十月になった。雨の日は随分と減り、からっとした日が増えてきた。
午前の授業の終了を告げるチャイムが鳴る。チャイムの音と同時にクラス中の集中がぷつっと分かりやすく切れた。
先生はキリのいいところまで進めたいのか、まだぺらぺらと講義を続けているが、生徒たちはさっさと机の上に広げていた教科書やノートを片付けて、待ちに待ったお弁当を食べる準備を進めていた。
かくいう私もノートを閉じ、窓の外を見つめた。青色ジャージを来た生徒たちが体育の授業から校舎の方へ帰ってくる姿が見える。
青色ジャージは三年生のカラーだ。
無意識のうちに、目を凝らして白木先輩を探していた。数人で群れる男子生徒のあとにぽつんと歩いてくる学生がいる。白木先輩だった。
思わず頬が緩んだ。
久々に彼の姿を見た。
白木先輩が来なくなってから、私は音楽室に通う頻度が極端に減った。
まっすぐ家に帰ったり、図書室で時間を潰したり、街に寄ってぶらぶらしたり。
そのどれもが、退屈で苦痛だった。
世界中の時計が壊れてしまったのかと思うほど、時間が全然進まないのだ。もうそろそろ帰ろうかと思って時計を見ても、十分も進んでいなかったりする。
かといって、音楽室に行けばどうしたって白木先輩を待ってしまうから、行きたくなかった。
(今日はどうやって時間を潰そう……)
いつの間にか、先生はいなくなっていた。水道に手を洗いに行って自席に戻ると、お弁当を広げた。
今日のメニューは、俵型の小さなおにぎりが三つと肉巻きアスパラ、ミートボール、ポテトサラダ、梅とはんぺんのミョウガ和え、それからプチトマトだ。
ポケットからスマホを取り出しながら、ひとりいそいそと食べ始める。
私の学校は、授業中はスマホの使用を禁止されるが、休み時間や放課後はスマホをいじっていても注意されない。
スマホを開いたところで、メッセージのやり取りをする友だちすらいない私は、べつにやることはないのだけれど。
ギャラリーを開いて、前に白木先輩と行った水族館の画像を眺めていると、弾けるような声が降ってきた。
「ねぇ夏恋! お弁当一緒に食べよ!」
「……あ、うん」
話しかけてきたのは、あいだった。
私の前の席のあいは、机をくるっと後ろに向けて、私の机とぴったりくっつけると、バッグからコンビニ袋を取り出した。
あいの今日のお弁当は、サンドイッチと焼きそばパンらしい。あいはお弁当はいつもコンビニや購買で買っている。あいが食べているカップラーメンや菓子パンを見ていると、たまには買い弁も美味しそうだ、と思う。
「ねぇ夏恋。最近元気なくない?」
ぎくりと肩が揺れた。
「え、そうかな……?」
うっかり笑顔が引き攣った。
友だち未満のクラスメイトにまで気付かれるほど、私は覇気を失くしていたらしい。
「なにかあったの?」
「うーん、べつにないけど……なんだろ。勉強のし過ぎで疲れちゃったかな」
曖昧に微笑みながら、プチトマトを口に含んで誤魔化した。
「最近、ピアノは?」
「んー……弾いてないねぇ」
音楽室にすら行っていない。家ではたまに弾いているが。
すると、あいは驚いた顔で私を見た。
「あの夏恋が!? ピアノ大好きな夏恋が!?」
「……そんなに驚く?」
どうやら私は、音楽好きな音羽夏恋という人物を上手く演じられていたようだ。
あいは、ふぅん、と呟きながら椅子に座り直すと、にっと歯を見せて微笑んだ。
「……ねぇ、今日音楽室に行かないならさ、一緒にカラオケ行かない?」
「カラオケ?」
「うん。今日みんなで行く約束してるの」
「……どうしようかな」
「前に行くって約束したでしょ」
「そうだっけ?」
とぼけてみるけれど、たしかにそんな約束をした気がしないでもない。というか、覚えていたとは。
