなに苦しい。
 遠くから波の音が聴こえた。


 * * *


 朝、重い体を無理やり引きずって学校へ行く。

 教室に入ると、私の顔を見たあいがぎょっとした顔で「どうしたの、その顔」と尋ねてきた。
 一目見て引くほど、そんなにひどい顔をしているのだろうか。
 
「ちょっと寝不足で」
「そう……」
 鞄を開け、教科書を取り出す。目が乾いてシパシパした。
「……で、どうだったのよ。行ったんでしょ? 先輩の家」
 手が止まる。
「……うん。行った。ふられた」
 あいが目を丸くした。
「なんで!? だって、告白されてまだそんな経ってないじゃん」
「……まぁ、いろいろあってね」と、苦笑する。
「ねぇ、あい」
 呼ぶと、あいが顔を上げて私を見た。丸々としたガラス玉のような瞳には、よりどころのない顔をした私が写っていた。

「……好きな人にふられても、諦められないとき……あいだったらどうする?」
 すると、あいは一瞬驚いた顔をしたものの、ふっと優しく笑って、ただひとこと「頑張る」と言った。
「頑張る……」
 いかにも素直なあいらしい。
「夏恋はすごい」
「すごい? なにが?」
「夏恋は自分の想いを伝えるために、先輩に会いに行った。その行動力はすごいと思うよ。私さ、夏恋見てて思ったの。本当に中西のこと好きだったのかなって」
 
 あいは言いながら、ちらりと教室の中央でふざけている中西を見やった。

 あれから私は中西に無視され続けているが、まぁこちらもあまりいい態度はとっていなかったので仕方ない。特別不都合もないのでこのままの距離感で行こうと思う。

「私、中西にふられたとき、改めて告白しようなんて思わなかったもん。立ち直りも早かったし。だから、好きにもたくさんあるのかもね」 
「好きにも、たくさん……?」
 では、私の好きはなんなのだろう。復唱するように呟きながら考える。
 
「離れて初めてわかる大切さってつまり、そういうことだよね」

 眉を寄せる。

「どういうこと?」
「夏恋は、それだけ先輩のことが好きってこと。昨日先輩となにがあったかは知らないけど……もし、まだ吹っ切れてないなら、まだまだ頑張ったらいいと思う。人の気持ちって変わるものだから」

(……気持ち……)
 
 顔を上げる。頬杖をつきながら優しく笑うあいの顔を見て、あぁ、と思った。
「……私、あいと友だちになれて嬉しい」
 そうか。友だちというのは、こういうときに……。
 私はあいの手を取った。あいは照れたように頬を染めている。
「な、なによ急に……」
 私はかまわず、その手を握る。この手は間違いなく、私が迷ったとき、手を引き、導いてくれる手だと思った。
「……あい。私、頑張ってみる」
 
 その手は、思いの外小さくて柔らくて、そして――温かかった。

 夕方の校庭を、風が吹き抜けていく。私は三年五組の教室にいた。
 白木先輩を探していると、窓際の一番前の席にその姿を見つけた。ちょうど帰るところのようだ。目が合うと白木先輩は一度立ち止まり、私の元へ来た。 
「……君、昨日の」
「こんにちは」
 軽く会釈する。
 
「どうしたの?」
 開け放たれた教室の扉に手をかける白木先輩を、私はまっすぐに見上げた。
「……あの、単刀直入に言います」
「ん……?」
「白木先輩。私と、お友だちになってもらえませんか」
 
 白木先輩はお得意のきょとん顔で、私を見下ろしていた。
「……ん? んん? 友だち?」
 白木先輩の背後で聞いていた他の上級生たちは、なんだよ、告白じゃないのかよ、だのと囁き合っているが、気にしない。
「はい。友だち……ダメですか」
「いや、ダメではないけど……なんで僕?」
 白木先輩は首元に手をやり、困ったように笑っている。
「友だちになりたいから」

 私はもう、白木先輩には好かれていない。
 だからなんなのだ。今は私が白木先輩のことを好きなのだから、見守る理由なんてそれで充分だ。
 白木先輩が危険なことに首を突っ込まないように、詩織ちゃんが泣かなくて済むように、私は私のやりたいようにやればいい。

「だから手始めとして、一緒に帰りましょう。白木先輩」
 私は、白木先輩の手を取って歩き出した。
「えっ? ちょっ……お、音羽さん?」
 手を取ると、白木先輩は顔をほのかに桃色に染めて戸惑っていた。
  

 * * *


「……ねぇ、昨日はなんの用事だったの?」
 どんよりとした薄墨色の雲の下を歩きながら、白木先輩が私に尋ねてきた。
「告白」 
 ぼそりと言うと、白木先輩が驚いた顔をして足を止める。
 
「……えっと……」
「冗談です」
 しどろもどろになる白木先輩をスルーして、私は真顔でそう言うと、先を進んだ。
「じょ、冗談?」
 背後で白木先輩がなにやら言っているが、かまわず歩いた。
 空を見上げる。重い雲が立ち込めていた。まだ雨は降っていないが、そろそろ冷たい雨粒が落ちてきそうだ。

(……本当に覚えてないんだな)