「というか私、中西に告白してふられたって言ったっけ?」
「嘘!? あい、告白したの?」
思わず前のめりに尋ねてしまった。
あいはほんのりと頬を染めて、もじもじとしている。あいのこんな表情は、初めて見た気がする。どちらかと言えば、あいは気が強いタイプだと思っていた。
「うん。……でも、中西は夏恋が好きなんだってさ」
ミートボールを運んでいた手を止めて、黙り込む。しばらく考えて、口を開いた。
「……あの、あい……」
なんと言葉をかけてよいかわからず、私は視線を泳がせた。すると、あいはくしゃっと笑って両手を振った。
「気にしないで。私結構もう気にしてないから」
「……そう」
「それでさ、中西が夏恋連れて来いってうるさいのよ。次は夏恋が来ないんじゃ行かないって言うし」
ちらちらと中西を見る視線には、うっすらと熱が垣間見える。まだ諦めきれてないのだろう。
その視線はとても可愛らしく、好感が持てた。なんというかとても、健気だな、と思った。
「……あいも行きたいの?」
「まぁ……どうせならね。あ、でも邪魔はしないよ。私、応援するから安心して」
苦笑する。
「いいよ、そんな気を遣わなくて。というか私、中西のことはべつになんとも思ってないから」
「夏恋は中西のことなにもまだ知らないでしょ。知ったら変わるかもしれないよ」
たしかに、私はクラスメイトたちのことをほとんど知らない。話さないといけない場面でしか会話をしてこなかったし、あいとだってそこまで親しい間柄というわけでもない。
そもそも中西って誰だっけ、とクラス内の男子たちを見た。
やはり見てもよく分からなかった。
私はこれまで、興味のないものはどうでもいいと思っていた。
今までなら、適当に誤魔化して楽な方へと交わしていたけれど。
白木先輩やあいのおかげで少し、興味が湧いた気がする。
箸を置く。
「……あいが行くなら、行こうかな」
「えっ、ほんと?」
「うん」
「やったー!!」
子どものようにはしゃぐあいの顔は、とても可愛らしかった。
その日私は、初めてあいを真正面から見た気がした。
ハロウィンが間近に迫った街は、オレンジ色と紫色に彩られている。かぼちゃやコウモリのはりぼてが至るところに装飾として飾られていた。
鮮やかな街だ。
けれど、数人のクラスメイトたちと歩く通学路は、白木先輩と歩いたときよりも随分と色褪せて見える。少し肌寒い。
空を見上げる。太陽がない。太陽は分厚い雲で覆い隠されていた。
もう冬の足音が聞こえていた。白木先輩がいなくなる春が、近付いている。
クラスメイトたちのがやがやとした高い声の喧騒は、冷めた私にはやはり似合わない。
ぼんやりと歩いていると、突然隣に人の気配があった。表情を引き締める。
「ねぇ、音羽さんって彼氏いるの?」
話しかけてきたのは中西だった。すぐ近くにはあいもいるし、ほかのクラスメイトも周りにいるのに、答えると思うのだろうか。
「……はは」と、私は静かに笑い声を漏らした。
いつの間に、こんなに愛想笑いが下手になったのだろう。前はもっと上手く笑えたはずなのに。
「えー、答えてくれない感じ? 余計気になるじゃん!」
面倒なタイプだ。内心唾を吐きながら、顔では天使の笑顔を作る。この感覚、久しぶりだ。
「どっちどっち?」
苛立ちがピークを過ぎた私は、半ば無視する形で黙って歩いた。
少し前方にあいを見つけ、さりげなく逃げようとすると、後ろから中西に腕を捕まれ阻止された。
「ねぇねぇ音羽さん。いないならさ、俺彼氏に立候補したいんだけど。今度デートしない?」
「いや……私、そういうのは」
中西は慣れた様子で肩に触れてくる。気持ち悪い。思わず眉間に皺が寄った。
白木先輩のときは、こんな感じにはならなかったのに。あの人は絶対、私の嫌がるようなことはしなかった。
「つれないなぁ。努力くらいさせてよ」
ぐっと腰を引き寄せられ、さらに距離が近付く。
吐き気がする。もう我慢ならない。
「やめてって言ってるでしょ! 気持ち悪い」
手を振り払いながら真顔で言うと、中西は「はぁ?」と、眉を釣り上げた。どうやら、機嫌を損ねたようだ。
「なんなのお前。口悪過ぎんだけど、めっちゃ冷めたわ。音羽って顔だけなんだな。引くわ」
中西は機嫌を損ねたようで、舌打ちをして帰って行った。
私は、中西の背中を見送りながら額を押さえた。
やってしまった。距離感には気を付けていたのに。
まぁ、気持ち悪いのだからしょうがない。
「ちょっと、どうしたのよ。夏恋。大丈夫?」
「……あい、ごめん。私も帰る」
「え? え? ちょっと……夏恋!」
「せっかく誘ってくれたのにごめんね。またあとで」
私は逃げるように来た道を戻った。
* * *
十月の陽は、夏に比べて随分と短い。陽が落ちた街は肌寒いけれど、それでも家に帰る気にならなかった私はひとり海辺を歩いていた。
波音を聴きながら、六月の音楽室を思い出す。
まだ数ヶ月しか経ってないのにいないのに、もうこんなにもあの音楽室に焦がれている。
初めて白木先輩を見たときはなんだこの人、と思ったはずなのに不思議なものだ。
「……あんな人でも、いないと寂しいものなんだな……」
私のひとりごとは、波音と風に運ばれていく。
学年がふたつも違うと、校舎も違うし帰る時間も違う。私は、あれから白木先輩のことをほとんど一度も見ていない。
つくづく、彼が私に合わせてくれていたことを痛感する。
「……夏恋」
波音に耳をすませていると、ふと、波音に混じって名前を呼ばれた。
振り向くと、あいがいた。窺うように私を見つめるあいに、目を瞠る。
「あい……どうしたの。カラオケは?」
尋ねると、あいは眉を下げながら笑う。
「……ごめん、気になって着いてきちゃった。嫌だった?」
私こそ「カラオケ、ごめん」と謝る。すると、あいはぶんぶんと手を振った。
「いいよいいよ、むしろなんか無理させちゃったみたいでごめんね」と小さく笑った。
さらにあいは続けて、
「それよりさ、夏恋。もしかして、好きな人できた?」
驚いて顔を上げる。
見ると、あいはにっこりと微笑んでいた。
「……なんで」
「なんとなく。女の勘ってやつ?」
「……恋なんてしてない……と思う。ふったし」と、呟くように返す。しりすぼみになった。
「は? ちょっと待って。どゆこと?」
あいは私の言葉に眉を寄せた。私はふっと笑い、また前を見て歩き出す。あいは駆け寄って、私の隣に並んだ。
「ねぇ、これからふたりでカフェ行かない?」
「カフェ?」
「行こうよ! ほら!」
「えっ……ちょっと」
半ば無理やり、海が一望できるテラスが売りのカフェとやらに連れ込まれた。
入った店は小さなお菓子の家を模したような外観のカフェで、女の子が好きそうな雰囲気だった。
私たちは紅茶とケーキプレートを注文してテラス席に座った。
注文していたものが届くと、あいは静かに話し出した。
「私さ、正直最初は夏恋のこと、苦手だったんだ」
私はミルクティーが入ったティーカップをそっとソーサーに置き、あいを見た。
「どこか冷めてるっていうか、なんか、なに考えてるか分からなくて」と、小さく笑う。
「……ごめんね、今は夏恋のこと大好きなんだけど。最初のイメージの話だから、気を悪くしないでね」
私はゆるく首を振った。
「私ね、勝手に線を引いてたの」
「線?」と、あいが首を傾げる。