 再び隣に並んだ白木先輩は、頬を掻いていた。
「……もう、いきなり脅かさないでよ。びっくりしたじゃん」
 脅かしたつもりはないのだが。
 
 白木先輩の横顔に、少しだけホッとする。記憶を失くしていても、やはり白木先輩は白木先輩だ。
 心根のまっすぐさや穏やかな表情は、以前の彼となにも変わりない。
 胸がちくりと痛みを覚えた。誰かといるときにこんな気持ちになるのは、初めてだった。

「ねぇ、音羽さん。あのさ、君はなにが好きなの?」
「なに……?」
 首を傾げる。
「教えて、君のこと。友だちなら、お互いのこと知っておかないと」 
 胸が熱くなった。当たり前のようにそんなことを言われたら、困る。
 好き、ってこういうことなんだ、と実感した。
 
 私は赤くなった顔を見られないように俯いて、咄嗟に髪で顔を隠した。
「……ピアノが好き。甘いものも好き。勉強はそんな好きじゃないけど、音楽は好き。運動は嫌い。……あと、水族館と海は好き」
「お、おう……」
 思ったより喋ったと思ったのか、白木先輩は少し驚いた反応を返してきた。
 
「……あと」
 白木先輩の袖口をそっと摘んだ。
「もっと、白木先輩のことも知りたいと思ってます」
「え……」
 ちろっと見上げると、白木先輩は頬を染めながらも、困ったように目を泳がせていた。
 
「……教えてください」
 じっと見つめると、白木先輩は観念したように少し微笑んだ。
「……えっと、僕は勉強は、暇つぶしになるから結構好きかな。特に化学工学とか。親が医者だから、僕もいずれ医者になりたいと思ってる……けどどうだろう。未来のことはよく分かんないや」
 言いながら白木先輩は、恥ずかしそうに照れていた。可愛い人だな、と思った。胸の中に、じんわりとあたたかなものが広がっていく。
  
「じゃあ、好きな食べ物は?」
 白木先輩はぼんやりと空を見上げて考え始める。
「好きな食べ物……うーん、たこ焼き?」
 足が止まった。
「はぁ?」と言いかけた。
「意外過ぎるんですけど……ミルクティーは知らないのに、たこ焼きは知ってるんですか」
「ミルクティー?」
 白木先輩が怪訝な顔をする。
「……いや、なんでもないです」 

(……そっか。私のことを覚えてないんだから、私との会話も……)

 覚えていないのか、と目を逸らしたそのときだった。
 突然、ぐっ、と白木先輩が呻いた。体をくの字にして、苦しそうに頭を押さえている。
「えっ……ちょっと、白木先輩? どうしたんですか」
 驚き、駆け寄る私に、白木先輩は呻きながらも手のひらを私に向けた。
「う……ん、大丈夫……いつものことだから」
「いつものって……」
 
 ハッとする。
「もしかして……未来が視えましたか」
 息をついていた白木先輩の顔が、凍りついた。信じられないものでも見たかのような顔で私を見る。

「……どうして」
「……すみません。詩織ちゃんから聞いてます。事情も知ってます。過去や未来が視えること、未来を視た場合、記憶を失うこと」
「……君」
 
 私は白木先輩の言葉を遮って、尋ねた。
「視たのはどっちですか?」
「……たぶん、未来だ。ごめん、話してる暇ない」
 言いながら、白木先輩が駆け出す。
「あっ……先輩!」

 空から薄水色(うすみずいろ)(しずく)が落ちてきた。頬を濡らす。雨だ。とうとう降り出した。
 私は白木先輩の背中を慌てて追いかけた。 

 白木先輩が向かったのは、建設途中(けんせつとちゅう)工事現場(こうじげんば)だった。
 まだ未完成のようだが、ずいぶんと背の高い建物だ。ビルかなにかを建てる予定なのだろうか。
 敷地内には、クレーン車やら名前も知らない重機(じゅうき)やらがいくつも置いてある。

 おずおずと建物の中に入る。中は鉄骨(てっこつ)がむき出しの状態で、吹き抜けになっていた。見上げると、吹き抜け部分のクレーンから伸びたワイヤーに数本の鉄骨が括り付けられていた。風が吹き込み、鉄骨はゆらゆらと揺れている。

 建物の中に、雨が降り注いでいる。雨足はかなり強くなっているようだった。

 周囲を見回す。人気はないように思えたが――いや、いた。
 かすかに声が聞こえる。子供だろうか。楽しそうにはしゃいでいる。かくれんぼでもしているのだろうか。

 白木先輩は迷わず奥に入っていく。
「あっ! ちょっと、先輩!」
 様々な恐怖で足が(すく)む。けれど、白木先輩を守るためには、入るしかない。

 彼はきっと、これからここで起こる悲劇を回避するためにきているのだから。 
「白木先輩! ちょっと待って……」
 ここで一体、どんな未来を視たというのだろう――。

 考えながら上を見る。クレーンから吊るされたワイヤーに括り付けられた鉄骨が危うく揺れているのが見える。
 その真下に、子どもたちの影が見えた。
 
「……まさか」
 ひやりとする。
 金属の匂いがする。キィンキィンと、骨を削るような、不気味な音が響いている。
 
 非常用の階段を駆け上がるカンカンという無機質な音が、私の耳朶(じだ)を震わせていた。
 息が乱れる。それでも足を踏み出した。白木先輩を見失わないように。

「君たち!」と、白木先輩が叫ぶ。子どもたちが白木先輩に気付いた。
「わっ! 大人にバレた!」
「ヤバいヤバい! 逃げろ!」
 子どもたちの無邪気な声が聞こえる。そんな場合ではないのに。

 白木先輩がもう一度叫んだ。
「今すぐそこから離れるんだ!」
 私も続けて叫ぶ。
「みんな、早く逃げて! 鉄骨が落ちる!」
 その瞬間、ぐら、とひときわ大きな風が吹いて、鉄骨が揺れた。
 見上げると、鉄骨を括っていたワイヤーのうちの一本が、弾け飛ぶように切れた。
 びぃん、と鈍い音がした。

 息を呑んだ。
 傾いた鉄骨はさらにワイヤーに負荷をかけ、滑車がするりと滑った。ワイヤーから外れた錆びた鉄骨数本が、一気に子どもたちのところへ落下していく。
 それはまるでスローモーションのように、子どもたちの真上に、大きな影を作っていった。
  
「わぁぁ!!」
 子どもたちがてんでんばらばらに散っていく。その中にひとり、取り残されている子がいた。白木先輩が走った。
「白木先輩っ!!」
 直後、凄まじい音がビル内に響き渡った。


 * * *

 
 錆びた細長い鉄骨数本が、地面に落下した。
 私は土煙(つちけむり)に巻かれ、足を踏み出せないままでいた。
 雨が土煙をさらうと、目の前には、朱色の光景が広がっていた。鉄骨の錆び付いた鈍い色と、鮮血(せんけつ)
 ひとりの子どもを抱えて倒れている白木先輩がいた。
 
 数分かけて、よろよろと傍らに立つ。
「白木……先輩」
 呼びかけても、返事はない。
 
 代わりに動いたのは、子どもの方だった。私の声で我に返ったのか、白木先輩に抱えられていた子どもは泣き出した。
 おかっぱ頭の女の子。それくらいしか、情報が脳に入ってこない。
 
「……みんなを連れて、ここから今すぐに離れて」
 辛うじてそう言うと、子どもたちはその場から立ち去った。

 これが、悲劇。
 白木先輩が視たものは、自分が巻き込まれるものではなかったはずだ。あの子たちが巻き込まれて、死ぬ未来だったはずだ。
「白木先輩が巻き込まれてどうするの……」

 腰から下が鉄骨の下敷きになった白木先輩は、ぴくりとも動かない。鉄骨の下からは、赤黒い血が染み出している。
「いやだ……いやだ」
 白木先輩の肩を揺する。
「白木先輩、起きて。いやだよ、起きてよ、先輩……」
 涙で滲む視界の中で、懸命に手を動かす。
「先輩、先輩!」 

 頭からも、血が出ていた。顔は、すべての血を抜かれたように青白い。
 いやだ。
 息が詰まる。全身から汗が吹き出す。

 私は、強く願った。
 ――どうして。どうして、神様。私の好きな人を取らないで。なんでもするから。なんでもあげるから。
 白木先輩。君が変えた未来なのに、君がいないなんておかしいよ。
 
「お願いだから、先輩を返して……先輩を助けて」

 ――私を、ひとりにしないで。

 震える声で、いるかも分からない神様に願ったその瞬間、雨が止んだ。

 いや、止んだのではない。
 時が止まったのだ。顔を上げると、ビルの向こうの街並みが見えた。

 交差点に侵入していた車も、傘を差して歩いていた人たちも、空から落ちてくる雨粒も。すべてが止まっている。

 目を(みは)る。
 カチリ、と音がして、時と同じく私の思考も停止した。
 どうなっているのかと冷静に頭を回そうとした途端、鉄骨がすうっと空中に浮かび上がった。
 切れたワイヤーが時が戻るように繋がり、するすると鉄骨に巻き付いてクレーンに繋がれる。
 
 呆然と見上げていると、視界にかすかな光が映った。
 見ると、白木先輩が光に包まれている。地面にこびりついていた血がぷくっと浮かび上がり、傷口から白木先輩の体に戻っていく。青白かった白木先輩の顔に血色が戻っていく。
 
 肺の辺りがきりきりと痛み、全身が震えた。涙が滲んだ瞳で、白木先輩を見守る。
 ものの数分で、白木先輩の傷はすべて綺麗になくなっていた。
 ホッとしたからか、足の力が抜けてしまった。膝から崩れ落ちる。両手を見つめた。
 
 今のは、なんだったのだろう。
(……幻? ううん……違う。手がなんか、熱かった)
「私の……力……?」

 もしかしたら、私も白木先輩と同じようになにかを失うのだろうか。恐怖で震える。
 ――と、ポケットの中のスマホが振動した。

(……そうだ、詩織ちゃんに連絡……)