「私、小学生のときに両親亡くしてるんだ。うちは全然お金なんてなかったから、今はお母さんの妹の家に引き取られて……つまり叔母とふたり暮らしなんだけど。どうも顔色を窺っちゃうっていうか、気を遣うっていうか……だから、ひとりでいる方が楽だなって思ってた。友だちもいらない、適当でいいやって」
息を吐く。こんなこと、初めて話した。誰にも――いや、白木先輩以外には言ったことがなかったのに。
あいは私の話を静かに聞いてくれていた。
「ごめんなさい。私、猫被ってた。本当は全然いい子じゃないし、塩対応だし。あの……中西への態度みたいなのが、本当の私」
ふふっとあいが笑う。可愛らしい。あいがこんなふうに笑うことすら、私は今まで知らなかった。いや、知ろうともしていなかった。
「お互い様だね、夏恋」
「お互い様……?」
「ねぇ、夏恋。これからは親友になろ? 私たち、たぶんすごく仲良くなれると思う」
あいの言葉に、私は心から頬が緩んだ。
「うん」
顔を突き合わせながら、ふたりで笑い合った。
ミルクティーとケーキを頬張りながら、あいが不意に「それで」と顔を寄せてきた。
「夏恋の好きな人って誰なの?」
視線を泳がせて苦笑いしていると、あいはぴっと私の鼻先を叩いた。
「たっ!」
叩かれた鼻を押さえる。痛くはないが、驚いた。
「親友は秘密禁止! ふってふられたってどういうことなのよ!」
「……今年の梅雨くらいに、三年生と知り合ったんだよ」
「先輩!?」
「その人は苦労知らずのボンボンで、正直嫌いなタイプだったんだけど」
でも、とても爽やかな人だった。
「なるほどね。それで、いやいや言いながらもうっかり好きになっちゃったのね!?」
あいは楽しそうに瞳を輝かせた。なんでそんなにテンションが高いのだろう。目立つからやめてほしいのだが。
「……まぁ……たぶん」と、私は引き気味に頷いた。
「で? それで告白されたのね!?」
「……されたけど、断った」
あいが目を丸くする。
「好きだったんでしょ!? どうして断ったのよ!」
声がでかい。
頬に熱が集まっていく。落ち着かなくて、手と手をもじもじとさせてしまう。
「……だって、告白なんて初めてだったし……なんか、怖かったんだもん。男の子の付き合うとか、経験ないし、私、可愛くないし」
ぼそぼそと呟くように言うと、あいは優しげな笑みを浮かべて、頬杖をついた。
「……まぁ、夏恋のその気持ちも分かるけどね。でもさ、夏恋はその人のこと好きなんでしょ?」
「……正直、分かんない」
惹かれている自覚はある。でも、彼がいなきゃ生きていけない、というほど焦がれてもいない。でもやっぱり、あの音楽室での日々が恋しいのは間違いなかった。
「……どんな人なの? その先輩って」
「……どんな」
黙り込んで考える。
どんな人だろう。言葉にするのは難しいけれど、パッと思いつく言葉がひとつだけあった。
「心根が澄んだ人かな。雨上がりの空みたいな」
私の言葉に、あいは静かに笑った。
「……へぇ。いいじゃん」
「……うん」
初めて、素直に頷けた気がする。
「じゃあ、ちゃんと気持ち伝えなよ。後悔しないように」
「あい……」
じわっと涙が滲んだ。
友だちなんていらないと言いながらも、私はずっと、あいのような子を求めていたのかもしれない。優しくてまっすぐで、温かい太陽のような子。
「……ありがとう」
「夏恋がもしふられたら、そのときは私がどこでも付き合ってあげるわ」
涙が引っ込んだ。
「……え、待って。私ふられる前提なの?」
あいが笑う。
「あは。冗談だよ」
「まったくもう」
私は少しの間、あいの言葉を咀嚼するように考え込んだ。