 返信を打とうとするが、指を滑らせた途端ずぅんとさらに瞼が重くなる。
 ダメだ、目を開けていられない。

 白木先輩を包んでいた光が消えると同時に、私の意識はそこで糸がぷつっと切れるように途切れた。

 ふと、全身が凍えるほどの寒さを覚えて目を覚ます。重い頭を持ち上げて、眉を寄せた。見知らぬ殺風景な場所で、水溜まりの上に寝転がっていた。制服はびちょ濡れだ。
 空を見上げると、吹き抜けの先には藍色の空がある。手前にはクレーンから吊り下げられた鉄骨があった。
 
 まるで、建設中のような――ぼんやりと考えて、ハッとする。
 そうだ。工事現場だ。
 視線を動かすと、白木先輩が倒れているのが見えた。弾かれたように立ち上がり、白木先輩の傍らへ駆け寄る。
 
 声をかけようとしたとき、喉が焼けるように熱くなった。思わずぐっ、と息を詰めた。

(なに……?)

 喉に違和感を感じる。声が、出ない。いくら力を入れても、唇からはくぐもった吐息のような音しか漏れない。
 
(……嘘。声が……出ない)
 
 両手を喉元に添え、困惑した。私は、声を失っているらしかった。
 手の甲に、雨粒が落ちた。熱い。燃えているみたいに、喉が熱い。
 混乱しながらも、心のどこかでそれを受け入れている自分がいる。
 これはきっと、代償だ。白木先輩の体を治した代わりに受けた罰なのだと直感する。
 
 でも、今はそんなことはどうでもいい。
 
 白木先輩の口元に耳を寄せる。かすかに呼吸音がして、あたたかい吐息が触れた。
 ホッとして、肩を優しく揺する。
 眉が歪んだ。

「……ん」

 白木先輩が目を覚ました。眩しそうに目を細めて、視線だけを動かしている。
 生きている。白木先輩はちゃんと、生きている。
 私は思わず、泣きながら白木先輩に抱きついた。
「わっ」
 驚いた白木先輩が声を上げるけれど、かまわない。

「えっと……音羽……さん?」

 白木先輩は、私のことは忘れてはいなかった。たぶん、彼の中で私の存在はまだそんなに大きくないのだろう。
 私は白木先輩から離れると、スマホに文字を打ち、見せた。
『痛いところはないですか?』
「ないけど……って、音羽さん、声どうしたの……?」

 一瞬、顔が引き攣るけれど、いつものポーカーフェイスを繕ってスマホを見せた。
『白木先輩が起きなさ過ぎるので、呼び掛けすぎて声が枯れました』
「えっ! 嘘!?」
 嘘だが。
  
 白木先輩は分かりやすくおろおろし始めた。面白い。
 ハッとした顔で、白木先輩が私を見た。
「そうだ! 子どもたちは!?」
『大丈夫。みんな無事に家に帰りましたよ』と、スマホを見せる。
「……そう」
 ホッとしたように息を吐いたあと、白木先輩は私を見て眉を下げた。
「ごめん、音羽さん……僕、君のこと巻き込んだよね。怪我はなかった?」
 首を横に振る。
 
『大丈夫だから、帰りましょう。もう十九時過ぎちゃってます』
「……でも、その声……」

 白木先輩はまだ心配そうな顔をしている。私はその手を取って、引っ張った。

「あ、わ、分かったよ……」
 白木先輩は私に手を引かれ、仕方なく立ち上がった。そして、歩き出そうとして固まった。
 
 どうしたのだろう。私は首を傾げる。
「……あれ」
 白木先輩は泣きそうな顔をして首元を掻いている。
「……家って、どこだっけ……」
 私は目を伏せた。
 つまり今回未来を視た代償は、自分の家の記憶――。

 私は白木先輩の手を取った。ぎゅっと握って、『だいじょうぶ』と口パクでゆっくり言う。
「……音羽さん」
 帰り道を忘れ、捨てられた仔犬のようにしょぼくれた白木先輩の手を引いて、私は工事現場を離れた。

 見上げると、雲の切れ間から覗くのはビーズを散らしたような紺色(こんいろ)の空。雨はすっかり止んでいた。
 手を引かれるまま素直に着いてくる白木先輩を見て、私は堪らなくなった。

 片手でスマホを持ち、詩織ちゃんに連絡する。
 白木先輩が未来を視たこと、工事現場で起きたこと、それから――家のことを忘れてしまっていること。

 白木先輩を無事に家に送り届けると、詩織ちゃんは申し訳なさそうな顔をした。
 彼女には、私の声が出なくなったことやその理由を簡単に伝えておいたので、責任を感じてしまったのだろう。
 
 初めて会ったときから思っていたが、詩織ちゃんは歳のわりに随分としっかりした子だ。まだ小学生なのに、白木先輩なんかよりずっと大人っぽい気がする。
 
 詩織ちゃんを見た白木先輩は、安堵したように息をついていた。
「……お兄ちゃん、遅いよ。もう夕飯だよ」
 白木先輩は家の場所を忘れただけで、詩織ちゃんのことは覚えているようだ。
「……あぁ、うん。ごめん」
「夏恋ちゃん、送ってくれてありがとう」
『あとはよろしくね』と口パクで伝え、頭を下げる。
 
「……あの、夏恋ちゃん」
 帰ろうとすると、詩織ちゃんに呼び止められた。
 振り向くと、眉を八の字にした詩織ちゃんが駆け寄ってきた。
「……夏恋ちゃんは怪我してない?」
 大丈夫、と頷くと、詩織ちゃんは悲しげに俯いた。
「……声……ごめんなさい。私、お兄ちゃんのことが心配で、夏恋ちゃんが危険になること全然、分かってなくて……」
 俯いた詩織ちゃんの頭にぽんと手を置いた。顔を上げた詩織ちゃんと目が合う。
 彼女の目を見て、もう一度静かに首を横に振る。
 
 私は既に決めていた。
 白木先輩を助けられるのはきっと、この世界で私しかいない。
 残酷な世界。神様なんていない、救いなんてないと思ってた。
 けれど、違った。神様はたしかにいたのだ。

 まっすぐに詩織ちゃんを見つめる。
 詩織ちゃんが手に持っていたスマホが振動した。メッセージを確認した詩織ちゃんの喉元がゆっくりと、小さく上下した。
『これからは、私が白木先輩のことを守るから安心して』
 詩織ちゃんは私を見て、ぐっと唇を噛んでいた。
 帰り道、見上げた空は真っ暗だったけれど、私にはとても美しく輝いて見えた。

 それから、約半年間。
 私は白木先輩の友だちとして、そばに居続けた。白木先輩が未来を視るたびに、怪我をしないよう見守って、ときには祈りの力を使った。

 白木先輩を初めて助けた日、家に帰ると春子さんは喋ることができなくなった私を抱き締めて泣いた。
 理由は言っていない。言っても信じてもらえるかは分からないし、変な子だと思われるのもいやだから。
 
 ただ、春子さんは一生懸命だった。私をいろんな病院に連れて行って、原因を調べて、治そうとしてくれた。
 結局、私が声を取り戻すことはなかったけれど。

 でも、私が案外ケロッとしていたからか、春子さんはその日以来泣くことはなかった。
 今でも、声を取り戻す方法を探してくれてはいるけれど。

 あいには正直にすべてを話した。非現実的過ぎる話だし笑われるかと思ったけれど、あいはじっくり私の話を聞いて、決して笑わなかった。

 こんなに周りに恵まれていたことを、白木先輩に出会わなかったら気が付かなかった。
 両親が死んでから、勝手に殻に閉じこもって壁を作って、ひとりでも大丈夫だと強がっていた。
 でも、全然そんなことはなかった。
 私ひとりでは、なにもできない……。
 
「夏恋? 大丈夫?」 
 ぼんやりしていると、あいが私を覗き込んでいた。
『大丈夫』と答えるが、それでもあいは心配そうに私を見つめていた。
 今日は、卒業式だ。
 白木先輩は、無事外部の高校に合格した。春から高校生になる。
「夏恋、体育館行こう」
 頷き、席を立つ。
 
 空はどこまでも澄んでいて、風もなく陽の光がほのかにあたたかい。まさに卒業式らしい天気だった。

 晴れの日なのに、私の心はどんより灰色だった。もう、明日から会えなくなる。
(……白木先輩は、どう思ってるんだろう)
 私と離れるのは特別なんとも思っていないのだろうな、と思うと心が冷たくなった。
 
 白木先輩にとって私は、友だちというよりもただ付きまとってくる後輩という認識程度だろう。優しい人だから、困ったように笑っても、邪魔だと言われることはなかったが。

 告白されないように、白木先輩の一番にならないように、と予防線を張っていたのは私なのに、悲しくなるなんて勝手が過ぎる。

 卒業式は滞りなく終わり、三年生はそれぞれ親たちと帰って行った。
 私たち在校生も、今日はホームルームだけでおしまいだ。先生の話をぼんやり聞いていると、スマホが振動した。筆箱と本で隠して、こっそりスマホを見る。

『今日会えますか』
 
 白木先輩からだった。
 どうしたのだろう。また未来を視てしまったのだろうか。
 すぐに液晶画面を叩いた。
『音楽室でいいですか?』
『うん、待ってる』
 そわそわしながら、ホームルームが終わるのを待った。


 * * *


 三月初めの音楽室は、霞色だった。
 がらりと扉を引くと、窓際に白木先輩がいた。窓の外を眺めている。窓から差した薄い陽光が、その横顔を彫刻のように照らしている。その光景は、どこかの絵画のように美しい。

 しばらく見つめていると、ふと白木先輩が私に気付いた。
「あ、音羽さん」

 目が合い、ぺこりと頭を下げる。

「ごめん、呼び出しちゃって」
 ゆるゆると首を横に振り、白木先輩に歩み寄った。見上げて、口パクで『卒業おめでとうございます』と紡ぐ。すると、白木先輩は少し照れくさそうにはにかんだ。
「……うん。ありがとう」
 
 白木先輩は首元を撫でながら、小さく笑った。
「はは。……なんか、実感湧かないな」
 背中を向けて窓の向こうを見る白木先輩に、私はちょこちょこと駆け寄って覗き込んだ。
 すると、白木先輩はやはり困ったように呟いた。
「……もう少し……」
(……もう少し?)
 なんだろう、と首を傾げる。