異性に告白をするだなんて、これまで考えたこともなかった。一生縁のないものだと思っていた。
考えただけでも、足元が震えるくらいに怖くなる。
(……白木先輩も、こんな気持ちだったのかな)
彼も同じように、勇気を出して告白してくれたのだろうか。悲しませただろうか。落ち込みやすい白木先輩のことだ。きっとかなりしょげただろう。
(申し訳ないことしたな……)
私がちゃんと素直になっていたら、もう少し早く、この気持ちに気付いていたら。また違った今があったかもしれないのに。
「……あい、ありがとう。私、頑張ってみる!」
「うん!」
私は、白木先輩にもう一度会うことを決めた。
翌日の放課後、私は三年生の教室がある第二校舎の三階にいた。
覚悟を決め、白木先輩に会いに来たのだ。
あんなにたくさん話していたのに、私は白木先輩が何組なのかすら知らず、一組から順番に探すことにした。
緊張しながら、おずおずと教室の扉近くの上級生に声をかける。白木先輩を探していることを伝えると、親切な女性の先輩に、五組だから一緒に行ってあげると言われ、甘えることにした。
しかし、五組に行ったものの、白木先輩は既に帰ったあとだった。
しょんぼりしていると、案内してくれた先輩が住所を教えてくれた。
白木先輩の家は思っていたより私の家のすぐ近くで、これならひとりでも迷わずに行けそうだ。
ローファーに履き替えて、校門を出る。
いつもと同じ通学路。白木先輩と歩いた思い出の道だった。今はあの日が、ずっと昔のことのように遠く感じる。
思い出をなぞるように歩く。彼の家が近づいてくればくるほど、どんどん心拍数が上がっていく。
そして、白い外壁の立派な洋館風の家の前で立ち止まった。
門には、『白木』とある。白木先輩の家だ。
インターホンを押そうと指を出して、惑う。
押しかけては、さっと指を引っ込めた。今さら怖くなる。
白木先輩に会うことが、また、彼を傷付けてしまうかもしれないことが。
白木先輩はもう、私の顔なんて見たくないかもしれない。だから音楽室にも会いに来ないのかもしれない。またあの悲しげな、泣きそうな顔をされたらどうしよう。
(……やっぱり……やめようかな)
怖気付いて踵を返したときだった。
「うちになにか用ですか?」
赤いランドセルを背負った可愛らしい少女が、私を見上げていた。
大きな二重の瞳と、色素の薄いお下げの髪。瞳は飴色で、きょとんとした顔が誰かに似ている。
「その制服、お兄ちゃんの学校の人? もしかして、お見舞いに来てくれたの?」
「……え?」
お兄ちゃん? お見舞い? 私は眉を寄せた。
お見舞いということは、風邪でも引いているのだろうか。しかし、今日も学校には来ていたようだったし……。
「どうぞ、入ってください」
少女は私をちらりと見て、門を開けた。
「あ……えっと、お邪魔します」
私は戸惑いながらも帰るわけにいかず、少女のあとに続いた。
少女の名前は、白木詩織ちゃんと言った。白木先輩の妹らしく、現在小学校六年生。私のひとつ下だった。
私の方も自己紹介をして手土産のクッキーを渡すと、詩織ちゃんは嬉しそうに笑った。どうやら、白木先輩から私のことは聞いていたみたいだ。
「お兄ちゃんならもう帰ってきてると思うよ。中どうぞ」
と、詩織ちゃんは私の手を引いて家の中に入った。
いよいよ、白木先輩の家に足を踏み入れてしまった。
外観もすごかったが、白木先輩の家は中もやはり豪華だった。
全体的に白を基調とした家具で統一され、高そうな皿やらティーカップが棚に綺麗に飾られている。母親の趣味だろうか。
他にもオルゴールや高そうな骨董品がそこら中にあった。
リビングの壁はすべて本棚になっていて、難しそうな医学書や小説、図鑑やらがずらりと並んでいた。まるで図書館のようだ。
さすが、本物のお金持ちは違う。
詩織ちゃんはランドセルをリビングのソファに乱雑に投げ捨てると、ぱたぱたとスリッパの音を立てて螺旋階段の下にいる私の元へ戻ってきた。
「パパもママも仕事でいないから、緊張しなくていいよ」
「……そうなんだ」
ご両親に会う勇気がまだなかった私は、詩織ちゃんの言葉に少し緊張が解れた。
「お兄ちゃんの部屋、こっち」
「えっ、へっ、部屋!?」
思わず大きな声を出してしまった。
「い、いいいいっ! 部屋はいいよ! さすがに悪いし」
腰を引いて慌てたように言うと、詩織ちゃんはきょとんとした。
「なんで? お兄ちゃんに会いに来たんでしょ?」
「それはそうだけど……」
「ほら、こっちこっち」
「えっ! えっ!?」
詩織ちゃんに容赦なく手を引かれ、私はひとつの扉の前に立った。
「お兄ちゃーん! いる? ちょっと出てきてー」
詩織ちゃんが高い声で呼びかけると、扉の向こうからかすかに物音がした。
心臓が最高潮に大きな音を立てる。
「なんだよ、詩織……帰ってきたからって兄ちゃん遊びに付き合うのは……」
ガチャ、と扉が開き、白木先輩が顔を出した。私を見て、かちりと固まる。ぱちぱちと瞳を瞬かせていた。
白色のトレーナーに緩めのスラックス姿の白木先輩は制服でないからか、いつもより幼く見える。
(……どうしよう、なにか言わないと)
「あっ、あの、私……」
ごめんなさい、と勢いよく頭を下げた。早口で続ける。
「いきなり家まで押しかけて……でも、どうしてもあの日のことをちゃんと伝えたかったんです」
白木先輩は反応に困っているのか、黙っていた。
「あの」と、私は口を開くけれど、言葉がその先に続かない。
ここに来るまでに言いたいことはきちんと整理しておいたはずなのに、いざとなると舌が痺れたように言うことを聞いてくれなかった。
おずおずと顔を上げる。
見上げた先の白木先輩は、困ったような顔をしていた。やっぱり、迷惑だったのだろうか。
急に自信がなくなり、心細くて泣きそうになった。
でも、と、なんとか踏ん張って、口を開く。
「あの、私……この前の音楽室でのこと、ちゃんと撤回したくて。白木先輩、私――」
しかし、だった。
白木先輩は私の言葉を遮って、信じられないことを言った。
「あのさ、その前に君、誰?」
「……え……?」
思考が停止した。
(だ、れ……?)
誰とは、どういうことだ。
「何組だっけ? 同じクラスじゃないよね?」
「……冗談ですよね?」言いつつ、白木先輩を見上げる。
白木先輩は頭を掻きながら、私を見ている。ふざけているようには、とても見えない。
急激に身体中の体温が冷えていく心地がした。
「……私のこと、分からないんですか?」
「……えっと」
白木先輩は、私の名前どころか学年すら覚えていないようだった。
状況に困惑した詩織ちゃんが、恐る恐るといった様子で割り入ってくる。
「夏恋ちゃんだよ。家の前で会ったの。お兄ちゃんの知り合いでしょ? お兄ちゃん、よく夏恋ちゃんの話してたじゃない」
「……そうだっけ……?」
変わらず困ったように首を傾げ続ける白木先輩に、私は言葉を失った。
怒ることも、落ち込むこともできない。なにも考えられない。意味が分からなかった。
息が苦しくて、目眩がした。ふらつく足取りで、私は回れ右をした。
「……すみません。私、帰ります。お邪魔しました」
ぼそりと呟くように言って、私は逃げるように螺旋階段を下り、白木家を飛び出した。
「えっ、あっ! ちょっと……!」
「あっ、夏恋ちゃん!?」
上からふたりの声がしたが、止まれない。止まったら涙が零れそうだった。