「……うん。いや、なんでもない」
 ムッとする。白木先輩の袖を引き、言いかけた言葉の催促をする。
 すると、白木先輩は一度押し黙って、言った。
「……もう少し、寂しくしてくれるかなって期待したんだけど」
 
 息が詰まり、思わず袖を掴んでいた手を離して一歩後退った。 
 すかさず離した手を握られる。けれど、私は俯いたままその手を握り返せなかった。手を引き、拒むけれど白木先輩は離してはくれない。

 恐る恐る見上げると、白木先輩の瞳には熱が宿っていて、ハッとした。すぐに目を逸らし、足元を見る。

(……嘘だ)

 だって、私はちゃんと距離を置いてきた。白木先輩には、疎まれているくらいだと思っていた。
 それなのに。

「……顔、上げて。音羽さん」

 上げられるわけがない。どんな顔で白木先輩を見たらいいのか、まったく分からない。自分が今、どんな顔をしているのかも。ただ、頬がこれ以上ないくらいに熱かった。

「音羽さん。僕、君が好きだよ」 

 真っ暗闇の中に、突き落とされたような気がした。

 違う、と頭の中で否定する。

 私は、もう白木先輩のことは好きじゃない。随分前に諦めた。少し憧れているだけで、両想いになりたいとかでは、決してない。
 
 掴まれた手首が熱い。呼吸が苦しい。私は今まで、どうやって息をしていただろう。
 口を開く。けれど、唇からは吐息が漏れるだけで、言葉はなにも出てこない。
 声が出れば、全部、伝えられるのに。
 口を開くけれど、音を失った私は、どう足掻いても声を出せない。
 白木先輩はやるせない顔をして私を見ていた。
 
(……違う。そんな顔、しないで。私は――)
 口を開いたとき、白木先輩がふと言葉を止めた。

 直後、呻き声が聞こえた。苦しげな声だ。白木先輩が頭を抱えて苦しんでいた。
 背中を曲げ、片手でこめかみを押さえている。
 もしや。 
 それは、いつも白木先輩が未来を視るときに起こる症状だった。
 
(……まさか、また悲劇の未来を?)

 おずおずと白木先輩の顔を覗く。すると、白木先輩がパッと顔を上げた。私を見つめて、唇を震わせる。
「……強盗が……」
(強盗?)
 眉を寄せ、白木先輩を見る。

「君の家に……強盗が来る。君のお母さんが危ない!」
 白木先輩の言葉に、私はごくりと息を呑んだ。

 家に強盗が来る。そんな未来を予言されて、私はただ戸惑うばかりで立ち尽くした。
 でも、いつ?
 混乱する頭のまま、とりあえず私はスマホで警察を呼んだ。一定のコール音が途切れると、女性警察官らしき声が聞こえる。

 ――けれど、声が出ない。交番に駆け込むならまだしも、電話では、私は状況をなにひとつ伝えることはできない。
 混乱状態になると、こんなにも無駄な行動を取ってしまうものなのか。
 
 どうしたら……どうしよう。早くしないと、春子さんが危ない。
 考えても考えても、頭はから回るばかりで、涙が滲んだ。
 
 すると、白木先輩が私のスマホを優しく取った。代わりに状況を説明し、通話を切る。スマホの重量が消えた手のひらを、私はぼんやりと見やる。
「……とりあえず家に行こう、音羽さん」 
 数度頷き、私はなんとか間に合ってと祈りながら、通学路を走った。

 家に着き、迷わず中に入ろうとした私を白木先輩は腕を引いて止めた。
「僕が行くから、君はここにいて」
『行く』と口で言う。が、白木先輩は眉を寄せて首を横に振った。
「ダメだ。君はここで待ってて。お願いだから言うことを聞いて」
「…………」

 しばらく睨み合うような沈黙が落ちた。けれど、いつになく厳しい口調の白木先輩に気圧され、私は渋々頷いた。
 
 玄関から白木先輩がそっと中へ入っていく。見送ると、私は庭に周ってこっそり中を覗いた。家の中からは、物音などはしない。

 見ると、一階の窓ガラスが豪快に割られていた。恐怖で足が竦んだ。割れた窓ガラスの奥に視線をやるが、人気はない。必死に視線だけを動かし、春子さんを探した。けれど、いない。
 
 嫌な想像が脳裏を過ぎったそのとき、背後でかさりと音がした。乾いた草を踏み締めたような音だ。
 どくん、と心臓が音を立てて跳ねた。
 
 ――誰か、いる。
 飛び跳ねる心臓を落ち着けながら、恐る恐る振り返る。

「夏恋ちゃん」
 そこにいたのは、春子さんと男性警官だった。はぁ、と息が漏れた。途端に緊張が緩んで、私は春子さんに駆け寄った。緊張が解けたからか、涙が滲んだ。

 春子さんは私を抱き留めると、早口で言った。
「あぁ、夏恋ちゃん……!! 良かった、今ね、強盗がうちに来て……!」
 春子さんは疲れ切った顔をしながらも、怪我はないようだった。
「あなたが帰ってきたところに鉢合わせなくて、本当に良かった……」
 胸が軋んだ。
 春子さんだって怖かっただろうに、自分よりも私の心配をしていたなんて。

 その後、警察官に白木先輩が中の様子を見に行ったことを伝えた。
 
 警察の話によると、私と白木先輩から通報を受けた警察が春子さんに連絡した直後、強盗が侵入したのだという。
 警察から通報を受けていた春子さんは、庭掃除用の熊手で応戦し、なんとか事なきを得たそうだ。
 
 そして、逃げ出した強盗犯は駆け付けた警察官によりあっさりとお縄についたらしい。
 うちを狙った理由は、巷で有名な資産家であり、且つ男がいないからということだった。

 なにはともあれ、とりあえず犯人が捕まってホッとした。

 春子さんは思ったより気丈だった。穏やかな人だが、もともと胆力と度胸のある人だ。
 凶器を所持した強盗犯に熊手で応戦したという話は春子さんらしくて納得してしまった。
 
 警察の聴取を終え、ようやく一息つけた私たちは、改めて白木先輩に礼を言った。

 春子さんは白木先輩とは初対面だ。
 会話の中で何度か名前を出したことはあったと思うが、直接うちに来るのは初めてだった。

 春子さんは、白木先輩に深く頭を下げた。 
「白木くんも、本当にありがとうね。怖かったでしょう」
「いえ。無事で良かったです」
「おかげですごく心が落ち着いたわ。正直、女ふたりだからビクビクしてたのよ」

 たしかに、こういうとき、男の人がいてくれると言うのは、とても心強い。
 実際私も怖くて堪らなかったし、白木先輩がいなかったらと考えるだけでも足が竦んだ。
 
 白木先輩は一息つくと腰を上げた。
「じゃあ、僕はこれで」
「あら、もう帰るの? それなら、後日改めて親御さんにもお礼にうかがわせてもらうわ」
「いえ、おかまいなく。今回の件は、本当にたまたまですから。……じゃあ、またね。音羽さん」
 白木先輩は人好きのする笑みを浮かべ、そう言うと、帰っていく。
 家の前に出て、その背中を静かに見つめた。

(……帰っちゃう)

『――僕、君が好きだよ』
 耳に木霊する、甘い言葉。
 もう、明日から白木先輩は学校に来ないのに。いや、それだけじゃない。白木先輩は明日になれば、たぶん私のことを忘れるだろう。
 明日、私と白木先輩の繋がりは完全に切れる。

(……これで、いいんだよね)
 
 私と彼は、どうしたって一緒には生きられないのだから。胸が突き刺されるような痛みを覚えるけれど、大丈夫。すぐには忘れられなくても、今は怖くても――。
 涙を堪えながら、じっと立って白木先輩を見送る。

(……また、応えられなかったな)
 告白してくれたのに。やっと……両想いなのに。
 
 黙って苦しみに耐えていると、そっと隣に立つ気配があった。春子さんだ。
 春子さんは、彼いい子ね、とでもいうような笑みを私に向けている。
 
「……ねぇ夏恋ちゃん、あなた、あの子のことが好きなんでしょ?」
 驚いて振り向くと、春子さんはとびきり優しい笑みを浮かべて私を見ていた。
「行っちゃうわよ。行かなくて、いいの?」
 春子さんの言葉に、私はもう一度白木先輩の背中を見た。
 
 行きたいけれど、怖い。
 また『君、誰?』と言われるのが、怖い。面と向かってそれを言われる勇気がない。

 これまでいくら祈っても、白木先輩の記憶を取り戻すことはできなかった。
 だからもう、期待するのはやめようと決めた。

(……決めたはずだったのに)
 もう、白木先輩の一番にはならない。望まない。私はただの友人A。
 
(……弱いなぁ、私)

 白木先輩の背中を見つめて動けないままでいると、春子さんが言った。
「……そう。夏恋ちゃんは、とってもあの子が大切なのね」
 顔を上げる。
「大事に思えば思うほど、恐ろしくなるのよね。でも、ときには踏み込まないと、ずっとすれ違ったままよ。いいの? それで」

 その言葉は、ずしんときた。
 私は唇を噛み、頷いた。そして、スマホを開く。文字を打とうとすると、その手を春子さんに掴まれた。
「いいから、ほら早く行ってきなさい」
 春子さんに背中を押され、私は白木先輩の元へ駆け出した。

 白木先輩の背中がどんどん近付いてくる。こういうとき、声があれば呼びかけられたのにといつもやきもきする。でも、それでもこれは勲章なのだからと言い聞かせた。
 
 白木先輩の命と引き換えに失ったものなら、たとえ命だろうと惜しくはない。

 空の色も、花の色も、星の輝きも、今の私にはそのすべてが失われているけれど、それでもまだ、白木先輩を認識することはできるから悲しくはない。
 
 ぐい、と思い切り袖を引いた。声もなく袖を引かれ、驚いて振り向いた白木先輩は、私を見てさらに驚いた顔をした。

「音羽さん? どうしたの」
 息が弾む。深呼吸をして息を整えてから、改めて顔を上げて白木先輩を見つめた。

『好き』

 袖を掴んだまま、口を動かす。伝わっただろうか。スマホで文字にした方が良かっただろうか。でも、どうしても言葉で伝えたかった。音にはならなくても、せめてこの口で……。
 