白木家を飛び出して、しばらく走って息が切れてきた頃、私はようやく足を止めた。
こんな気分になるのは、初めてだった。
まるで、明けない夜の中にひとり閉じ込められてしまったような、長いトンネルの中に取り残されてしまったような感覚だ。
顔を上げると、鉛色の空があった。
視界に映った世界は霞んでいる。花も海もビルも車も。それぞれちゃんと色があるはずなのに、けぶって霞んで、鉛色の空と同化してくすんでいる。
私の視界は、また灰色一色になっていた。
(……こんなふられ方は想像してなかったな)
とぼとぼと辛うじて前に踏み出していた足を止めたら、いよいよ涙が滲んできた。
「夏恋ちゃん」
腕を掴まれた。振り向くと、詩織ちゃんがいた。
急いで追いかけて来てくれたのだろう。息を切らし、肩で息をしていた。
我に返り、私は詩織ちゃんに頭を下げた。
「せっかく白木先輩に会わせてくれたのに、いきなり帰ってごめんなさい。ありがとう」
詩織ちゃんは、ちょっと黙って私を見つめると、
「……あの、お兄ちゃんのことで、お話があるんです。少しいいですか」
詩織ちゃんは姿勢を正し、真剣な顔をして、私にそう言った。
* * *
雨が降りそうで降らない重い曇天。いつもより少し荒い海辺には、人気はほとんどなかった。
詩織ちゃんは波が届かないギリギリのところまで行くと、衣服を着たまま靴を脱いで砂の上にべたっと座った。
口調も視線も随分大人びていると感じていたが、こういうところは小学生らしい。
私は制服だったので、砂で汚れないよう、お尻はつけないようにして隣にしゃがみ込んだ。
詩織ちゃんは海を眺めながら、唐突に言った。
「夏恋ちゃんって、お兄ちゃんの好きな人でしょ?」
ぎょっとする。
あたふたしながら言葉を探していると、
「お兄ちゃん、いつも夏恋ちゃんの話ばっかしてたんだよ。ピアノが上手で、大人びてて、可愛いって」
かっと顔が赤くなる。妹になんて話を聞かせているんだ、と思った。
「でもね、今日確信した。お兄ちゃん、夏恋ちゃんのこと忘れちゃってるの」
息を呑む。
「……どういうこと?」
掠れた声で尋ねた。
「お兄ちゃんね、未来が視えるの。その代わり、未来を視ると大切な思い出を忘れちゃうの」
「未来……?」
そう話す詩織ちゃんの横顔は、今にも泣き出してしまいそうだった。
詩織ちゃんは懸命に涙を堪え、言った。
「初めは、変な夢を見たって言ってたんだ。でも、夢にしては内容がすごくリアルで、出てきた人たちの顔もはっきり覚えてるんだって」
「夢……?」
それは、こんな夢だったという。
白木先輩自身は夢に登場することはなくて、傍観者のような立ち位置にいた。そして、場所は私たちもよく使う駅の構内。
行き交う人の中、ひとりの女性にピントが合うと、ズームされていく。その女性は見知らぬ人だったらしい。
そして、線路の先に電車が見えた。どんどん近付いてくる。同時に、女性の背後から何者かが近付いていく。
顔は見えなかった。近付いて来た人物は黒いスモークのように靄がかかっていて、男か女かすらも分からなかったそうだ。
そして、電車が目前に迫ったと同時に女性の身体がぐらりと傾いた。直後、周囲の人たちの悲鳴と、電車がレールを滑っていく音が激しく耳を打った――。
その翌日、まったく同じ事件が起きたという。
たしかに覚えがある。先月、近くの駅でストーカーによる殺人事件が発生して、私たちの学校でも注意喚起がなされたのだ。
実際にあった事件。それが起きる前に、白木先輩はその事件の夢を見た――。
これは、どういうことだ。私はひどく困惑した。