 私の口元を見た白木先輩は、固まっている。
 沈黙が落ち、時間とともにどんどん自信がなくなっていく。

 いよいよ怖くなって、掴んでいた手を離して一歩下がろうとすると、今度は白木先輩が私の手を掴んだ。頬がほのかに紅潮している。
「……自惚れじゃなかったら、今、すごく欲しかった言葉を言われた気がしたんだけど」
 
 伝わっていた、と実感した瞬間、瞼がぬるく熱を持った。
 私の瞳が潤んだことに気が付いたのか、白木先輩が狼狽(ろうばい)し出す。
「あ、いや……ごめん、やっぱり違う? い、今のは僕の妄想かも」
 
 ぐ、と唇を噛みつつ、スマホを掴んだ。指を動かす。
 好き。
 私を忘れないで。置いていかないで。どこにも行かないで。
 私は、君がいなくちゃ生きていけない。息ができない。
 君を(わずら)わせるとわかっていても、どうしてもこの想いを手放すことができない。
 
 溢れ続ける想いを打っては消して、を繰り返す。
 どれくらいそうしていただろう。白木先輩は、なにも言わず私を待ってくれていた。
 
 ようやく文字を打ち終えると、私はおずおずとスマホを見せた。
『水族館と、海に行きたい』
 白木先輩は数度瞳を瞬かせて、微笑んだ。
「今から、行こうか」
 そっと手を引かれる。
 その手は、私の胸のうちの汚い思いすべてを(すく)って海に返してくれるような手に思えた。
  
(……今日で最後だから)
 これで、今度こそ終わりにすると決めて、私はその手を握り返した。

  
 * * *


 前来たときは時間が遅過ぎて見られなかった午後最後のイルカのショーを見たら、少し濡れた。でも、手を繋いでいたから少し暑くて、ちょうどいいと思った。

 その後サメを観て、ジュゴンを観た。前に来たときにいたマナティは、高齢のため死んでしまったのだという。

 献花台(けんかだい)には、たくさんのぬいぐるみや子どもが描いた似顔絵が置かれていた。それを見て、ちゃんと時は流れているのだな、と思った。

 あの日ふたりで行った水族館。
 同じ場所のはずなのに、あのときとはすべてが違った。
 すべてがきらきら宝石のように輝いていて、瞬きも惜しくなるほどで。
 私はその光景を、しっかりと目に焼き付けた。

 魚を観て回ったあと、白木先輩に「お土産にお揃いのなにか買おうよ」と言われたけれど、やんわりと断った。
 思い出を残す勇気は、なかった。

 水族館が閉館すると、海辺に来た。
 海は穏やかで、月の光を反射して輝いていた。空には雲はない。今日は、満点の星空なのだろう。

 目を閉じて、イメージする。
 けれど、記憶に閉じ込めたはずの星空や宝石を宿した魚たちは、ぽろぽろと砂のように消えていく。

 行かないで、と手を伸ばしても、私にはそれを繋ぎ止める術はない。
 
「……音羽さん」
 不意に名前を呼ばれた。目を開けると、白木先輩が私を見ていた。
「――なにが怖いの?」
 問われた言葉に、息が詰まった。見上げると、視線を彷徨わせた白木先輩がいる。白木先輩は眉を下げて笑った。
「……君、いつもなにかに怯えてるようだから……特に、僕といるといつも」
 両手を掬われる。
「……なにが怖い?」

 目の奥がつんとした。白木先輩の優しさには、いつもいらいらした。その理由を、ようやく知った。
 自分を省みないから、いつも誰かのために動く人だから、いつか私の前からいなくなってしまうんじゃないかと、怖かった。それでいらいらしていたのだ。
 
(……今になって気付くとか、馬鹿過ぎる)
 
 とうとう堪え切れなくなった涙が、目の縁からぽっと落ちた。目の下を、白木先輩の指が優しく撫でていく。
「僕は、ここにいるよ。どこにも行かない。ずっと音羽さんを想ってるよ」
 瞬きと同時に、また涙が落ちる。
 
 嘘ではない。心からの言葉なのだと分かるからこそ、胸が引きちぎられるように痛みを訴えた。
 優しく抱き寄せられる。とんとんと、背中をあやすように優しく叩かれた。
 私は声にならない声を上げて泣きじゃくった。


 * * *


 目を覚ますと、隣に寝息を立てる白木先輩がいた。すやすやと寝息を立てるさまは、仔猫のようだ。ふたつも歳上とは思えない。

 ふ、と笑みが零れた。
 こういう人だから、好きになったのだ。こんなにすてきな人を好きになれてよかったと、心から思う。 
 叶うかどうかではなくて、ただ、想えたことが幸せだと思えた。

 さよなら、と口を動かして、白木先輩の頬にキスをする。
 海の向こう、遥か彼方に薄らと紫色の光が見えた。私たちにとって最後の夜が明けた。

 ひとり、家まで歩く帰り道に見た空は、悲しいくらいに美しかった。