「お兄ちゃん、過去も視えたことあった。そのときは記憶が失くなったりはしなかったみたいだけど……」
「未来だけじゃなくて、過去も視るの?」
詩織ちゃんは頷く。
白木先輩が過去や未来を視るようになったのは、私にふられた直後のことらしい。
「それって、きっかけとかってあるのかな?」
「わかんない。でもね、必ず起きてるときに視るの」
「起きてるときに」
「そう。それで、過去を視てもなんともないけど、未来を視ると、大切な記憶を忘れちゃう……お兄ちゃん、今までに未来を二回視てる」
「二回目は、なにを忘れたの?」
「トトのこと」
「トト?」
「昔飼ってた犬だよ。お兄ちゃん、すごく大事にしてたから」
話を聞きながら、私は手に汗をかいていた。
普通なら、有り得ない話だ。とても信じられない。信じられないけれど、詩織ちゃんが嘘をついているようには見えない。
「……二回も、記憶を失くしてるってことはやっぱり、偶然じゃないんだよね」
私が言うと、絶対偶然じゃない、と詩織ちゃんは強く否定した。
「事件で死んじゃった人の特徴も状況も、お兄ちゃんが話してくれたとおりだったもん。絶対偶然なんかじゃない」
一度言葉を切って、詩織ちゃんは私を見た。
「でも、怖いのは……べつのこと」
「べつ?」
「お兄ちゃんが視る未来は、二回とも怖い未来なの。誰かが事故に遭うとか、殺されちゃうとか」
もしや、と思う。
「だからお兄ちゃん、未来を視るとそれを変えようとするの」
その瞬間、ざざん、と波の音がひときわ大きくなったような気がした。
* * *
家に着くと、叔母の音羽春子が帰っていた。ケーキを焼いているようで、玄関を開けた瞬間、卵の甘い香りがふわりと香る。
「あら、夏恋ちゃん。おかえりなさい」
私に気付いた春子さんが、振り返ってにっこりと微笑む。
「ただいま、春子さん」と挨拶を返し、私は階段の手すりに手をかけた。
「あ、待って夏恋ちゃん。ちょうどシフォンケーキ焼けたのよ。一緒に食べない?」
春子さんの手には、できたてのケーキがある。
「生クリームとベリーも添えるわよ」
美味しそう、と頬が緩んだが、
「……うん。でも今はいいや」
そう小さく答えると、私はまっすぐ二階にある自分の部屋へ向かった。
「……そう」
と、春子さんは少しだけ残念そうに笑ったあと、
「じゃあ、好きなときに食べるのよ。棚に入れておくからね」
階下から少し大きめに声を張り上げる春子さんに、私も少し大きめな声で返事をする。
「はーい」
「あぁ、それと、制服はちゃんと着替えなさいねー」
「はいはい」
言葉と同時に部屋のドアを閉めた。
春子さんは、私の今の育ての親である。
私の両親は、二年前に交通事故で死んだ。
学校から帰ってきたら、父と母は冷たい石になっていた。呼びかけても叩いても目は固く閉じられたまま、なにも答えてくれなかった。
一夜にして育ての親をふたりとも失った私は、春子さんに拾われた。
春子さんは、両親の葬式のとき、私にこう言った。
『私がいるわ。私と、生きよう』
春子さんも数年前に旦那さんを亡くしていた。両親と同じ、交通事故だった。
この世は残酷だ。人なんて、簡単に死ぬ。
アニメやドラマで見るような奇跡なんてない。
だから強くならないといけない。周りに同情されないよう隙を見せず、自分のことは自分でやり、間違ってもいじめなんかに巻き込まれてはならない。
そうなれば必ず、あの子は親がいないから、と囁かれるから。
制服のまま、私はベッドにうつ伏せにダイブした。
あのあと、詩織ちゃんとは連絡先を交換して別れた。頭の中では、詩織ちゃんの言葉がいつまでも残響している。
『――お願い、お兄ちゃんを助けて。このままじゃ、いつかお兄ちゃんが死んじゃう』